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2017年4月の19件の記事

2017年4月30日 (日)

十九 コルニル先生

 ブリュッセルのコンセルヴァトワールでは、毎週レッスンが行われた。

 それでも毎回、教授のレッスンが入ったわけではない。忙しい教授の代わりに、何度かアシスタントの先生によるレッスンが入る。世界各地での演奏活動に忙しいピアニスト教授陣だと、ほとんどがアシスタントのレッスンとなり、肝心の教授のレッスンが受けられないんだと、友人たちがよくこぼしていた。

 私の先生は、とても熱心で学生思いの方だった。

 ドミニク コルニル先生。私の、音楽院二年目からのピアノの師匠である。

 黄色いバイクにまたがり、乗馬ブーツのようなカッコいい靴を履いて、さっそうとコンセルヴァトワールまで出勤していた。

 彼女は1975年にエリザベート国際音楽コンクールで十一位に入っている。ファイナリストには十二人が残るのだが、この中に入るだけでもすごいことだ。

 生真面目で、アンリオ先生とはまた違い、音楽をドラマチックに教えるというよりは、テクニックや指使い、テンポ設定など、基礎と音楽作りについてガッツリ教えてくれる方であった。楽譜なんて、日本の全音出版を持っていったらもうダメ。
 「どこの楽譜だこれは?」
と言って、却下される。指使いがまるでなっていない!と、全部直され、パデレフスキ版でも持って出直して来いと言われる。全体的に指が寝ていて柔らかい音しか出せない私には、エチュードを弾く際、徹底的に打鍵を直された。

 ある時、先生にはとても機嫌が悪かった時期があった。プライベートで何かがあったに違いない。私がレッスンを受けていた時、なかなか弾けるようにならないパッセージを指して、先生は大変お怒りであった。

 「どんな練習をしてきているの?言ってみなさい。」
と言われ、私がフランス語でまごついていると、

 「では、どんな方法で練習をしているのか、やってみせろ!」
と冷ややかに言う。

 実は私は練習をなまけていたわけではなかった。
私には、独自の練習方法があったのだ。

 多くの曲をたくさん抱え込んだ時、どれか一曲に絞って練習するよりは、まず、全曲をだいたい弾けるようにザッとさらい、それから徐々に部分的に焦点を定めて細かく練習する方法が、自分にとっては一番、ストレスが少なかった。彫刻で例えるならば、まず全体像を大雑把に彫り、そこからだんだん細部を固めていくというイメージである。

 そこを、うまくフランス語で説明できなかった私は、焦りと、悔しさとで、気が付いたら涙が頬をつたっていた。びっくりした。レッスンで、先生の前で泣いたなんて、後にも先にもない。初めてのことである。しかしもっとびっくりしたのは先生であった。彼女はすっかり慌てて、自分の発言を詫び、それ以来しばらくの間、私に対しては腫れ物に触るかのような扱いになったのである。

 あの時期、先生に何があったのかは謎のままであるが、しばらくして、彼女のヒステリーは治り、またいつもの穏やかなレッスンに戻っていった。

 先生はブリュッセルの中心地から少し離れた郊外の、大きい一軒家に住んでいて、私たちはよくホームレッスンに行ったが、学生からはレッスン代はとらないとおっしゃったり、コンクールに落選した時は「私が至らなかった。」などと潔く謝られ、学生の方があわてたり、例えるなら、ベルバラのオスカルのような、凛とした女性であった。

 それにしても、あのコンセルヴァトワールのボロピアノ。
ヨーロッパの音楽院のピアノは何百年も使われていて、よく弦が切れた。

 「またあいつがラフマニノフを弾いた時に、ここを切ったんだ…」
なんて、みんなよく愚痴ってたな。懐かしい。

2017年4月29日 (土)

十八 アンリオ先生

 名ピアニスト、ニコル アンリオ シュバイツァーのお屋敷は、パリの郊外であるルーブシエンヌの町の一角にあった。

 彼女は、かの有名な指揮者、シャルル ミュンシュの秘蔵っ子であり、彼と演奏活動を共にしていた女流ピアニストである。旦那様は、シュバイツァー博士の遠縁でもあった。

 私は学校外のレッスンに、たびたびアンリオ先生のお宅まで、ベルギーとフランスを繋ぐ新幹線、タリスに乗って通った。試験前になると、月一くらいで先生が開いてくれる弾き合いに参加し、ルーブシエンヌの公会堂のようなところで、先生の生徒さんたちと一緒に演奏をし、聴き合った。

 先生は以前、ブリュッセルの音楽院に勤めていらっしゃって、退官してフランスに戻られていた。先生の後はマダム アンシュッツという方が引き継いだので、最初の一年は学校では彼女に習っていたのだけれど、はっきり言ってあまり良いとは言えないレッスンだった。それを見越した奈良先生が、あらかじめ私をアンリオ先生に紹介して下さったのである。アンシュッツ先生はすぐにまた退官されたので、私たちは自動的に、マダム コルニルに移った。これは幸いだった。コルニル先生は厳しさの中にも熱心でわかりやすいレッスンをして下さり、親切で学生思いであった。そんなこんなで、私たちは留学中、いろいろな先生に師事しながら、音楽を吸収して行った。

 ルーブシエンヌの駅に着くと必ず、「Je suis taxi !(私はタクシーだ)」と文句を言いながら、アンリオ先生自身が運転して迎えに来て下さった。「merci beaucoup(ありがとうございます)」とお礼を言って乗り込む。

 少し走ると大きな門が見えてきて、先生が持っていたリモコンをかざすと、ガガーッとゆっくり門が開く。「ホラ、便利だろう?」と私にウィンクをする。美しい庭の中の小道を車で走って行くと、まず庭師の家が見え、その一番奥に、木々に囲まれた先生の屋敷が建っていた。

 先生は貴族の出身で、一族はワインを製造している。「アンリオシャンパン」は日本でも買える銘柄なので、ぜひ一度ご賞味下さい。そんな訳で、先生はお茶目でユーモラスな性格の中にも、気品たっぷりのおばあちゃまであった。長い金髪を束ね、青く澄んだ目はいつもイタズラっぽく光っており、口元はいつも微笑んでいた。

 私はいろいろな曲を持って行き、レッスンしていただいたが、一度リストの「ため息」を見ていただいた時に、
 「恋人を思って、ため息をついてみろ。疲れた時ではないぞ。」
と言われ、直後に彼女自身が遠くを見つめながら、フッ、とため息をついてみてくれたのだけれど、その美しさと言ったらとうてい真似できるものではなかった。

 ラヴェルの、「道化師の朝の歌」のレッスンの時はまた、その快活なテンポを刻む彼女の足元は、おばあちゃまとは言えない素晴らしいリズム感で、これまたとうてい真似できなかった。ピアノは二台置いてあり、先生がもう一台で弾いて下さるのだけれど、音色が美しすぎて、もしかしたらそっちのピアノの方が格別に音が良いのではないか、と思い、「ちょっと先生、代わって下さい!」と申し出て交代してもらったが、やはりどちらで弾いても先生の弾く音色の方が素晴らしいのよね、と先輩方も悔しそうに言っていたりした。

 生徒たちが恋人を連れてレッスンへ行くと飛び上がって嬉しそうにし、うやうやしくお辞儀をしてその恋人をからかった。

 一度私がプーランクのコンチェルトを持って行った時、先生は非常に嬉しそうに声をあげて、
 「おお、この曲は懐かしい! j'ai jouee avec Poulenc!」
とつぶやかれ、
 「ええっ、今、先生…jouee avec Poulenc(プーランクと一緒に弾いた)、って言ったよね?」
と、私たちは湧いた。そうか、あのプーランクと同じ世代に生きた人なのだ。すごい!と、帰り道に盛り上がってしまった。

 先生は、私が日本へ帰国してすぐに、ある朝突然、眠るように息を引き取られたと言う。知らせが入った時、ちょうど私は出先で演奏している時であり、しばらくショックで呆然としたが、先生に思いを込めてピアノを捧げた。

 パリ行きは、私の留学生活でも思い出に残る日々であった。
そのうち、パリに私の後輩も留学してきて、しばしばレッスン帰りに泊めてもらい、大いに楽しく語り明かしたのである。

2017年4月28日 (金)

十七 音楽と恋愛

 私は男女共に友人が多くて、いつもその個性的な連中に楽しませてもらっているんだけど、恋仲になる者もまた、多かった。高校時代から始まって、いつも誰かしら付き合っている人がいたので、近所のおばちゃん方からも 「あらー、カオルちゃん、今度はだあれ?」なんて、母上がからかわれる始末だった。謝罪申し上げる。

 今度こそはストイックな生活を送るんだと思ってブリュッセルの穴ぐらの中にこもったけど、そうは問屋がおろさなかった。

 秋になると早速、イギリスに留学していた高校時代の彼氏が遊びにやって来た。お互いに、まあ良き友人として再会しようと思っていたのに、頑張っている姿というのは輝いてしまっているもんである。

 「オマエ変わったな。見直したよ。」

 とか言って、数ヶ月間、イギリスから電話がかかってきた。私は彼のいる間、イギリスへは遊びに行かなかったけれど(何しろ、北京の彼氏は大陸の果てで応援してくれているのだ)恋愛感情みたいなものは、お互いの中に流れたと思う。いつそれが終わったかは定かではないけど。

 北京の彼は、マメに手紙を送ってくれた。ほぼ毎日届いていたように記憶している。私はポストを見るのが楽しみで、郵便屋さんのベルに思わず、バスタオル一枚で飛び出して驚かれたくらいであった。

 男友達にも女友達にも、よく手紙を書いた。そしてみんな、マメに送ってくれた。四年も経つとだんだん日本からの便りは減っていったが、その中でも小学校時代の女友達だけはずうっと手紙を送り続けてくれて、最後の帰国の時に処分するのが惜しまれたくらいである。

 インターネットが普及したのは私が帰国した直後であったから、当時メールなどなかった。でもそれが良かったのかもしれない。アナログな世界で、毎日の時間がゆっくりと流れ、勉強する環境にはぴったりだったと思う。

 そんな生活の中で、半年ほどは、私は遠距離恋愛に没頭していた。北京の彼氏のことは120%惚れていたし、大好きだったけれど、それでも不思議と結婚のイメージは全然湧かなかった。きっと彼の方も同じだったと思う。何というか、お互いに頑張っている同志という感じが強かったから。

 だから日本で夏に彼と会うまで、私は一人で頑張ろうと思っていたのに、出会いはどんどん降って湧いてくる。要するに、惚れっぽいのである。だから漠然と、自分は結婚するなら、相当惚れた相手じゃないと破局すると、肝に銘じたのもその頃からであった。

 私のパリの師匠である女流ピアニスト、アンリオ シュバイツァー氏が、事ある毎に学生に 「オマエは恋愛をしているのか?恋をしろ!恋もしないで、そんな曲を持って来るな。」 とおっしゃっていたが、私には一言も言わなかったのは何かを察していたからであろうか。

 先生は先生で、昔相当なロマンスがあったであろう、金髪を結い上げた青い目がチャーミングな美しいおばあちゃんであった。先生がため息をつくと、それはそれはアンニュイで、魅力的な方だった。

 そのステキなレッスンについてはまた書くけれど、とにかく、白状するけど、恋愛することと音楽は、私にとっては切り離せないものであったことは確かである。

十六 半地下の部屋で

 九月の入試前、私は最初に借りたアパートメントホテルを出て、ブリュッセルの中心地、メロード駅のそばの、ある医者一家のうちの一室に引っ越した。

 そこは半地下室で、台所と、大きめの部屋が二つあった。ヨーロッパの半地下というのは、部屋に入って、道路に面した方側の窓がちょうど、目線より低いくらいの位置に外を歩く人たちの足が見えるくらいになっていて、反対側はすぐ庭に出られるドアとなっており、外側からはわからない広々とした庭が、どこの家でもある。

 庭側はいいんだけど、この反対側の、半分地下に埋め込まれた壁が厄介であった。隙間からいつの間にかダンゴムシたちが入ってきて、ソファの下はその死骸で埋まるので掃除機が大活躍するし、小さなネズミたちもカサコソと侵入してきた。まるで、シンデレラのような生活である。ネズミには悩まされたので、後ほど頼もしい猫を飼うことにした。暗く湿った部屋で、年中ショファージュ(暖房)を炊き、私はおかげで帰国後しばらく日光アレルギーになった。でも私の顔にあまりシミが見られないのは、あの四年間の日光レスのおかげかもしれない。ふふ。

 その部屋には代々音楽家が住んでいた。偶然、私の師匠である奈良先生もそこに住んでいらっしゃった。二階に住む大家さんは精神科医だったが、音楽好きで、独学でピアノを弾き、よく私に楽譜をコピーさせてくれと言ってきた。奥さんは小児科医で、二人の可愛い子どもたち、セルジュとエヴァがいつも庭で遊んでいる賑やかな家庭だった。

 お兄ちゃんのセルジュは8才、妹のエヴァは6才ほどで、お兄ちゃんの方は日本の漫画ドラゴンボールに夢中で、よく庭でカメハメハを打っていた。エヴァはやんちゃで、始終私のまわりをウロチョロし、マンホールから滑り落ちて地下室に入ってきたり、高さ四メートルはあるだろう庭の塀を歩き、落ちて骨折しては、こんなに痛いとは知らなかった、もう二度としないと泣いていた。

 庭にはエヴァの飼っていたウサギが飛び跳ねていて、私は野菜の残りかすをよくあげていたが、ある日ウサギは穴を掘って隣へ逃げていなくなり、エヴァは大泣きしていた。とまあ、楽しい一家のうちの間借りをしていたわけである。

 家賃はだいたい三万五千円くらいで、光熱費込みにしてくれた。いくら使ってもタダであったが、シャワーのお湯はぬるく(四階の一番上に給湯器があるから、地下にたどりつくまでには冷えてしまうのだ)ガスはマッチでつけないと点火せず、トイレは庭に出ないと、ない。マイナスになる冬の夜中など、つい我慢してしまうから膀胱炎を起こした。そうそう、私は慣れない生活でやっぱりストレスがあったのか、現地でいろんな病気になった。その度に病院の世話になり、フランス語能力も上がってくるのである。

 この思い出の部屋について書き出すときりがない。私は大家さん一家が大好きだったし、セルジュ以外は皆別々に日本に遊びに来てくれて、エヴァなど十才の時に一人旅してやって来た。もうしばらく会っていないが、きっと美女になっているに違いない。

 結局のところ、最後に心に残るのは勉強よりも何よりも、人との繋がりである。
この暗い半地下で、温かい人たちと暮らし、そしてその後出現する、もう一人の彼と私は四年間を共に送るのであった。

十五 ピアノ実技

 学科の話ばかりになっちゃったけど、メインはもちろん、ピアノ実技だ。

 先輩方から、「まあけっこう大変よ。」
と聞いていたのだけれど、まあそれはけっこう大変なものであった。

 ベルギーでは何と言っても、四年に一度開かれるエリザベート王妃国際音楽コンクールがある。

 その会場は、我らがブリュッセル王立音楽院のコンサートホールである。

 なので当然、ここのコンセルヴァトワールを卒業した者は、エリザベートコンクールに出られるだけのプログラムは全て揃うように作られていた。

 一次予選、二次、ファイナルと進む中、用意する課題曲数は半端ない。欧州のコンクールの中でもかなりの曲を用意しなければならないものだったので、エリザベートを敬遠する人は多かった。だけどコンセルヴァトワールでは、毎年の試験課題曲にそれらが自然と盛り込まれるので、卒業時には、コンクールに出たければ出られるようになる仕組みなのである。なんて合理的。

 だけどそれに挑む者は少なかった。とてもレベルの高いコンクールだし、何人かの優秀な留学生たちは出場していたけれど、私たちはほとんど聴講にまわった。それについては、後ほど。

 とにかく、音楽院のカリキュラムは、四年のうちに卒業しなければならないプルミエプリ、そしてその次にまた四年かけて進むディプロムスーペリウールと分かれており、私はプルミエプリから入った。三月と六月に二回、実技試験はあり、三月は小さいサロンの部屋でテクニック試験(エチュードなど)、六月はホールで自由曲の試験となっていた。

 用意しなければならない曲は、三月用にバッハ平均律から三曲、スカルラッティやソレールなどのバロックを二、三曲くらい(忘れた)、ショパンのエチュードと、他の作曲家のエチュードから一曲。あともう一曲くらいあったかな。

 六月用に、古典、ロマン、近代、現代の指定された作曲家リストのうち、各時代一曲ずつ、計四曲を選んで練習しておき、本番そのうちの一曲は好きなものを選んで弾けるがあとの三曲からは試験官たちが当日一曲だけ選んで弾かされる。それから、ベルギー人作曲家が作った課題曲(アンポゼ)。これがまた、訳のわからない曲なのだが必須なのである(エリザベートでも使われる。)

 六月の試験前には必ず門下ごとに一日かけてリハーサルがあり、三月の試験と六月の試験の点数を合わせたものが、プルミエプリ卒業の得点基準となった。

 これがディプロムスーペリウールに進むとコンチェルト(協奏曲)が入り、その他に大きな曲が五曲となる。

 はっきり言って、これだけの曲を揃えるのはかなり大変であった。演奏会一本、いやそれ以上できるくらいの曲数である。しかも全部練習してたって、当日当たらない曲もある。日本の音大もこのくらいやらせるべきだと思う反面、そりゃ無理だろうとも思う。でもこれは、そんじょそこらでは卒業資格を与えないぞという目的の、本場欧州ならではの考え方であるし、大変な勉強になった。

 何しろ一番の収穫は、嫌いだった古典派の音楽が大好きになれたことである。特にモーツァルト。ヨーロッパの空気を吸いながら、心から好きになって自然に歩み寄れたこと。現代曲に片寄っていた私にとって、幅広く勉強させられたことは生涯の財産になったのである。なんてね。

2017年4月27日 (木)

十四 フランス語

 私のフランス語は、三ヶ月、六ヶ月と時間の経つうちに、徐々に成長して行った。

 最初の三ヶ月間は、なるべく安いフランス語教室を見つけてきて、そこへ通った。はじめのうちは何十人もいた生徒たちがどんどんやめていき、最後には十人に満たないクラスとなった。スペイン人、アメリカ人、インド人、色んな国籍の人たちが、フランス語をフランス語で習う。みんな、初めて習う人たちばかりで、最初のうちは日本でいくらかかじってきた私が一番良く理解できていたんだけど、途中で見事に抜かされた。だって、スペイン語なんてなおさら、フランス語の親戚みたいなもんである。ほとんどが似ているんだから、当たり前なのである。

 先生はエリックという男の先生で、私は初めてこの時、ああ、言葉は違っても相性の良し悪しというのは世界共通なのだなと思った。先生とは気が合ったので、授業はとても楽しかった。面白かったのは、動物の名前を覚えている時に、ニワトリの鳴き方をそれぞれ自分の国では何と発音するか、という話になった時だった。

 みんなそれぞれ、それらしいカッコイイ発音でニワトリを真似ていく。私の番になって、それ、とばかりに
「コーケコッコー!」
と言うと、全員、大爆笑となった。

 それから、家族の呼び名の授業になった時。
家系図をホワイトボードに書き、自分がいて、お母さんお父さんがいて、おじいちゃんおばあちゃん、そして従兄弟、叔父叔母…

 カオルの親戚は、何という名前なの?
と訊かれた時、私は、今まで「叔父さん、叔母さん」としか呼んでいなかったことに気付いた。父方の祖父母の名前もまた、知らなかったのだ。物心つく前に亡くなっていて、その名を呼んだことはなかった。

 一生懸命、日本の事情をつたないフランス語で説明したが、皆理解に苦しんでいた模様である。欧州では全て名前で呼び合うのが普通であり、日本の風習なんてわからなかっただろうなァ。

 そんなわけで、私は最初の三ヶ月間でフランス語教室を終え、ずっと後になってから家庭教師のバージバン先生に教わるようになるまで独学で、めちゃくちゃな会話を大いに楽しんでいたのみである。それでも何とか、まずは相手の言葉を聞き取れるようになり、だんだんと会話ができるようになってくる。自力で処理しなくてはいけない役所、公共機関、学校の手続きなども、否応なしにフランス語能力を上げてくれるのであった。日本に帰って、日本語を喋れるのなら、どんなことにだって負けちゃいないぞ!と留学生たちは全員、そう言って怒っていた。

 一緒に住んでいた大家さんたちにしばしば助けてもらいながら、私のコミュニケーションは笑顔とジェスチャーだけが最大の武器であったのである。

十三 和声の授業

 ソルフェージュの授業が免除になった後は、その後順調に他の学科も免除となった。

 だけどそれまでの間はしっかり授業に出なければならなかった。特に音楽史の時間は、確か連続二時間くらいの授業。もう、フランス語はサッパリわからないし、最初は頑張って頭を働かせていても、後半は寝るしかなかった。でも周りのベルギー人たちは、皆それぞれ楽しそうにディスカッションをしていたのが印象的であった。

 そう、日本の大学の授業は、先生が教壇に立ち、学生たちはそれを聞く、というスタイルがほとんどだったと思うけど、さすがはウワサ通りの欧州。先生が学生を指名する前にもう、口々に皆発言しあっている。ものすごい積極性である。

 そしてその中に、フランスから渡ってきた日本人の女の子がいた。彼女もコンセルヴァトワールの一年目だったのだけれど、もうすでにフランス語はペラペラで、ベルギー人の友達に囲まれていた。何でも、まずは語学ができなければと思い、フランスで語学留学をしてからベルギーの音楽院に移ってきたと言う。彼女はちょっと変わっていたし、日本人とは一切かかわりを持たなかったから悪口を言う子もいたけれど、私は感心してしまった。そうかぁ、そういうやりかたもあるのかと。フランス語が喋れなかった私は羨ましく思ったのである。どうしても早く喋れるようになりたいと、強く強く心に思った。

 しかし大勢の学生たちと一緒に出る授業は辛かったが、マンツーマンで先生と向き合う個人レッスンは楽しかった。ピアノの実技ももちろんそうだけど、和声学がそれである。和声学とは、日本でも勉強したけれど、ある決まりに基づいて和声進行を作っていくというものであり、作曲科はもちろんのこと、ピアノ科の我々も必須で学ばなければならない。でも日本の和声は退屈で仕方がなかった。多分、ほとんどの学生たちの悩みの種だったと思う。決まりの中で作ってたって、つまんないのだ。出来た和声を聴いても、ふう〜ん、って感じだったし、苦痛でしかない授業だった。それなのに。

 フランス和声は違った。日本式和声と違うところは、あのつまんない、その調を基準とした一度、四度、五度、などで考えさせることがなくて、この音とこの音で作りなさい、といった表記が数字で示されている。レベルが上がってくるにつれ難しくなっていくのだけれど、作り終えた一曲が実に美しいのである。一曲仕上げるにはもう作曲並みで、試験は一日、弁当持参で一人一部屋に缶詰にさせられたりするのだが、出来上がった時の嬉しさはハンパない。何度も弾いて、「綺麗!」なんて酔っちゃったりする。楽し過ぎた。

 授業はピアノ一台を使ったマンツーマンで、やってきた宿題を見てもらいながら、先生の分析が入る。

 「ここはこの和声を使った方がいいよ、カオル。」
 「どうしてですか?」
 「どうして?それの方が美しいからだ。」

 先生の答えに私は感動した。
日本ならば、「こうしなければいけない規則があるからだ」と言われるのがオチである。それなのに、美しいからだなんて!

 先生はゲイだったけれど、それだけに優しくて、フランス語を覚えたのも先生の辛抱強いレッスンのおかげであった。

 和声の試験については、また後ほど書きたいと思う。あんなに特殊な、面白い試験は他にはないと思うから。

十二 聴音の試験

 ソルフェージュという科目の中に、聴音という課題がある。

 先生がピアノを弾き、それが何調かを感じ取り、右手、左手の旋律を聴き取って、五線紙に書き取っていく、というものだ。

 これはもう、五、六歳くらいまでの音感や、その後小さい頃に受けた訓練によってだいたい決まってしまう。大人になってから特訓しても難しい。私は幼い頃から自然に絶対音感はついていたので、この試験は楽勝であった。ただ、リズム感が悪いので、ちょっと考えてからじゃないと楽譜に起こせないのが厄介ではあった。

 クレ読み(ト、ヘ、ハ音記号で歌うこと)が得意なベルギー人たちは、何故だかこのディクテ(聴音)は苦手らしかった。試験中、あちこちで「ディフィシィ〜ル…(難しい)」という呟きが聞こえて来る。黙ってやれ。で、日本とは違うのは、試験中に質問を受け付けるということで、へぇ〜、なんて思ってたのだが、途中、手を挙げたベルギー人、

 「今のは何の音ですか?」

 と訊いていた。(私、心の中で大爆笑)

 フランス語がサッパリわからない頃だったけれど、それだけは理解できた私。おいおい、それが試験課題だよ。面白すぎて、その後、試験官が何と答えたかまでは覚えていない。そんなわけで、あちらの試験は厳しかったけれど、何につけても人間臭いというか、音楽重視の生き生きした取り組みという感じでありました。

 結果、私はソルフェージュの授業はめでたく免除となり、残すところ他の学科のみとなったわけである。

十一 入学試験

 九月に入ると、短く眩しかった夏はあっという間に終わり、いっきに冬になった。

 そして私の夏も過ぎ、入学試験の日がやって来た。

 日記に書いてあること以外、あんまり記憶にはないので、多分入試はそんなに大変ではなかったと思う。ツェルニーのエチュード、バッハ、シューマンのアレグロを弾いたのは覚えている。そして、次の日に合格通知が来た。念願叶って、アエロフロート片道切符で済んだということである。両親や先生方に早速報告を入れた。

 それよりも私の重大関心事は、エキバランス(学科免除)のことであった。二週間後にある、ソルフェージュの試験。これに合格しないと、けっこう面倒な時間数を出席しなければならない。その他、音楽史、楽曲分析などの授業は、日本の大学の単位取得をコンセルヴァトワールが後ほど判断して、免除にしてくれるかが決まることになっていた。オッケーが出るまでは、出席しなければならない。実技だけで勘弁してほしかった私としては、その時間をピアノの練習に充てたかったけれど仕方がない。だが後々、和声学だけは、ヨーロッパで勉強できて本当に良かったと思うくらい楽しかったのである。

 さて、ソルフェの試験日。

 午前中に学校に行ったのに、試験は午後からになっていた。こんなアバウトなところもヨーロッパなのである。だけど試験は驚くほどアットホームであった。

 まず、新曲視唱の譜面を渡され、五分間の練習時間が与えられる。それから別室で、ピアニストの伴奏付きでザッと歌う。予行練習である。なんて親切!でもその譜面は「ハ音記号」と言って、ト音記号、ヘ音記号の他に五つの記号(ソプラノ、メゾソプラノ、アルト、テノール、バリトン)も含まれている。吹奏楽や、管楽器をやっている人ならお得意であるが、はっきり言って読めない。しかしベルギー人たちは、小さい頃から勉強しているらしく、やすやすと歌えるのである。

 仕方がないので、美しい旋律を覚えてしまうしかなかった。難しいけれど、五分間で何となく覚える。伴奏者が居てくれたのは非常に助かった。彼女も優しくて、「パ プロブレム(問題ないわ)」と励ましてくれる。嬉しかったので、試験では満面の笑みで歌ってしまった。

 試験室に入ると、学長を真ん中に、ズラッと並ぶ試験官たち。

 前奏が入り、順調に階名で歌い出す。最初はト音記号。まだいける。一つ目、ハ音記号クリア。二つ目、クリア…中間部を過ぎた頃、とうとうつまづいて止まってしまった。ああ、何だっけこの音?

 するとどうだろう。学長先生をはじめ、試験官たちが皆、身を乗り出して歌い出してくれたのだ!

 おかげで私は覚えていた旋律をまた、歌い出すことができた。メルシー!そう心の中で叫びながら、無事、最後まで歌い終えることができた。

 結果、ドキドキであったが、私は合格してしまった。友達は落ちて、ブーブー言っていた。日本だったら、あそこできっと、試験官たちは絶対に助っ人などしなかっただろう。ブスッとした顔で腕組みしていたに違いない。ヨーロッパの、音楽に対する柔軟さを見た思いで、感激した。それからまた、聴音の試験もあったわけだけど、これについてはまた後ほど。

2017年4月26日 (水)

十 お金はすぐになくなった

 貯めてきた百万弱のお金は、秋には底を尽きた。

 こんなハズではなかった。このお金で、節約して一年間は暮らそうと思っていたし、実際「貧乏なんです!」と宣伝しまくって、現地での小遣い、いや、生活費稼ぎのために生徒募集したり、先輩方から引き継いだりして頑張ってはいたが、レッスン代もかかるし、フランス語教室には通わなければいけないし、何しろ最初は軌道に乗るまでお金が飛ぶようになくなった。

 勇気を出して、親に頭をさげるべく、ファックスを送った。当時はメールなどない。全て、電話か手紙でのやり取り。安いアメリカ回線の世話になった。

 反対していた父が、見かねてまとまったお金を送金してくれた。これで一年間暮らせと言われる。感謝。って言っても、きっちり卒業後、返済させられたけどね。でも何とかこれで卒業してみせよう、最大で四年かかる「プルミエプリ」いわゆる大学卒の資格のようなものを、飛び級できれば最速一年で終えられるのだ。頑張らなきゃ、と思った。(結果は、一回落第して、二年かかってるんだけど)

 そう、欧州の大学は、卒業が厳しい。そう簡単には出さないぞ、ってことである。かなりの成績を見せなければサクッと落とされるのだ。いや〜、見せつけられましたね、その大変さを。そして、留学生らの優秀さを!世界は広い。日本の大学で勉強したことよりももっと楽しかったし、私は夢中になった。

  もっとも、私はあんまり切羽詰まった様子を見せなかったので、まわりの友人からは「もっと頑張ればいいのに」と言われたりしていたのだが、毎日、暗い半地下の部屋で猫と一緒に生活し、朝から晩までピアノを弾いていた。ああ、懐かしいあの時代!自分の勉強のために、時間をフルに使えたあの頃。あの時の私に言ってあげたい、こんな時間はもう二度と来ないよと。空いた時間は日本の友人や彼氏に手紙を書き、コンビニなんてないから昼ごはんにおにぎり作り置きして、練習に疲れたらパクパク口に放り込んではまた弾く。和声学の宿題に追われ、日本のそれとは違う、決まりよりも音楽重視の授業に感心していた。遊ぶお金はなかったが、充実していた青春時代。もう一回やりたいかって言われたらもうやんないけど、それでもあの苦しかった日々が、今に繋がっているのだと思う。

 留学とは、全然楽しいもんじゃないです。まさに修行。ストイックな毎日の中で、適当に娯楽も入れなきゃやってらんない。留学してきた人に、「楽しかった?」と聞いてみて、「楽しかった」と答える人の留学は信頼できない。そう思っている、私です。

九 北京の彼

 その彼は、イギリスからチャリンコに乗ってやって来た。

 何故イギリスかと言うと、北京大学の夏休みの間、彼は帰国したイギリスのルームメイトの家に遊びに行っていたからである。そこで彼は適当な自転車を調達し、イギリス中を走り回り、その後、チャリを列車に積みドーバー海峡を越えてオランダに入り、そこからベルギーまで走り、私のアパートの目の前までやって来たのである。もちろん、彼自身楽しむためと、私をビックリさせる目的で。

 ところが計画は完璧には行かなかった。そこで待っていて、と言われた私が、そんなこと聞いちゃいなくて、駅まで迎えに行っちゃったからである。だって自転車でイギリスから来るなんて聞いてない。てっきりユーロスターで到着するもんだとばかり思っていたから(普通は思う)私の心は南駅に走っていた。

 なかなか来ないもんで、おかしいなと思いながらアパートに戻った時は、大変な騒動になっていた。よくは覚えていないけど、玄関ベルを押しても私が出ないことを心配した彼が、先輩アキカさんを呼び、アキカさんはアパートの大家を呼び、鍵を開けてもらって、みんなで家宅捜索をしていた模様。

  「彼女、身体が弱くてよく倒れるんです。中で倒れてるのかも」
 と言って心配していた彼らの目の前に、戻ってきた私が到着。

 今思えば漫才のような話だけど、あの時は彼にめちゃくちゃ怒られた。ここに居て、って言ったでしょう!って。そりゃないよ。国際電話でサラッと言われたことなんて覚えてないし、だいたいそっちが悪いのだ、チャリンコでなんか来るから。

  って、のっけからそんな出だしで登場した彼を、仲間内が面白がらないはずがない。たった二週間のブリュッセル滞在だったが、かなりのインパクトと共にその存在感を残してゆき、二度目に訪問する時まで、私の留学生活を常に大陸の東の果てから応援してくれていた人であった。

  彼はその後二年ほどで日本に帰国したが、結局、私は彼につられて帰国することはなかった。帰れば彼は居る。でもその時の私は、悩みまくった末に現地での勉強をとった。こうやって書くとまたまたカッコつけてるみたいだが、私という人間は恋多き女でありながら、ただそれだけでは満足できない欲深い女なのである。(我が師匠説)

 彼とはこの間久しぶりに友人の葬儀で再会した。全く変わらない風貌で、懐かしい話で盛り上がってきたけれど、その後私は、彼も知らないようなたくさんの出会いに支えられながら、お金を工面しつつ、一年間だけと思っていたエンドレスな留学生活は続いて行ったのである。

八 入試まで

 八月下旬にブリュッセルに到着してから、九月中旬の入試までに、少しずつ現地に慣れ、いろんな人たちと出会った。頼りになる先輩や大使館の方々、これから師事する先生たち、そして同級生。一緒に暮らすことになる大家さん一家。

 ブリュッセルは小さい街だったが、私の世界は一気に広がる。初めての外国暮らしなのに、周囲の人々に恵まれてちっとも不安には感じなかった。寂しかったけどね。そうそう、寂しさはあった。何度も帰りたくなり、枕を涙で濡らしたっけ。寂しさは、留学生活四年間ずっと傍にあって、自分は故郷が好きな人なんだなぁ、ということにも気付かされた。それでも四年暮らせば、ブリュッセルは私にとって第二の故郷になったけど。でも、自分は外国人なんだ、という感覚は拭えなかった。

 海外で暮らすと、旅行では見えないものがたくさん見えて来る。まず初めにわかることは、日本の良さである。なんて親切で、きめ細やかな国だったんだろう、と痛感させられる。今まで当たり前だったことが、外側から見ることによって、井戸の中の蛙だったんだと気付く。それから、日本の常識は世界の常識ではないということ。デッカイことではない。些細なことだ。例えばトイレットペーパーの取り付ける向きが逆だったりね。言い出したらキリがないけど、いちいち細かいことにもびっくりさせられるのである。

 話がずれたけど、九月の試験までに私はいろんな方に親切にしていただき、ピアノを借りて試験曲の練習をしながら、パリの先生のところへレッスンに連れて行ってもらったり、現地の先生にご挨拶をしたり、もう入試に受かったかのようなふるまいをしていた。そして例の北京の彼も予定通り遊びに来て、私は二週間近く、素晴らしいバカンスを楽しんだのである。

2017年4月25日 (火)

七 ベルギー到着

 その夏のブリュッセルは素晴らしい天気だった。短い夏の真っ盛りに到着したものだから、てっきり年中そうなんじゃないかと勘違いしてしまう。

 今でも鮮明に覚えているのは、空港に着いて、初めて会う先輩に出迎えられた瞬間である。一目で私は、彼女のことが大好きになった。ピアニスト、アキカさん。奈良先生が紹介してくれた、留学生活の大先輩である。彼女は私を探してくれて、開口一番、

 「ああ、きっとあの子だろうなって思ってたの。え、荷物、それだけ?!」

 と言った。こんなボロい、黒のビニール袋みたいなカバンひとつで留学してきた子は見たことないわ、と、そこまでは言わなかったが、こんなカバンひとつで来た子はいないと彼女は笑った。素敵な笑顔。今でも大好きなピアニストである。出会いって、素晴らしい。

 それから私は車に乗せてもらい、住所を頼りに、あらかじめ日本から予約しておいた日本人経営のアパートメントホテルに連れて行ってもらった。出張のパパなんかが会社からあてがわれて利用するらしいアパートだ。食器や洗濯機や簡単な生活用品が揃ってて、一ヶ月で十二万円くらい。後から知ったんだけど、ブリュッセルの相場だとベラボーに高い値段で、先輩方に、早く出なさいと口々に言われた。運良く、ちょうど結婚してアパートを出るピアニストの先輩がいたので、入試に合格してからそちらへ移り住んだ。

 ほらね、持ち金百万なんて、すぐに消え去るものである。ビンボーだからと宣伝しておいたって、自分のために開いてくれた集まりを断るわけにもいかないし、初めのうちは会食やらですぐにお金はなくなった。話がすぐお金のことになるが、本当に留学時代は貧乏だったので仕方ない。それでも不思議なことに、日本にいてお金がないと非常にストレスがたまるが、ヨーロッパにいると何も感じなかった。勉強したいという目的があったし、娯楽よりも、自然や町並みの美しさの中にいると、心が満たされた。カッコつけてるみたいだけど、本当のことである。

 そういうわけで、私の留学生活は、最初の二週間は高級アパートメントホテル、それから先は、家賃三万五千円の半地下室で四年間、ダンゴムシやネズミたちと一緒に始まったのであった。

六 ブリュッセルへ

 私がこのブログを書こうと思った理由のひとつに、二十才の時から毎日日記をつけていた、ということが挙げられるんだけど、久しぶりに棚の奥から出してきて読み返してみるともう、当時の文章に胸が詰まってくるものがある。胸焼けしてるんじゃありません。若々しく、何事にも感動していてみずみずしいのだ、その一つひとつの文章が。

 今だって、年の割には前向き前進型だし、感受性は失ってない自負があるんだけれど、若さには勝てない。っていうか、昔の、あの頃の、いちいち何かにつけて浮かれ、また沈んだりした感情の波。こういうのって、今読み返しても楽しいもんだな〜と思う。留学という新しい世界に向かって突き進んでいる躍動感というのか。今は、そうして得たもので生徒たちを育てたり、恩返ししているつもりなんだけど、当時はまさに「自分のことで一杯一杯、未来へ向かって一直線」な時期であった。懐かしい。

 旅立ったその日の朝。順調だったかと言えばそうでもなく、アエロフロートが遅れてエアコンのきかない機内に閉じ込められたり、ロシアに着いてから見通しのつかない中、四時間も空港で待たされたりと、疲労しすぎて一人、また一人と空港の床に寝そべり出す有様だった。そこで、同い年くらいの日本人カップルに出会う。これからイスタンブールへ旅行だと言う。彼らは意外にも地元が近所なことが判明し、私が一人で留学するところだと言うと非常に感動して親切にしてくれた。彼氏の方は横浜国大の学生さんで、その後、一時帰国の際もたびたび飲むことになる。(女の子とはすぐ別れてしまったのだ)出会いとは、どこに転がっているかわからないものである。

 ようやくバスが到着して、ほぼ難民キャンプ状態になっていた我々は救われる思いで乗車した。安いチケットにはこういうワケがあるんだ。と思いつつ、着いたホテルを見てまた仰天。幽霊でも出そうな一室に通され、めちゃめちゃ後悔する私。あ〜、せめて一人じゃなかったら!もう、ロシア見物してる体力もないので、ろくに食べずにさっさと寝てしまった。

 無事、オバケも出ずに朝を迎えてようやくブリュッセル行きの便に乗り換える。ロシアからベルギーへの機内はとてもワクワクした。だって、もうじき夏休みで北京からやってくるカレシに会えるのである。(邪道)ご褒美でもなければやってらんないのである。そんなことで、私の二十代、恋愛の舞台も世界を股にかけた、波乱万丈な日々の幕開けとなった。

五 渡欧準備

 バイトを辞めた後は、それはもうピアノの練習がはかどった。と言っても、他にもやることは山積みで、相変わらずギリギリまでピアノも教えながらフランス語を習い、ベルギー大使館を往復し、面倒な手続きを進めていった。

 (これがもう、サッパリ覚えてないんだが大変なこと、この上なかった。企業の赴任ならば全部会社がやってくれるんだろうけど、個人学生の留学なんて誰も、助言すらしてくれない。唯一、経験者である師匠のアドバイスだけが救いであった。)

 あとは学科試験の準備である。ベルギーのコンセルヴァトワール(王立音楽院)は、何しろ王立なので学費がほとんどタダに近いのが助かったが、(年間、円換算で一万五千円くらいだった)実技以外にも音楽史やソルフェージュ、和声学、あらゆる学科を、フランス語で受けなければならなかった。いやいや、そんなの、イヤというほど大学で習ったものばかり。しかもフランス語でなんか、カンベンしてほしいところである。ウワサによると、入試の時にソルフェージュなどの試験もあって、ある点数以上をとれば単位免除となるらしかったので、わずかな望みにかけ、もうどうにでもなれ、とサジを投げた。

 とにかく、八月までにはなんとか試験曲と手続き書類一式を揃え、フランス語はほとんどわからぬまま、現地の先輩たちに連絡を取りつつ、荷物は入試に合格したら送ってねと両親に言い残して、カバンひとつに片道切符で日本を発った。当時は今ほど国際便のチケットは安くなくて、ロシア経由のアエロフロート、片道でも十万もした。しかもロシアで一泊。その時はちょうどロシアが崩壊していた時で、空港には拳銃かまえた警備隊が居たりしておっかなかったのを覚えている。ああ、こうして書いていくと、忘れかけていた些細なことが思い出されてボケ防止にもいいもんである。

 お次は、独りでおっかないロシアのホテルに泊まり、そこでの出会いから始まるブリュッセル到着までについて書こうと思う。

2017年4月24日 (月)

四 資金繰り

 私は音大に入った頃から、生徒にもピアノを少しずつ教え始めていた。まだ学生なので、授業と練習の合間に出張レッスンしたり。でも四年生の頃にはそこそこ生徒も増えていたので、自宅でも夕方レッスンしていたような気がする。しかしそれだけでは留学資金など、とうてい貯められそうにはなかったので、

(私は四年生の後、もう一年専攻科へ進んだのだが、両親はそこんとこの学費は出してくれない約束だったので滞納しながら自分で出していた。で、更にマイマネーでイタリア研修の費用と(半分は母が出してくれたような記憶がある。都合のいいことは忘れてしまう)例の北京の彼とヨリを戻すべく中国に追いかけてった費用をいっぺんに使ったので、もう持ち金が尽きていたのである)

 そんな訳で、今までのバイト先である楽しかったショットバーを辞め、仕方がないので、もっと時給の良いクラブで働くことにした。

 その頃、音大生たちがよく、ピアノを弾いたりして小遣い稼ぎをしていたナイトクラブ。時給千五百円につられ、私もちょっくらそこで弾いてみようと思いつき、面接へ行く。しかし都合よく毎日入れるほどの枠はなかった。ガックシ。

 クラブのママに事情を話し、どうにかして夏までに百万は貯めたいと相談する。
ママはなかなか話のわかる人であった。

 「そうかい。それじゃあさ、貴女たぶん全然向いてないと思うんだけど、お金を貯めたいんだったら、社会勉強だと思ってホステスでもやってみるかい?」

 二つ返事でオッケーする私。この話、今までオフレコにしていてあんまり人には話してないんだけど、話すともれなく全員に大笑いされる。自分でも思うし、やってみても思ったけど、向いてないんである、ホステスなんて。

  いいですか、ホステスさんをバカにしているわけではありません。むしろ尊敬しています。どんな客とも楽しく話せて、社会情勢を知り、どんな話題にも対応できて、サッと気を利かせることのできる女性。わたしにゃ〜ムリである。タバコの火はつけられないわ、わかんない話には苦笑いするしかないわで、ただそこに居るだけの役立たずである。

 そのうち、夕方のレッスン終わってから毎日三ヶ月間ビッシリ夜中まで働いて、日中はひたすら試験曲をさらい、留学の事務手続きに大使館まで走っていたら身体を壊して欠勤が続き、見事クビになった。いよいよピアノの練習が追いつかなくなってきた頃だったので、潮時だったのかもしれない。目標額の百万には至らなかったけど、まあ何とか貯まってきていたのでヨシとすることにした。

 そんなこんなで、カネがないところに、申請していた大学の留学基金もいただけることになり、半年だか一年だか、全職員に配られてしまう留学レポートとかいうのを書くことを条件に二十五万を手にして、いよいよ入試までのラストスパートに入る時期を迎えるのであった。

三 どの国へ

 留学したい。

 そう思っても、卒業と同時にすぐに行けるものではない。大学の掲示板に張り出される就職募集一覧のように、「留学生募集」などと募ってあるものは一枚もない。

 さあ、どうするか。

 私はどうしても卒業年のうちに渡欧したかった。何故かって、前に述べた邪道な考えがあるからである。少しも時間を無駄にしたくない。すぐにでもどこかへ飛び立ちたい。

 お金。それならば、どうにでもなる。いや、ならないかもしれないが、金は天下のまわりものと言うし、工面することはできるかもしれない。だけどいくら、留学したいと騒いでみたって、一体何処へ、誰のツテで行けばよいのか。それが問題だった。

 在学中に何度かレッスンを受けた、海外の先生たち。まず思いつくのは、在学中に行ったイタリアであったが、タイミングの悪いことに今は受け入れがないと言う。親が大反対の私としては、条件もまず、学費がかからないことが前提 。私の師匠が留学していたポーランドも、当時と違って外国人からは学費を年間百万くらい取るようになってしまっていた。国立なんだけど、どうして外国人にまで税金を払わなければいけないのか、ということなんらしい。納得である。どうしようかなァ。とブツブツ悩んでいたところへ、私の先輩がこう言った。

 「ベルギーにすれば?ワッフル美味しそうだし。」

 そうか、ベルギー!ピーン、と来る。
早速、師匠に報告。

 「おー、ベルギーかァ。ちょうどヨーロッパの中心部で、いいかもしれねぇな。ベルギーって言ったら、奈良さんが王立のコンセルヴァトワールから帰ってきてたな。ちょっと、世話になってみるか…。」

 どうですこの単純な理由。
それで私の渡欧先は、インスピレーションのみであっけなく決まったのである。

 そして、帰国して間もない、大学で教えていらっしゃったピアニストの奈良先生に深々と頭を下げ、ベルギー王立ブリュッセル音楽院について話を聞き、入試の八月に向けて現地にファックスを送り、読めないフランス語の入試要項を受け取り、膨大な入試曲の譜読みと学科の試験準備と同時に、私は資金を貯めるべく、バイトをガンガンに入れ始めるのであった。

二 留学を決めたワケ

 だいたいにおいて、私が留学を志したのは正統な理由からではなかった。今でこそエラソーな肩書きを書いているが、そもそもその時付き合ってたカレが留学をするから私もする、という邪道な理由からである。その彼は音楽家ではなく、中国語に興味を持ち、北京大学に語学留学して中国語ペラペラになるという目的だった。実際、彼はとても頭が良かったので、本当にペラペラになって帰国しており、現在も広州、香港で仕事をしながら頑張っている同志である。

 そんなこんなで当時の私は、どうせ遠距離恋愛するなら日本ではなく、自分もその間の時間を有効利用して大陸の果てまで行っちゃおう!という魂胆であった。今思えば、留学なんて気軽でも娯楽でも何でもなく、背中に苦労しょって歩くようなもんだから、そのくらいの原動力は必要不可欠なものだったんじゃないかと思う(ほんとか?)

 そういう意味では、彼にはとても感謝している。あの時、あの彼と付き合っていなかったら、もしかしたら今の私はいないかもしれないのである。人生わからないもんである。音楽家は恋愛をしろ、とよく言われるが、まさにそれ。昔の日記を読み返してみたら、恋愛日誌かと思われるほどの読み応えっぷりである。前置きが長くなったけど、そういうわけで私の留学生活が始まった。いや始まったと言いたいとこだけど、正確に言うと、始めるまでにまず、お金がなかった。

一 まえがき

 ずーっと書こう書こうと思っていたんだけど、早いものでもう帰国してから十八年も経ってしまった。十八年!驚きですよ。だってまだ私は高校時代すら、つい最近だと思っていたんだから(本気です)。でも十八年も経てば、そろそろ色んなことを暴露しても許されるんじゃあないかと思っている。音大出て留学して、生徒たちを教えててピアニスト。とか言ったら、もうさぞかし良いとこ出のお嬢様だったんではないか?でもまてよ、お嬢様の匂いはどう見てもなさそうだぞ、おかしいな?と思っている生徒たちのために、私のカッコつけじゃない経歴でもぼちぼち書いてみるかな、と思います。果たしてどんな生活をしてきたのか。興味のある方はどうぞご一読下さい。興味のない方も、時間のある時に暇つぶしに読んでみていただけたら、ある一つのことを続けてゆくということに定まった道などない、というオリジナリティーが判明するかと思います。それでは。

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