2017年5月28日 (日)

六十八 苦しい気持ち

 彼氏とは喧嘩していたが、一時帰国中、いろいろと師匠に話を聞いていただいたりしていくうちに、私の気持ちは徐々に、更にもう一年、つまり三年目の勉強に向けて、気持ちが固まってきていた。けれど、それを認めたくない自分もいた。勉強を続けようと思っているのに、感情の波が心の底で悲鳴をあげているかのようだった。

 その証拠に、私は幼馴染みたちと伊豆の海に行った時に、もう一人のフィレンツェ留学組のヨシエと、「ヨーロッパ戻りたくな〜い!」と叫びながら、澄んだ海に飛び込んでいた。彼女もまた、イタリアの地で苦労ばかりしていたようである。現地で彼女は何度も何度も腹痛を起こしていたから、相当なストレスがあったに違いない。もうじき結婚するミーちゃんもまた、違う悩みを抱えていたと思うが、それはそれで置いといて。

 私はもう一年ヨーロッパに残る目的として、どこかの国で国際コンクールを受けることと、コンチェルトをやること、そしてプルミエプリの証書を取ることを考えていた。師匠、Mr.カワソメは、まあコンクールでも受けて来いと、それに重点を置いて提案してくれた。しかし私は帰国中、まったくピアノを弾く気が起こらなかった。それよりも、東北の彼氏に会えない鬱憤を晴らすかのように、パアッと遊ぶこと、しかも男連中と遊ぶことに精を出していた。この夏ほど、オトコと遊んだ時期はなかったくらいに遊びまくった。そして女友達と会っては、恋の相談ばかりしていた。

 誠実な昔の恋人と会う時は、真面目な音楽の相談に乗ってもらったりしたが、新しい恋の芽が出そうな男友達とは、ちょっといい雰囲気に持ち込むなんて朝飯前であったので、彼女と別れたと聞いちゃあ、オー、それなら私が立候補しちゃおうかなァ、なんて、いけしゃあしゃあと言ったりしていた。デートは日替わりメニューで、し放題であった。いくら東北の彼氏と気マズイ雰囲気だったからと言って、ブリュッセルのよっちゃんだって居るのに、どうしようもない女である。最悪だ。そんな私はしばしば国際電話でユキに日本の様子を報告し、面白がった悪友、ユキは、それをネタにする。案の定、よっちゃんから、

「カオル大先生、日本でブイブイ言わせてるみたいですね?」

なんて電話がかかってきちゃったりした。ユキのやつめ。

 でもそんな中、私の後輩である、ユリちゃんから一本の電話が入る。彼女はローマに留学中だったが、同じく日本に一時帰国していて、仙台に実家があった。私の様子を見かねて、一緒に仙台に遊びに来がてら、彼氏のところを尋ねたらどうかと提案してくれたのである。私は迷った。迷いに迷って、うん、行くよ。と返事をした。

 先輩と一緒に、師匠のお墓まいりにも行った。ここに来ると心が落ち着いた。前にも書いた通り、私は先生のお墓の前に来ると、お話しができるような気がするからである。私は先生のことが大好きだった。いつでも私たち学生のことを、親身になって考えてくれた。私の今の苦しい気持ち、これからどうしたらよいのか、一切を打ち明けてきた。

 不思議とその帰り道に、「こうしていこう。」と考えが具体的に浮かんだ。アレ、先生のおかげかな?と思う。でも、やっぱり苦しい気持ちは残っている。くそ、東北のヤローめ。

 そして私は、相変わらず男友達とばかり遊んだ。連日違う男子たちと遊んで、さすがにこれだけガンガン遊んでいると、気はまぎれたが相当に疲れた。そして彼に連絡がとれない日々に慣れ、同時にふと、私は本当に彼のことが好きなんだ。とわかってくる。

 茨城にいる、おばあちゃんのところへも訪ねた。おばあちゃんは、私のことを覚えていてくれたみたいだった。嬉しかった。

 そして、八月下旬。私は仙台の、ユリの実家に泊まりに行く。いざ、東北の彼氏にも会いに。私たちは、決戦の時を迎えるのである。

六十七 二年目の夏

 七月二十七日。私は十六時四十五分発のエールフランスに乗った。成田到着予定は、日本時間の翌日、十四時二十五分。飛行機は珍しく定刻通り出発、パリのトランジットも、定刻通りであった。

 機内は相変わらず、超辛くて、隣はなんだか無口なカップルでつまんないし、足がむくんで眠れず、何度も発狂しそうになった。今度からは絶対に、前方座席のない席を選んでやる。そう決心しながら耐え、成田には予定よりも二十分早い到着となった。

 日本はいきなり蒸し暑い!忘れてた、この感覚。

 新宿経由で帰ったのだが、周りのみんなが平気な顔して歩いてるのが信じられないくらい、暑かった。ずっとヨーロッパに居た身としては、しんどいことこの上ない。暑い…。スーツケースをゴロゴロと押しながら、私は早々にへばった。それに、新宿からのロマンスカーの発券も、大変とまどった。わからないこと、新しいことが多すぎる。日本という国は、ちょっと離れていただけでも大きく変わる。帰って来るたびに私は、浦島太郎状態に陥った。そのてん、ヨーロッパなんて、いつ行ったって、服装の流行りも、街並みもほとんど変わらない。この差は何だろう。

 実家に着いたら早速、愛犬ビビが出迎えてくれた。最初はよくわからなかったみたいだが、そのうち、あっ!という顔になって、ワンワンとしっぽがちぎれるくらいに喜ぶ。彼女は私に似て、非常に勝手で自立心旺盛な性格だったので、歓迎してくれるのはその時のみ。犬なんだから、もう少し素直で忠誠心があってもよかろう、と思ったが、その気ままな性格は本当に可愛くて、特に妹ゆりゆりが溺愛していた。

 日本では、これまた相変わらず時差ボケに苦しめられた。眠くて怠い身体に鞭打ちながら、それでも私は、出迎えてくれる多くの友人たちに会った。

 例の幼馴染みの友人の、結婚式も迫っていたので、私はまず彼女たちと会った。フィレンツェの友人も一時帰国しており、三人で、式の話などで盛り上がる。なのに当の本人は、自分の結婚を「失敗だった!」と言い、私たちは「せっかく帰ってきたのに!」と言って大笑いした。マリッジブルーというものは怖い。私たち三人組の結婚は、結果的に、フィレンツェの彼女が一番最後になっている。まあ、多かれ少なかれ、皆平和にやっている(と思う)から、いいとして。

 それからすぐに私は大学へ行った。お世話になっている師匠たちや、友人たちに会えるからだ。大学へ行くといつも、長居してしまう。皆に挨拶をして、帰宅。

 そしていよいよ、夜中になってから私は、東北にいる彼に電話をかけた。

「あ、居たっ。何で電話くれないのよ〜!」

 と言っても、昨日も今日も遅くて、今だもん。それにこれから飲みに行くんだ。と言う。

 なんだ、疲れ切ってるわりには、飲みに行くのか。わけわからん。散々、誰と行くのかと聞いて、電話を切った。私も誰かと無性に飲みたくなり、バイト先のショットバーに電話を入れる。仲間内の男連中は歓迎してくれて、今から飲みに来い!と誘われ、行ったら行ったで、また散々いじめられ、彼との仲をからかわれた。もう、悔しくなって、帰ってから彼氏の留守電に、
「やっぱり、そっち行くから!文句あったら電話して来い!」
と言って切る。

そういう時だけ早速電話がかかってきて、夜中の三時頃に、喧嘩勃発。

 でも、仲間にいじめられたと知ると、彼は笑って、
「ま、北京にいきなり来たっていう前例もあるしね。来てもらっても困るけど〜、来られちゃったらしょうがないよな。」
などと吐く。

 私はもう、頭にきて、内心、絶対行ってやる。それで正体あばいてやるのだ。なんて、息巻いていた。ここでもしも行くことを思いとどまっていたのなら、私たちは別れなかったかもしれないのに。でも、そんなことは後の祭りである。それに、遅かれ早かれ、いつかは別れたのだろう。そういうことになっているのだ、運命とは。

 というわけで、情熱的なその夏は続く。

2017年5月27日 (土)

六十六 ニース、そしてブリュッセルへ

 彼女のアパートメントは、ニースのものすごい中心街にあった。

 今思えば、住所ひとつでよくぞ探し出せたと思う。人間は、世の中が便利になればなるほど、その能力が退化していくのかもしれない。でもまあ、探し当てたはいいが、彼女は残念ながら留守であった。私たちは、来たという証に、置き手紙を残してその場を去ろうとした。だが、帰ろうとしたその時、偶然エレベーターから降りてきたミキと遭遇するのである。まさにドラマ。

 彼女は私たちの姿を見て固まっていた。そしてやっと開いた口から、

 「な、なんで居るの?!来ないって言ってたのに〜!」

 と言って、ビビっていた。(そりゃそうだ。)

 友人、ミキは、一度ブリュッセルに遊びに来てくれた際に、猫のプーすけの口からネズミを取り出して庭に投げた前科のある彼女である。私たちはそして大笑いをして、水着を着てニースの海へと繰り出した。ここの日差しは強く、我々は真っ黒に日焼けをした。

 夕飯は、カフェのテラスでスープ・ド・ポワソンと、サラダ・ニソワーズ。これは頬っぺたが落ちるほど美味しかった。さっすがニース〜、と言う感じ。帰り道は迷わず、二時間半でサン・レミまで到着。途中、雷がすごかった。

 そしてまだまだ楽しい南仏の日々は続く。

 次の日は昨日行かれなかった、カシスの海へ。

 ここへは、港から小さい漁船で行くのだが、これがものすごかった。大波が来る時には、船長はエンジンを切ってそれを迎え撃つ。抵抗せず、素直に波に乗るのだ。それがもう、バッシャーン!とすごい迫力で、まるでウインドーサーフィンのよう。私は一人、キャーキャー騒いで皆に笑われた。

 船は穏やかなビーチまで付けてくれるのかと思いきや、海底が浅いところへは行かれず、ここで降りろと岩場の山あいで降ろされる。こういう、日本では考えられないことが、よく向こうでは起こった。相棒よっちゃんは、岩など物ともせず、ひょいひょいと登って行く。私はサンダルだったので、足場が悪く進めない。こうなったらハダシの方がマシであった。そしてついに力尽き、ここからもう泳いで行こうと言うことになる。

 よっちゃんは泳ぎもまた、上手かった。どこからでも平気で飛び込んで、バシャバシャと行ってしまう。私は泳げることは泳げるが、とてもじゃないけどはるか向こうの岸までたどり着くのなんてムリ。彼はシュノーケルを貸してくれて、コバルトブルーの海の中、魚たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを見ることができ、感動したのを覚えている。

 余談だけど、私の好きになるタイプの男性たちは皆、スポーツができる。よっちゃんは何をやらせても上手かったし、東北の彼はテニスと波乗りにかけてはピカイチであった。何を隠そう、我が夫も、そうは見えないかもしれないが運動神経はとても良い。学生時代はバリバリの運動部員であった。だいたいにして、私は体育が大の苦手だったので、スポーツができる人は憧れである。まあ、脳みそにまで筋肉がついてそうな奴は、イヤだけど。まあいいとして。

 南仏の海には、あちこちにヌーディストビーチがある。来ている女性たちは、別にそのビーチじゃなくっても、けっこうな確率でトップレスになる。私も思い切って、やってみた。サイコーの開放感とはこのことである。楽しかったなあ。夜はホテルにあったピアノを弾かせてもらい、マダム、ムッシューたちも集まってきてワイワイやった。

 ここは本当にアットホームで素敵なホテルで、大きな庭でいただく食事も大変美味しかった。カルパッチョに、野菜の南仏風スープや、焼きナスのトマトソースがけ、フロマージュブロンに、ショコラショー。飼っていた大きな黒いワンちゃんもおとなしくて可愛かった。またぜひ行きたいホテルなのだが、名前を控えておくのを忘れてしまったのが残念である。

 私たちは一週間のヴァカンスを終え、楽しかった思い出を胸に、またブリュッセルの街へと戻ってきた。夏だというのに、やっぱりここは寒くて暗かった。

 ユキやしづちゃんたちにお土産を渡し、こちらにずっと居たであろう、しんみりした顔をしたユキと、土産話をする。そして預けていたプーすけと、感動の再会。七月下旬から帰国する予定の、日本行きのチケットを手配する。

 その直前、またもや私と東北の彼は喧嘩をし、初めて「別れる」というセリフが二人の間に出る。それは多分、帰国しても東北には絶対に来るなと言われてのことであると思う。怪しい。人のことなんて全然言えないが、怪しすぎる。

 とにかく、私は楽しいヨーロッパでの夏のヴァカンスを終えて、いよいよ日本での、長い夏休みを迎えるのである。東北の彼氏との別れを、目前に控えて。

六十五 南仏の旅

 さて、幼馴染みの到来の次は、この夏のメインヴァカンス、南仏への旅である。

 当然、決まって、相棒よっちゃんとの車で出発。ヨーロッパでは皆、早組、遅組と分かれてヴァカンスをとるのだが、少なくとも二、三週間、普通に一ヶ月間という人もいるくらい、ガッツリ遊ぶ。よく大家さんに、日本人はヴァカンスをほとんど取らないで仕事ばかりしていると聞くが、本当か?と訊かれた。本当である。ベルギー人たちはホントに働かない。そして合理主義である。普段も、夕方四時には帰宅ラッシュ。勤勉な日本人たちは、現地の奴らは働かなくて困る、といつもこぼしていた。

 夜中十一時、いざ、出発。カオルちゃんは寝てていいよ〜。と言われたが、そうそう寝てもいられない。何故なら高速をぶっ飛ばしている途中、オレンジ色の炎に包まれた車を目撃したからである。事故であった。向こうはスピードを出している分、事故の大きさもハンパない。真っ暗闇の中、パパと二人の子どもたちが、メラメラと炎上している車を指差して泣き叫んでいた。あの様子から言って、まだ中にママか誰かが…と考えるとゾッとした。私たちはたびたび、こうした惨事を目の当たりにした。気をつけようと、引き締まる。

 目的地のマルセイユには、ノンストップで朝九時に着いた。若かった彼の体力はすごい。けれど慣れない暑さと、不眠のために私たちはクラクラであった。マルセイユでは、あのモンテ・クリスト伯の「イフ島」へクルージングをし、サン・レミでチェックイン。大きな庭付きの、アットホームで、素晴らしく良いホテルだった。眠くて、さんざん歩き回って辛かったが、アヴィニョンで食事をとる。美味しいフレンチに満足して、その日はぐっすり眠った。

 サン・レミ・ド・プロバンスは、今思い出しても素敵なところだ。カラッと晴れた濃い青空、焼け付くような太陽、一面に咲く、ひまわり畑。パリやブリュッセルの、暗い曇り空の街から皆、太陽を求めてヴァカンスに出る気持ちがわかる。あんなところにずっと居たんじゃ、人間性まで暗くなってしまう。言っておくけど、日本から南仏に飛んでもそこまでの感動はないと思う。あの、寒くて薄暗い北ヨーロッパから行くからこその感動である。ああ、なんて開放的なんだろう!あちこちにヌーディストビーチがあるのも、うなずける。

 そして二日後にはカシスの海に行くつもりが、あいにくの曇りだったので、私たちはお決まりの突発的行動で、突然、高校時代の友人、ミキがいるニースへと方向転換するのであった。

 いざ、彼女に会えるか?ナビもない中、道に迷って四時間半。私たちはようやく、ニースへ到着し、ミキを驚かせるべく、彼女のアパートメントを探し出すのである。

2017年5月26日 (金)

六十四 幼馴染みとの再会

 幼馴染みの彼女たちとは、感動の再会!を期待していたのに、あっけなく裏切られ、ちゃっかり奴らは先に着いてハンバーガーを食べていた。「遅いよ〜カオルちゃ〜ん。」なんて言って。さすがは、小さい頃から知る仲である。

 空港からタクシーで、私の住む半地下室へと案内する。途中、彼女たちは近所をウィンドーショッピングし始め、私がふと、目に止まった黒のセーター(セールで八百円だった!)を買うかどうか悩んで、やっぱりこれで一日の食費になるからと、結局やめにした姿を見て、そんなに貧乏なのかー、可哀想に!と笑って、気前よく買ってもらった。友情に感謝である。

 夜はスペイン料理屋に案内し、東北の彼氏のことを散々、冷た〜い!と言われ、否定できない私がいて悲しかった。

 次の日には市内観光に出るが、彼女らは、やれ今日中にワーテルローにも行きたいだの、好き放題に文句を言って、散々ケンカになる。一人はフィレンツェに留学をしているところで、もうヨーロッパのペースには慣れていたと思うが、日本からやって来たもう一人の彼女はこっちの生活なんて始めてである。列車も全て、時刻通りに動くと信じているし、自分の計画通りに事が運ぶと思って疑わない。加えて、昔っからこやつは、非常にワガママである。面白いったらありゃしないが、連れ歩くのは大変であった。

 結局その日の日中は、グランプラス、コンセルヴァトワール、教会、美術館などをめぐって終わった。夜はフレンチへ。そして、それだけでは満足できない彼女たちは、アントワープまでフランダースの犬の銅像を見に行くと言い出した。優しいよっちゃんは承知してくれて、車でひとっ走り、パトラッシュを見に行く旅へと出かけるのである。フランダースの犬なんて暗い話、知ってるのは日本人くらいだから、真っ暗の中、大いに道に迷い、アントワープの街に居たポリスにたまたま誘導してもらって、無事辿り着けた。ポリスたちもすっかり楽しんじゃって、今思い出しても笑える想い出である。

 その次の日は、彼女らだけでブルージュに行ってもらった。ブルージュに行ってから、違う街にも寄りたいと言ってごねていたが、私は絶対にムリだと太鼓版を押しておいた。できると思うなら、やってみな。こっちじゃ、列車だって時間通りなんかにはいかないよ。と笑って、送り出す。案の定、七時にくたくたになって帰ってきたが、どこの街にも寄れなかった、ブルージュだけを楽しんで来たよ、カオルちゃんの言う通り!と言って笑っていた。私はラタトゥイユとチキン、それにピラフ、モツァレラトマトサラダを作って迎えた。彼女たちは感動して、「カオルちゃんが、料理作れるようになって、しかも美味しい!お母さんに報告だ!」と大騒ぎしていた。

 そんな中、驚いたことに、東北の彼から留守電が入っていたりした。

 「たまには電話しろよな、社会人!」

と留守電で挑発しておいたら、

「電話したっていないじゃないかよ、このヤロー!」

と、入っていて、たまげた。優しい声。久々に聞く彼の声に、私は嬉しくなった。

 そんなこんなで、私たちの珍道中は一週間ほど続いた。ドイツのローテンブルグに行ってクリスマス市を見ても、相変わらず何も買わない私の我慢強さに驚かれるが、そこで私は生涯の大事なものとなる、可愛いクマのぬいぐるみに出会う。ある店のショーウインドーに、ちょこんと置かれていたクマさん。二千円くらいだったので、買わずに店を出たものの、どうしても気になり、意を決して戻って購入した。彼女たちにも、よかったねぇ〜、と言われ、それが今では、娘なっちんの肌身離さずお気に入りのクマさんとなるわけである。

 彼女たちとの楽しい一週間は過ぎ、私は疲労のためバタンキューであったが、東北の彼の予言通り、少しずつ気持ちは晴れていった。

 そして私の気持ちは以前より前向きになり、来年残るならば、コンチェルトはやっぱりモーツァルトにしよう。と楽譜を選び始めるのであった。

 これが、日本に帰国してから後、夫と共にコンチェルトの演奏会を開く際のレパートリーとなるのである。

 その時は苦しくても、後からやってくる幸せとは大きい。その分ね。

六十三 悩む私

 厳しい二年目の試験が終わり、晴れて自由の身となった私は、友人たちやよっちゃんとテニスをしたり、美味しいものをたらふく食べたりして、開放感を満喫していた。

 それなのに、心には何故か、ぽっかりと穴が開いたようであった。

 どうしてだろう。日本に帰りたいから?将来に不安があるから?よくわからない。日本に帰れば、幸せになれるのだろうか。でも、ヨーロッパの生活だってそれなりに楽しんでいる。そんな不安定な気持ちを紛らわすかのように、私は毎日飛び回っていた。

 微熱も出たりした。疲れがドッと出たのである。怠くてフラフラしたが、生徒に教えに行かなければならなかった。迷っていたら、日頃元気なよっちゃんが、
「疲れだからヘーキだヨ!ダメなら明日、倒れると思って頑張れば。」
と言ってくれたりして、ちょっと安心しながら、出張レッスンに出かけた。

 落ち込んでいたユキは早々に復活し、元気にピアノを弾き始めていた。さすが、そうでなくっちゃ、ピアニストはやっていられない。彼女はまだまだ、ブリュッセルでの生活を引き上げる気はなかったが、私は悩み、よくいろいろな人に相談していた。大使館の仲良しだったマツザキさんは、私に向かって、東北の彼のところへ行きなさい。と言ってくれたりした。ここを引き上げて、彼のもとへ行けと言うのだ。私はビックリして、そうすべきなのかなァ、でも彼はイエスとは言わないだろうなァ、などと考えていた。

 急に思い立って、東北の彼に電話をかけた。アドレスは捨てたはずだったが、しっかり記憶にあったのだと思う。私だとわかると、オオっ、という感じだったので、少しは心配していたのかもしれない。ピアノ、合格して本当に良かったね、おめでとう。と言ってくれた。この日は仕事が休みで、とても優しかった。

「モーツァルトがね、当たったんだ。あんまり得意じゃなかったのに、八十七.五点もとれたんだよ。」
「ほんとに?」
と、声をひそめる彼。
今後のこと、悩んでるんだ。と相談すると、彼曰く、

「しばらくピアノを忘れて、何か別のことに打ちこんだり、友達と気晴らししたり、旅行に行くなりしているうちに、パッと心に浮かぶから大丈夫。何かまた目標を見つけなきゃね。」

と言われる。

 あなたはどう?と私が尋ねると、
「いたって普通の毎日だヨ。こう言っちゃ、失礼かもしれないけど…カオルは、女性なんだし、俺みたいに仕事、って言うより、夢に向かって突き進んでいいと思うよ。」

 と、彼はポツリ言った。

 今思えば、この人は本当に同志だったんだなぁ、と思う。

 その時、私が欲しかった答えは違ったのかもしれないけれど、でも確かに、ピアノという勉強を続けていきたいと思っていた私には、響いた。でもプライベートの私はと言うと、彼に本当は、帰って来いよ、俺のところに来い。と言って欲しかったのかもしれない。(絶対言わないけど。)でも果たしてそう言われたらどうしたんだろう。もしかしたら、やっぱり私はまだ留学生活を諦めきれなくて、続けていったのかもしれない。どっちみち、同じだったハズである。私はギリギリの選択に迫られたところで、たぶん、男を選ぶようなことはしなかった。辛かったかもしれないけれど。

 やり残していることが、もう一年、あるような気がする。ディプロムに進んだら課題となるであろう、コンチェルトもやってみたい。でも本当は、帰りたい。帰ったらストレスはないだろうな。帰れたら幸せだろうな。あ〜〜、帰りたいよ〜!と、当時の日記には記されてある。そしてそこへ、父からの血迷った、「ねえ、やっぱり来年残るとしたら、六月だけ試験を受けに、日本からそっちに行かれないの?」なんて電話がかかってきたりする。そりゃムリだ。仮に出来たとしても、落第するに決まっている。私は、両親の、「卒業証書にこだわる」気持ちを理解できたと同時に、勉強って、そういうことじゃぁないよ。と思っていた。そして、やっぱり送金は厳しいんだろうな、悪いなぁ。と、考えていた。

 そう、悶々と考えていた中、グッドタイミングで、私の幼馴染みたちが遊びにやって来るのである。気晴らしにはもってこい、いや、それ以上のパワーを手土産に。

2017年5月25日 (木)

ブリュッセルの仲間たち

ひとやすみ。

ブリュッセルの思い出の写真、第二弾。

コンセルヴァトワールの仲間たち。匿名です。私、前方チビ。みんな背が高かった!

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↓ふざけてピアノを弾く私。そして猫のプー。

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↓悪友、ユキちんとツーショット。それから三年目に加わる悪ガキトリオ、トッコちゃん(後方)。

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↓ニースの友人、ミキと。それからローマとパリの友人たち。

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↓妹、ユリコと。それから我が師匠、Mr.カワソメとパリでのツーショット(若い!)

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↓三年目の秋、一ヶ月ほど一緒に暮らした、友人のら。やんちゃなエヴァも一緒に。

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よっちゃん&東北の彼氏は、ご想像におまかせしますsmileheart04

 

六十二 ピアノ実技、悲願のプリ取得

 翌日は、何日かに渡って行われたピアノ実技の最終試験日であった。

 腰の痛みはとれたものの、疲れた身体を引きずって、他の学生たちの本番を聴きに行く。ちょうど、最優秀プリの子の演奏を聴き逃したので、惜しかった。私はドキドキしながら、得点発表を待つ。

 私は何と、八十七.五点をとった!八十点以上が合格、去年は七十五点で落第であったから、十点以上、上回る得点である。ユキは八十四点、今年入ってきた優秀な友人は、さすがの九十.五点。コルニル門下生の日本人たちは、そろって今年、合格となる。

 私は嬉しくて嬉しくて、涙が出そうであった。でもまだ、涙は後にとっておく。納得いかねぇと言わんばかりの顔をしたユキが立っていたし、それに、ひたすらそばで支えてくれていたよっちゃんのために、とっておきたかった。

 本当に、音楽なんて点数じゃない。だけどその得点が評価として発表になる以上、それは学生たちにとって、非常に重要な基準になったりもする。ユキはとてもサッパリとした性格の、イイ女だったので、悔しいだろうに、こういう時は素直に私の点数を祝ってくれ、一緒に喜べなくてゴメン、と言い残して帰って行った。私には、何も言う言葉がなかった。去年は彼女の方が点数は良かったし、そんなのはジュリーの決めることだ、と思っていたとしても、私からは何も言うべきではないと思ったからだ。

 私は帰りのトラム(路面電車)の中で、一人、感動のあまり、涙をこらえていた。ずっと耐えていたので、不意に、下車した時によっちゃんの知り合いたちに会った時、思わずフライングして泣いてしまう。彼らに、逆に感動されたのを覚えている。

 そして私たちは、いつもよく行く美味しいアイス屋さんの近くにある、フランス料理屋で祝杯をあげた。私は、和声のことより何より、もうこれでもし日本に帰っても悔いはない、という踏ん切りがついた。一緒に、この暗いブリュッセルでの下積み生活で、泣き笑いを共にしたよっちゃんにも、感謝の気持ちで一杯になっていた。

 これでもう、サッパリした。この一年間、本当によくやった。心からの清々しい気持ち。試験までの、悶々とした日々のトンネルから抜けて、私の心には光が差していた。開放感である。

 そしてその開放感から覚めた時、私はこの後さらに一年間、継続して卒業証書を取ることにするか、それとも実技でプリを取ったことでヨシとして日本に帰国するか、またもや悶々と悩み始めるのである。

 本音を言うと、とってもとっても帰りたかった。何故なら、もうすでに限界を迎えつつある、遠距離恋愛のお相手が、東北の地には居たからである。

 

六十一 本番

 前日はど〜んとステーキを食べて精力をつけ、六月二十日、その日はやって来た。

 実技試験、当日。十四時に家を出る。吐き気を我慢しながら、無理やり昼食をとった。

 友人ユキは、ショワ(選択曲)をグラナドスにし、他にリストのポロネーズ二番、プロコフィエフのソナタ三番を用意していたが、ベートーヴェンのソナタop.10が当たり、全楽章弾かされていた。けっこう、ノッていたと思う。私はモーツァルトが当たった。

 ショワに、スクリャービンのポエム。持ち曲は、ブラームスの間奏曲op.117、プーランクの三つの小品から、パストラーレとトッカータ。モーツァルトのソナタ、K333である。

 コルニル先生は、私の出番になった時に席をはずしていて、まわりのジュリー(審査員)たちが大慌てをしていた。急いで戻った先生も、大慌てしていた。そんな中、私は落ち着いたテンポで弾き始めた。モーツァルトは、本当に難しい。テンポを整えながら、かつ音楽的に、指ははずさないように鍵盤を押さえるので精一杯だ。全体的にこじんまりとしてしまったのが残念だった。ホールにどう響いているのか、どのくらいの音量で勝負したらよいのかイマイチわからなかった。スクリャービンは、そういう意味でフォルテも出し切れなかったので悔しい。今後の課題としては、そういうことを全部踏まえた上で、もっと音楽を大きく作れるようになることだ、と心に誓った。

 仲良しの男の子も聴きに来てくれて、アンポゼみたいな曲を、どうやったら暗譜できるの?と驚かれた。そう、結局私は、本番も暗譜でやってのけた。結局のところ、暗譜の方が集中して弾けるからである。これは、正解だったと思う。

 とにかくも、二年目の実技試験は全て終了した。苦しい思いも一緒に吐き出し、当日に全てをかけた。夜は例によって、みんなでお祝い。一年分の苦労が、今日で全部終わったわけである。それはそれは、清々しい気持ちであった。身体は疲れてあちこち痛んだが、心は天にも昇るほど、軽かった。

 そして翌日、早々に、実技の合格発表がなされるのである。

2017年5月24日 (水)

六十 実技試験日を迎えるまで

 私は、毎日毎日、彼の夢ばかり見ていた。

 試験前になると圧倒的にそうなる。苦しくて、無意識に逃げ出したい自分がいるのだろう。そしてそういう時に限って、電話をかけると彼の方も疲れていて、険悪なムードになった。この六月の時期は、今までにないくらいの勢いで、二人の間には沈黙しか流れなかった。こんな雰囲気ではとても和声の相談どころではなかった。こちらはプルミエプリが取れないことが決定していて暗いし、彼は仕事で毎晩遅くなり、本当に疲れきっていた。加えて、私たちの、本当に長くなった遠距離恋愛の倦怠期も訪れていて、まさに最悪な状況であった。

 ああ、忘れられたらどんなに楽だろう。そう思って、彼のアドレスを全部、ゴミに出してしまった。そうだ、練習に戻ろう。気を取り直したところへ、父から電話がかかってきた。

 「あのね、お母さんと話し合ったんだけどね。カオルの悔いの残らないように、あと一年残ってプルミエプリを取るかどうか考えて、好きにやりなさい。彼のこともあるんだろうし。彼はどう言っている?」

 私は感動した。あんなに最初は留学反対だった父が、ここまで延長の話を考えてくれているのだ。私としては、卒業証書などこだわってはいなかったが、やっぱりどうせ頑張るならば、形として残るものを得たいとは思った。

 「今、彼とは喧嘩してそれどころじゃないんだよ。」

 と言うと、まあ、長いこと離れているからな。そういうこともよく考えて決めたら。と言われて、電話を切った。

 辛い。そのうち、いいこともあるだろうか。そうぼんやり思いながら、練習に戻った。

 話を聞いてくれる友人たちや、大使館の人たち、それに、こういう時には決まってトンチンカンな話をしてくる、ご気楽なよっちゃんがそばにいてくれるだけが、救いだった。妹ユリコは電話で励ましてくれた。そして、同じく辛いであろう、試験前のユキちゃんと一緒に気晴らしにカレーを作ったり、パアッと呑んだくれたりしているうちに、少しずつ気が晴れていった。

 そしてそうこう、もがいているうちに、実技の試験本番はやって来るのである。

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