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2017年4月28日 (金)

十五 半地下の部屋で

 九月の入試前、私は最初に借りたアパートメントホテルを出て、ブリュッセルの中心地、メロード駅のそばの、ある医者一家のうちの一室に引っ越した。

 そこは半地下室で、台所と、大きめの部屋が二つあった。ヨーロッパの半地下というのは、部屋に入って、道路に面した方側の窓がちょうど、目線より低いくらいの位置に外を歩く人たちの足が見えるくらいになっていて、反対側はすぐ庭に出られるドアとなっており、外側からはわからない広々とした庭が、どこの家でもある。

 庭側はいいんだけど、この反対側の、半分地下に埋め込まれた壁が厄介であった。隙間からいつの間にかダンゴムシたちが入ってきて、ソファの下はその死骸で埋まるので掃除機が大活躍するし、小さなネズミたちもカサコソと侵入してきた。まるで、シンデレラのような生活である。ネズミには悩まされたので、後ほど頼もしい猫を飼うことにした。暗く湿った部屋で、年中ショファージュ(ストーブ)を焚き、私はおかげで帰国後しばらく日光アレルギーになった。でも私の顔にあまりシミが見られないのは、あの四年間の日光レスのおかげかもしれない。ふふ。

 その部屋には代々音楽家が住んでいた。偶然、私の師匠である奈良先生もそこに住んでいらっしゃった。二階に住む大家さんは精神科医だったが、音楽好きで、独学でピアノを弾き、よく私に楽譜をコピーさせてくれと言ってきた。奥さんは小児科医で、二人の可愛い子どもたち、セルジュとエヴァがいつも庭で遊んでいる賑やかな家庭だった。

 お兄ちゃんのセルジュは八才、妹のエヴァは六才ほどで、お兄ちゃんの方は日本の漫画ドラゴンボールに夢中で、よく庭でカメハメハを打っていた。エヴァはやんちゃで、始終私のまわりをウロチョロし、マンホールから滑り落ちて地下室に入ってきたり、高さ四メートルはあるだろう庭の塀を歩き、落ちて骨折しては、こんなに痛いとは知らなかった、もう二度としないと泣いていた。

 庭にはエヴァの飼っていたウサギが飛び跳ねていて、私は野菜の残りかすをよくあげていたが、ある日ウサギは穴を掘って隣へ逃げていなくなり、エヴァは大泣きしていた。とまあ、楽しい一家のうちの間借りをしていたわけである。

 家賃はだいたい三万五千円くらいで、光熱費込みにしてくれた。いくら使ってもタダであったが、シャワーのお湯はぬるく(四階の一番上に給湯器があるから、地下にたどりつくまでには冷えてしまうのだ)ガスはマッチでつけないと点火せず、トイレは庭に出ないと、ない。マイナスになる冬の夜中など、つい我慢してしまうから膀胱炎を起こした。そうそう、私は慣れない生活でやっぱりストレスがあったのか、現地でいろんな病気になった。その度に病院の世話になり、フランス語能力も上がってくるのである。

 この思い出の部屋について書き出すときりがない。私は大家さん一家が大好きだったし、セルジュ以外は皆別々に日本に遊びに来てくれて、エヴァなど十才の時に一人旅してやって来た。もうしばらく会っていないが、きっと美女になっているに違いない。

 結局のところ、最後に心に残るのは勉強よりも何よりも、人との繋がりである。
この暗い半地下で、温かい人たちと暮らし、そしてその後出現する、もう一人の彼と私は四年間を共に送るのであった。

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