2017年8月 9日 (水)

続編十八 カオルさん、愛というものを知る

 午前中、十一時半からコヤマ君との合わせ。この日は実家のピアノで練習した。

 前日クラス会で遅かったし、だいたいにおいて夜型だった私は、とても疲れていたのだが、朝型の彼と付き合うようになってから一転せざるを得なくなる。この人はどんなに夜遅くまで遊んでいようとも、次の日の朝はシャキッと起き上がれるから羨ましい。朝の開店前七時半頃からお店で合わせ、なんて日もあったが、私はコヤマ君に待たされたことは一回もなく、今でも夫は待ち合わせ十分前には到着している男である。 私は今じゃあ毎日六時半起き、十時半か十一時には就寝と、規則正しい生活を送っているが、それでも娘の学校が休みとなるとあっけなく崩れてしまう。昔は明け方に寝るのなんてザラだった。若かったんだなあ。と思う。

 実家での合わせは、お昼を挟んだので、彼に素麺と、焼き鳥を出してあげた。コヤマ君は、彼のCDコレクションの中から、すごく素敵なアンコール特集を持って来て、貸してくれた。四時からバイトだったので珈琲屋まで送って行こうとしていたら、ちょっと財布を見たいから、一緒に行こうよと言われ、何だか少し、嬉しかった。デートみたい。

 珈琲屋では、スタッフの人たちとだんだん仲良しになっていた。皆、私が顔を出すと、喜んで迎えてくれた。そして私はこの時、人生で初めて、大切なことに気付いている。

 コヤマ君。彼と一緒にいると、私はすごく優しい気持ちになれる。それはどうしてだろう。

 彼の目がとても純粋だから、惹かれるのかもしれない。

 そして私は、これまでの人生で、誰かと付き合う時、相手から何かを与えてもらうことばかりを期待していたことに気が付いた。

 私は今まで、誰かに与えることをしていただろうか。高校の彼氏とはケンカばかりで、お互いに、自分の期待を相手に求めることばかりを要求していたのだ。私は彼に、何を与えてあげたんだろう。よっちゃんは少し大人で、そんな私を大目に見てくれているからうまくいっていたのかもしれない。少なくとも私は、よっちゃんに甘えていた。そして彼の方は、私の心を自分が心底キャッチできていない不安を覚えていた。

 私はこの時初めてそうした自分に気付き、そして今、目の前にいるコヤマ君に、むしろ与えてもらうよりも与えてあげたいと思っている自分がいることを知った。別にそれは、尽くし子ちゃんになりたい、と思ったわけではない。ごく自然に、自分から、相手に対して自分の出来ることをしてあげたい。と思ったのである。これは、愛情というものであった。そう、自分の子どもに対して、全ての母親が自然と感じる、愛情。それと同じである。何の打算もなく、何の見返りも期待せず、ただひたすら、自然とそれが出来る相手というものは、存在するのだ。私はびっくりしたと共に、今までの自分を深く反省した。私は何と勝手な女だったのか。まあ、今でも勝手きままであることには変わりないんだけど。そしてそんな私を見てもまた、夫も「変われ」とは強要しない。私も彼に対してそう望んだことはない。それが、相手に対する愛情であり、思いやりである。私は本来が自分勝手なので、誰とでもそれを成り立たせることができない。コヤマ君との出会いは衝撃であり、私の中で、何かがガラガラと音を立てて変わって行ったのである。

 私は、自分が壊れてしまいそうだった。コヤマ君と一緒にいて、その目を見ていると、身体が粉々になって張り裂けそうになった。だから、高校の彼に会って欲しかった。そして受け止めて欲しかった。けれど、その願いは叶わなかった。彼に連絡を入れて、会ったのだけれど、もう私の中に彼はいなかった。お互いがすれ違い、限界を感じていた。そして、私たちは話し合い、しばらく離れていようと言うことになった。

 私の心は、激動の中にいた。そんな中でも、ずっと一緒に、それこそ六年間も一緒だったよっちゃんとは、最後まで離れられずにいた。彼と別れる理由なんて、何もなかった。でもそれは、裏を返せば、どうにかしてでも一緒になりたい、という意識もまた、失われていたということなのかもしれない。

 そして運命とは渦巻きのように、グイグイと予測不可能な方向へと進んで行くのである。嗚呼、我が娘なっちんのパワー、恐ろしや。

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ここまで読み進めていただいた皆さま、本当にありがとうございます。

ここから先はけっこう盛り上がって来る予定なのですが、8月10日から22日まで、札幌帰省のためお休みします。

23日からまたアップいたしますので、どうぞよろしくお願いいたしますhappy01

なお、その期間はこちらで札幌での様子を綴ります↓

2017年8月 8日 (火)

続編十七 クラス会開催

 さあ、ここから一気に夫との進展、と行きたいところだけれど、事態はそう簡単には、進まない。それがものごとの実態、と言うもんである。

 私はこの時期、クラス会を開く。発表会直前に、何をやっているんだか、バタバタと忙しかった。

 例のマッカーサーで弾いていた時に、偶然後ろに座っていたクラスメイトのおくべえが、おい、クラス会、やろうぜ。と言ってきて、その後もしつこく言ってきたので、しぶしぶ幹事を引き受けたのである。それは、小学校六年生のクラス会であった。彼の方も一緒にやるよ、と言っていたのだけれど、仕事の忙しさに、結局、私が一人でほとんどやることになってしまった。まあ、学級委員だったし、いいんだけど。とにかく、それが六年生の旧友たちの、初めての集まりとなり、その後、その会は何度も開かれている。相当、インパクトのある仲間たちだったのだと思う。お盆だったのでちょうど帰省がてら、二十人近く集まってくれて、ものすごく盛り上がった。

 三十を目前にして集まった仲間たちは、皆それぞれの今を生きていて、それはそれは面白かった。人は大人になるものだ。会った時には顔も変わっていてびっくりするが、話していて十分も経つと、全員昔の顔に戻って見えて来るから不思議である。先生もいらっしゃって、懐かしい昔話に夢中になった。チョーク入れに死んだネズミを入れたのは誰か?だとか、おくべえをストーブの囲いの中に閉じ込めて、餌をやらないで下さい、と張り紙をした話(彼は当時、モンチッチにそっくりだった)、 もう出てくる話が全て愉快すぎて、皆、食べるのを忘れて話し込んでいた。

 結局、二次会は二時頃まで続き、幹事の私は働きっぱなしで、クタクタになったが楽しかった。チビの頃のメンバーは、何をやっても気取らなくていいもんである。ぶっちゃけ、東大卒のクラスメイトなどに、今の年収も躊躇せずに訊ける仲。そういうのって、なかなかない。昔の、アホな仲間にカンパイである。そして私は帰り道、NHK特派員をやってる男子と東大卒の男子を送ってあげたのだが、幸せな結婚をした二人は私のことを大変心配して、始終、オマエは結婚、大丈夫なのか。早くしろよ、と言われた。余計なお世話である。

 楽しかったが疲れを引きずった次の日、私は追い打ちをかけられたかのように、コヤマ君との合わせがまた入っていた。私たちは発表会のトリに、バーバーの連弾をしようと言うことになっていたのだが、これがまた難しく、なかなか合わなかったのだ。だから私たちは発表会の九月二日がやって来るまで、毎朝お店のピアノで合わせようと言うことになった。これが、私の心の中で、彼を決定的なものにしてしまう。

 音楽とは、魔物である。一緒に奏でる相手と意気投合して恋に落ちることもあれば、その音楽感の違いに決裂してしまうこともある。

 彼はとてもいい匂いがした。女性にとって、本能的に好きか嫌いかと感じるのは嗅覚である。これに逆らって頭で判断してしまうと、絶対にうまくいかない。そして彼は、大きな、ピアニストにとっては最高の手をしていて、私はその手が大好きになった。

 自分たちの結婚に迷ったら、まず、相手の手を見てみるのがいい。本当に惚れている相手ならば、その手を見ただけで運命の人だと確信するはずである。そこそこの相手なら、まずそこまで何とも思わないはずだ。私は、夫の手は私にとって別格過ぎたからハッキリと感じとることができたが、よくわからなければ、手をつないでみるといいと思う。フワーッと熱い何かが込み上げて来て、ああ、この人は優しい人だなとか、安心できる人だなとか、実は冷たい人だとわかってしまったり、何もこれは、音楽家に限ったことじゃあなく、誰でも経験したことがあると思う。一度何かの本でそんなことが書かれているのを読んだことがあったように思うが、私は、夫の手には何かただならぬ魅力を感じる。そして、ピアノに並んで座った時、本能的に、ああ、この人だなあ、と直感した。留学を決めた時もそうだったけれど、何事も直感と本能のみで生きる女である。

 私は、久しぶりに、共に音楽を楽しめる相手と巡り会い、自分の中で何かが壊れるような、幸せと苦しみの叫び声が同時に上がったかのような感覚に陥っていた。ここまで来れば、しめたもの。雲の上の天使、なっちんは、ほくそ笑むように見守っていたであろう。彼女は私たちの間に、この瞬間を逃さず、電光を落としたのだ。間違いない。

2017年8月 7日 (月)

続編十六 珈琲屋での演奏会

 暑い暑い、梅雨明けの七月。

 私は、実家の庭で、トマトの栽培に追われていた。暑くてピアノをさらう気になれず、伸びるトマトと格闘しながら、プールに行ってリフレッシュしていた。ああ、何て呑気な午後。トマトまではいいけど、平日プールなんか行って泳ぐことなど、今はなかなか出来ない。時間があるって、素晴らしいことである。

 それでも時間はたっぷりある、と思っていたのに、気が付いたらもう、演奏会の時間になってしまった。七時より、珈琲屋へ。その日は後輩のコヤマ君らの演奏会であった。ヴァイオリンに、歌に、ピアノソロ。誰が演奏したのかは忘れたが、はっきり言って、ピアノソロ以外は全然よくなかった。

 コヤマ君はこの時、バッハを弾いたのだけれど、すごく上手くて感心した。私にはなかなかあんな風に、整然としたバッハが弾けない。彼の中には理性的ながらも、内に秘めた芯の強さと、遊び心が音楽の中に流れている。感心したと同時に、私は彼の音楽をすごく大事にしたくなってきて、「良かったよ!」と言って、ポケットに千円札を一枚、押し込んだ。え〜、いいよいいよ。と彼は言ったけれど、結局嬉しそうに受け取ってくれた。確かこのコンサートは、感動した分だけを寄付するような催しで、空き缶が置いてあったような気がするが、私は、気に入らない他の演奏者には渡すもんかと思い、直接彼に受け取って欲しかったために渡したんじゃないかな、と思う。

 その日、確か演奏会が終わってから最後に余興として演奏をしていた、モリ君と言う男の子にも出会った。背の高い、一九〇センチはあるであろう、ハンサムな彼。彼の奏でる音楽もまた、異色で、独特の音色を放っていた。実に繊細な演奏家であり、ユーモア溢れる会話の持ち主である彼とはその後、大変仲良くなり、今でもホームパーティーの時には一家に一台的な存在である。そう考えてみると、本当にこの珈琲屋さんでは、たくさんの貴重な出会いがあったものである。今はもう閉店となり、最近さら地になってしまったのが惜しまれるところだ。

 さて、この日を境に、私の心の中には、音楽を愛するピアニスト、コヤマ君が少しずつ宿るようになった。高校の彼と会っていても、何となく落ち着かない。さすがに、大御所であるよっちゃんといる時はそうでもなかったが、夢の中によくコヤマ君が出てきているから、やっぱりその存在感は日に日に大きくなってきていたのである。彼はよく私にメールをくれて、これから仙台へ一人旅するんだと言っては、楽しそうに報告をしてくれた。

 でもそれはまだ、私にとって彼は、弟のようにフワフワと心地の良い存在で、恋愛対象なのかどうかは全く確信が持てなかった。そして彼の方も後日、「ミヤっさんて、お姉ちゃんみたい。」と言っているから、多分お互いに同じように思っていたのだろう。実際、彼の一番上のお姉ちゃんと私は同じ誕生日であり、初めて彼の家族に紹介してもらったのも、偶然こちらに仕事で来ていたお姉ちゃんにであった。私は彼と結婚することになり、仲良しの四人姉弟と家族になれたことも、とても嬉しかった。

 私が彼のことをはっきりと意識して、惚れていると自覚してしまったのは、それからまもなく、発表会直前の連弾合わせをした時である。それは私にとって、衝撃の一矢であった。私は思わぬ心の展開に動揺する。そして、私のことなど何とも思っていないであろう、年下の彼に、取って食われるような恐怖心を抱かせることになるんだと思う。たぶん。

2017年8月 6日 (日)

続編十五 ラローチャの演奏会

 二〇〇一年、六月十日。私は、アリシア・デ・ラローチャの、時の記念コンサートに出かけた。もう、ウキウキだった。

 彼女の演奏会は、大学一年の、まだ何も音楽についてわかっていなかった頃、友人と一緒に聴きに行った以来である。でもその時は確か、ベートーヴェンプログラムであった。そのため師匠てっちゃんに、「彼女のベートーヴェンねぇ…。やっぱりラローチャは、スペインものじゃないとねぇ。」と言われたのを覚えている。でもその頃の私には、一体どうしてベートーヴェンじゃあダメなのか、演奏を聴いてみてもサッパリわからなかった。それから私はブリュッセルで、スペインもののグラナドスを勉強し、それが十八番であるラローチャの演奏をCDで聴いて、ようやく彼女の素晴らしさがわかり、大ファンになっていたのである。

 彼女の演奏会は、後に夫と一緒に、日本公演さよならコンサートへも行ったが、それが本当にラローチャの最後の演奏となってしまった。最後の舞台は、彼女らしい、温かいものであったけれど、もう八十を越えてずいぶんお婆ちゃんになっていて、ステージで倒れちゃうんじゃないかとハラハラした。でもパワーは失ってはいたものの、半分あの世に足を突っ込んでる境地に達した演奏はまた素晴らしくて、涙が出た。そして二〇〇一年のコンサートでは、まだいくらか彼女は元気で、若々しい演奏だったと思う。

 私はよっちゃんに、九千円の席を譲ってもらい(席が離れていたのだ)、聴く前からワクワクを隠せずにいた。

 彼女が舞台に現れた時、何て小さい人なんだろう!と驚いた。昔聴いた時は、後ろの方の席だったので、わからなかったのである。身長は、一四四センチくらいしかないと言う。手も、オクターブがやっと届くくらいしかない、小さなピアニストだ。それなのに彼女の演奏は、その容姿まで大きく見せるほど偉大であった。

 ダイナミックな演奏ではない。テクニックで圧倒させるわけでもない。ただただ、ひたすら、音楽を愛した、純朴な演奏。温かい音。多彩な音色。余計なものの、何もない、素晴らしい演奏であった。私は聴いていて涙が溢れた。どうしてこんな演奏ができるのだろう。彼女の中に、詩が流れているのだ。私、聴きに来て良かった。よっちゃんありがとう。

 この時のプログラムを今、必死に思い出そうとしているのだが、どうしても思い出せない。でもスペインものを弾いてくれたことは、確かである。やはり、大物の演奏会には、定期的に行かなければダメだ。音楽の真髄に触れて、そこに手を伸ばせば届きそうな気持ち。今、よく夫が「もしも宇宙が滅びても、音楽だけは残って欲しい」と言うけれど、本当にそう思う。私は音楽にたずさわることができて、幸せだった。そして、共に音楽を愛する人と出会えたことも。

 ラローチャの演奏会が過ぎ、七月もまた、音楽会は続く。

 私は珈琲屋で開かれた、コヤマ君たちの演奏会を聴きに行く約束をしていた。

2017年8月 5日 (土)

続編十四 珈琲屋での出会い

 ある日、ふとしたことで、生徒たちの発表会を思いついた。

 そうだ。そろそろやってみようか。小さな会くらいだったら、できるかもしれない。ちょうどあの珈琲屋さんがいい感じではないか。

 私は後輩のコヤマ君に電話を入れてみた。ちょっと相談すると、ボクがお店に話を通しておいてあげるよ。と気のいい返事をもらえる。その時は自分一人でやるつもりでいたのだけれど、後々、彼の生徒さんも一人だけ、一緒に出してもらえないか、と頼まれ、それならば一緒に進行しよう、と言うことになる。おおよその察しはつくとは思うけれど、この話が出てから、私たちは会う回数も増え、お互いに少しずつ惹かれあい…と言いたいところだけど、そこは私の完璧な片思いで、事は進んで行くようになるのである。

 私は何度かその珈琲屋さんのオーナーとお話しをしながら、発表会の打ち合わせをした。彼女は音楽家が大好きなので、夫も大変好かれており、私たちは本当にお世話になっている。彼女の息子のヴァイオリニストあっちゃんは、パリから戻って来て、後ほど私たちと親友になるのだが、彼の買ってきたビールやワインを、夫はバイト仲間たちとこっそり、珈琲屋の冷蔵庫から拝借し、後で呑気なあっちゃんは「あれぇ、確かここに入れといたはずなのに、おかしいな?」と言って首を傾げていた。裏で知らんぷりをしていたのは、悪いコヤマ君たちである。

 この店ではもう一人、親友となる重要人物にも出会う。ロシア留学帰りのピアニスト、がんちゃんである。彼女は夫から紹介を受けたのだけれど、「ミヤっさんに、紹介したい子がいるんだ。怯えたクマのような目をした子でね。いい子なんだよ。」と言われたのが大変印象的である。背の高い、大柄のがんちゃんは、彼の言う通りに気のいい目をした、豪快によく笑う女の子であった。彼女とは今もなお、ピアニストのマリコと共に、仲良し続行中である。本当にこの店は雰囲気の良いところで、ついつい長居したくなってしまう場所だった。私はよくここに入り浸り、いろんなお客さんと話をしたものである。
ちなみに、がんちゃんのブログはこちらから読めますので、どんな方だか興味のある方はぜひ。

 私はそれまでのマッカーサーに代わって、何となしにくつろげる場所が出来たのだけれど、一方で、高校の彼氏とはケンカ三昧で、仲直りを繰り返してはぶつかっていた。後半はほぼ、会うたびにケンカになっているから、同級生というのは大変である。仲の良い時はすごくいいんだけれど、いちいち消耗してやっていられない。大学時代にも一度、ケンカの多い彼と付き合っていたことがあるんだけど、もうこの年になるとなるべくならば、要らぬ体力は使いたくない。

 そして私は実家でも、両親との同居に限界を感じていた。母はちょうど体調が不安定な時期だったようで、この頃は不機嫌な日が多く、私のような勝手で気の利かない娘に腹をたてることが多かった。いろいろとうまくいかないことが多い時期で、私にとっては、コヤマ君をはじめ新しい友人たちとの出会いは、唯一の心の支えであり、楽しみでもあった。何といっても、音楽をわかってくれる人たちと一緒にいることは、心強かった。もう一度あの頃の生活に戻れるような気がして、ワクワクしていたのかもしれない。

 コヤマ君との初めての打ち合わせと、連弾をしたのもこの時期。六月の下旬である。

 この日は体調が悪くて疲れていたのだけれど、彼との連弾はとっても楽しかった。音楽漬けで、久しぶりに幸せを感じている私。彼はとても多くの曲をレパートリーにしているようで、私は何だか恥ずかしかった。と日記には書いてある。この時はまだ、さすがに気の多い私も、夫のことは好印象ではあったが、心臓に矢までは刺さっていない。けれども本当に久しぶりに音楽を知る男の子に出会って、すごく嬉しかったのは確かである。

 そしてこの月、私はこれまた久しぶりに、大物の演奏会へと出かけた。アリシア・デ・ラローチャ。私の大好きな、ピアニストである。

2017年8月 4日 (金)

続編十三 二十一世紀の幕開け

 二十一世紀です!二〇〇一年です!おめでとうございます。

 と、十六年後に書いているのは何だか変な気もするけれど、とにかく、輝かしい二十一世紀の幕開けであった。私は、妹のユリコと、恒例の五社神社への初詣に行く。

 ここの神社のおみくじは、恐ろしいくらいに良く当たるのである。だからこの年も、ドキドキしながら本気で引いた。去年は、「恋愛、今の人が最上。迷うな。」であったが、今年はと言うと、「恋愛、うまくいかず。願い事、二つを叶えようとすると悪ろし。」であった。う〜む、恐ろしや、五社神社。果たして私の恋の行方はどうなるのか。

 そして私は、二十九才の誕生日を迎える。三十までのカウントダウンだ。ここだけの話だが、私は三十になる日の三日前、男泣き…いや、女泣きに泣いた。年を取るのが悲しかったのではない。勉強に一心不乱だった二十代の自分に別れを告げ、まだ、仕事も恋愛も未完成なその時、三十の大台に上がってしまうことが、どうにもこうにも不安でたまらなかったのである。

 私はこの冬から、水泳にハマった。自由な時間を利用して、せっせとプールに通う。春からは収入もだいぶ安定してきて、(と言っても、想像を絶する低額だけど。)私は憧れのジムにも通い始めた。

 春がやって来るまでに、いくつかの本番もあった。マツザキさんのプロデュースで、ヴァイオリン、チェロ、ピアノとで組み、茨城と埼玉で、映画音楽のコンサートをやったりした。一緒に組んだ、ヴァイオリニストの男の子がとっても爽やかでカッコ良くて、あ〜こんな人憧れるけど、私みたいなオンナにはとうてい、ムリムリ。なんて、日記には書いてある。彼らとの合わせは楽しかった。雪の日に新宿まで出て行って、リベルタンゴを合わせたり。映画音楽とは言っても、彼らの溢れる音楽性に触れていると、時間があっという間に流れた。茨城にはちょうど友人ののらが越していたので、本番前には一泊世話になった。彼女には可愛い赤ちゃんが生まれており、ああ、私も早くこんな赤ちゃん欲しいな!と思ったのを覚えている。

 仕事の方は、春になって急に軌道に乗り始めた。また地元紙の取材申し込みが入り、大きく記事が載ったので、それを見たレッスン問い合わせの電話が新聞社にたくさん入ったのである。自分で一生懸命に作った生徒募集のチラシなんかよりもよっぽど効果があったので、何だかむなしくもなったが、まあいい。そしてこの時に入った小さな生徒たちは皆、後々までずっと交流が続き、今でも発表会や、合宿などのイベントを手伝ってくれている。そのうちのサヤちゃんは、私たちの結婚式のリングガールをやってくれて、今では立派な幼稚園の先生として働き始めている。時の経つのは、本当に早いもんである。

 この年に、私はショーコちゃんという生徒を初めてコンクールに出した。いきなり、神奈川音楽コンクールなどと、大きいものに出場させてしまったのだけれど、これは生徒共々とてもいい勉強になった。コンクールは、教える側もその特色をよく知っておかないとならないものである。その後、厚木コンクールの存在を知り、地元での挑戦に力を入れるようになっていく。

 かなコン(神奈川音楽コンクール)と言えば、私もその春、シニア部門でチャレンジをしてみている。ちなみにこのコンクールでは、後々親友になるピアニストのマリコが一位をとり、ちょうど私が帰国する直前に、オケと一緒にコンチェルトを弾いているので、私の母は彼女の舞台を聴きに行っている。彼女はその後、ドイツ留学をしているが、当時私は彼女とはまだ友達になっておらず、母親同士がご近所さんということで、仲が良かった。私はブリュッセルで、母から、マリコがベートーヴェンの皇帝を弾いた話を興味深く聞いたのをとてもよく覚えている。

 私がかなコンを受けた時には偶然一緒に、パリに留学していた友人の男の子も受けていたが、私たちは揃って落とされた。五分という短い時間内にいまいち、ピアノの具合がつかめなくて、音を出し切れなかった。これを最後に、私はコンクールに出ることをやめたはずだ。小さい頃も何度か挑戦して、予選を通過程度はしているけれど、結局、私はコンクールという場で成績をおさめられたことはなかった。向いてないな。と、薄々感づいていた頃である。もうやめよう。それよりも聴いている人たちに、喜んでもらえるような舞台を目指そう。そして自分の代わりに生徒たちを育ててあげよう。その後、本当に自分の生徒たちが入賞をするようになった時、私は心の底から嬉しかった。

 妹のユリコと、彼氏のぶんちゃんは、春に一ヶ月の欧州放浪の旅に出た。そして友人のユキからも、コンセルヴァトワールのシステムが変わり、何でも、音楽院から、ユニバーシティになるのだと聞かされる。なんだそれは。多分、外国人排除のために、音楽とは関係のない法学などの一般教養も詰め込まれたらしい。旧システムに在籍していた彼女たちはその後、無事に卒業できたはずだけれど、そうやって欧州のシステムはどんどん変わって行くのであった。もったいない。

 ユキからは同時に、衝撃の報告も受けた。なんとあの恋多き彼女が、結婚することになったと言うのだ。私はびっくりしたと共に、本当か?だとしたら、ずっこけるなよ、ユキ。と願わずにはいられなかった。そして彼女の宣言はその後、真実となる。幸せなことに、いまだに離婚の報告は入っていないので、うまくやっているに違いない。

 そのようにして、状況は着実に進展して行った。私は長らく演奏していたマッカーサーでの演奏を終え、少人数ながら発表会ができるほどにはなった生徒たちのために、秋の開催を思いつき、ピアノ付き珈琲屋で働いているであろう、コヤマ君に一本の電話を入れるのである。

2017年8月 3日 (木)

続編十二 ホームページ開設

 さて、エヴァが帰ってしまった後。 

 帰国半年後の五月にリサイタルを終え、夏休みのエヴァ来日まで駆け抜けた私は、ここで急にぽっかりとヒマになった。

 いや、正確に言うと、時間は前からあった。ヒマと言うよりも、目標を失ったのである。アレ?私は次に、何をすればいいんだ?と言う感じ。これには参った。私は漠然とした不安を抱えるようになった。

 秋になり、すっかり涼しくなる頃まで、私はとりあえず、父が買ってきたパソコンにハマることにした。ブラインドタッチの練習、メールの設定、それから、ホームページの作成。これは、その分野では得意中の得意である、高校の彼氏に教えてもらいながら、頑張って自分で立ち上げた。マニアなフロントページソフトを使って、一から作るので本当に大変だった。十一月二十六日。記念すべき、我がホームページの開設である。その後、少しずつページを増やしながら、リニューアルを繰り返して、現在へと続いている。

 まだブリュッセルに残っていた友人のユキとも、連絡が取りやすくなった。その頃彼女も、現地でネットを始めていたのである。世界が急に近くなり、ネットワークは広がった。そしてそんな中、友人ののらは赤ちゃんを身ごもり、先輩のアキカさんからも、結婚の報告が届く。彼女は日本で出会った彼と結婚したのだけれど、お二人の幸せそうな葉書に、私は嬉しくなった。

 一方私は、お見合いの君とこの頃、別れている。彼とはエヴァが帰った後、メールや電話だけとなっており、二ヶ月ぶりに会ってみたのだけれど、やっぱり私はこの人と結婚することはできないと確信したのだった。なかなか別れられなかったのは、彼がとても気のいい人だったので、いちいちタイミングを逃してしまっていたからである。最後の最後に、彼からは、私の結婚直前の演奏会の時に、大きな花束が届いてびっくりした。万歳、と書いてあった。それっきり、彼がどうしているかは、わからない。どうか幸せに暮らしていて欲しい。と、遊び人の男みたいに勝手なことを思う。

 十月下旬には、夫の師匠の演奏会を、表参道まで聴きに行った。

 そこで私は連れて行ったよっちゃんを、初めて夫に紹介している。

 ああ、早く身を固めたい…と思ったのを覚えているのだが、その帰りに私は高校の彼とも会っていて、罪悪感に襲われる。この頃はまさに、私生活の方でも目標が定まらず、二人の彼の間で揺れ動いている絶頂期であった。仕事も、プライベートも、半端な時期。でも、リサイタルのマネジメントをしてくれたマツザキさんは、新しい演奏の仕事をくれたり、ホルンの先輩からも伴奏の仕事を頼まれたり、また甲府での演奏が入ったりと、音楽活動はぼちぼち進んでいた。

 私の二〇〇〇年の秋は、そのようにして過ぎて行った。そして年末。

 その頃の私には想像もつかなかったのだけれど、新しい世紀と共に、私の生活もガラリと変わろうとしていた。二十一世紀は、まさに古き良き時代から、全く新しい時代への幕開けとなった。

 私の生活は、のらくらと前に進みつつも、確実に今に向かって歩み出すのである。

2017年8月 2日 (水)

続編十一 エヴァ来日

 二〇〇〇年、八月十五日。ベルギーから一人、飛行機に乗って、十才のエヴァがやって来た。彼女は毎夏、スタージュ(合宿のようなもの)に各国へ行っていたから、一人旅には慣れっこである。添乗員さんに付き添われて、長いフライトを存分に楽しんだらしく、元気一杯にゲートから顔を出した。

 私よりも背が高くなったエヴァは、ずいぶんお姉さんになり、いっそう可愛らしくなっていた。が、中身は全く変わっていなかった。図体がデカイし、顔立ちも大人びているので、はたから見ると十五才ほどに見えるが、始終後ろからケリを入れてきたり、よっちゃんに肩車してもらって大はしゃぎしている彼女は、周囲の人々をギョッとさせた。異様な目で見ているおばさま方に向かって、よっちゃんは「いやぁ〜、この子、まだ十才なんですよ〜。」と言ってまわらなければならないほどであった。こんなにおてんばで、やんちゃ盛りのエヴァだったが、彼女が実際十六才頃になって再会した時には、もうすっかり落ち着いてしまっていたので、何だかホッとしたような、寂しいような気持ちになったものである。

 とにかく、彼女に「時差ボケ」などと言う文字はなかった。

 暑い日本にもめげず、夏バテなどにも縁がなく、はしゃぎどおし。見るもの全てが物珍しく、日本の街並みは美しい!と叫んでいた。そうかな?ヨーロッパの方が、景観は素晴らしいのに。そして、コンビニに入っては、Oh〜!エアーコンディショネ!(エアコンのことね)と言って感動し、駅でティッシュ配りの人を見てスルーする私を見ては、「その方がいい。どうせ、お金を取られるからね。」と言って偉そうに頷き、タダだよ?と教えてあげると「何故もらわないんだカオル!」と言って、いっぱい受け取りに行っていた。

 エヴァはほとんど我が家に泊まることになったので、私は彼女が来るまでの間、実家の片付けに必死だった。七月は、たいていが片付けとリフォーム作業に追われた。エヴァの寝る部屋にもベッドを置いて、整えてやらねばならなかった。そんな忙しい私に、高校時代の彼は寂しん坊となり、それからお見合いの君とはこの頃すでに、かなりご無沙汰となっていた。高校の彼には一度、プロポーズしてもらっているのだが、なんやかやと誤魔化してしまった。申し訳ない。彼とはケンカが大変多く、仲良しの時とそうでない時のギャップが激しかった。だからちょっと、躊躇してしまっていたのが本音である。

 カンのいいよっちゃんには、「ちょっとカオルちゃん、ウワキしてる場合じゃないよ!二年後、結婚するからね!」と言われて、超驚いている私。すげー。やっぱりこの人、ただものじゃないな。まあ、私がわかりやすいんだろうけれど。でもとにかくその夏は、エヴァの接待で、よっちゃんとガッツリ、スクラムを組んだ。私の両親とユリコはエヴァを大変可愛がり、ユリコの彼氏であるぶんちゃんと、その妹のトモちゃんとも、エヴァは大の仲良しとなった。トモちゃんとは年も離れているのに、まるで大親友のように、日本語とフランス語とで会話をしていた。

 一度、草津に、みんなで旅行に行ったのだけれど、この時、私の父とよっちゃんの折り合いが悪く、散々な結果になった。どちらが悪いわけでもなかったが、大ゲンカとなってしまったのである。まさに、性格が合わないとは、このことである。でもそんな時も、エヴァとトモコは一向に構わず、二人で辞書を見ながらクスクス笑っていた。

 エヴァは体力が有り余っていたので、毎日いろいろなところに連れて行ってやった。大山でケーブルカーに乗って滝を見たり、水族館に行ったり、隅田川の花火大会に行ったり。浴衣を着せてもらって大喜びし、書道をしたり、百円ショップでたくさんお土産を買い込んだりしていた。彼女はおてんばだったけれど、本当は美味しくない食べ物を「美味しい」と言って気を遣いながら食べたりする、ちょっと大人びたところもあったりした。ヨーロッパの子どもらしい、気配りである。「実はね、カオル…」と言って、後でそっと教えてくれた。でも、我が家で食べる料理はどれもお気に召したようで、特にお米が大好きで、上手にお箸を使いながら、美味しそうによく食べていた。

 よっちゃんと私は、最後に、エヴァがどうしても見たいと言っていた相撲の稽古場に連れて行ってあげたのだけれど、それはそれは大喜びで、前日の夜は興奮のあまりに一時頃まで寝なかった。朝稽古の見学だったのだけれど、その間、彼女の目は輝きっぱなし。いいお土産になって良かった。そこでご馳走になった、ちゃんこ鍋がまた美味しくて、その後、お相撲さんと一緒に写真を撮ったり、サインをもらったりして、彼女は大満足であった。

 最後の夜、彼女は私と、暗い天井を見つめながら、布団の中でこっそりと語り合った。また、エヴァが二十歳になったら日本へおいで。その頃はもっとお姉さんになっているだろうから、京都へも行けるし、きっともっと違った目で楽しめると思うよ。そう言うとエヴァは小さな声で、「Oui(うん)」と言い、日本から帰りたくない、と言った。

 可愛いやんちゃなエヴァは、二週間ほど滞在して、八月三十一日、またあの寒いブリュッセルへと戻って行った。その間、帰りたくないと言い通しであった。

 が、我らは、彼女という台風が去った後、やって来た静寂の幸せを噛みしめながら、よっちゃん共々、ノックアウトした。相当疲れた。彼女がいなくなったのは寂しかったが、それでも自分のペースで動けるのが、こんなに幸せなことだったなんて。と、日記には書いてある。それほど、激動の二週間、やんちゃなエヴァの滞在であった。何年か後になって、我が娘、女王なっちんがこの世にやって来てからは、再度、いかに今までが自由な時間だったのかと、痛感させられることになるのだが。

 エヴァに次に会うことになるのは、夫と一緒に行ったベルギーでとなる。二度、渡欧しているから、彼女が十一才の時と、十六才の時だったと思う。

 今はもう、彼女も二十六、七。ずいぶん会っていないが、美しくなっているに違いない。そして多分、彼女は両親と同じように、医学の道を志しているはずである。たまにメールをするが、カオルはいつ、ヨーロッパに来るんだと言われている。お父さんのオリビエは、その後ベンチュラと離婚し、直後に傷心の旅で来日して、私と夫の新居に泊まりに来ている。ベンチュラといえば、新しい夫と最近、日本へ遊びに来た。

 そのように、実に自由なヨーロピアンスタイルの、エヴァ一家。

 彼女が去ってから、私はホッとして、今度は逆にヒマになり、何だかものすごく悩むことになってしまうのである。

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上、十歳のエヴァと。
下、現在のエヴァとオリビエ。
Eva

2017年8月 1日 (火)

続編十 マッカーサーでの演奏

 厚木のショットバー。知る人ぞ知る、昔っからある掘っ立て小屋、マッカーサーギャレッジである。

 私は音大生の頃、そこでバイトをしていた。そこにはマッカーサー元帥が乗ったキャデラックや、グランドピアノが置いてあり、たくさんの若者たちが集っていた。昔はもう少し大人っぽい場所だったと思うが、今は本当に、若者たちのたむろう場所と化している。

 そこの社長がなかなかの気まぐれ屋で、普段はジャズバンドが生演奏していたのだが、急に何を思いついたのか、クラシックピアノを演奏してくれ、と言い出した。そこで私のことを思いついた、という訳である。週に二、三回。夜六時か七時から、十一時半くらいまで、何ステージかに分けての演奏だった。ギャラは六千円。安いが、仕事のない私は何でもやる勢いだったので、二つ返事で引き受けた。「今日の演奏」と言って、外には黒板が立てかけられたので、私の名前も書かれた。面白いことに、それをフラッと通りがかったコヤマ君はしっかりと目撃していて、ミヤっさんも食ってくのに大変だなァ。なんて思っていたそうである。

 ここでの演奏は、一年くらい続けた。そのうち気まぐれな社長は、今度はDJバーにするからと言って、クラシックはおしまい。ということになったのである。ここで演奏することについては、よっちゃん始め、高校の彼なども最初は猛烈に反対をしてきた。仕事が来て喜んでいた私としては、びっくりした。なんだそりゃ。夜に、ショットバーでやるって言うのがそんなに嫌なんですかい。私が素直に言うことを聞く訳がないので、そんなことはスルーして仕事に出た。結局、家の遠いよっちゃんは一度も聴きに来られなかったけれど、地元である高校の彼なんかは、友達を引き連れて応援に来てくれたりしている。本当に、たくさんの友人たちが、飲みついでに聴きに来てくれた。偶然、後ろの席に座ったカップルが、小学校時代の同級生だったりもして、それをきっかけに、クラス会をやろうと言うことにもなる。

 演奏中にアンリオ先生の訃報が入った日は、動揺を隠しきれず、それでも演奏しながら、想いを込めて先生に捧げた。

 マッカーサーでの演奏は、楽しいことも多かったが、やっぱり私にとって、夜遅くまで演奏をするというのは体力的にキツかった。一年経って、そろそろ終わりと告げられた時はホッとした。その頃は生徒も増え、他の演奏活動も入っていたりしていたので、ちょうど良かったのだ。

 石の上にも三年、と言うが、日本に帰って三年も経つ頃には、私はモーレツに忙しくなっていた。その前後、本当にいろいろなことがあった。夫と暮らしてどうしても生活のためにお金が必要になり、毎朝配達の仕事をやった時もある。お金には本当に、始終苦労させられたが、こうして今思い返すと良い思い出だ。人生、山あり谷あり。常に修行。金よりも、愛と冒険である。

 そういうわけで、リサイタル後の私はボヤボヤしている暇などなかった。

 そしてその夏には忘れられない出来事、十才のエヴァの来日がやって来る。

2017年7月31日 (月)

続編九 コンクール、コンクール

 さて、無事に帰国リサイタルが終わってからというもの、私はホッとしてなどいられなかった。終わってからの一週間は、本当に早い。ウッカリすると、一日分くらいの勢いで過ぎてしまう。翌日からは、山のような花束の整理、そして片付け、来て下さった皆様へのお礼に、礼状書き。これで三日は過ぎる。終わったその日は興奮して眠れないから、疲れがやっと癒えてくるのは、三、四日を過ぎたあたりからである。

 ピアノをまともに再開することができたのは、十日後だった。私の次の目標は、浜松の国際コンクールである。それから、新しく出来たトッパンホールのこけら落としの演奏家募集にも応募した。これには、三百五十六名の応募者のうち、三十九人の中に残り、テープ審査が通ったのでびっくりした。確かその後更に十二名の中に絞られたように思う。お見合いの君は自分のことのように喜んでくれて、私は感激した。反対に高校時代の彼は、同級生の定めなのか、ライバル意識をむき出しにして、へえ〜、すごいじゃん。くらいにしか言ってこない。彼は、リサイタル終了後、私に対して少し刺々しくなっていたから、ヤキモチを焼いていたのかもしれない。よっちゃんはというと、合格通知を告げると、おぉ〜?それはそれは!と、大笑いをしてひょうきんに喜んでくれた。皆、個性それぞれである。

 リサイタルに来られなかったのは、残業で抜けられなかったお見合いの君と、確か海外にいた東北の彼もそうであったのだけれど、東北の彼は何週間か後にタイから帰って連絡をくれて、久々にデートをしている。彼からは相変わらず、仕事に対する自信に満ち溢れる話を聞かされて、楽しかった。けれどもう、今となっては私たちは、お互いに別々の世界へと歩み出していた。残る気持ちは、お互いを応援する心のみ。こういうのもまた、いいもんである。彼にはその後、よく恋愛相談にも乗ってもらった。結婚した日には連絡を入れ、心からお祝いしてもらったのを覚えている。

 コヤマ君にも誘われて、珈琲屋の演奏会に出たりした。コンクール用の曲を披露してきたのだ。そして彼もピアノを弾いている。彼はとてもいいものを持っているのに、埋もれてしまうのはもったいない、と日記には書かれている。純粋に音楽を愛し、毎日地道に、生きるための努力をしている人。私は結局のところ、そんな夫に惹かれたのだ。やはり、音楽をやっている身としては、同業者であり、音楽を知り、愛している人が一番安らいだ。まあ、後日談なので、それは置いといて。

 私は色々なコンクールを探しながら、少しずつチャレンジをしていた。浜松国際には、よっちゃんにぜひ見せてあげたくて一緒に行ったのだけれど、ヨーロッパのそれとは違い、コンクールの雰囲気は全然面白くなかった。私はモーツァルトのソナタと、ショパンのバラードを弾いたが、体調もイマイチで、パッとしない出来であった。結果は、もちろん不合格。やっぱりな、という感じ。審査員の中村紘子さんに会えただけで想い出に残った。コンクールとは、スポーツだ。しかも、短距離走である。

 トッパンホールのオーディションは、その一週間後。この日はコンディションも良く、順調だったのだが、行き先を間違えてまさかの遅刻。心中慌てているし、たまたま一緒の受験者だった女性はべらべら喋りかけてくるし、集中したいのに、散々だった。でも、本番はなんとか自分らしく弾けて、一箇所ミスって飛んでしまって悔しかったところを除けば、プーランクもバーバーも、リサイタルの時よりも落ち着いた演奏が出来たように思う。

 弾いたあとに質問を受けたのだが、「バーバーと、プーランクの音色は、変えますか?」との問いに、私は面食らってしまった。どう応えたのかは、全然覚えていない。そりゃ、変えたいと努力はします、とでも言ったのだろうか。結果は、残念ながらこれまた不合格であった。しかし私は予想が出来ており、次行ってみよ〜、次!と、前向きである。コンクールなんて、そんな気持ちでなかったら、やっていられない。そして反面、コンクールって結構面白いな、という気持ちも出てきていた。手応えはあったし、他の演奏者を聴いていても、自分も引けを取っていないぞ、と思えたからだ。

 そして、友人ユキから国際電話をもらい、ブリュッセルでも無事に今年の試験が終わり、何でも今年は厳しくて、あんなに上手なキボウちゃんが落第し、ユキたちは満場一致で合格したことを知らされる。

 本当に、音楽の世界とは深く、厳しく、そして面白いものである。

 私はぼちぼち日本での活動が増し、そんな中、私が以前バイトをしていたショットバーからお声がかかり、夜のステージで演奏をしてくれないか、という話をもらうのである。

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