2017年6月24日 (土)

百三 四年目の選曲

 四年目の試験課題曲に、私はまず、プーランクのコンチェルトを選んだ。

 これは確か、アシスタントに勧められた記憶がある。貴女によく、似合ってるわ。それにこれ、エリザベートコンクールのテーマソングなのよね。オープニングで流れる曲よ。と言われる。実際、これはモーツァルトのコンチェルトよりも簡単であった。(近現代得意な私にとっては。)だけど綺麗な曲なのだが、どうもやってみるとピアノがメインというよりはオケがメインで、ピアニストとしては少々、物足りなく感じる。けれど四年目の選曲としては、コンチェルトよりももっと他に、私の目標としたいものがあったのでヨシとすることにした。

 私は少しずつ、日本でのリサイタルプログラムを意識するようになっていた。だからこの年、私は自分の得意路線で、大きなソナタに取り掛かることに決めている。

 バーバーのソナタ、全楽章。最終楽章のフーガだけは、一年目にチャレンジしていたが、全楽章は初めてである。前章で、メルクス先生が十八番だと言っていた、その曲。これは日本の大学で、先輩であるヨシミちゃんが弾き、その時から大好きな曲となったもので、いつか自分も弾いてみたいと思っていた。私は当時痩せていて、なかなか迫力ある音が出せなかったのが難点であったが、今ならばこの曲を仕上げることができるような気がしていた。今振り返ると、よくぞこの膨大な課題の中で、このソナタを仕上げることができたなあと思う。よっぽど最後の年は、私にはやれるという自信があったのかもしれない。そして後ほどこれを、帰国リサイタルのトリに持ってきている。通すと二十分前後ある、けっこう難解な曲である。

 その他には、バッハのパルティータ一番、ベートーヴェンの悲愴ソナタ、スクリャービンのエチュードop.65-3、ドビュッシーのエチュード、アルペッジョコンポゼを選んだ。お聴きになりたい方は下記からぜひどうぞ。

 私が最初に譜読みに取り掛かったのはベートーヴェンである。一番ラクだったし(と言っても全楽章であるが)、とにかくどれかを早めに仕上げてレッスンに持って行かねばならなかったからだ。その次に練習にかかったのは、バーバーのソナタ。大きい曲なので、少しずつ仕上げていかなくてはならない。順序よく計画を立ててやらないと、とてもじゃないけど間に合わなかった。でもこの年はずいぶんと譜読みも早くなり、自分でも驚いている。

 この秋にはまだ、私には、果たして夏の試験が終わるまでベルギーに残っていられるかどうかわからなかったが、演奏会のひとつでもして、納得できるくらいになるまでは居たい。と書いている。父からの帰れコールの圧力がかなりかかっていたが、私にはまだやりたいことが残っていた。

 ディプロムスーペリウールを卒業するまでには最短で四年、つまりあと二年は残らねばならなかったが、私にとってはこれは重要ではなかった。それよりも、演奏会一本できるくらいのレパートリーを作りたい。という思いが強かったと思う。お金ももう残り少なく、両親からの送金はもちろんない。ギリギリのところで、ただひたすら応援してくれているよっちゃんと共に、できるところまで残ろう、と決めていた。

 そしてその充実した秋は過ぎて行くのである。たくさんの、仲間たちと共に。

2017年6月23日 (金)

百二 始業

 ブリュッセルに戻ってきて四日後の、十月二日。コンセルヴァトワールで、セレモニーが開かれた。こんなの、毎年あったっけ?忘れたが、この年に初めて、私はこのセレモニーに出席した。いくつもの演奏と、先生方の紹介に、授賞式もあった。はじめは退屈だったが、最後のジャズ演奏や、テアトルの人々のパフォーマンスは最高だった。拍手喝采である。テレビの取材も来ていたようで、なかなかコンセルヴァトワールもやるな。と思った。そう、ブリュッセルではジャズも盛んで、確か毎年夏になると、グランプラスでジャズフェスティバルが開かれていたと思う。

 四年目に入ると、たくさんの後輩たちも入ってきて、友人関係は広がった。私とユキは相変わらず仲は良かったが、お互いに別々の友人も増えてくる。

 まだ全然フランス語がわからない後輩のために、レッスンでの通訳も任されたりした。ところがこの通訳というものは、言葉がわかればできるというものじゃない、ということを思い知らされる。何故なら、私たちはフランス語をフランス語として理解しているため、それを日本語に変換する、ということが、咄嗟にできないのである。ええと、ホラ、あれだよ、あれ。あれだってば!…なんてことになっちゃって、全然役に立たなかった。通訳者って、すごいのである。

 和声の授業は上級の、スーペリウールまで進んだ。今年からは、メルクス先生のレッスンも一時間もらえるようになる。課題がはかどって早く終わった日にはお喋りに花が咲き、先生がエリザベートコンクールにも出場されていたこと、私が四年目に弾くことになる、バーバーのソナタも先生の十八番だと言うことを知り、嬉しくなった。校舎の一階で無料楽譜コーナーが設置された日には、先生と一緒に楽譜を漁った。ラフマニノフのエチュードの楽譜なんかをゲットして、喜んで帰ってきたのを覚えている。

 一年間、和声を違う先生に教わり、ちっとも理解できなかったと言う後輩のトッコにメルクス先生を紹介してやり、彼女は大変喜んでいた。私は彼に最初から教わることができて、本当にラッキーだった。スーペリウールは難しかったけれど、先生と一緒ならできそうな気がした。今、メルちゃんはどうしているのだろう。懐かしい。

 先生といえば、フランス語を教わっていたマダム・バージバンは、その年、五十を過ぎてから再婚した。彼女は幸せ一杯で、散々、彼との馴れ初めを話してくれた。ヨーロピアンたちの熟年離婚、再婚などよくあることで、それも大恋愛が多いものだから、う〜む、上には上がいるな、と思ったものである。後々、私の大家さんたちも離婚することになり、彼らはお互い、新しい伴侶と暮らしている。理由は、「僕たちの間はもう色あせた」からである。

 子育てにおいても、子ども中心の日本とは全く違い、あくまでも夫婦がまずあって、子どもは子どもとして、例えばデートにも置いていかれたりする。小さなエヴァはよく、「今日はパパとママは映画に行くからお留守番なのよ」と言ったり、「もう子どもは寝る時間だから」と言いながら、ウインクして見せた。この考え方は私の子育てにおいて、大きく影響を及ぼしている。

 話がずれちゃったけど、私が大家さん一家とずいぶん仲良しになったのも、この四年目であった。私は彼らにも支えられながら、思う存分ピアノの練習に励んでいた。

 そして私は、四年目のレパートリーを、今までの数倍速でずいぶんと早く仕上げられるようになっていたのである。

2017年6月22日 (木)

百一 四年目の留学生活

 百話を越えたところでちょうど四年目。私の留学生活最後の年の、始まりである。何だか偶然とはいえ、キリのいい数字も感慨深い。ここから先が私の、想い出の四年間、完結編となる。

  この最後の一年間は、今日記を読み返しても大変充実していた年であり、たくさんの後輩たちに囲まれて、先輩として今までの恩を少しずつ返していた年でもある。ピアノの楽曲に対する理解も、曲作りもだいぶ早くなり、和声も上級に進み、フランス語会話の方もかなり上達していた。コンクールの準備をする余裕もあり、私はリベンジに燃えていたと思う。

 そして同時に、この最後の一年間は、日本でのスタートを切る最初の準備期間でもあった。私はこの年、とても充実していたが、後半、状況は少しずつ変わって行き、確実に日本へ帰国させるための運命の手招きがあったと思う。もしかしたら、この先生まれることになるであろう、現在十歳の娘がそうさせたのかもしれない。私をこのタイミングで日本に帰国させたのは、雲の上からずっと見ていた彼女であった、と考えると面白い。

 今までずっと、この最後の年の日記だけは読み返すことがなく、封印していた。別にあえてそうしていた訳ではないのだが、私は今を生きる女なので、過去にはあまり興味はなく、基本的に読まなかった。でも今そのページを開いてみると、何度も言うけどものすごく充実した日々だったのがわかる。それなのに何故、私は日本へ帰る決心をつけたのだろう。昔のことすぎて、わからない。まだ今のところ、冬までしか読んでいないから、その理由は謎である。この記事を書くと同時に読み進めてみたいと思う。四年間の自分の心境の移り変わりが客観的にわかって、そうだったのか、と納得できるはずある。

 私は1998年9月28日、父と妹のユリコに横浜まで見送ってもらい、成田まで向かった。妹は改札で、ずっと手を振ってくれていた。ANAはエンジントラブルのため二時間のディレイ。でもまあ、トラブルに気付いてくれて良かった。私は何度も乗るハメになっているが、飛行機なんて大っ嫌いである。できるならば、乗りたくない。怖いし、揺れるたびにドキドキする。でも私は悲しいかな、飛行機とはとても縁がある身だ。今でも夫の実家は札幌だし、乗らずにはいられない。できれば、新幹線で行きたいところだけど。早く開通してくれ、と願う。

 私は空港で、母と、それから仙台の彼に電話を入れて別れを告げた。パリからのエールフランスは、これがまた小型機でものすごく揺れて怖かった。ザベンテム空港ではまたよっちゃんが出迎えてくれて、半地下室に着くとホッとする。もう、ブリュッセルの街は私の第二の故郷となっていた。猫のプーは一瞬私を忘れていて、逃げていた。猫とは薄情なものである。

 そんな訳で、私の四年目の留学生活は、スタートをする。

 最初こそ日本が恋しくなり、つい涙ぐんだりもしていたが、最後となるこの一年間のスタートは、最強のパートナーよっちゃんもいて、私は幸せ一杯であった。

2017年6月21日 (水)

百 よっちゃん帰国

 帰って来たよっちゃんはまず、やっとこさ、歯医者へ行くことができた。

 彼はブリュッセルでずっと、歯痛に苦しんでいた。普段元気な人がたまに具合が悪くなると、それはそれは大げさな程痛がるので、ちょっと可笑しかったが、可哀想であった。向こうで何軒か紹介された歯医者へ行ってみたが、どこへ行っても「セ・パ・グラーブ(問題ない)」と言われて、埒があかなかったのである。日本の歯医者へ行ったら一発で、「毎日通え」と言われていた。向こうの歯医者と美容院だけは信頼できない。そうハッキリと確信した夏であった。今はどうだかわかんないけど。

 私と彼は下北沢あたりをブラブラしたり、日本を楽しもうとしてショッピングしたりしたが、どうもなかなか二人してよく、馴染めなかった。何故だろう。ブリュッセルではあんなに仲良く息も合うのに、日本で会うと、何だか巨大な街に飲み込まれるかのような感覚で、違和感が拭えなかった。こっちに帰ってきてしまったら、私たちはうまくいかないのかな。と、ふと思ったりもした。暑さにバテたせいだろうか。でもこのカンはその後、結局当たってしまうことになる。その環境と二人の相性、というものはあるのだ。確実に。私たちは結果的に、日本ではうまくやって行くことができなかった。決して仲が悪くなったわけではなかったのに。

 よっちゃんは不意に買い物途中、指輪を買ってあげるよ、と言い出した。指輪?急にどうしたんだろう。そして彼は、もし、オレたちがうまく行かなくなったら、オステンドの海にでも投げて、捨ててくれ!と言う。(オステンドとは、ベルギーにある海沿いの街である。冬のオステンド海岸は本当に寂しかった。)私は思わず笑ったが、そういう寅さん風な物言いをするよっちゃんが好きであった。私はその指輪を、彼の運の強さを込めて大事にすることにした。

 そしてはるばる、うちに挨拶にも来た。父も一応、ちゃんと顔を合わせてくれて、ホッとする。私の方も、彼の実家に遊びに行った。お母様は近所の仲良しおばちゃんを連れて来て、非常に緊張した。後から絶対に色々言われているに決まっている。やだなあ、と思いつつ、その場は終了。後日お兄ちゃん夫婦の家にも誘われ、家族大集合でバーベキューをした。私は歓迎され、少しずつ皆んなと仲良くなっていった。

 よっちゃんは一週間と少しすると、またブリュッセルへ帰って行った。帰るとほどなく、寂しいブリュッセルに耐えきれなくなったのか、カオル早く帰って来いコールがかかってくる。わかるわかる、その気持ち。九月のブリュッセルは日に日に寒くなってきて、本当に寂しいのである。

 私はあと残り二週間ほどの日本を落ち着いて過ごした。おばあちゃんの遺骨と共に教会へ行ったり、実家の膨大な写真を整理したり。母は嬉しそうで、妹は毎日予備校通いで忙しくしていた。幼馴染みと会ったり、仙台の彼氏のライヴを妹と一緒に観に行ったり、東北の彼に連絡を入れることも忘れなかったけど。東北の彼は、新しい彼女(彼氏?)を作っていたのだが、身内の死により帰国した私の電話に、きちんと応対してくれた。私は何だか、彼だけが幸せに着実な人生を歩んでいるように思えて、理不尽な怒りがこみ上げてきたが、これは私のひがみなので蓋をすることにした。

 そして私は九月下旬、四年目のブリュッセルに向けて出発をする。

 ブリュッセルへ再び向かうことは、家族と離れて寂しい半面、とてもワクワクしていた。

 四年目。私にとって、これで最後の留学生活となる年である。四年間の中で最も充実した、幸せな環境の中で勉強に励める年となった。少なくとも、父に呼び戻されて見合いをすることになる日までは。

2017年6月20日 (火)

九十九 葬儀のあと

 おばあちゃんの葬儀を終え、自宅に戻って来た私は、よく母とお喋りをした。

 母は祖母の介護中はずっと悲しみの中にいたが、私が帰って来ると毎度のこと賑やかになるので、ずいぶん気が紛れているように見えた。祖母が亡くなってからは、妹も交えて一緒におばあちゃんの書いた日記を読んだりして、よく笑うようになった。祖母は妹、ユリコのことを「心の優しい、穏やかな子」と書いていたが、私のことはそうは書いておらず、日々相当心配をしているようであった。納得いかん。でもあれだけ心配をかけていたから、ああやって夢に出て来てくれたのかもしれない。私の日記もいつか人に読まれるのだろうか。どうか私を想って泣いてくれ夫よ。そして笑ってくれ、娘よ。まあ、もうすでにこうしてほぼ、公開しちゃってるんだけど。

 三年目の夏の終わり、急遽一時帰国をした私は、心は常にベルギーにあった。日本にうまく馴染めなくなっている自分がいた。だから、少しの間だったが、よっちゃんが帰って来てくれることは嬉しかった。昨年の夏のように恋に荒れ狂い、男どもと遊ぶことなどはなかった。身内を亡くした私に向かって心ないセリフを吐き、密かに縁を切った男友達もいた。ユキはそんなマジメな私を見て、多少残念そうだったけれど、私もたまにはまともになるのである。

 幼い頃から一緒に暮らしていたおばあちゃんの死は、その最期、離れていた私に突き刺さり、家族と離れていることをよりいっそう、考えさせられるようになった。けれどだからと言って、私は勉強をやめようというつもりはなかった。もう少し、もう少し。私はまだ、全然上手くなっていない。まだまだ吸収しなければならないことが、山ほどある。師匠、Mr.カワソメには、お前、コンクール残念だったなあ。と言っていただき、大学でも後輩たちはじめ、奈良先生とお会いして帰ってきたりした。考えてみれば、この時もどこかで夫とすれ違っているのかもしれないと思うと、面白い。

 父はこの時とばかりに、私に見合いの話を進めてきた。とっておきを紹介するから、と言ってうるさい。もううるさいので、適当に返事をしておく。父はそれは嬉しそうに急ピッチで仕事を進め始めた。私はおかまいなしに、両親によっちゃんを紹介する。ムッとする父。そんな、今から思えば漫才のようなことを、私たち親子は繰り広げていた。本当に、娘など、自分の思い通りにはいかないもんである。アーメン。

 留学帰りの後輩の、演奏会を聴きに行ったりもした。確か二年くらいで帰国したヴァイオリニストで、私は彼女の演奏を聴きながら、自分の耳が以前よりずっと肥えていることに気付く。やっぱり、勉強は二年じゃ短い。私はもう少し、勉強してからでないと帰れない。そう感じた。そして帰ったら、頑張ってリサイタルを開こう。私は結婚のことなど頭になく、(いや、そりゃあ、話のネタでは始終盛り上がってはいたが)この先のヨーロッパでの暮らしと、帰国後のぼんやりとした目標について考えていた。

 そんな私に、真剣にアプローチしてくれた彼がいた。

 昨年の夏、実家にフラッと遊びに行った、仙台の彼氏である。

 彼は相当、女性にモテていたに違いないが、帰国していた私に向かって、帰って来たら、一緒に暮らさないか?と言った。散々考えていたけど、ようやく決めた、と言う表情をしていたから、真剣だったと思う。私は迷った。彼とは二十歳の頃、大恋愛をして、別れてからも何度かヨリを戻そうとしたが、お互いタイミングが合わずに、すれ違いばかりだった。そして、今回もそうであった。せっかくの申し出に、その時の私はイエスと言うことができなかった。よっちゃんがいたし、この彼にだけは、私は二股などかけることはできなかった。別に、東北の彼のこともよっちゃんのことも、遊びだったと言う訳ではない。私はいつだって、恋に真剣である。二股だろうが、三股だろうが、巡り合ってしまった恋には真剣勝負である。誰にも理解できないかもしれないけど、適当に付き合うつもりは全くない。全集中型である。いいよいいよ、誰にも理解してもらえなくったって。

 とにかく、私は仙台の彼に、今の状況と自分の気持ちを話して納得してもらった。私が帰国リサイタルをした時には心から応援してもらって、しばらくの間、よく会っていたが、お互いに結婚してからはほとんど顔を合わせていない。今では音楽業界で大活躍していることと思う。このブログも読んで、笑ってくれているかもしれないけど。

 そんな切ない想いも抱えながらいたある日、よっちゃんはベルギーから帰国する。

 私は喜んで、横浜まで迎えに行った。そしてしばし、彼との一時帰国の生活が始まるのである。

2017年6月19日 (月)

九十八 おばあちゃんの死

 八月三十日。おばあちゃんはその日、私の夢枕に立った。

 いつものように、朝っぱらから父の「帰れコール」で目が覚めて、うるさいなあまったくもう。と思い、またウトウトとした時に現れたのである。その時私は何か他の騒々しい夢を見ていたのに、突然その夢は消え、祖母は真っ白な割烹着のような服を着て、五十代くらいの頃に若返り、たくさんの白い服を着た知らない人たちと一緒に、それはそれは嬉しそうな顔をして、私の方をニコニコと見ていた。若い頃の祖母など知らないのに、私には祖母だとハッキリわかった。そして、また電話の音で目が覚める。

 「落ち着いて聞いて。おばあちゃんが、今亡くなったのよ。」

 私はハッとして、まさに今、おばあちゃんがお別れの挨拶に来てくれたことを母に告げる。それから大変だった。バタバタと電話をかけ、よっちゃんに頼んで急遽、現地の旅行会社(日本人経営)に連絡してチケットを探してもらい、パリ経由のANAがすぐに取れたので、飛行機に飛び乗った。成田到着は次の日の十五時だった。そこから直接JRで茨城まで向かう。

 おばあちゃんの通夜には間に合った。きっと祖母は、間に合うように手筈を整えてくれたのだと思う。コンクールには残念ながら出られなくなってしまったけれど、試験は絶対に受けておきたかった。祖母はそれを察してくれたのかもしれない。危篤を繰り返しながら、何とか持ちこたえてくれていた。

 通夜はカトリック式で、厳かに行われた。祖母は敬虔なカトリック信者だったので、賛美歌を歌い、神に召されて天国に昇るであろうことを皆で祈った。祖母は長い闘病生活から解放されて、喜んでいたに違いない。夢に出てきたおばあちゃんは、ものすごく生き生きとした顔だったもの。きっと天国へ行けて、嬉しくて仕方がないんだ。よかったね、おばあちゃん。聞くところによると、母の方にも、昨日キラキラとした光が現れて不思議な思いをしたと言う。これは本当かどうか怪しいけど、とにかく、八十五才でその生涯を閉じた祖母は、八十を過ぎて病院に入るまではとても賢く、しっかりしていて、家族皆で尊敬していた才女であった。

 告別式は私にとって重たいものだった。聖書とお花を入れ、棺が閉じられた時には、逝ってしまったんだなという、諦めに似た、複雑な想いだった。祖母はもう年だったので、あまり大げさに泣くのもな、と思い、我慢していたけれど、まだ若い妹ユリコはショックが隠せないようで、接待などとうていできない様子だった。母は、疲れ切った顔で、それでも後悔のない顔色を浮かべていた。最期は兄嫁たちに喪主を任せていたが、私は、一番介護に大変だったのは母だったことを知っている。

 全て終わって茨城から戻って来たのは夜七時。私は時差ぼけも手伝って、ドッと疲れが出てしまい、幼馴染みたちに連絡をしてから、すぐに眠った。

 そういう具合で、私の予期せずとした帰国は、新学期が始まるまでの九月一杯となった。本当のところは、九月上旬にはイタリアのコンクールを受けて、その後に日本に帰国したら、母校の学祭でピアノを弾く予定だったと思う。私はだからこの年はパリのエミコに役目を交代してもらい、彼女が私の代わりにピアノを弾き、エミコはその時、大学三年だった私の夫に初めて会っている。

 それからはベルギーの友人や先生方への連絡、コンクール先のキャンセルなど、バタバタとした日が続いた。そしてよっちゃんの方も、少し遅れて一時帰国して来た。この秋は、おばあちゃんの死をきっかけに、私は彼の家族にも挨拶することになり、彼との絆が深まってくる年となるのである。

 そして徐々にまわりは勝手に、結婚という二文字を気にかけて動き出していた。

2017年6月18日 (日)

九十七 夫の名前

 日本に帰らないと決めた夏は、黙々とピアノをさらいながら、同じくブリュッセルに居た、居残り組の友人たちと楽しく過ごしていた。

 まず私たちは、試験の打ち上げと称して、呑んだくれた。約束通り、ミタ君は電話をくれたし、ユキと三人でカフェに行ったり、ビリヤードをして夜中まで遊び惚けた。当然よっちゃんは怒ったのかと思いきや、疲れて寝ていたので助かった。教会で開かれたレクイエムのコンサートにも行ったし、よっちゃんの友人の、リサさんのお家にお呼ばれに行ったりもした。リサさんの彼は料理人だったので、その日はこれでもかというくらいの豪華な食事が出て、病み上がりの私には少々ヘビーだったが、美味しさのあまりに食べ過ぎて、次の日苦しんだ想い出がある。彼女のお家にはその後、たびたびお邪魔しているが、いつもいつも美味しい手料理でもてなしてくれて、私もいつかこんな風にパーティーを開いてみたいな、と思ったりしていた。こういう想い出が、今の我が家のパーティー好きにつながっているのかもしれない、と思う。

 よっちゃんのお父さんが、お兄さんに付き添われて、日本から遊びに来たりもした。いろんなところへ案内差し上げたが、お父さんは大変喜ばれて、そして、私たちのことをとても心配してくれた。いいお父様であった。お兄さんともとても仲良しになった。こんな半地下の暗い部屋で可哀想に思ったのか、大きな花束をプレゼントしていただいた。最後には、部屋に置手紙がしてあり、涙が出てしまった。同時に、母からの手紙も届いていた。これにもまた、泣けてしまう私。早く日本へ帰って顔を見せてあげたいし、早く結婚でもしてホッとさせてあげたいと、こういう時は都合よく思ってしまう。でも母は、私が残ってコンクールを受けることにも、勉強に対しても、非常に好意的であった。いつも応援してくれていたように思う。もしも私が、一生ヨーロッパで過ごすと言ったら、どうだかはわからなかったけど。

 一方で父は、ついに気持ちを爆発させる。秋に帰って来ないつもりか?調子に乗って!と、電話をかけてくる。こちらとしては、昔っから親の言うことなんか聞いたことがない悪ガキなので、そんなの余裕でスルーなんだけど、コンクールを控えている身としては、耳栓したい思いだった。コンクール先からは招待状が届き、曲も整い、私はイタリアに乗り込む気満々で、調子を整えていた。

 師匠Mr.カワソメにもよく相談に乗ってもらい、私の演奏録音テープを送って感想を聞いたりしていた。こんなんで、日本でリサイタルなんて開けるかな?少しは演奏、マシになったかな?と尋ねると、お前、マシになったどころか、大きな進歩だよ。もっと固めて、レパートリーを大きくすれば大丈夫。ぜひ、やれよ。と言っていただく。

 この時、私は初めて師匠から、夫の名前を聞かされた。

 オレな、今、大学で、ピアノ愛好サークルってやつの、顧問してんだよ。そこの部長がなかなか頼りになるヤツだから、お前、ちょっと世話になって、今年の秋に帰って来たら学祭で弾かせてもらえよ。と言うのだ。

 なんだ、ピアノ愛好サークルって。と、私は笑った。でもこれが、私と夫の出会いとなるのだった。運命とはわからない。結果的には、その秋には私と夫は出会わず、来年の話となるのだけれど。

 という訳で、ベルギーの短い夏が終わってしまう前に、私たちは大いにその開放的な暑さを楽しんでいた。部屋の模様替えもしたし、庭にテーブルを出して食事をしたり、パリから後輩のエミコが遊びに来て、グランプラスの花の絨毯を観に出かけたりした。これは素晴らしい眺めで、二年に一度開かれる、広場一面に花びらが敷き詰められる美しいフラワーカーペットのお祭りである。

 そして、八月も半ばを過ぎると、ブリュッセルは急に涼しくなり、夏の終わりを告げる。寂しいもんだな、もっと夏が続けばいいのに。なんて思いながら、私は夏休み気分もしまいこみ、来月のコンクールに向けて本腰を入れようと、ピアノに取り組み始めた。

 でもそれは急遽、一本の電話で変わった。

 おばあちゃんの急変が知らされ、私は日本へ帰国することになるのである。
 

2017年6月17日 (土)

九十六 夏休みの訪れ

 夏休みの訪れと共に、私は猛烈に腹を下した。

 食あたりである。おそらく、ユキたちと二日前に食べたレバ刺しにあたったと思われる。身体中痛むし、熱で怠いし、辛すぎて、よっちゃんに病院まで連れて行ってもらった。その日は一日苦しんだが、次の日には何とか復活をした。ユキに訊いてみたが、彼女は何ともないと言う。きっと、一緒に飲んだ酒の量がハンパなかったので、消毒しちゃったんだろうと笑っていた。う〜ん、私ももっと飲めば良かった。ちょっと後悔。(ホントか?)

 まだ体力はなかったが、ヨロヨロと起き上がってコルニル先生に電話を入れる。この夏は日本に帰らず、イタリアのコンクールを受ける予定だった。今までのレパートリーを使って、選曲のアドバイスをしてもらう。

 先生は張り切ってプログラムを決めてくれた。一次でラフマニノフとバルトークをやれと言う。私はちょっと迷い、アキカさんにも電話をしてみた。彼女は、カオルちゃん、もっと綺麗な曲を入れた方がいいんじゃないか、と言う。私もそう思った。どうしようかなあ、なんて思っていたらふと、東北の彼にまだ試験結果を報告していなかったことを思い出し、彼にも電話を入れてみる。すると。

 彼は、珍しく話しにくそうにしている。つい先日の電話では、あんなに楽しそうにヨーロッパ行きたいな、なんて言っていたのに。どうしたの?と訊くと、う〜ん、もう電話、しない方がいいかもしれない。と言う。どうやら、彼女(彼氏?)か誰かが居たらしい。なーんだ。私はガッカリして、電話を切った。どうして男と女の間には、友情が成り立つのが難しいんだろう。せっかく親しくなった人たちと離れなければならないなんて、寂しいな。と、日記には書いてある。まあ、でも仕方ないか。そして私は、サッサと気持ちを切り替えて、四年目のコンセルヴァトワールの試験選曲についても、アシスタントと相談を始めるのであった。

 そう、私は、四年目も引き続きブリュッセルに残る気満々であった。でもそれはまだ確かな予定ではなかったかもしれない。父は反対していたであろうし、相棒よっちゃんは、残りたい気持ちはあったが、そろそろ仕事に見切りをつけたいと思う気持ちもまた、あったと思う。私自身もまた、日本に帰りたいという気持ちもあり、でも勉強のことを考えると、もう一曲新しいコンチェルトをやってみたいと思ったり。皆の気持ちは、それぞれに揺れていた。そして私は、とりあえず、目先のコンクールのことだけを考えるようにしていた。

 そんな訳で、この夏は初めてブリュッセルに残って、ピアノの練習に費やそうと思っていたのである。あの電話が入るまでは。

2017年6月16日 (金)

九十五 三年目の本番

 会場に着くと、ちょうどキボウちゃんが弾くところであった。少し聴いていたが、上手な彼女でもやっぱりけっこう緊張するんだなあ!と思う。続いてMr.ミタの演奏を舞台袖で聴き、緊張で心臓が速まりつつも、落ち着いてから試験に臨んだ。

 モーツァルトのコンチェルトは、私の出番の少し前のベルギー人の男の子が、同じ一楽章を弾かされていた。私は、彼に続いて二、三楽章を弾く、という按配だった。感情楽章である二楽章は、ピアノのソロから入り、後からオケがついてくる。よって、自分のペースで、テンポ設定ができるのが強みだった。少々ゆっくり過ぎたかもしれないが、三楽章はバッチリ、音楽的に弾けたと思う。

 ショパンのエチュードは、一回壊れかかったが、なんとか立ち直り、最後まで無事に弾ききった。難しいエチュードだった。

 演奏を終えるとジュリーたち(審査員)は控え室に戻りがてら、私の横を通り過ぎ、「良かったよ。」と言う顔をして目配せしてくれた。

 聴いていたしづちゃんたちには、モーツァルト、とても綺麗だった。ミタ君とはまた違って、小さい音なのに不思議と引けを取っていなかったし、よく飛んで来る音だった。と褒めてもらった。ミタ氏は確かベートーヴェンの皇帝を弾いていたと思うが、彼の演奏は素晴らしく、そのテクニックは抜きん出ていたので、私は密かに北斗の拳と呼んでいたのだ。

 家に帰ってからテープを聴いてみたが、壊れたエチュードは心配していたほどではなく、全体的に音楽的にまとまっていたのでホッとした。確か聴きに来てくれたよっちゃんも、満足だったよ!と言ってくれて、私はとにかくも、無事に終わった本番に安堵したのである。

 次の日はユキの本番であった。彼女はとても落ち着いて、音楽的に弾いていた。ちょうどその時、日本から聴きに来ていたユキのお母さんが、彼女の演奏を聴いて感動されていた。昼はみんなでコリアンで食事をする。ユキのお母さんは、彼女をパワーアップさせたような存在感のある方で、彼女のヨーロッパでの成長に大満足して帰って行かれた。そう、私たちは本当に、三年目にして大きく成長し始めていたのである。

 私はまだテンションが上がっているため、次の日もなかなか眠れないので、キボウちゃんや、しづちゃんたちと長電話をする。

 キボウちゃんは、私の次の年から入って来た優秀な学生だったが、カオルちゃん、今回は相当気合入れてたね。と言い、しづちゃんには、モーツァルトね、本当に良くなったよ。カオルちゃん、変わったよ。私、感動したもん。何て言ったらいいかうまく言葉にならないけど、音がすごく自然で、無理なく伸びてたよ。とまた、褒めてもらった。皆、私なんかよりずっと上手いのに、心から励ましてくれて感激したのを覚えている。

 そして私は無事、ディプロムスーペリウールの一年目の試験にパスした。プルミエプリの時とは違い、点数はつかずに、審査員たちのoui,non(イエス,ノー)の数で合否が決まった。私の前に弾いたモーツァルトのコンチェルトの男の子は落ちていた。厳しい。

 私は大喜びで師匠に電話を入れる。Mr.カワソメは自分のことのように喜んでくれて、現代曲しか弾けなかったお前が、モーツァルトを弾くとはなあ。お前、帰ってきたら絶対リサイタルやれよ!と、またまた念を押されたのであった。

 辛く長かった一年間の練習からようやく解放され、私は次の日、猛烈な食あたりと共に、夏休みを迎えるのである。

2017年6月15日 (木)

九十四 本番、一日早まる

 私は試験前日に、本番が一日早まって明日になったことを知らされた。驚きであった。でも日記には、不平不満は一切書いていない。もうヨーロッパってそういうところだし、ハイそうですか。と受け入れるしかないので、慣れっこになっていたと思う。

 前日に私はまた、東北の彼氏に電話をしている。ここまで来ると、もう別れたんだか何なんだか、結局のところ、電話の回数が減ったくらいで、以前と何が変わったのだかわからなくて笑ってしまうが、まあ私たちの中では気持ち的にすっかり整理はついていたので良かったのだろう。

 明日、試験なんだよ。と色々話をしたが、彼はすっかり、私と付き合う前の彼に戻っており、「ヨーロッパいいなあ、もう一度行きたいなあ。知り合いが居てくれるといいよな〜。」とか言っていた。

 午後は銀行へ行ってみると、残金がほとんどゼロになっていてガッカリしたが、とにかくも、来年度のアンスクリプションは提出しておいた。授業料なんて年間登録費一万五千円ほどだったし、もしも途中で帰国することになったとしても、まあ、損はない。

 そしてあくる日の七月一日、私は興奮してよく眠れなかったが、いざ、コンセルヴァトワールへと向かった。

 私の順番は、午後の最後、アルファベットMの、ミタ君の次であった。昼過ぎにアシスタントから電話があり、事前に、モーツァルトのコンチェルト二、三楽章と、ショパンエチュードに決まったと知らされる。きたか、あのエチュードが。コルニル先生には、バラードが当たるかもしれないから練習しておけ、と言われていたが、現在の夫いわく、あのエチュードを持ってきたら必ず当てられるだろうよ、とのことである。それだけ、難曲ではあった。審査員たちは、待ち構えたかのように聴くだろう。

 私はまず、腹ごしらえするために、フラフラとカフェに寄り、むりやりオニオングラタンスープを飲んだ。店のムッシューが私の顔色を見て、どうしたのかと尋ねてくる。私は、これから試験で、ピアノを弾くんだ!と応えると、おお、それならばもし、bien passee(うまく行った)なら、また来なさい!と言われる。学校へ着くと、友人たちに会い、少し落ち着いた。

 そして、緊張の本番はいざ、始まるのである。舞台はいつだって、死刑を宣告されて断頭台の上にあがるような心境であった。私だけではないはず。舞台を体験した者ならば、大きく首を縦に振るに違いない。

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