2017年7月27日 (木)

続編五 音楽教室に落ちる

 時は二〇〇〇年。

 新年明けて、妹ユリコは成人式を迎え、私はよっちゃんと甲州七福神めぐりをしたり、ミュージカルライオンキングを観に行ったりと、楽しい時を過ごしていた。この年は、ユリコもようやく薬科大学に合格することになる。ブリュッセルの友人、ミタ氏が一時帰国をして、カワイの表参道店でコンサートをすると言うので、よっちゃんと共に聴きに行ったりもした。日本で会う私たちは、幾分雰囲気も変わったらしく、「二人とも絵になっとるよ」と言われたりして、再会を喜んだ。私は年が明けた頃から、だんだんとリサイタルへのプレッシャーが増してきていたが、相変わらずよく遊びよく学べの毎日であった。

 お見合いの君の、友人ご夫妻にも会った。とても良い人たちだったのだが、私にはこの奥様の方が、全く気が合わなさそうでどうにもならなかった。試しに彼に、彼女はどういう人なのかと訊いてみたら、ええ、いい奥さんって評判ですよ、料理はうまいし、健康だし。と言う返事が返ってきて、唖然とした。何だ、そのこたえ。いい奥さんって、そういうものなのか。だとしたら、私は全くダメじゃあないか。料理も嫌いだし(うまいけど)、虚弱っキーだし。と言ったら笑われたのだが、なんだかサラリーマンの「普通と常識」を垣間見たような気分がして、私にはやっぱりムリだ…と密かに思ったのを覚えている。

 私は毎日本当によく遊んでいたが、ピアノの練習も忘れなかった(つもり)。しかし母は、こんな奔放な私を心配して、大丈夫なの、ピアノはちゃんと、弾けているの。最近あんまりな様子だけど…と、うるさい。誰の監視下にもなく、自由な一人暮らしだったベルギーが懐かしかった。自分には、自分のペースっていうものがあるのだ。でも今日記を読み返しても、おいおいカオルさん、ちったあ、ピアノ弾いとけよ。と思ったりするので、母が正論だったとは、思うけど。

 仕事の方は、まず母校の音大附属の音楽教室を受けることにした。

 説明会に参加し、二月に入って試験を受けた。

 スタジオにて、モーツァルトのソナタを全楽章弾く。選曲に悩んだが、Mr.カワソメいわく、スクリャービンなどは子どもには刺激が強すぎるからやめとけ。だそうである。私は笑い、正統派で勝負することにした。

 当日はよく知っている先生方が審査員として聴いて下さる。後から聞いた話だと、人前でモーツァルトを弾くのは至難の技なのに、あえてそれを持って来たとは、相当自信があるんだな、と楽しみにしてくれていたらしい。アナタが古典を弾くなんて。よく勉強して帰って来たわね。いい点つけたわよ。と褒めていただく。ちょっと嬉しかった。そして三日後の面接。私は、意地悪な、踏ん反り返った教授たちにズラッと囲まれ、ガラにもなく緊張して質問にうまく応えられず、しどろもどろだった。

 結果は、不合格。

 通知が届いた時、思わず「えーっ、そりゃないよ」と叫んだ。

 マジかー。母校の音教で雇ってもらえないとは、この先私はどうすりゃいいんだ。

 その時は、その結果について先生方が、ピアノは他の受験者がもっと大きくて派手な曲を弾いたからどうの、面接でモジモジしてたからどうの、私の点数は四番目で、三人しか採用しなかったからどうの、などと話を伺ったが、今なら私にはわかる。

 良かったのだ。私は、大学で働くのは性に合わない。

 大学に限った話ではない。私のような気質の者には、誰かに雇われて、そのシステムの中でやって行くのはとうていムリである。たぶん、途中でストレス爆発して暴走して、解雇されるのがオチだ。昔、亡くなった恩師てっちゃんに、「アナタのような自由な子が、学校でなんかやっていられるわけがない。」と言われたことを思い出す。

 きっと大学は私のそんな偏った性質を見抜いて、最初から蹴ったのだ。それで良かった。私はもう二度と、どこの音楽教室の採用試験も受けようとはしなかった。私は誰でも、自分の持って生まれた能力や才能を、人々に分け与えるために生まれて来るのだと思っている。どんな小さなことだっていい。その人にしかできない大切なことが、きっとある。私は、今まで経験したことを、こうして自由な自分の教室という環境の中で、生徒たちと一緒に生き生きと楽しみながら分かち合うために存在しているのだ。たぶん。

 その時はわからなかったことが、少し時が経ってみるとわかる。本当に人生とは面白い。

 そしてとりあえず目の前の職を失った私は、五月のリサイタルに向けて専念することに決めるのである。相変わらず、遊んではいたけど。

2017年7月26日 (水)

続編四 高校時代の彼、そして夫たちとの飲み会

 私が帰国した一九九九年から二〇〇〇年にかけては、通信網が目覚ましく進歩している時代であった。インターネット、携帯電話。古いポケベルに代わり、メールが世間に普及し始めていた。携帯は、その軽さとコンパクトさを競い、NTTドコモが圧倒的に支配していた。今ではいわゆるガラケーと呼ばれてしまうやつが、一世を風靡していた時代である。

 私は半年間、携帯を持たなかった。でも、友人たちとはマメに連絡を取り合っていたと思う。女友達はじめ、男友達とも例によって、よく飲みに行ったりした。この時私は、よっちゃんとはもちろん、お見合いの君とも、なんとなく続いて付き合っていた。私は結婚のことよりもまだ、仕事と演奏活動に頭が一杯であったのだが、どちらもまた、性格のいい人たちだったので、別れられなかったのである。まわりはこんな私を見て呆れていたが、私にとっては、多くの女友達と付き合うのと同じような感覚であったように思う。言い訳だけど。そんな中、昔から付き合っていた、高校時代の同級生ともたまに、会って話すようになる。

 彼とは高校二年〜三年くらいの時に少し付き合っていて、その時は私の片思いに近かった。しばらくして私には他の彼氏ができたのだけど、その後もずっと、いい友達として残った。ブリュッセルへ行っている間も、たまに連絡を取り合い、一時帰国の時もよく会っていた仲である。いわゆる、つかず、離れずと言った感じの間柄。

 年末はよく、彼と会って話をした。彼はとても頭の切れる男だったので、よっちゃんにも、お見合いの君にも話せないようなことを相談に乗ってもらったりしていた。同級生というものは、ケンカも多いが心の落ち着くものである。混乱させると申し訳ないので説明すると、留学時代に一度、イギリスから遊びに来てくれた彼ではない。その彼とは高一の時に付き合っていたわけなので、この彼とはまた違う人物である。ちなみに、イギリスからチャリでやって来た彼氏は北京の彼(東北の彼)なので、これも違う人物である。もうなんだかサッパリわかんないと思うけど、まあいいとして。

 年末は、リサイタルでお世話になるマツザキさんともよく会い、打ち合わせをしながら、着々と演奏会の準備を進めていた時期でもあった。そして、ピアノ愛好サークルの部長であり、現在の夫である、コヤマくんたちとも飲んだ。学祭の打ち上げに出席できなかったので、今度こそは約束を果たそうと思っていたのである。

 その時はパリから友人のエミコが一時帰国しており、彼女も誘って飲み会に出ている。その時に夫から、「ミヤっさん、彼氏いないんですかぁ」と、鋭い目でズバリ訊かれたのが印象的であった。彼はそうやっていつでもポーカーフェイスで、ここぞと言うタイミングで話の核心に迫る癖があった。夫を知らない人にイメージを与えてあげるならば、彼はちょっと、イチローとiPS細胞の山中教授を足して二で割った感じの風貌である。

 そしてサークルの学生たちの中には、今も仲良しな後輩たちがたくさんいて、おかげさまで私のまわりは年下ばかりだが、その中でも後輩のなみっちは、いっとう泥酔していて、居酒屋の鍋に信じられないくらい色々な調味料をごたまぜにし、帰り道では駅前の広場にて「雅子様、ご懐妊〜!」と吠えていた。ちょうど、皇室の雅子様が身ごもられた時期ですね。懐かしい。

 十二月は、そのようにして過ぎて行った。クリスマスイヴの日、猫のプーすけは、しばらく住み着いていたよっちゃんの家から、我が家に越して来る。私は、各種イベントの時には彼氏とでなく、一人で過ごすことに決めていた。そして大晦日。私は妹のユリコと近くの五社神社へお参りをし、おみくじを引いたその中身には、

「恋愛…今の人が最上。迷うな。」

 と書いてあった。一体今の人が誰なのか、サッパリわからない、その年の私。

 一九九九年も無事に終わり。ノストラダムスの不吉な予言も当たらなかった。そして気分も一新、新しい年が始まろうとしていた。

2017年7月25日 (火)

続編三 仕事探し

 昭和祭も終わり、時はあっという間に十一月。日本の時間の進みは本当に早い。

 私はとにかく、少しでも仕事がないかなぁと思っていた。もちろんリサイタル準備のためにピアノはさらわなくちゃならないけど、稼ぎも欲しい。相棒のよっちゃんの方はと言うと、とりあえず実家のお店を手伝いながらしのいでいた。お店が休みの平日に、私たちは会っていたのだけど、そんなある日、ベーカリーレストランのサンマルクにフラッと入ると、ピアノの生演奏をやっていた。

 よっちゃんと私は沸いた。こりゃあひとつ、自分のプロフィールでも書いて、売り込んでみようか?彼いわく、身ひとつで帰って来た時にゃあ、ミカン箱の上でパフォーマンスをやるくらいの勢いでスタートするがよし!と言うことである。私は笑って、店のアンケート用紙の裏に自分のプロフィールを書いて、店長に売り込んだ。店長さんは良い人で、空きが出たら電話をくれると言う。おおー、何でもやってみるもんだ。友人たちに言ったら、笑うだろうな。これは後日、本当に店長から連絡が入るのだが、その時はすでに私もだいぶ生徒たちが増えていたり、演奏で忙しくなっていたりして、周囲の反対もあり、結局断ってしまった。でも、仕事があれば何だってやる、という気持ちは、当時の私の基本姿勢だったと思う。

 けれども、音楽関係以外のアルバイトはするつもりはなかった。私が欲しかったのはお金でなく、(まあ、欲しかったけど)自分がこれから活動を広げていくための仕事だった。その気持ちは、留学から帰って来たら、ほとんど誰もが同じだと思う。そして、そんな私に一番初めに仕事をくれたのは、先輩のアキカさんであった。彼女は、自分の生徒さんたちを引き受けてくれないか、という話をしてくれた。確か、仕事が一杯一杯で、レッスンしきれないようなことを言っていたと思う。私は飛び上がって喜び、感謝感激で引き受けた。その後、音大を狙っている彼女の生徒さんたちが何人かやって来たり、彼女の留守を預かって、レッスンしに行ったりと、私は金銭面が助かっただけではなく、教える勉強もさせていただいたと思う。

 そんな中、近所の方の紹介で、ピアノを習いたいと言う女の子がやって来た。当時四才の、アヤカちゃんである。彼女はピアノが上手く、大変賢い子であった。これが記念すべき、この教室の生徒、第一号。私はよっちゃんと相談して、教室名を現在の「クラシックピアノクラス」に決め、東急ハンズで黒い看板を五千円で作ってもらい、一人、また一人と生徒が増えていった。この看板は今でも使っているので、もう十七年近くになる。途中、買い換えようかなと思ったのだけれど、なかなか年季が入っていてこれもまあ、カッコイイかなと、そのままにしている。あのハンズのおっちゃん、ずうっと持ちのいいものを作ってあげるよ、と言ってくれたのだが、本当だった。ありがとう、おっちゃん。

 私は、ポツポツと仕事が入りながらも、リサイタルを五月に決め、いよいよ会場を予約する。嬉しさと、緊張とで、翌日に大学へ行き、来賓教授ペルティカローリ先生の公開レッスンに顔を出して来た。その時にこの間の部長君、いわゆる現在の夫である、コヤマくんに会う。彼は公開レッスンのピアニストに選ばれた学生だったのだが、私は彼の出番を聴き逃してしまった。彼には学祭の打ち上げに参加できなかったことを詫び、いいよいいよ、また今度、年末の飲み会にでも顔出して下さいよ〜。と言われて帰って来た。

 私はこの時、夫のことはサッパリ、眼中にはなかった。彼だってもちろんそうだったと思う。その代わり、またもや新しい君が現れたりして、事態はますます混乱状態に陥るのである。

 ここからが私の、夫と付き合い出すまでの、波乱の二年間の幕開けであった。

2017年7月24日 (月)

続編二 夫との出会い

 いきなりドカンと行くけど、このタイトル。でも本当に、帰国してすぐの十日後に、私たちは出会ったのだ。まさに娘なっちんの、さしがねとしか思えない。雲の上から見ていた彼女は私の行動の一部始終に焦りまくって、このタイミングで、どうにかして私たちを引き合わせたのだ。多分ここで出会わなかったら、私たちはこの先も巡り合っていないだろう。縁とは本当に、不思議なものである。

 帰国してから私は、まず師匠たちにご挨拶をした。Mr.カワソメには、今後のことについて色々アドバイスをしていただいた。さすがは大先輩である。奈良先生は、この時ちょうどお忙しそうで、それどころではないと言った感じであった。大好きなアキカさんにも、連絡を取った。早く会いたくて仕方がなかった。彼女には、仕事の方もたくさんいただき、本当にお世話になる。

 さて、十月二十八日、木曜日。

 私は母校である、昭和音大のA306号室へ行き、ピアノを触らせてもらった。ヤマハのそれは思ったよりも良くて、部屋も広々としていた。ここで授業も受けたことのある、懐かしい教室である。昨年に弾かせてもらう予定だった学祭でのピアノを、カワソメ先生のはからいで、今年に持ってきていただいたのだ。

 学生たちは、皆忙しそうに学祭準備をしていた。その教室は、例の「ピアノ愛好サークル」の持ち部屋で、私は三日後の本番のために試弾に来た、というわけである。部長さんを探したが居らず、他の部員たちは、そのうち来ると思います、と言っていたので、私はピアノを弾き続けていた。

 そうこうしているうちに、「部長さん」はフラッとやって来た。

「あ〜、どうも、ミヤチさん?よろしくお願いしますぅ。ピアノ、適当に弾いてっていいからね。ミヤっさん、ベルギー行ってたんだよね?いいな〜。楽しかったぁ?あ、ボク、部長です〜。学祭、よろしくね〜。」

 みたいな会話を、多分したと思う。

 痩せて背の高い、飄々とした風貌の部長。彼は大学四年生であった。第一印象は、何だこの子。変わった子だなぁ。相当面白い奴か、相当ヤバイ奴か、どっちかだなぁきっと。というものだった。

 何度か言うけど、私は一目惚れというやつをしたことがない。どちらかと言うと、一言惚れならばある。これが、私と夫との出会いだった。そしてこの後、ちょくちょく会う機会はあったものの、ずっと先輩後輩の関係が続いていた。私が好きだとはっきり意識したのは、この日から二年後のことである。

 昭和祭での演奏は、日本に帰って来てからの初めての演奏だったせいか、結構緊張していた。どんな小さな本番も、もちろん大きな本番も、きちんとした演奏で出たい、という心構えだったせいかもしれない。

 モーツァルトのソナタと、アンコールにスクリャービン。三日で仕上げたわりには、まあまあ、まともに弾くことができた。この時、お見合いの君も聴きに来てくれたのであるが、「部長さん」は、誰だあいつ?と首を傾げていたそうである。その時はまだ、帰国リサイタルのプログラムも決まっておらず、やっぱりモーツァルトを入れようかなぁ、と迷っている。夫が、なかなかチャーミングなモーツァルトだったよ、と言ってくれたのが印象的だった。本人、あんまり覚えてないと思うけど、縁のある相手との出会いの日とは、意外と細かいところまで覚えているもんである。ここに書いた詳細は、はっきり言って、日記にはあまり書かれていない。私の脳裏にしっかりと刻まれた記憶を、引っ張り出してきたものだ。

 そして私たちは、年末の飲み会で会うまで、何の連絡先の交換もしなかったと思う。たぶん。

 私は、新しい場所での仕事探しと、リサイタルプログラム決めに、躍起になっていた。

 山のようにある自由な時間の中で、友人たちと語り合い、また一緒に帰って来たよっちゃんの方も、新しい生活へ歩み出そうとしていた。

続編一 まえがき

 ピアニストMama♪ 留学白書 続編 まえがき

 

 これまでず〜っと私のヘタクソな文章にもめげず、留学記を読んでいただいた皆さま、どうもありがとうございました。

 ここからは私の、帰国後の出来事になります。留学して帰って来たら、まさに浦島太郎。自分の国であるのに、何だか新しい場所のような感じで、誰もが戸惑い、困惑しながらのスタートとなります。

 本当は、留学生活四年間のみを書こうと思って始めたことでありますが、そこで終わると何だか尻切れとんぼのような気になってきました。

 だって、留学後の話は、本当に面白い。

 本当に、真っさらな、一からの紙芝居の始まりと言った感じで、その生活が落ち着くまでに、留学生たちは皆、めちゃくちゃ苦労をします。

 まずは、仕事探し。ぶっちゃけ、ヘタにプライドだけは高くなっちゃってるもんだから、なかなかこれが、決まらない。日本ですでに活躍している数々の友人たちが羨ましくて仕方がない。自分はどうして行こうか、悩みもだえる。

 それから、住処探し。

 今までは自由きままな一人暮らしで(まあ、私は後半、二人暮らしだったけど。)自由に音楽をやり、好き放題に生きてきた。それがいきなりまた、親元でのスタートである。これは、誰もがうなずくと思うけれど、双方かなり厳しい現実となります。早く自立したいのに、お金もない。仕事もない。このジレンマ。中にはそのまま、実家に居着いちゃうタイプの人もいるとは思いますが、私は一刻も早く、独り立ちしたかった。きっと母たちも、そう願っていたと思う。

 そんな、決して順調ではない帰国後の生活について、またもや暴露しつつ、夫と付き合い出すまでの激動の二年間を、少しだけ書いてみたいと思っております。

 それでは、軽〜くお楽しみ下さい。続編おまけ、ピアニストMama♪ 帰国その後です。

2017年7月18日 (火)

百二十七 最終回 帰国

 一九九九年、十月十七日、日曜日。

 出発の日は珍しく晴れて、そしてとても寒い日となった。

 朝九時半に、私たちはオリビエとエヴァと、それにエヴァの友達のアリアンとで、朝食を共にする。みんなで一曲ずつ、クラビノーバを弾きあったりして、賑やかに過ごした。それから半地下に戻って、最終準備を始める。エヴァもうさぎを連れて遊びに来たりした。

 猫のプーは、異変を感じて縮こまっていた。当時は飛行機に乗せるのに、猫の検疫はなかったので、問題は、長時間の移動にプーが参ってしまわないかということと、彼の体重がオーバーなことだけだった。病院からは睡眠薬のようなものをもらっていたのだが、それを飲ませるかどうかはとても迷った。お昼近くになって、私たちはようやく決断し、一粒口にポンと放り込む。プーはむしゃむしゃと飲み込んでしまい、あっけなくすぐにトロンとし始めた。

 十二時前に、家を出発。オリビエたちと空港へ向かった。最後にドアを閉める時、胸の奥がキュッと痛くなった。エヴァは進んで、プーの入ったカゴを膝に抱え、オリビエは「サヨナラ、ベルジック!(ベルギーのこと)」と言った。

 二十分ほどで空港には着き、エヴァたちとは駐車場でお別れだった。

 私たちは、抱き合ってさよならを言った。私は急に涙が止まらなくなった。さよなら、大好きだった人たち。エヴァも一生懸命、涙をこらえていた。日本に帰ったらもう、毎日一緒に暮らしていたこの人たちとは、長い間、会えなくなる。私はとても悲しかった。想い出が一杯詰まった、四年間のヨーロッパ生活は、おしまいになったのだ。どうして信じられるだろう。と同時に、私は、最後に心に残るのは、ベルギーでの勉強のことではなく、人との繋がりであることを知った。お世話になったコルニル先生たちや、一緒に暮らしていたエヴァたち。愛情。それは、私にとってかけがえのない、大切なものだったのだ。

 いつまでも泣いているわけにはいかないので、私たちはもう一度ハグをして、別れた。そして空港へ着くと、急にプーが正気を失い、半狂乱状態に陥った。私もよっちゃんも、一気に「お別れ」ムードを失い、プーに薬を飲ませたことを後悔する。しかしそれは後からわかったことだが、一時的な発作だったらしく、それからしばらくしてプーはとても静かになった。動物にとっても長距離の移動は大変なストレスである。私たちは心配でたまらなくなり、せっかく、ユキとトッコが見送りに来てくれたのに、ほとんど時間がなく、お茶もできずにゲートでバタバタとお別れ、となってしまった。

 引き上げ時の荷物は、ハンパなかった。その上、デブ猫のプーがいるときている。プーの機内料金は、その体重によって加算されることになっていたので、一体いくら取られるかとハラハラしていたのだが、たまたま係の兄ちゃんが気のいい奴で、カゴごと乗せられた体重計は明らかに八キロ近く指していたのだが、なんと「四キロ」にしてくれた。仰天である。そして私たちは、満席のルフトハンザに乗り込んだ。

 ほとんど定刻通りで飛んだが、フランクフルトに着いてから、またえらいことに、私のバッゲージが外に出るはめになってしまい、乗り継ぎが一時間しかないのに、もう一度、荷物チェックを通らなければならなくなった。ドイツの女の係員は不親切だし、行列の中国人は嫌な奴だったし、もう散々だった。何とか成田行きのチェックインの最終時刻に間に合い、汗だくになりながら、またもや満席の中に乗り込み、ホッと一息。

 その頃にはプーも落ち着いていて、「プー」と呼ぶと、か細い声で、ニャ〜、と鳴いていた。どうやら、薬が効いて、朦朧としているらしい。隣の兄さんがいい人で、プーをこっそり膝抱っこできたりして、本当に助かった。プーは水も飲まず、おしっこもせず、十二時間をひたすら耐えていた。成田到着二時間前くらいでようやく彼は正気に戻り、名前を呼ぶと元気に返事をするようになっていた。

 そんな具合で、私たちはフライト中、猫のことばかり気がかりで、気疲れグッタリであった。とてもじゃないけど、あれこれ想いを巡らせているヒマなどなかったのである。

 無事、成田に到着したその時は、ああ、日本だ。本当に、帰って来たんだ。という嬉しさと、ガッカリした思いが、入り混じっているような感じであった。まだ、夢を見ているようだった。ともかく、私は帰って来たのだ。一時帰国のヴァカンス気分の時とは、全く違う気持ち。

 日本。これから、何が起こるんだろう。私は、どうすればいいんだろう。

 全く一からのスタートを切ることになる自分は、真っさらな白紙を目の前にしたような気分で、未来に向かってたたずんでいた。

 お金もなく、仕事もない。あるのは、自由な時間と、可能性だけである。

 そうだった。帰って来た直後のあの頃は、本当に時間が山のようにあった。生活が軌道に乗り、仕事も忙しくなってからでは、とうていやることのできないことが、何でも好きにできた。懐かしい、貴重なあの時間。

 私は自由と、たくさんの友達に囲まれていた。そして出会い。ベルギーでお別れした分だけの、新しい出会いが待っていた。同時期に留学していたであろう、今現在の音楽仲間たちにも、次々と出会った。あの時、もしかしたらあのパリの街角で、ヨーロッパの石畳みを歩いているあの時に、私たちはすれ違っていたかもしれないと思うと、面白い。

 そして、日本での、ベルギー時代の友人や、先輩方との再会。私は、彼らの活躍に、たくさんの勇気ときっかけをもらった。

 その後訪れる、夫との出会い。リサイタル。そして巡り会う、可愛い生徒たち。

 これから先の話は、この続編として、ぼちぼち書き進めてみたいと思う。ハッキリ言って、留学時代と同じだけの、いや、それ以上のエネルギーを必要とした、日本でのスタートだった。留学から帰って来た者たちならば、皆、同じような思いをしているに違いない、もう一度すごろくの振り出しに戻るような気持ち。

 一九九九年、秋。年が明けて二十八を迎えるのを目前とした、二十七才の私であった。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 〜完〜

 七月二十四日 月曜日、続編スタートですnotes

2017年7月17日 (月)

百二十六 帰り支度

 ギリシャの陽気な太陽の下で、すっかりブリュッセルへの未練を断ち切れた私は、着々と帰り支度を始めていた。母からの電話でも、最後の最後まで、コンセルヴァトワールを中退することについて気にかけてもらったが、そんなことはもう念頭にはなかった。

 いいのだ。私は日本で頑張るのだ。なんだか、試験曲ばかりに追われる生活にも、疲れてしまった。この先もう二年、暗いブリュッセルで踏ん張って持ち曲を増やすよりも、新しいことにチャレンジしてみたい。リサイタルもやりたいし、もっと色々なコンクールにも出てみたい。私はそんな風に思っていた。

 帰って来ると、生徒の親御さんたちや、ユキたち友人一同から、送別会を開いてもらった。生徒たちとは、アンティーク調の、お洒落で美味しいイタリアンへ。ユキたちとは、仲間内でよく行ったカフェで、Mr.ミタ、ヤザワ選手、さとこっち、シホちゃん、キョーコちゃん、トッコとその彼、アキエちゃん、リョーコちゃんら、たくさんの友人たちが集まってくれる。来られなかったキボウちゃんとは後日、個人的にお別れ会を開いた。ユキとトッコは出発の日、見送りに来てくれると言ってくれて、嬉しかった。この時にもらった、クリスマスの可愛い飾りを今でも大切にしている。大事な想い出である。

 オリビエたちと最後にボーリングに行ったりもした。エヴァとよっちゃんは相変わらず、道を歩く時も腕を組んだりして、仲良しであった。彼らと離れるのは寂しい。電話会社のベルガコムと、私は最後まで反りが合わなくて、間違って三日前に電話を切られてしまったので、オリビエに電話を借り、国際電話でいろいろなやりとりもさせてもらった。エヴァには私の持ち物をたくさんあげたが、お礼にと言って、彼女は花束をプレゼントしてくれた。まだ十歳にもならない子どもが、何という大人っぽいことをするのだろう。私はきっと、彼女のママのベンチュラが気を利かせたのだろうと思って、「ママにもありがとうと言ってね。」と言ったら、「c'est pas Ventura, c'est moi !!(ベンチュラじゃないわ、私からよ!)」と言い返されて、びっくりしたと同時に、感動したものである。

 フランス語を教わっていたバージバン先生には、最後のレッスンにて、今度ベルギーに来る時はうちに泊まりなさい、と言っていただいた。何年か経って私は、夫と一緒に先生のところへ訪れている。そして先生は、フランス語でさようなら、「au revoir(オールボワール)」とは、再び会いましょう、と言う意味でしょう。と言って、ウインクしてくれた。嬉しかった。私たちは笑って、再会を楽しみにお別れをした。

 和声のメルクス先生にも挨拶しに行った。他の学生もちょうどいない時で、ゆっくりお話しできて良かった。住所交換をし、「東京に行くことがあったら電話をするぞ。アキカによろしく。」と言われる。それ以来、先生がどうしていらっしゃるかがわからなくて気になっている。今もなお、現役で、パリのマレ地区あたりをブラブラしていらっしゃるのだろうか。大好きな優しい先生であった。ぜひ一度、お会いしたいなと思っている。

 アシスタントと、コルニル先生には、その翌々日にご挨拶に行った。またベルギーに来たらレッスンをお願いします。と言ったら、もちろんだとおっしゃって下さり、色々な話をする。コルニル先生は私が勉強を続けたい気持ちをわかってくれていて、日本でもプロフェッサーがいるのか、尋ねてくれた。先生のところへは、帰国後も実はこれまた、夫を連れて一緒にレッスンに伺っている。いつも優しく、時には厳しく、帰国後も、リサイタルやコンクールなどのプログラム相談に乗っていただき、温かく親切な方だった。この先生がいらっしゃらなかったら、私の楽曲に対する分析力はつかず、感性のみに頼っていたかもしれない。毎回、ダメ出しされて厳しいレッスンだったけれど、本当にためになったと思う。merci beaucoup.ありがとうございました。

 そして借りていた半地下のピアノは、出発二日前に旅立って行った。

 ピアノを出すには大きなトラックが家の前に停められなければならないので、私はコミューン(役所)か警察かで手続きを取り、お金を払って、1日中、うちの目の前に看板を立ててもらい、他の車が停めてはいけないようにしなければならなかった。ヨーロッパでは道路に縦列駐車するシステムになっているのだが、これがベルギー人たちの守らないこと、守らないこと。ひどかった。仕方がないので、私たちは外に出て、追い払い作業をしなければならなかった。停めちゃダメだと言っても、彼らは平気で「2 minutes !(二分だけ!)」とか言って、いなくなる。で、実際、二分どころかずうっと戻って来ない。中には、「一体何に使うのよ?」と逆ギレする奴もいた。信じられませんね全く。そしてついに私は、一台の黄色い車をレッカー移動した。可哀想だったが、仕方ない。三時間も堂々と停める方が悪いのだ。

 四年間お世話になったピアノは、やっと夕方になって業者がやって来て、トラックに積み込まれ、ドナドナとなった。荷馬車が揺れる〜。の、アレである。ちょっぴり寂しかった。ピアノがなくなって一番びっくりしたのは、猫のプーすけであった。ピアノの上で寝るのが好きだった彼は、しばらく戸棚の中でいじけていた。

 そして、出発前夜。

 片付けがひと段落して、少し一休みした後、私はオリビエ一家とお別れをした。

 セルジュとベンチュラの二人は、明日の朝、出かけてしまって挨拶ができないからである。

 オリビエは、明日の朝食を一緒にとろう、と言ってくれて、エヴァときたら、まだ明日があるというのに、早まって涙目になり、「カオル、さよなら。」と言って、皆に大笑いされていた。でも、私も涙が出そうになってしまった。

 カオルは、何で帰っちゃうんだー!と言うエヴァ。本当だね、私はどうして帰ってしまうんだろう。寂しいよ。よっちゃんとも、しばらくは別々の家で暮らすことになる。日本に帰ったら、私たちはどうなるんだろう。そんなことは、誰にもわからなかった。知っていたのは、その時空の上から見ていた私の娘、なっちんのみである。

 明日は、四年間住んだベルギーのこの部屋とも、いよいよお別れの日。想い出の詰まった半地下の、薄暗い部屋のベッドに横たわりながら、私は静かに目を閉じた。

(次回、最終回です。)

2017年7月16日 (日)

百二十五 サントリーニへ

 九月二十八日、四時半起床。いざ、ギリシャ、サントリーニ島へ!

 飛行機は少々の遅れがあったものの、無事に飛んだ。

 ミコノス島に寄ってからのサントリーニ到着であったが、島の滑走路というのは恐ろしく短くて、ギュイーン!と無理やりブレーキをかけて止まる感じであったから、ものすごくビックリした。機長の腕はすごい。

 サントリーニは素晴らしくいいところだった。日差しは強いが、二十五度〜三十度くらい。カラッとしていて、心地よい。何しろ私たちの宿泊先は、プール付きの、海の見えるホテルだ。素敵すぎて大喜びをし、早速プールでひと泳ぎして、昼寝をする。こんなのって、映画みたいだ。いいなあ、ヨーロッパ。

 私とよっちゃんは、何度も言うけど旅のペースがぴったりだったので、楽ちんそのものであった。彼は私よりも食事の時間が長く、ありえないほどゆっくり時間をかけて食べる。それから、虚弱ッキーな私を常に気遣ってくれて、ちょっとでも私が自分のキャパを超えて動こうとすると逆にセーブされるので、体調を崩すことはなかった。今日はあっちまで行っちゃおうよ!と提案しても、それは、悪いこと言わないからやめとけ。みたいに、私の身体のことはよくわかってくれていた。そして、彼の言う通りに動くと、あ〜ほんとだ、やめておいて正解だったわ。ということがよくあった。

 ギリシャの島の、さんさんと降り注ぐ太陽の下にいると、不思議なことに、不安なことも、嫌なことも、なあんにも頭には浮かばなくなった。旅って本当にいい現実逃避、ストレス解消である。

 ギリシャは食べ物がまずい、と聞いていたのだが、心配するほどではなく、ホテルの夕飯も、出先で食べるものも全部、とっても美味しかった。これは多分、私たちが日本から来たのではなく、ベルギーから来たということがあると思う。ちょっとクセのあるものが多かったし、日本人の口には合わない料理もあったかもしれない。でも私たちにとっては、鶏肉のグリルや、豚肉、それにど〜んと乗ったじゃがいも、タラマやイカの詰め物、ズッキーニのぶつ切り、ムサカ、サジキ、ギリシャ風サラダなどなど、美味しいものばかりで、たらふく食べて大満足であった。

 私たちはチャカチャカと移動をする旅が好きではないので、一週間くらいをずっと、サントリーニでのんびりと過ごした。もちろん、その間いろいろなところへ行き、フィラの町で遺跡を見たり、ちょっと遠出をしてビーチに出たり、イアの町でアーティストたちの作品を見たりした。

 思い出深いのは、いきなりの思いつきで、バルカーノ火山口へ出かけた時のことである。私たちはよく、フラッと思いついて行動に出ることがあったが、この選択は大正解となり、彼は忘れちゃったかもしれないけれど、私は今でもとてもよく覚えている。

 暑さにヘトヘトになりながら歩いたが、二時の船でバルカーノへ出発し、海風を受けながら、真っ青なエーゲ海の魚たちを見下ろしていた。

 三十分くらいで到着したバルカーノは、いかにも溶岩が流れ出た感じの、ごつい岩ばかりの島。そこまで船は着けられないから、泳げる者は泳いで行け〜、と言われ、若者は皆、船からボンボンと飛び込み、硫黄の温泉が湧き出ている場所まで二百メートルくらいを泳いで渡った。当然、よっちゃんもさっそうと泳いで行った。残るのは、私のように泳ぎの自信のない者と、水着を忘れちゃった者と、お年寄りである。羨ましい。カオルちゃんは、無理だよ〜〜!と海から叫びながら泳いで行った彼が忘れられない。

 しかしさすがにヨーロッパである。日本だったらこんな自由なことは、やらせるはずがない。しかも見張り一人いなくて、船員たちはその間、笑いながら知らんぷりであった。誰か沈んじゃったらどうするんだろう。

 それは、火山口でも同じことが言えた。ロープだって張っていないし、道だってほとんど整備されておらず、そのままだ。暑さと険しさの中、頂上までヒーヒー言いながらたどり着いたが、大きな火口からは硫黄の煙がもくもくと出ていて、足元の砂は熱かった。けっこう疲れたが、サントリーニを一望する景色は素晴らしかった。風が心地よい。私にも泳げる場所があって、初めてエーゲ海に入ったが、エメラルドグリーンの水は少し重たかったのを覚えている。

 フィラの町へ戻ると、今度は階段をロバで上がった。おじさんが後ろから、ギャロップギャロップ!と叫ぶと、ロバは飛び跳ねて走ろうとする。私が振り落とされそうになるのを、おじさんはゲラゲラと笑いながら見ていた。

 本当に楽しい、ヨーロッパ生活最後の旅行であった。疲れたらのんびりと、ホテルのプールで泳ぎながら、持ってきた本を読んだり、昼寝をしたり。

 ロマンチックな夜のプールサイドのバーで、夜風を浴びながら飲むウゾー。ほのかにライトアップされた、レストラン。ウエイターたちには、「バカンスか?それともハネムーンか?」と訊かれ、カップルで来ているのにもかかわらず、私が一人になると、常にウインクをしてみせた。

 最後の日、サントリーニの空港にはベルギー人ツアー客たちがひしめいていて、これがあの、陰気なベルギー人たちか?というくらい、陽気な雰囲気であったが、青天のギリシャから、雲の中を抜け、どんよりとしたベルギーに戻って来たとたん、皆、元の暗い顔に戻っていたから、不思議である。

 到着したら、ベルギーは十一度。ど〜んより。飼っているウサギに赤ちゃんが生まれた!と言って、はしゃぐエヴァに迎えられた。

 そして、私は日記に書いている。
「もういいや!ベルギー!」
と。

 青天のギリシャへ旅して、私たちは四年間のベルギーでの想い出を、すっかりその地に置いて来られたのかもしれない。

 時は、一九九九年、十月五日。帰国する日まで、あと十二日となる。

2017年7月15日 (土)

百二十四 アンリオ先生の贈る言葉

 九月下旬になって、私はアンリオ先生にご挨拶するために、パリに向かった。

 友人エミコは快く泊めてくれて、私たちは二ヶ月ぶりの再会を祝った。行くたびに閉まっていて、なかなか見られなかったオペラ座、ガルニエもこの日は開いていて、憧れのシャガールの天井を見ることができて、感激であった。

 アンリオ先生の御宅には、翌日の朝に出て、郊外のサンラザールにはお昼前に着いた。先生とは、一時間くらいお話ができた。色々なことを話せて、本当に嬉しかった。一番嬉しかったのは、先生からの「贈る言葉」として、

 「日本に帰ったら、カオルのことを良く知っているアキカや、コースケ(奈良先生のこと)に習え。他の先生には変えるでないぞ。」

 と言ってもらったことである。

 実は、あのコンクール以来、会場で審査員の言った言葉が離れず、私は少々悩んでいたのだ。私のところへいらっしゃい。きっと、もっと良くなるはずよ。そう言っていた、あの冷たく傲慢そうな先生の一言。私は、このままではダメなのかと思っていた。でも、アンリオ先生はそんな私の気持ちを見透かして、はっきり助言をしてくれた。お前は、このままでいい。まわりにはとても良いピアニストが、コンセイユ(アドバイス)してくれる先輩が、いるじゃないか。と言われたようで、ホッとした。

 嬉しくて、帰ってからエミコにそれを伝えると、心から喜んでくれた。でもそれが、アンリオ先生からの最後の言葉となってしまった。本当に、お会いしに行って良かった。先生は私が帰国してしばらくすると亡くなり、もう二度と彼女の言葉を聞くことはできなくなってしまったからである。

 私はこの後、いろんな友達に送別会を開いてもらったり、先生方にも挨拶をしたりと、忙しい日々を送ることになるが、その前に生徒たちの発表会を開いた。大きな教会で、合同発表会を行ったので、人数は多く、華やかな会となった。私は帰国後、生徒の何人かを友人のミタ氏に引き継いでもらったので、彼はこの会に顔を出してくれて、生徒の親御さんたちにきちんと挨拶をすることができた。ありがとう、ミタ君。彼は生徒たちからも大人気であったため、私から引き継ぎの話が出た時は、皆喜んでくれた。

 そしてその翌々日。私とよっちゃんは、ヨーロッパ生活最後の思い出作りとして、彼念願の、ギリシャサントリーニ島の旅へと出かけることになるのである。

2017年7月14日 (金)

百二十三 彼からの電話、そしてオリビエたち

 ブリュッセルに戻って来た次の日の朝は、実家にファックスを入れ、みんなに残念だったなあと言ってもらえる。でも私は、やることが多すぎて悲しんでいるヒマもなかった。

 バタバタとやるべきことを片付けていると、電話が鳴った。驚いたことに、東北の彼が、一度よっちゃんが出たのにもかかわらず、もう一度私に電話をくれたのである。

 私たちは、一時間ほど話をした。こんなにゆっくり話すのは久しぶりだった。はじめはよっちゃんがそばにいた、ということもあり、お互いに多少ギクシャクしたが、そのうちに打ち解けて、色々なことを喋った。これは、本当に嬉しかった。彼の方も、「カオルとこうしてまた、こんな風に話すことができて幸せだと思う。」と言っていた。今までのことが全て、水に流れて行くような気がした。

 多分、私の気持ちは帰国に向かっていて、目先のコンクールも終え、やるべきことをやった後だったから、自分の気持ちもスッキリと整頓されていて、彼とも素直な気持ちで向かい合えたのかもしれない。恋愛は幾度となく、してきたけれど、彼がまさに付き合っている最中に私に向かって言った、「ボクはカオルにとって、別れてもずっと心に残るような存在でいられたら幸せだと思う。」というセリフが、結局その通りとなってしまった。彼ほど、いつも何かしら気にかかり、そういえば今ヤツはどうしているのだ、と思わせられる相手はいないかもしれない。まんまと思惑通りとなったのが、多少、負けた感があって悔しいが、まあいい。それだけ魅力的な人物と出会えた私は、幸せである。

 電話を切ってからも、よっちゃんは怒っていなかった。そして、私は二階にいるオリビエたちと、今度開くパーティーの打ち合わせをした。九月二十五日にしようということになる。

 それからは、生徒たちの引き継ぎ、いろいろな手続きと解約、やるべきことは山のように積み重なっていて、それらを一つずつ順番に片付けていった。四年も暮らすと、意外と最後は大変である。住んでいた半地下の部屋には、新しい音楽家が何人も見に来たが、結局、誰も入らないまま、私は帰国することになった。代々、演奏家たちが住んでいた一室だったけれど、私の四年間が一番長く、そして一番最後となり、一番仲良しになれたとオリビエは言っている。何年か後に、久しぶりに訪れた時は、シメヌ(エヴァの異父姉)が住んでいた。そして現在はきっともう、あのアパートには誰か全く別の家族が住んでいるのだろう。オリビエとベンチュラは離婚をしたはずだから。でも、きっとまだ仲良しのはずだ。そろそろもう一度、ヨーロッパに遊びに行ってみたい。今度は娘を連れて。

 約束の日となり、私たちは、オリビエ一家と最後のパーティーをした。私とよっちゃんがおもてなしをする、日本食パーティーである。半地下だと狭いので、上のリビングで、巻き寿司やら、いなり、焼き鳥、お好み焼き、お味噌汁、抹茶アイスと、純和食オンパレードであったが、皆、まあよく食べてくれた。特に焼き鳥とお好み焼きはヒットであった。

 エヴァとセルジュがいつか日本に来る約束や、メールアドレスをもらったり、私たちは最後の楽しい時を過ごした。そして同時に、何故ベルギーを離れることになるのか、寂しくてたまらなくなってしまった。この時はさすがのよっちゃんも寂しがっていたように思う。四年間の、彼に至っては五年間の、ブリュッセルでの生活は、長かった。

 そして私は、たくさんの友達や、先生方との、最後の挨拶をすることになるのである。

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