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2017年5月の54件の記事

2017年5月31日 (水)

七十一 さよなら

 私にはゲイの友人がたくさんいる。和声のメルクス先生だってそうだったし、だいたいにおいて、音楽家に同性愛者はとても多いので、慣れている。今でこそ、性同一障害に苦しむ人たちのことが問題になっていたり、トランスジェンダーの人々がいるという認識が高まりつつあるが、私たちにとっては今に始まったことではなかった。彼らはとても気のいい連中である。音楽的に優れている人が多いし、私たちには出せないような繊細な音色を作り上げることができる。オーラが違うと言うのか。それに個性的で面白い人が多い。だから私には、偏見など皆無である。何故偏見があるのかさえ、理解に苦しむ。まあ、さすがにヨーロッパで、女性同士の別れの熱烈なキスを目の前で見た時は、びっくりしたけど。

 だからこの時、彼がカミングアウトしたと思われるセリフを言った時、その衝撃は、別の意味であった。別に彼がゲイであっても、嫌いになることなどはないが、えっ何、じゃあ私は男性の恋人に負けたのか?その恋人は、今近くにいるのか?だとしたら、私は潔く身を引くしかない。自分は、異性にはなれない。それだけの理由である。

 私はもう、彼にぐちぐちと文句を言うのをきっぱりやめた。今思えば、ホモだと言ったら一発退散だろうと思った彼のちょっとした悪ふざけは、ビンゴであった。その甲斐あって、私は綺麗さっぱり意を決して帰ろうとしたので、次の日彼と私は仲直りをし、せっかくだから温泉でも行こうと混浴へ入ったりした。(東北の彼の気に入っていた温泉は、ほとんどが秘境の混浴風呂であった。)これは全く記憶にない。たぶん彼の方も、忘れ去られた記憶だと思う。ただ、私は彼と湯めぐりしている間にも、これからの自分について、前向きに考え始めていた。

 新幹線の切符を買ってもらい、握手をして別れたのは、はっきり覚えている。別れる時に握手なんてするのは、後にも先にも始めてだった。言葉にはしなかったが、これからも頑張れよ、と言う意味合いだったと思う。帰り道、私は涙ひとつ出なかった。ものすごく清々しく、前向きな気持ちだった。そしていろいろ考えた。これから先の留学生活のことを。

 東京に着くとすぐに、私は仙台の元カレと会い、食事をしながら、ご実家の土産話をする。そして幼馴染みの二人が駅まで迎えに来てくれた。嬉しかった。早速、東北の彼、ホモ説を告げると、そりゃあ有力だっ!と非常に盛り上がる。

 私は、彼のことを嫌いになったわけではなかったので、その後、たびたび思い出しては声が聞きたくなったりもするのだが、このホモ事件は絶大で、私の友人及び妹たちの間をトップニュースとして駆け巡った。

 後々、それこそお互いに幸せな結婚をしてから再会した時に、それは真っ赤な嘘と判明して大笑いするのだが、(しかも彼は、そんなことを言ったのかすら、覚えていなかった。きっと本当に、酔っ払っていたんだと思う。私の悪さに気付いていて、こらしめたかったのかもしれない。そして、何故オレたちは別れちゃったんだっけ?とか、すっとぼけたことを言っていた。そこんとこの記憶は、すっかり抜け落ちてしまっているらしい。)

 彼の名誉のために言っておくが、いたってノーマルらしいです。(本人説)だけど今までず〜っと、その疑惑は何十年も続くのである。いや、未だに私の友人たちは、そうと信じて疑わないかもしれないが。

 教訓。かなり身体を張ることにはなるが、別れたい恋人がいる時に、このテの理由で逃げると効果は絶大です。

2017年5月30日 (火)

七十 決定打

 私は、生涯で三回だけ、大恋愛をしたんじゃないかと思っている。二度目以外は二人とも、音楽家。

 一度目は二十歳の頃。この時もそれこそ、それまで付き合っていた彼氏たちを蹴散らしての大恋愛だった。本気で人を好きになるとはこういうことなんだ、と思った。しかし私たちは若く、また大事にされすぎて、私のあっけない浮気から破局。

 二度目はお察しの通り、この東北の彼。四年間にまたがる、大遠距離恋愛の相手である。彼とは別れた後もたびたび会っており、縁がある仲である。

 三度目は何を隠そう、今の夫だ。はっきり言って、大好きだった。(今もだけど)東北の彼と別れてからというもの、私の悪事はすさまじいものとなって行くのだが、そのもつれた人間関係を全て精算して、私は友人の言うところの、真人間に生まれ変わる。まあ、夫だっていろいろあったんだけど。それはいいとして、私がこの時、遊びに行ったのは、一度目の大好きだった彼のご実家である。

 私はまるで親戚の子のように大事にされていた。そして、わざわざ迎えに来て下さったお父様と、おしゃべりに花が咲いた。ビールを飲みながら、お母様も加わり、私の留学生活について、ふんふんと言いながら、感心したように聞き入って下さる。途中、東京にいる彼に電話を入れると、「な、なんでそこにいるんだヨ、お前は〜。」と言って呆れながらも爆笑された。私の母は、今どこにいるの?歯医者の予約はどうしたの?と、慌てていた。(すっかり忘れてた)ああ、歯医者、心残り。

 その日は一泊させてもらい、朝食をいただいた後、弟さんに車で駅まで送ってもらう。その時、彼に
「僕、カオルさんと兄貴は結婚するもんだと思ってました。」
と残念そうに言われたのを覚えている。
私はちょっと切なくなったが、結婚だけが全てじゃないやと思い直し、彼に礼を言って別れた。

 さて、いざ、再び出陣。彼は勤務先に居り、私を見てびっくりしていた。(注、デスクワークではない。私はそこまで図々しくはない。あしからず。)この記憶は今、私の頭の中には全くないが、当時の日記にはそう書かれている。そして私は合鍵を見せ、家で料理でも作って待ってるね。と言う。これは、彼を大変怒らせた。でも、もしも私にまだ気持ちがあったのなら、普通はそこまで怒らないと思う。(B型の基準としては。)その時の彼は顔色もサッと変わり、明らかに激怒していたから、もうその時点で私のことはそこまで好きじゃないんだな、と、私は直感的に察した。

 早めに引き上げてきた彼は、憮然とした顔で、こう言った。早くご飯、作ってよ。お腹すいてるんだから。私は猛烈に腹が立ったが、まあ怒らせてしまったんだから仕方ないと思って黙っていた。せっかく作ったご飯も、喉を通らない。沈黙が流れる。

 今こうして振り返ってみると、たぶん、たぶんですよ。彼は別に、そこまで私のことを嫌いになってたわけじゃあなかった。ただ、面倒臭くなっていたんだと思う。そして合鍵を勝手に作られたという、自分の気に触ることをされて、一時的に爆発しちゃったのだ。ごめん。で、普段から口数が少ないときてるから、それはそれは険悪なムードが漂う。私はつい、別れたいのかと訊く。彼はずるいので、ハッキリは答えない。でも、この時彼は酔った勢いで、決定的なことを言ってしまうのだ。これが、私たちの別れの決定打となった。

 それは、衝撃的なセリフだった。

 「そうだね、別れた方が、いいかもしれないね。だってオレ、ホモだし。気付かなかった?」

2017年5月29日 (月)

六十九 彼との再会

 仙台に着いたのは、朝八時半だった。深夜バスの道中、東北道はガラガラに空いていた。ユリの実家に到着すると、お母さんにとても親切にしてもらい、ヤマハC7のグランドピアノも弾かせてもらう。その日は彼女と仙台の街を楽しみ、次の日、すごーく迷ったけれど、レンタカーを借りて、いざ、二人で彼の居る地まで向かった。

 到着したのは夕方だった。彼の勤務先に行ってみたが、その日は休みであった。まるで探偵のように彼のアパートを探し当て、郵便受けを開けてみると、中からは彼のつけていた香水の匂いがした。キャーキャー騒ぐ二人。若い。しばらく待っていてもいっこうに帰って来る気配がないので、ユリと温泉に行くことにした。東北の露天風呂は最高である。それから定食屋で夕食をとり、夜の十時半、諦めかかった頃に、彼の車が入ってくるのが見えた。サッと隠れる我々。すぐさま、借りた携帯で彼に電話をかける。

 「あ、カオルだーっ。」と言う、笑い声。ヨシヨシ、機嫌がいいぞ。声が遠いね?と言うので、もう、ベルギーに帰っちゃったよっ。と言うと、うそっ、いつ?と驚かれる。と同時に、玄関のチャイムを押す私たち。

 「オイ〜、ふざけんなヨ、なんでそこに居るの?」

と、ドアが開いた。

 彼は、口では冷たいことを言いつつ、とても優しかった。明け方まで三人で飲み明かし、その日は泊まった。すごく幸せな気分だった。会えてよかったね。なんて、ユリに言われて。次の日の朝は、私の好きなものばかり朝食を買ってきてくれて、よく知ってるなァ、なんて感激したものである。そして彼は、仕事へと出かけて行った。

 しかし円満解決したように見えたのは、そこまでであった。そこから私とユリは、彼おすすめの温泉に行き、オヤジたちの入っている混浴風呂に堂々と乗り込み、それからよせばいいのに、彼のアパートの合鍵を作り、置き手紙を残して仙台へ戻った。手紙は多分、もう一度私一人で来てもいいか、嫌だったら電話をしてくれ、という内容だったと思う。彼からのキャンセルの電話は、なかった。そして私は、これから家族でグアムへ行くと言うユリ一家に、お別れを告げた。

 そこで私はもう一度、彼のところへ戻るつもりが、ふと思い立ち、元カレの実家(仙台にあった)に電話を入れてみる。すると繋がり、大歓迎を受けた。今帰って来ているのか、仙台にいるのか、と訊かれ、急遽、遊びに寄ることになる。その元カレは東京にいるっていうのに、何故か家族と仲良しだった私は、ちゃっかり一泊させていただいたりするのだ。こういうところが、私の摩訶不思議なところであった。話を聞くと、我が夫も同じような能力を持っているようだったけれど。

 そして私は元カレのお父様に迎えに来ていただき、仙台めぐりは続くのである。

2017年5月28日 (日)

六十八 苦しい気持ち

 彼氏とは喧嘩していたが、一時帰国中、いろいろと師匠に話を聞いていただいたりしていくうちに、私の気持ちは徐々に、更にもう一年、つまり三年目の勉強に向けて、気持ちが固まってきていた。けれど、それを認めたくない自分もいた。勉強を続けようと思っているのに、感情の波が心の底で悲鳴をあげているかのようだった。

 その証拠に、私は幼馴染みたちと伊豆の海に行った時に、もう一人のフィレンツェ留学組のヨシエと、「ヨーロッパ戻りたくな〜い!」と叫びながら、澄んだ海に飛び込んでいた。彼女もまた、イタリアの地で苦労ばかりしていたようである。現地で彼女は何度も何度も腹痛を起こしていたから、相当なストレスがあったに違いない。もうじき結婚するミーちゃんもまた、違う悩みを抱えていたと思うが、それはそれで置いといて。

 私はもう一年ヨーロッパに残る目的として、どこかの国で国際コンクールを受けることと、コンチェルトをやること、そしてプルミエプリの証書を取ることを考えていた。師匠、Mr.カワソメは、まあコンクールでも受けて来いと、それに重点を置いて提案してくれた。しかし私は帰国中、まったくピアノを弾く気が起こらなかった。それよりも、東北の彼氏に会えない鬱憤を晴らすかのように、パアッと遊ぶこと、しかも男連中と遊ぶことに精を出していた。この夏ほど、オトコと遊んだ時期はなかったくらいに遊びまくった。そして女友達と会っては、恋の相談ばかりしていた。

 誠実な昔の恋人と会う時は、真面目な音楽の相談に乗ってもらったりしたが、新しい恋の芽が出そうな男友達とは、ちょっといい雰囲気に持ち込むなんて朝飯前であったので、彼女と別れたと聞いちゃあ、オー、それなら私が立候補しちゃおうかなァ、なんて、いけしゃあしゃあと言ったりしていた。デートは日替わりメニューで、し放題であった。いくら東北の彼氏と気マズイ雰囲気だったからと言って、ブリュッセルのよっちゃんだって居るのに、どうしようもない女である。最悪だ。そんな私はしばしば国際電話でユキに日本の様子を報告し、面白がった悪友、ユキは、それをネタにする。案の定、よっちゃんから、

「カオル大先生、日本でブイブイ言わせてるみたいですね?」

なんて電話がかかってきちゃったりした。ユキのやつめ。

 でもそんな中、私の後輩である、ユリちゃんから一本の電話が入る。彼女はローマに留学中だったが、同じく日本に一時帰国していて、仙台に実家があった。私の様子を見かねて、一緒に仙台に遊びに来がてら、彼氏のところを尋ねたらどうかと提案してくれたのである。私は迷った。迷いに迷って、うん、行くよ。と返事をした。

 先輩と一緒に、師匠のお墓まいりにも行った。ここに来ると心が落ち着いた。前にも書いた通り、私は先生のお墓の前に来ると、お話しができるような気がするからである。私は先生のことが大好きだった。いつでも私たち学生のことを、親身になって考えてくれた。私の今の苦しい気持ち、これからどうしたらよいのか、一切を打ち明けてきた。

 不思議とその帰り道に、「こうしていこう。」と考えが具体的に浮かんだ。アレ、先生のおかげかな?と思う。でも、やっぱり苦しい気持ちは残っている。くそ、東北のヤローめ。

 そして私は、相変わらず男友達とばかり遊んだ。連日違う男子たちと遊んで、さすがにこれだけガンガン遊んでいると、気はまぎれたが相当に疲れた。そして彼に連絡がとれない日々に慣れ、同時にふと、私は本当に彼のことが好きなんだ。とわかってくる。

 茨城にいる、おばあちゃんのところへも訪ねた。おばあちゃんは、私のことを覚えていてくれたみたいだった。嬉しかった。

 そして、八月下旬。私は仙台の、ユリの実家に泊まりに行く。いざ、東北の彼氏にも会いに。私たちは、決戦の時を迎えるのである。

六十七 二年目の夏

 七月二十七日。私は十六時四十五分発のエールフランスに乗った。成田到着予定は、日本時間の翌日、十四時二十五分。飛行機は珍しく定刻通り出発、パリのトランジットも、定刻通りであった。

 機内は相変わらず、超辛くて、隣はなんだか無口なカップルでつまんないし、足がむくんで眠れず、何度も発狂しそうになった。今度からは絶対に、前方座席のない席を選んでやる。そう決心しながら耐え、成田には予定よりも二十分早い到着となった。

 日本はいきなり蒸し暑い!忘れてた、この感覚。

 新宿経由で帰ったのだが、周りのみんなが平気な顔して歩いてるのが信じられないくらい、暑かった。ずっとヨーロッパに居た身としては、しんどいことこの上ない。暑い…。スーツケースをゴロゴロと押しながら、私は早々にへばった。それに、新宿からのロマンスカーの発券も、大変とまどった。わからないこと、新しいことが多すぎる。日本という国は、ちょっと離れていただけでも大きく変わる。帰って来るたびに私は、浦島太郎状態に陥った。そのてん、ヨーロッパなんて、いつ行ったって、服装の流行りも、街並みもほとんど変わらない。この差は何だろう。

 実家に着いたら早速、愛犬ビビが出迎えてくれた。最初はよくわからなかったみたいだが、そのうち、あっ!という顔になって、ワンワンとしっぽがちぎれるくらいに喜ぶ。彼女は私に似て、非常に勝手で自立心旺盛な性格だったので、歓迎してくれるのはその時のみ。犬なんだから、もう少し素直で忠誠心があってもよかろう、と思ったが、その気ままな性格は本当に可愛くて、特に妹ゆりゆりが溺愛していた。

 日本では、これまた相変わらず時差ボケに苦しめられた。眠くて怠い身体に鞭打ちながら、それでも私は、出迎えてくれる多くの友人たちに会った。

 例の幼馴染みの友人の、結婚式も迫っていたので、私はまず彼女たちと会った。フィレンツェの友人も一時帰国しており、三人で、式の話などで盛り上がる。なのに当の本人は、自分の結婚を「失敗だった!」と言い、私たちは「せっかく帰ってきたのに!」と言って大笑いした。マリッジブルーというものは怖い。私たち三人組の結婚は、結果的に、フィレンツェの彼女が一番最後になっている。まあ、多かれ少なかれ、皆平和にやっている(と思う)から、いいとして。

 それからすぐに私は大学へ行った。お世話になっている師匠たちや、友人たちに会えるからだ。大学へ行くといつも、長居してしまう。皆に挨拶をして、帰宅。

 そしていよいよ、夜中になってから私は、東北にいる彼に電話をかけた。

「あ、居たっ。何で電話くれないのよ〜!」

 と言っても、昨日も今日も遅くて、今だもん。それにこれから飲みに行くんだ。と言う。

 なんだ、疲れ切ってるわりには、飲みに行くのか。わけわからん。散々、誰と行くのかと聞いて、電話を切った。私も誰かと無性に飲みたくなり、バイト先のショットバーに電話を入れる。仲間内の男連中は歓迎してくれて、今から飲みに来い!と誘われ、行ったら行ったで、また散々いじめられ、彼との仲をからかわれた。もう、悔しくなって、帰ってから彼氏の留守電に、
「やっぱり、そっち行くから!文句あったら電話して来い!」
と言って切る。

そういう時だけ早速電話がかかってきて、夜中の三時頃に、喧嘩勃発。

 でも、仲間にいじめられたと知ると、彼は笑って、
「ま、北京にいきなり来たっていう前例もあるしね。来てもらっても困るけど〜、来られちゃったらしょうがないよな。」
などと吐く。

 私はもう、頭にきて、内心、絶対行ってやる。それで正体あばいてやるのだ。なんて、息巻いていた。ここでもしも行くことを思いとどまっていたのなら、私たちは別れなかったかもしれないのに。でも、そんなことは後の祭りである。それに、遅かれ早かれ、いつかは別れたのだろう。そういうことになっているのだ、運命とは。

 というわけで、情熱的なその夏は続く。

2017年5月27日 (土)

六十六 ニース、そしてブリュッセルへ

 彼女のアパートメントは、ニースのものすごい中心街にあった。

 今思えば、住所ひとつでよくぞ探し出せたと思う。人間は、世の中が便利になればなるほど、その能力が退化していくのかもしれない。でもまあ、探し当てたはいいが、彼女は残念ながら留守であった。私たちは、来たという証に、置き手紙を残してその場を去ろうとした。だが、帰ろうとしたその時、偶然エレベーターから降りてきたミキと遭遇するのである。まさにドラマ。

 彼女は私たちの姿を見て固まっていた。そしてやっと開いた口から、

 「な、なんで居るの?!来ないって言ってたのに〜!」

 と言って、ビビっていた。(そりゃそうだ。)

 友人、ミキは、一度ブリュッセルに遊びに来てくれた際に、猫のプーすけの口からネズミを取り出して庭に投げた前科のある彼女である。私たちはそして大笑いをして、水着を着てニースの海へと繰り出した。ここの日差しは強く、我々は真っ黒に日焼けをした。

 夕飯は、カフェのテラスでスープ・ド・ポワソンと、サラダ・ニソワーズ。これは頬っぺたが落ちるほど美味しかった。さっすがニース〜、と言う感じ。帰り道は迷わず、二時間半でサン・レミまで到着。途中、雷がすごかった。

 そしてまだまだ楽しい南仏の日々は続く。

 次の日は昨日行かれなかった、カシスの海へ。

 ここへは、港から小さい漁船で行くのだが、これがものすごかった。大波が来る時には、船長はエンジンを切ってそれを迎え撃つ。抵抗せず、素直に波に乗るのだ。それがもう、バッシャーン!とすごい迫力で、まるでウインドーサーフィンのよう。私は一人、キャーキャー騒いで皆に笑われた。

 船は穏やかなビーチまで付けてくれるのかと思いきや、海底が浅いところへは行かれず、ここで降りろと岩場の山あいで降ろされる。こういう、日本では考えられないことが、よく向こうでは起こった。相棒よっちゃんは、岩など物ともせず、ひょいひょいと登って行く。私はサンダルだったので、足場が悪く進めない。こうなったらハダシの方がマシであった。そしてついに力尽き、ここからもう泳いで行こうと言うことになる。

 よっちゃんは泳ぎもまた、上手かった。どこからでも平気で飛び込んで、バシャバシャと行ってしまう。私は泳げることは泳げるが、とてもじゃないけどはるか向こうの岸までたどり着くのなんてムリ。彼はシュノーケルを貸してくれて、コバルトブルーの海の中、魚たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを見ることができ、感動したのを覚えている。

 余談だけど、私の好きになるタイプの男性たちは皆、スポーツができる。よっちゃんは何をやらせても上手かったし、東北の彼はテニスと波乗りにかけてはピカイチであった。何を隠そう、我が夫も、そうは見えないかもしれないが運動神経はとても良い。学生時代はバリバリの運動部員であった。だいたいにして、私は体育が大の苦手だったので、スポーツができる人は憧れである。まあ、脳みそにまで筋肉がついてそうな奴は、イヤだけど。まあいいとして。

 南仏の海には、あちこちにヌーディストビーチがある。来ている女性たちは、別にそのビーチじゃなくっても、けっこうな確率でトップレスになる。私も思い切って、やってみた。サイコーの開放感とはこのことである。楽しかったなあ。夜はホテルにあったピアノを弾かせてもらい、マダム、ムッシューたちも集まってきてワイワイやった。

 ここは本当にアットホームで素敵なホテルで、大きな庭でいただく食事も大変美味しかった。カルパッチョに、野菜の南仏風スープや、焼きナスのトマトソースがけ、フロマージュブロンに、ショコラショー。飼っていた大きな黒いワンちゃんもおとなしくて可愛かった。またぜひ行きたいホテルなのだが、名前を控えておくのを忘れてしまったのが残念である。

 私たちは一週間のヴァカンスを終え、楽しかった思い出を胸に、またブリュッセルの街へと戻ってきた。夏だというのに、やっぱりここは寒くて暗かった。

 ユキやしづちゃんたちにお土産を渡し、こちらにずっと居たであろう、しんみりした顔をしたユキと、土産話をする。そして預けていたプーすけと、感動の再会。七月下旬から帰国する予定の、日本行きのチケットを手配する。

 その直前、またもや私と東北の彼は喧嘩をし、初めて「別れる」というセリフが二人の間に出る。それは多分、帰国しても東北には絶対に来るなと言われてのことであると思う。怪しい。人のことなんて全然言えないが、怪しすぎる。

 とにかく、私は楽しいヨーロッパでの夏のヴァカンスを終えて、いよいよ日本での、長い夏休みを迎えるのである。東北の彼氏との別れを、目前に控えて。

六十五 南仏の旅

 さて、幼馴染みの到来の次は、この夏のメインヴァカンス、南仏への旅である。

 当然、決まって、相棒よっちゃんとの車で出発。ヨーロッパでは皆、早組、遅組と分かれてヴァカンスをとるのだが、少なくとも二、三週間、普通に一ヶ月間という人もいるくらい、ガッツリ遊ぶ。よく大家さんに、日本人はヴァカンスをほとんど取らないで仕事ばかりしていると聞くが、本当か?と訊かれた。本当である。ベルギー人たちはホントに働かない。そして合理主義である。普段も、夕方四時には帰宅ラッシュ。勤勉な日本人たちは、現地の奴らは働かなくて困る、といつもこぼしていた。

 夜中十一時、いざ、出発。カオルちゃんは寝てていいよ〜。と言われたが、そうそう寝てもいられない。何故なら高速をぶっ飛ばしている途中、オレンジ色の炎に包まれた車を目撃したからである。事故であった。向こうはスピードを出している分、事故の大きさもハンパない。真っ暗闇の中、パパと二人の子どもたちが、メラメラと炎上している車を指差して泣き叫んでいた。あの様子から言って、まだ中にママか誰かが…と考えるとゾッとした。私たちはたびたび、こうした惨事を目の当たりにした。気をつけようと、引き締まる。

 目的地のマルセイユには、ノンストップで朝九時に着いた。若かった彼の体力はすごい。けれど慣れない暑さと、不眠のために私たちはクラクラであった。マルセイユでは、あのモンテ・クリスト伯の「イフ島」へクルージングをし、サン・レミでチェックイン。大きな庭付きの、アットホームで、素晴らしく良いホテルだった。眠くて、さんざん歩き回って辛かったが、アヴィニョンで食事をとる。美味しいフレンチに満足して、その日はぐっすり眠った。

 サン・レミ・ド・プロバンスは、今思い出しても素敵なところだ。カラッと晴れた濃い青空、焼け付くような太陽、一面に咲く、ひまわり畑。パリやブリュッセルの、暗い曇り空の街から皆、太陽を求めてヴァカンスに出る気持ちがわかる。あんなところにずっと居たんじゃ、人間性まで暗くなってしまう。言っておくけど、日本から南仏に飛んでもそこまでの感動はないと思う。あの、寒くて薄暗い北ヨーロッパから行くからこその感動である。ああ、なんて開放的なんだろう!あちこちにヌーディストビーチがあるのも、うなずける。

 そして二日後にはカシスの海に行くつもりが、あいにくの曇りだったので、私たちはお決まりの突発的行動で、突然、高校時代の友人、ミキがいるニースへと方向転換するのであった。

 いざ、彼女に会えるか?ナビもない中、道に迷って四時間半。私たちはようやく、ニースへ到着し、ミキを驚かせるべく、彼女のアパートメントを探し出すのである。

2017年5月26日 (金)

六十四 幼馴染みとの再会

 幼馴染みの彼女たちとは、感動の再会!を期待していたのに、あっけなく裏切られ、ちゃっかり奴らは先に着いてハンバーガーを食べていた。「遅いよ〜カオルちゃ〜ん。」なんて言って。さすがは、小さい頃から知る仲である。

 空港からタクシーで、私の住む半地下室へと案内する。途中、彼女たちは近所をウィンドーショッピングし始め、私がふと、目に止まった黒のセーター(セールで八百円だった!)を買うかどうか悩んで、やっぱりこれで一日の食費になるからと、結局やめにした姿を見て、そんなに貧乏なのかー、可哀想に!と笑って、気前よく買ってもらった。友情に感謝である。

 夜はスペイン料理屋に案内し、東北の彼氏のことを散々、冷た〜い!と言われ、否定できない私がいて悲しかった。

 次の日には市内観光に出るが、彼女らは、やれ今日中にワーテルローにも行きたいだの、好き放題に文句を言って、散々ケンカになる。一人はフィレンツェに留学をしているところで、もうヨーロッパのペースには慣れていたと思うが、日本からやって来たもう一人の彼女はこっちの生活なんて始めてである。列車も全て、時刻通りに動くと信じているし、自分の計画通りに事が運ぶと思って疑わない。加えて、昔っからこやつは、非常にワガママである。面白いったらありゃしないが、連れ歩くのは大変であった。

 結局その日の日中は、グランプラス、コンセルヴァトワール、教会、美術館などをめぐって終わった。夜はフレンチへ。そして、それだけでは満足できない彼女たちは、アントワープまでフランダースの犬の銅像を見に行くと言い出した。優しいよっちゃんは承知してくれて、車でひとっ走り、パトラッシュを見に行く旅へと出かけるのである。フランダースの犬なんて暗い話、知ってるのは日本人くらいだから、真っ暗の中、大いに道に迷い、アントワープの街に居たポリスにたまたま誘導してもらって、無事辿り着けた。ポリスたちもすっかり楽しんじゃって、今思い出しても笑える想い出である。

 その次の日は、彼女らだけでブルージュに行ってもらった。ブルージュに行ってから、違う街にも寄りたいと言ってごねていたが、私は絶対にムリだと太鼓版を押しておいた。できると思うなら、やってみな。こっちじゃ、列車だって時間通りなんかにはいかないよ。と笑って、送り出す。案の定、七時にくたくたになって帰ってきたが、どこの街にも寄れなかった、ブルージュだけを楽しんで来たよ、カオルちゃんの言う通り!と言って笑っていた。私はラタトゥイユとチキン、それにピラフ、モツァレラトマトサラダを作って迎えた。彼女たちは感動して、「カオルちゃんが、料理作れるようになって、しかも美味しい!お母さんに報告だ!」と大騒ぎしていた。

 そんな中、驚いたことに、東北の彼から留守電が入っていたりした。

 「たまには電話しろよな、社会人!」

と留守電で挑発しておいたら、

「電話したっていないじゃないかよ、このヤロー!」

と、入っていて、たまげた。優しい声。久々に聞く彼の声に、私は嬉しくなった。

 そんなこんなで、私たちの珍道中は一週間ほど続いた。ドイツのローテンブルグに行ってクリスマス市を見ても、相変わらず何も買わない私の我慢強さに驚かれるが、そこで私は生涯の大事なものとなる、可愛いクマのぬいぐるみに出会う。ある店のショーウインドーに、ちょこんと置かれていたクマさん。二千円くらいだったので、買わずに店を出たものの、どうしても気になり、意を決して戻って購入した。彼女たちにも、よかったねぇ〜、と言われ、それが今では、娘なっちんの肌身離さずお気に入りのクマさんとなるわけである。

 彼女たちとの楽しい一週間は過ぎ、私は疲労のためバタンキューであったが、東北の彼の予言通り、少しずつ気持ちは晴れていった。

 そして私の気持ちは以前より前向きになり、来年残るならば、コンチェルトはやっぱりモーツァルトにしよう。と楽譜を選び始めるのであった。

 これが、日本に帰国してから後、夫と共にコンチェルトの演奏会を開く際のレパートリーとなるのである。

 その時は苦しくても、後からやってくる幸せとは大きい。その分ね。

六十三 悩む私

 厳しい二年目の試験が終わり、晴れて自由の身となった私は、友人たちやよっちゃんとテニスをしたり、美味しいものをたらふく食べたりして、開放感を満喫していた。

 それなのに、心には何故か、ぽっかりと穴が開いたようであった。

 どうしてだろう。日本に帰りたいから?将来に不安があるから?よくわからない。日本に帰れば、幸せになれるのだろうか。でも、ヨーロッパの生活だってそれなりに楽しんでいる。そんな不安定な気持ちを紛らわすかのように、私は毎日飛び回っていた。

 微熱も出たりした。疲れがドッと出たのである。怠くてフラフラしたが、生徒に教えに行かなければならなかった。迷っていたら、日頃元気なよっちゃんが、
「疲れだからヘーキだヨ!ダメなら明日、倒れると思って頑張れば。」
と言ってくれたりして、ちょっと安心しながら、出張レッスンに出かけた。

 落ち込んでいたユキは早々に復活し、元気にピアノを弾き始めていた。さすが、そうでなくっちゃ、ピアニストはやっていられない。彼女はまだまだ、ブリュッセルでの生活を引き上げる気はなかったが、私は悩み、よくいろいろな人に相談していた。大使館の仲良しだったマツザキさんは、私に向かって、東北の彼のところへ行きなさい。と言ってくれたりした。ここを引き上げて、彼のもとへ行けと言うのだ。私はビックリして、そうすべきなのかなァ、でも彼はイエスとは言わないだろうなァ、などと考えていた。

 急に思い立って、東北の彼に電話をかけた。アドレスは捨てたはずだったが、しっかり記憶にあったのだと思う。私だとわかると、オオっ、という感じだったので、少しは心配していたのかもしれない。ピアノ、合格して本当に良かったね、おめでとう。と言ってくれた。この日は仕事が休みで、とても優しかった。

「モーツァルトがね、当たったんだ。あんまり得意じゃなかったのに、八十七.五点もとれたんだよ。」
「ほんとに?」
と、声をひそめる彼。
今後のこと、悩んでるんだ。と相談すると、彼曰く、

「しばらくピアノを忘れて、何か別のことに打ちこんだり、友達と気晴らししたり、旅行に行くなりしているうちに、パッと心に浮かぶから大丈夫。何かまた目標を見つけなきゃね。」

と言われる。

 あなたはどう?と私が尋ねると、
「いたって普通の毎日だヨ。こう言っちゃ、失礼かもしれないけど…カオルは、女性なんだし、俺みたいに仕事、って言うより、夢に向かって突き進んでいいと思うよ。」

 と、彼はポツリ言った。

 今思えば、この人は本当に同志だったんだなぁ、と思う。

 その時、私が欲しかった答えは違ったのかもしれないけれど、でも確かに、ピアノという勉強を続けていきたいと思っていた私には、響いた。でもプライベートの私はと言うと、彼に本当は、帰って来いよ、俺のところに来い。と言って欲しかったのかもしれない。(絶対言わないけど。)でも果たしてそう言われたらどうしたんだろう。もしかしたら、やっぱり私はまだ留学生活を諦めきれなくて、続けていったのかもしれない。どっちみち、同じだったハズである。私はギリギリの選択に迫られたところで、たぶん、男を選ぶようなことはしなかった。辛かったかもしれないけれど。

 やり残していることが、もう一年、あるような気がする。ディプロムに進んだら課題となるであろう、コンチェルトもやってみたい。でも本当は、帰りたい。帰ったらストレスはないだろうな。帰れたら幸せだろうな。あ〜〜、帰りたいよ〜!と、当時の日記には記されてある。そしてそこへ、父からの血迷った、「ねえ、やっぱり来年残るとしたら、六月だけ試験を受けに、日本からそっちに行かれないの?」なんて電話がかかってきたりする。そりゃムリだ。仮に出来たとしても、落第するに決まっている。私は、両親の、「卒業証書にこだわる」気持ちを理解できたと同時に、勉強って、そういうことじゃぁないよ。と思っていた。そして、やっぱり送金は厳しいんだろうな、悪いなぁ。と、考えていた。

 そう、悶々と考えていた中、グッドタイミングで、私の幼馴染みたちが遊びにやって来るのである。気晴らしにはもってこい、いや、それ以上のパワーを手土産に。

2017年5月25日 (木)

ブリュッセルの仲間たち

ひとやすみ。

ブリュッセルの思い出の写真、第二弾。

コンセルヴァトワールの仲間たち。匿名です。私、前方チビ。みんな背が高かった!

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↓ふざけてピアノを弾く私。そして猫のプー。

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↓悪友、ユキちんとツーショット。それから三年目に加わる悪ガキトリオ、トッコちゃん(後方)。

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↓ニースの友人、ミキと。それからローマとパリの友人たち。

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↓妹、ユリコと。それから我が師匠、Mr.カワソメとパリでのツーショット(若い!)

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↓三年目の秋、一ヶ月ほど一緒に暮らした、友人のら。やんちゃなエヴァも一緒に。

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よっちゃん&東北の彼氏は、ご想像におまかせしますsmileheart04

 

六十二 ピアノ実技、悲願のプリ取得

 翌日は、何日かに渡って行われたピアノ実技の最終試験日であった。

 腰の痛みはとれたものの、疲れた身体を引きずって、他の学生たちの本番を聴きに行く。ちょうど、最優秀プリの子の演奏を聴き逃したので、惜しかった。私はドキドキしながら、得点発表を待つ。

 私は何と、八十七.五点をとった!八十点以上が合格、去年は七十五点で落第であったから、十点以上、上回る得点である。ユキは八十四点、今年入ってきた優秀な友人は、さすがの九十.五点。コルニル門下生の日本人たちは、そろって今年、合格となる。

 私は嬉しくて嬉しくて、涙が出そうであった。でもまだ、涙は後にとっておく。納得いかねぇと言わんばかりの顔をしたユキが立っていたし、それに、ひたすらそばで支えてくれていたよっちゃんのために、とっておきたかった。

 本当に、音楽なんて点数じゃない。だけどその得点が評価として発表になる以上、それは学生たちにとって、非常に重要な基準になったりもする。ユキはとてもサッパリとした性格の、イイ女だったので、悔しいだろうに、こういう時は素直に私の点数を祝ってくれ、一緒に喜べなくてゴメン、と言い残して帰って行った。私には、何も言う言葉がなかった。去年は彼女の方が点数は良かったし、そんなのはジュリーの決めることだ、と思っていたとしても、私からは何も言うべきではないと思ったからだ。

 私は帰りのトラム(路面電車)の中で、一人、感動のあまり、涙をこらえていた。ずっと耐えていたので、不意に、下車した時によっちゃんの知り合いたちに会った時、思わずフライングして泣いてしまう。彼らに、逆に感動されたのを覚えている。

 そして私たちは、いつもよく行く美味しいアイス屋さんの近くにある、フランス料理屋で祝杯をあげた。私は、和声のことより何より、もうこれでもし日本に帰っても悔いはない、という踏ん切りがついた。一緒に、この暗いブリュッセルでの下積み生活で、泣き笑いを共にしたよっちゃんにも、感謝の気持ちで一杯になっていた。

 これでもう、サッパリした。この一年間、本当によくやった。心からの清々しい気持ち。試験までの、悶々とした日々のトンネルから抜けて、私の心には光が差していた。開放感である。

 そしてその開放感から覚めた時、私はこの後さらに一年間、継続して卒業証書を取ることにするか、それとも実技でプリを取ったことでヨシとして日本に帰国するか、またもや悶々と悩み始めるのである。

 本音を言うと、とってもとっても帰りたかった。何故なら、もうすでに限界を迎えつつある、遠距離恋愛のお相手が、東北の地には居たからである。

 

六十一 本番

 前日はど〜んとステーキを食べて精力をつけ、六月二十日、その日はやって来た。

 実技試験、当日。十四時に家を出る。吐き気を我慢しながら、無理やり昼食をとった。

 友人ユキは、ショワ(選択曲)をグラナドスにし、他にリストのポロネーズ二番、プロコフィエフのソナタ三番を用意していたが、ベートーヴェンのソナタop.10が当たり、全楽章弾かされていた。けっこう、ノッていたと思う。私はモーツァルトが当たった。

 ショワに、スクリャービンのポエム。持ち曲は、ブラームスの間奏曲op.117、プーランクの三つの小品から、パストラーレとトッカータ。モーツァルトのソナタ、K333である。

 コルニル先生は、私の出番になった時に席をはずしていて、まわりのジュリー(審査員)たちが大慌てをしていた。急いで戻った先生も、大慌てしていた。そんな中、私は落ち着いたテンポで弾き始めた。モーツァルトは、本当に難しい。テンポを整えながら、かつ音楽的に、指ははずさないように鍵盤を押さえるので精一杯だ。全体的にこじんまりとしてしまったのが残念だった。ホールにどう響いているのか、どのくらいの音量で勝負したらよいのかイマイチわからなかった。スクリャービンは、そういう意味でフォルテも出し切れなかったので悔しい。今後の課題としては、そういうことを全部踏まえた上で、もっと音楽を大きく作れるようになることだ、と心に誓った。

 仲良しの男の子も聴きに来てくれて、アンポゼみたいな曲を、どうやったら暗譜できるの?と驚かれた。そう、結局私は、本番も暗譜でやってのけた。結局のところ、暗譜の方が集中して弾けるからである。これは、正解だったと思う。

 とにかくも、二年目の実技試験は全て終了した。苦しい思いも一緒に吐き出し、当日に全てをかけた。夜は例によって、みんなでお祝い。一年分の苦労が、今日で全部終わったわけである。それはそれは、清々しい気持ちであった。身体は疲れてあちこち痛んだが、心は天にも昇るほど、軽かった。

 そして翌日、早々に、実技の合格発表がなされるのである。

2017年5月24日 (水)

六十 実技試験日を迎えるまで

 私は、毎日毎日、彼の夢ばかり見ていた。

 試験前になると圧倒的にそうなる。苦しくて、無意識に逃げ出したい自分がいるのだろう。そしてそういう時に限って、電話をかけると彼の方も疲れていて、険悪なムードになった。この六月の時期は、今までにないくらいの勢いで、二人の間には沈黙しか流れなかった。こんな雰囲気ではとても和声の相談どころではなかった。こちらはプルミエプリが取れないことが決定していて暗いし、彼は仕事で毎晩遅くなり、本当に疲れきっていた。加えて、私たちの、本当に長くなった遠距離恋愛の倦怠期も訪れていて、まさに最悪な状況であった。

 ああ、忘れられたらどんなに楽だろう。そう思って、彼のアドレスを全部、ゴミに出してしまった。そうだ、練習に戻ろう。気を取り直したところへ、父から電話がかかってきた。

 「あのね、お母さんと話し合ったんだけどね。カオルの悔いの残らないように、あと一年残ってプルミエプリを取るかどうか考えて、好きにやりなさい。彼のこともあるんだろうし。彼はどう言っている?」

 私は感動した。あんなに最初は留学反対だった父が、ここまで延長の話を考えてくれているのだ。私としては、卒業証書などこだわってはいなかったが、やっぱりどうせ頑張るならば、形として残るものを得たいとは思った。

 「今、彼とは喧嘩してそれどころじゃないんだよ。」

 と言うと、まあ、長いこと離れているからな。そういうこともよく考えて決めたら。と言われて、電話を切った。

 辛い。そのうち、いいこともあるだろうか。そうぼんやり思いながら、練習に戻った。

 話を聞いてくれる友人たちや、大使館の人たち、それに、こういう時には決まってトンチンカンな話をしてくる、ご気楽なよっちゃんがそばにいてくれるだけが、救いだった。妹ユリコは電話で励ましてくれた。そして、同じく辛いであろう、試験前のユキちゃんと一緒に気晴らしにカレーを作ったり、パアッと呑んだくれたりしているうちに、少しずつ気が晴れていった。

 そしてそうこう、もがいているうちに、実技の試験本番はやって来るのである。

五十九 中級、不合格

 六月八日、パリへ。

 十二時のTGVに乗り、パリ郊外のルーブシエンヌに着いたら、アンリオ先生が
「遅刻だよ、三時の約束だ。」
と言っていた。アレ?三時半だと思っていたのに。こういう行き違いが、先生とはよくあった。私は疲れていて食欲もあまりなかったが、その日のレッスンは六時までみていただいた。

 試験曲を全曲聴いていただき、モーツァルトも、スクリャービンくらい歌って弾きなさい。ブラームスは、もっとカルム(静か)に。プーランクはまあよし、アンポゼはとても楽しい曲だし、難しい曲ではないから大丈夫だ。と言っていただいた。

 それから私たちは来年の話だの、何だのとおしゃべりをし、先生の御宅を後にする。

 パリでは後輩のエミコが待っていてくれた。その日の夜はマレ地区へ行き、食事どころを探したが、マレというところはゲイの集まる場所で、あちこちに男たちのツーショットが見られ、なかなか驚きの世界であった。私の和声のメルクス先生も、こんなところで彼氏とデートしてるのかな、と思いながら。

 彼女とは明け方までおしゃべりをし、眠い目をこすりながら次の日の朝を迎えた。
エミコの部屋はパリのアパルトマンの最上階なので、暑くて目が覚めた。窓を開けて、風の入る部屋は久しぶりである。私は何故か、東北の彼と過ごした日本の夏を思い出していた。懐かしいなあ、あの夏の日。彼は今頃、何をしているのだろうか。

 六月のヨーロッパは、ジューンブライドと言うだけに、天気の良い爽やかな日が多い。その年の、最初の夏が訪れる月なのである。そしてまた、寒い日が続き、夏は断続的にやって来た。

 私はまた、ベルギーにしては珍しく暑いブリュッセルの街に戻り、問題の和声の中級の結果を知ることになる。

 結果は当然、不合格。学校でバッタリ会った仲良しの男の子が、カオルちゃん、残念だったなあ。と慰めてくれた。彼のスペイン人の友人も落ちてしまったらしい。しかもその子は期限切れで、退学がかかっているようであった。厳しいなあ。

 自分では予想できていた結果ではあったが、案の定、父にファックスを入れると、向こうでは大変動揺してしまっていて、何回も電話をかけてきてくれた。父は本当にがっかりしてしまったようであった。申し訳ない気持ちになった。日本の師匠たちにも電話を入れる。これで、二年目にしての卒業資格は取れないことが確定したのである。自分の実力不足を実感すると共に、もうじきやってくる最後の実技試験に全力を尽くそう。と心に決める私がいた。それからのことは、それから考えればいい。本当に、精神的にキツイ時期であった。あと一踏ん張り。だけど、ここを乗り越えるのが、すごく苦しい。

 東北の彼にも留守電を入れておいたのだが、彼からは何も連絡はない。

 私は毎晩、彼の夢を見ていた。

2017年5月23日 (火)

五十八 初級合格

 和声の合格発表だと思っていた日、朝からコンセルヴァトワールへ行ったのに、そこには何も張り出されてはいなかった。午後にももう一度行ったのに、やっぱり何もない。な〜んだ。私はがっかりして、仕方なく街をブラブラ、ウィンドーショッピングしていた。

 こういうことが、ヨーロッパではよくあった。予定変更。日常茶飯事である。幸い、交通機関の遅れはさほどないベルギーであったので、イタリアなどよりは全然まともではあったが。

 ウィンドーショッピングは本当に楽しくて、街をただ、歩いているだけでも全てを忘れて、ウキウキした気分になれた。日本と違って、個別になってるお店が多いから楽しい。そのディスプレイを見ているだけでも気分が上がる。装飾など、とってもセンスがいいし、クリスマスにはツリーの飾り付けを見ただけでも、うーん、日本とは違うなあ。なんて、感心したりしていた。

 そして次の日。アシスタントのレッスンへ行ったのだが、そこでようやく、和声の試験が発表になっていた。初級、アンフェリウールに、私は七十六.五点で合格した。嬉しい!七十点以上が合格となるのだが、去年よりも十点以上アップでの合格だった。頑張って勉強して良かった。これに落ちたら、もう望みすらなくなったような気がした。まあ、まだ中級の最終試験はこれからで、そこまで合格しなければプリは取れないのだが、とりあえずは階段を一段ずつ上るしかない。私は嬉しくて、皆に報告しまくった。

 東北の彼氏からも、おめでとうと、折り返し電話がかかってきた。この間の電話では、ちょうど彼が疲れているところへかけて非常に険悪ムードで終わっていたので、怒っているのかと訊いたら案の定、気にしていないと言う。どうせ、和声の試験前でイラついてるんだろ、言わせとけ、くらいに思ってたらしい。だから私も、どうせ気にしてないと思ってた、いつものことだから、もっと言ってやれ、くらいに思っていたよと言うと、爆笑していた。そして、なんだ、和声も初級どまりか〜、なんてまた、意地悪を言われた。電話の向こうでは、蛙が涼しげに鳴いていた。ああ、日本なんだなぁ…と私は、ぼんやりと思っていた。

 そう、試験前のこの時期は本当に、私たちはイライラしていた。そんな中、気晴らしをするかのように、ウィンドーショッピングしてはお金のなさにますますイライラしてきたりしたのだが、この時私は思い切って、まさに二年ぶりくらいにワンピースとサンダルに、香水を買う。スカッとして、また練習の穴ぐらへと戻った。彼に電話をかけても機嫌の悪いことが多いし、これはいい効果を生んだ。

 そして六月に入り、いよいよ実技本番に向けてのリハーサルが行われた。
これはコンセルヴァトワールの舞台で、夜九時から十二時までかけてやる。私はただ一人、アンポゼ(ベルギー人作曲家の、ヘンてこな課題曲)の暗譜に乗り出し、まわりの学生たちに驚かれていた。暗譜はしなくてもいいルールであった気がするが、現代曲の得意な私には楽勝であった。夜のリハは非常に疲れたが、まだ詰めが甘い部分の見直しになるので、気が引き締まる思いで臨む。

 和声の最終試験は、その二日後であった。モワイアン、中級のソプラノ課題である。この日はもう、朝の八時から夕方五時までかかり、能力の限界だった、と記されてある。それでもやるだけのことはやったし、後はもう、天に祈るしかなかった。

 そして疲れ切った次の日私は、パリへレッスンに行く。今から考えると本当に、若さなしでは乗り切れないハードなスケジュールをこなしていたのだなあと思う。

五十七 二年目の和声試験

 和声の試験は、まずいきなり中級のモワイアンから。しかも、日曜日に行われた。

 金曜日の和声の授業で、メルクス先生に、「クラージュ(頑張って来い)、カオル!」と励まされ、そして大使館コンサートが無事終わったことを東北の彼に告げ、日曜はいざ、弁当を持って八時からコンセルヴァトワールへと向かう。

 この日の課題は、バスだった。バス課題とは、ヘ音記号の旋律がA4五線紙一枚分に書かれた問題の上に、ソプラノ、アルト、テノールの旋律を付けて、一つの美しい曲にする、というものである。大きなピアノ付きの部屋に一人ずつ缶詰になって行う。私は四時過ぎまで、ねばった。確か二時間ずつ、交代で部屋替えをするんだけど、その二時間があっという間に過ぎた。腰と背中が痛む。コンセルヴァトワールの門を出る頃の、夕暮れ時の空気を吸い込みながら、ヨロヨロと、終わった達成感と共に帰宅する。

 その二日後にまた、今度は初級アンフェリウールのバス課題日が来る。
初級は中級に比べて簡単だから、十二時半には終わった。学食へ行くと、友人たちがいて一緒に食事をした。ここの学食は、スープとマッシュポテトがお決まりで、それにウサギの肉やら、サラダやらが付くのだが、けっこうイケた。今でも思い出すと懐かしい。

 私は試験日の合間に、東北の彼にたびたび電話をかける。今読み返すと、別れが迫っている割には、笑える二人である。

  「あっ、居たっ。かけなおせー!」のお決まりトークから始まり、彼は会話の中でぽつりと「オンナでも作ろっかナ〜。」と吐く。

 私はまったく動じていなくて、
「エー、嬉しい!仕事三昧だったのに、久々にそういう色気のあるセリフ!」
と、本気で言って、私たちは大笑いしている。

 こういうところが多分、彼と私は、合っていた。お互いにみなぎる、根拠のない自信。取り繕っていないから、お互いちっとも、苦しくはなかった。まあ、彼自身は、嫉妬深い男だヨ〜と言ってはいるが、それを上回るプライドが、それに勘付かせなかったのかもしれない。とにかく私たちは、未だに仲がよいことは確かである。人間として。

 話がずれたが、和声の試験中である。

 お次はアンフェリウール(初級)のソプラノ課題。当日の朝、ユキに出くわし、昨日の彼氏との電話内容を話して大笑いをしながら、同じくらいの時間に終わったら、一緒に昼食を食べようと約束をした。

 彼女は十一時半頃に終わったが、私は途中で膨大なミスに気づき、修正していたら十二時半までかかってしまった。彼女は時刻入りの置き手紙を残し、五分差で帰ってしまう。今ならメールで一言、もうすぐ終わるから待ってて!なんて伝えられるけれど、置き手紙だなんて、粋な時代だったものである。

 そんなこんなで、あとは中級のソプラノ課題を残し、お先に初級アンフェリウールの運命の合格発表が張り出されるのであった。

2017年5月22日 (月)

五十六 大使館コンサート

 私とユキちゃんとは、良き友人であり、同志であり、またライバルであった。

 バカ話ばっかりではなく、一緒によくコンサートを開いたりした。それは五月十四日。試験のちょうど一ヶ月前ほどにあたる。そのくらいにやっておけば、いいリハーサルにもなるし、自分を思い知るのにちょうど都合がいいのだ。かと言って、お客様を呼ぶ以上、楽しんでいただかなければいけないし、恥をかくことはできない。確かこのコンサートは二度目で、一年目に開いた時の私の演奏は、史上かつてないほどの最悪な出来栄えであった。だから今回は、絶対に失敗したくない。いい演奏をしてみせる、と言う意気込みで、燃えていたと思う。

 それまでに何度か、私とユキは共にパリのアンリオ先生の弾き合いに参加し、まだまだ出来上がっていない自分たちの演奏に愕然としていた。まずい、全然間に合わない。帰りの列車の中では、お互いが、その時々の仕上がりに一喜一憂していた。アンリオ先生はレッスン中、どこかへ消えてはお酒を一口飲み、アルコールの匂いをプンプンさせて上機嫌で戻って来たりしていた。音楽家というのは、何事においても一般常識が当てはまらない。先生はいつでもお茶目で愉快で、時に辛辣な方であった。

 そんなわけで、コンサート当日。

 午前中に少しアシスタントのレッスンを受け、十八時には大使館へ向かった。

 会場は、満席だった。我が生徒たちや、大家さんの子どもたち、エヴァとセルジュが、最前列を陣取っていた。「カオル〜!」とニコニコ笑って、無邪気に手を振る。私は嬉しかったが、本番に限っては大変困った。気が散るのである。子どもというものは、じっと聴いているつもりが、実によく動く。弾いている方は、無心でやりたいところなのにそれが視界に入ってくると邪念が入り、暗譜が飛んでしまったりするのだ。最前列、子ども禁止。なんてフダがあればいいのに。音楽家が正直に告白すれば、だいたい、そう思う。特にシンプルなモーツァルトを弾いている時になんて、自分の精神力との闘いに、死ぬ思いだった。中には、それは演奏家の器不足だ、と言うヒトもいるかもしれないけれど、それならばぜひともご自分でやってみてから言っていただきたい。言うは易く行うは難し、なのである。

 コンサートは、まあ全体的にはうまくいった。しょっぱな、モーツァルトのソナタはもう少し立体的に弾きたかったけれど、その時の私の実力では、あれが限界。プーランクは、トッカータが非常に速く、走ってしまって、いい勉強になった。スクリャービンのポエムは、なんと弾き始めからいきなりラスト部分のフレーズに飛んでしまい、機転を効かせてフェイドアウトし、何となくごまかしてから、もう一度スタートラインに戻れた。これも、いい勉強。ピアノをやってる皆さんならわかると思うけど、同じような旋律がたくさん出てくると、緊張している場合、違うところを弾いてしまうことがある。こんな大っきいミスをやらかした後は、もう二度とやらなくなるもんである。試験前で良かった。コンサートでは、あったけど。(まあ、誰も気づかなかったと思う。)

 相方のユキも彼女自身、納得のいく演奏を終え、私たちのコンサートは無事に終了した。レセプション(演奏後、みんなで軽く飲んだりしながらお客さんたちと語らうこと。)を終え、私たちはさらに打ち上げへ、日本食レストランへと向かう。

 そして終わった喜びも束の間、たたみかけるようにして、四日後に和声の試験がやってくるのであった。今考えれば、本当にハードなスケジュールである。

五十五 私と彼

 「あっ、居たっ!かけなおせー!」

 私は、彼の声を聞くなりそう叫んだ。

 ハイハイ、と言って、社会人の東北の彼は、素直に国際電話をかけなおしてくれる。

 そこで、彼が週末、東北の地でナンパした話などいろいろ聞かされるが、それには一切動じない私である。あくまでも、電話をナゼ君はかけてこないか、という一点に集中する。

 声が聞きたいと思わないのか、君は昔、早く私と一緒に暮したいと言っていたのに忘れたのか、そんなことをぎゃあぎゃあと攻め立てても、

「う〜ん、人って気が変わるもんだよネ〜。」

と、意地悪くかわす。一人でプンプン怒っているのは、いつも私である。でも実は、そんな自分に面白がっているところもなきにしもあらず、であった。

 彼もまた彼で、相当な気分屋だった。機嫌のいい日は「別にいつだって、好きな時に電話かけてくればいいのに」と言ったり、「絶対、カオルの方から電話をかけてくると思ったんだ。だからかけなかったの。」とか言ったりした。だけど疲れて機嫌が悪い日なんかは、一言も喋らないと決めこんだかのような態度を取っていた。腹の立つ。

 でも今、自分が働くようになってみてわかったのは、学生と社会人とのギャップがそうさせていたのだろうと言うことだ。私だって、今ならば彼の気持ちはわかる。要するに、面倒臭いのだ。疲れている時に、オンナといちいち話さなきゃいけないのが。別に相手を嫌いになったわけではない。その証拠に、顔を見てれば、今でも私のことは好きであるとわかる。(この自信。)そしてさらに今、彼は白状していたけれど、実は相当の電話嫌いだったらしい。でもそんなこと言っちゃったら、私たちの通信手段は何もなくなる時代。言えなかったんだろうし、それにたいていの男性は、電話嫌いである。当時若かった私には、わからないんだけど。

 だからってあの時、私はどうしたらよかったのかと問われても、答えは出ない。女性とは、その時の関係が気まずくなって、別れたら終わりだ。しばらく放ったらかして、それこそ何年も冷却期間を置くことなど、できない。そのうちにすっかり冷めてしまう。私のように、昔の彼氏たちと友達に戻れる女性など稀で、たいていの場合は、その関係が終わった時点で一切会うことはない。会っても好きでも何ともないし、つまらないからである。

 男性の場合は、相当こっぴどくフラれた相手でない限り、一度好きになった女性のことは、だいたい、一生好きである。大事に心のどこかにしまっておける。だから久しぶりに会うと、相手を愛おしい気持ちになると思う。私の場合はまた別で、何故、また友達に戻れるかと言うと、それは人間として好きだった相手限定であり、人生の中で一度、同じ時を過ごした者同士なのだから、こんなに気心知れている味方はいない。という理由である。まあ、たまにはいい雰囲気になっちゃったりもするんだけど。それはそれで、分別のあるオトナ同士ということで、いいとして。

 とにかく私たちは、お互いに学生だった頃とは違って、彼が働き出して半年も経つと、だんだんとギャップが出てきていた。考え方は変わってはいないし、お互いに応援している気持ちはずっとあった。けれど、夢を追う学生と、現実を見る社会人。そのパワーを発揮する方向性もずれてきて、二人は徐々に、別々の方向を見て行くことになる。私の帰国がもう少し早くて、社会に出る苦しさを味わうのが同じ時期だったのなら、話はまた違ってきたかもしれない。だけどそうすると、今の夫と出会うこともなかった。タイミングとは面白いものである。ちょっとその時がずれただけでも、人との出会いと別れは変わってくるものなのだ。

 思わず恋愛論を語ると長くなっちゃったけど、何しろ私たちは、決定的に別れるまでの秒読み生活を始めるようになるのである。それは、仲の良いまま、何を喧嘩するともなく。

 私はそれでも、迫り来る試験に向けて頑張っていた。頑張って水泳でもして、今より三キロ太って魅力的になるぞー、なんて、言いながら。(羨ましい!)

 そして、友人ユキと共に開く、五月の大使館コンサートの日はやって来るのである。

2017年5月21日 (日)

五十四 その春の出来事

 その春は、いろいろなことがあった。

 まず、私の母が手術をした。長年の脊椎分離症を治療するため、信頼のおける主治医を見つけたことで、思い切ることにしたのである。このオペは脊椎だけに、医師の腕にかかってくる責任は大きい。私は遠くから応援していたが、母は不思議と不安感はなかったと言う。それだけ、医師に信頼をおいていたのであろう。めでたく、母の手術は成功し、父から喜びのファックスが送られてきて、一安心した。

 そして、私の好きな大先輩のアキカさんが日本に帰国した。しょっちゅう遊びに行ってはピアノを聴いてもらったり、恋の相談に乗ってもらったり、ご飯をご馳走になったりしていたので、残された私たちはポカンと穴が開いたようで寂しかった。ブリュッセルは暗い街だったが、勉強するにはいいところで住みやすく、学生たちのほとんどが滞在が長くなり、住み着いていったので、彼女の留学生活もまた、長かった。大使館の方々はじめ、皆で送別会を開き、彼女の門出を祝った。

 大使館では六月の試験前に、ユキちゃんと二人でジョイントコンサートを開く計画も立てていたので、この時期もその準備やら打ち合わせやらで大変お世話になっている。

 それから私の留学生活も軌道に乗ってくると、日本からたくさんの友人たちが遊びに来始め、ヨーロッパ旅行ついでにフラッと寄ってくれる子、ガッツリ滞在する子、さまざまな友人たちと、語り合った。

 四月は高校時代の友人が一人旅で訪れてくれて、センスのいい彼女はベルギーのお花屋さんで仕入れた花でブーケを作り、プレゼントしてくれた。フラワーアレンジメントを勉強している、と言っていたが、一級クラスのセンスの良さに感動したものである。私の高校の仲間たちは皆、個性的で、特に芸術系に優れた子たちが多かった。私は当時美術専攻クラスだったが(なぜか音楽専攻ではなかった。私は美大にも行ってみたかったので、美術を選択したのである。)上にはまだまだ上がいる、と痛感したのもこの頃からかもしれない。

 小学校時代の幼馴染みで、親友の一人ヨシエはその時、フィレンツェに美術留学を始めていた。もう一人の親友、ミーちゃんは、すでに社会人で、彼女は小学生の時からの夢だった介護の仕事を実現し、堅実に働き、結婚においても着々と自分の理想に向かって計画を進めていた。

 この三人でいるともう、気心知れまくっているので、めいめい好き勝手なことを言いたい放題である。私の六月の試験が終わったら、ベルギーで集結しようという話になってはいたが、ミーちゃんは、英語なんて喋れないから直行便を予約しろとか(自分でやれ)、彼女の結婚式の日取り決定が迫っていたため、私たちは夏休みでないと帰れないから八月にしろと言うと、夏なんて暑くて嫌だから私たちに試験を受けないで帰って来いと言う。言ってることがめちゃくちゃで、話がまとまらず、私たちはそのたびに大笑いをしていた。

 五月に入ると、ローマやパリに私の後輩たちが留学をしてきて、彼女たちは寒いブリュッセルまでよく遊びに来てくれた。私の方がお金がないから、圧倒的にみんなの方がやって来てくれた。ただ、パリの彼女のところへは、レッスン帰りに泊まったりすることが多く、今でも彼女とは家族ぐるみの付き合いが続いている仲である。

 そんな日常の一部始終を、私はたびたび東北の彼に電話を入れては報告をしていたのだが、この春くらいからは本当にその回数が減ってきていた。

 だいたいが口ベタで、電話するくらいなら会ってしまおうという彼であったが、遠距離なんだから仕方ない。彼が社会人になってからは、悠長に手紙など書いている暇はなくなるし、メールもなく、通信手段は電話のみの時代。別に毎日かけていたわけではないが、今日はいるかなと思ってかけてみても、忙しい彼はいっこうに繋がらない。

 普通はここで、悶々と「仕事が忙しいのだろうか、それとも彼女ができてしまったのだろうか。」と考えるところだとは思うが、私の場合、後者の考えはほとんど頭に浮かばず
(ここが私の太々しいところ。たとえ彼女ができたとしても、自分の方が上だと思ってしまう。何て都合のいい考え方なんだ。要するに、自信過剰なのである。だから嫉妬という感情とも、あまり縁がない。)
少しはそっちからもかけてこいよ、コノヤロー。くらいに腹を立てていた。

 そしてある日ようやく、仕事の合間の彼を捕まえることができるのだ。

2017年5月20日 (土)

五十三 スイスを後にして

 マイエンフェルトの小さなホテルは、素晴らしく快適なところだった。

 朝、起きると快晴。そこには三百六十度、見渡す限り、アルプスの山々が。すごい!

 私たちは青空の中、まだ雪の残る、高くそびえ立つ山々に囲まれて、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、箱根じゃないんだぜぇ〜、スイスなんだぜ〜。なんて言いながら笑った。感動で涙が出そうだった。

 何しろ、なんの準備も知識もないから、まずインフォに行って、日本語案内の紙を手に入れ、それだけを頼りに歩き回る。もう、海外はお手の物。二人とも、慣れたもんである。ヨーロッパのリズムはゆっくりで、旅行においても、せかせかと動き回ることの多い日本人と、食事に何時間もかける欧米人とは、はっきり言って全然違う。

 のんびりと、迷いながら移動。「ハイジ」と書いてある標識を見ながら、適当に山を登った。

 そこには、本当にアルムおんじの小屋のような家が建っていて、しかも、中からおじいさんそっくりな人が出て来るのを見て、思わず顔を見合わせる我々。あれは一体誰だったんだろう。今でも気になる。とにかくも、山からの眺めは最高だった。ハイジの泉を見て、散歩道を歩き…。

 そこからラガーツの村へ移動。ラガーツとは、ハイジの物語の中で、クララのおばあさまが温泉療養しつつ、クララの歩けるのを待った場所である。(やたらと詳しい。私はハイジの大ファンだったりする。)そこでもホテルは大当たりで、マダムたちはフランス語が通じ、大変親切にしてくれた。

 だいたいにおいて、よっちゃんは運のいい男なので、一緒にいると何事においてもスムーズに行く。ハズレたことが少ない。彼いわく、運とはまわりまわってくるものであり、一度運を掴んだ時にはそれにしがみつかずに、また他の人へと気前よく受け渡すといいそうである。それを、まさに寅さんのようにやってのける姿は圧巻であった。私なんてせこくて、いつも運にしがみついちゃうから、まわってくる運も少ない。その代わりに努力でカバー、みたいな。全く、彼の気前の良さは、いつもいつも見習うべきものがあった。

 で、ラガーツの後は、バーゼル、オッフェンベルグ、ストラスブルグと、いろいろ寄り道しながら、 フランス経由で帰る。中でもベルギーのお隣さんであるルクセンブルグは気に入った。静かで、素朴で、緑多く、よいところ。また遊びに来たいな、と思いながら、その地を後にした。

 ブリュッセルに戻ったのは午前一時とある。日記には、「とても早い時間だった。」などと記されてある。これにはたまげた。今の私にはとうてい無理。日付変更線をまたぐともうダメ、とたんにボロ雑巾のシンデレラ状態である。体力が持たないし、一週間はやられてしまう。これが若さ、というやつであろうか。あの時はピチピチの二十代。ああ、羨ましい限りである。

 そんなこんなで楽しいパックの旅行は終わり、友人、ユキもナポリやソレントへ楽しい旅をしてきたようであり、学生たちは皆、大いに息抜きをして、再びやってくる六月の試験へと準備を始めるわけである。四月からは日本より、私の後輩たちも続々と留学をしに欧州各地へやって来て、ネットワークは広がって行くのであった。

 そしてこの頃から、東北の彼氏とは、何となく雲行きが怪しくなり始めるのである。
 

2017年5月19日 (金)

五十二 スイスへの旅

 さあ、三月下旬から四月上旬にかけてのヨーロッパは、楽しいパックのお休みである。街のあちこちに、可愛い玉子のお菓子が置かれている。学生たちにとっても、ちょうど試験が終わった息抜きになるのだ。コンセルヴァトワールではこうして年中、コンジェ(休日)が多かった。

 私とよっちゃんは、待ってましたとばかりに、旅行に出た。まさに、あての無い旅。行き先も、宿泊先も決まっていない旅に、一応、ドイツのバーデンバーデンあたりと狙いを定めて、車で高速をぶっ飛ばして出かけた。

 彼とは何度も旅行をしたが、こういうところが、私たちの気の合うところ。まさにOとBの、最強コンビである。

(お察しの通り、私が自由奔放でマイペースなB型。彼が、おおらかで包容力があり、かつ独占欲も強いO型。ちなみに、東北の彼氏と、現、夫は、完璧主義で物静かで、インテリジェンスなA型。なんてわかりやすい図式。私はかなり自由でひどい女なので、O型とは気が合うようで、誰と付き合っても喧嘩が多い。A型の男性とは、かなりの確率でうまくやっていける。A型大好物である。)

 そう、よっちゃんとは本当に、仲も良かったが喧嘩も多かった。私はすぐに他の男友達の話をするので(しなきゃいいのに)当然、独占欲の強い彼にはムッとくる。別に、男の話ばかりしていたわけではない。私には、男女問わず、面白い友人が多すぎるのだ。そんでもって、私がちょっと、ユキちゃんたちと遊びに行く時に、他の男どもも一緒だとわかると、大喧嘩になる。まあだいたい、友人ユキが悪友だったからだ、というせいもあるが。彼女は海外でもとてもモテたし、私たち二人は彼にとって、全く信用のおけない人物であった。

 彼と一緒に現地の飲み屋なんかに行ったりして、他の女の子たちから
「彼女、カワイイね。(←私のこと)心配でしょう?」
なんて言われちゃったりすると、もうその後ケンカである。他の女性からもカオルは、そう見られているなんて!と、まるで私が尻軽女に見られたかのように、怒る。(まあそうだったけど)わたしゃ、一体、どうすりゃいいのさ?と、そのたびにムダな大げんか。

 だいたい、O型の彼氏と付き合う時は、いつもそうだった。私から言わせてみれば、面倒臭いし、非常に疲れる。周りの友人から言わせれば、それはお前が信用ならないからだという結論に達する。こんなケンカばっかりして、腰痛にもなるハズである。だけどA型の男性からは、呆れて放っておかれるので、ケンカはゼロである。あ〜楽ちん。今の夫なんて新婚の頃、「三つ子の魂百までもって言うだろ。この年までそうだったオマエの性格なんて、治らん。」とか言って、私は矯正を受けたことは皆無である。おお、なんてうまいモノの例え。感謝しきりである。

 ま、いいとして。そんなケンカが勃発する以外の時は、私たちはとても仲良しであった。

 前置きが長くなっちゃったけど、私たちはガラガラの高速道路を、時速百四十キロ超えでぶっ飛ばし、(あっちでは普通。ドイツ高速なんて四車線で、二百キロ近くは出ているであろう、ポルシェなんかが追い抜いて来る。)オランダを越えドイツを越え、もっと先へ行こうと調子に乗って十二時間。着いてしまったのだ、スイスのマイエンフェルトに。もう、夜になってしまっていたから、スイスの山々は見えず、星空のみ。景色は明日の朝のお楽しみ、ということで、かけこみでホテルを見つけ、疲れた身体を休めるのであった。

 次の日にご対面するであろう、アルプスの山々を楽しみにして。

2017年5月18日 (木)

五十一 得点発表

 結果は十一時発表と聞いていたのに、コンセルヴァトワールの廊下にはまだ何も張り出されていなかった。

 仕方がないので、ユキちゃんやアシスタントと一緒に、カフェでお茶をしながら待つ。結局、発表になったのは十二時半過ぎ。廊下にはたくさんの学生たちがいる。自分の名前と、点数を確認するために。

 そう、ヨーロッパでは、番号などではなく、学生の名前とその得点が、堂々と発表されるのである。日本ならこれを義務教育でやると、すかさず保護者やらPTAやらが出てきて、個人情報やら云々の大問題で、会議になっちゃうところだ、アホらしい。そして日本の音大でもそうすればいいのに。

 誰が、何点をとっていたのか、自分は一体どのくらいの位置にいて、どう評価されたのか。日本でも、はっきり発表するべきである。私は音大時代、それが学生たちに裏情報として流れてくるのが、とても嫌だった。音楽の点数など、スポーツと違って、誰の目から見ても明らかではない順位なのだし、審査員によっても違ってくるし、第一、音楽に得点などないと思っている。よって、その点数など、音楽においては気にすることはないが、一応試験である。その点数がつく以上、自分がどう評価されたか、というのは、今後の課題にもなるし、学生たちは各自、知っておくべきであると思う。

 私は恐る恐る、早る気持ちを抑えながら掲示板を見た。そこには、私の名前と、その横に、「33」という数字が記載されていた。予想の三十一点よりも上回り、昨年の二十点台という最悪パターンからも逃れて、私は飛び上がった。嬉しい!得点は、四十点満点である。そして多分、後半六月の試験では六十点満点。二つの舞台が合算された得点で、プリが決まる。

 今年日本からやって来た、優秀な友人は35。ユキは32.5を取った。おめでとうみんな!しかし、私の隣には、納得のいかない顔をした友人、ユキが立っていた。しかしもう、決めるのはジュリー(審査員)なのだから、こればっかりはしょうがない。

 さあ、あとは六月の本番だ。その前に、和声の試験がある。頑張ろう。

 私は早速、アキカさんや東北の彼に電話を入れる。彼は、私の大喜びを横目に、「うん、良かったね。でも六月が終わったら褒めてあげるよ。」などとぬかす。このヒトはいつも、自分にも厳しくまた他人にも厳しい。いいよ、ふんだ。こうなったら、六月の試験で思い切り上手く弾いて、見返してやる。私はすぐに挑発に乗るので、わかりやすい。

 そして、日本の家族からもお祝いのファックスが入り、次の日は、日本へ帰ることを決めたアキカさんの家のお掃除を手伝い、猫のプーを友人宅に預けて、私とよっちゃんは、パックの休み(イースター)を利用して、パアッと、行き先不明の旅行に出かけるのであった。

2017年5月17日 (水)

五十 二年目のテクニック試験

 いざ、二年目のテクニック試験の本番、三月二十五日。

 緊張のため、ろくに食べられず、昼過ぎにはコンセルヴァトワールに着く。私は未だに、本番前はご飯が喉を通らない。これは、体力勝負としては非常に不利であるので、何とか直したいと思っているのだが、どうしても無理なので、今はエネルギー補給のゼリーを飲んだり、かろうじてバナナを食べたりして補っている。こないだの生徒たちの発表会主催の日なんて、十秒チャージを七本くらい飲んでいた。まあいいとして。

 当日、私は十四時からの四番目であった。例によって、隣の部屋で練習してから、師匠と一緒に試験会場(プティ・サル)に入る。緊張はしていたが、地に足が付いていないという感じではなかった。本番前に、これでもかというくらい、楽譜の見直しをやっておくと、落ち着いて鍵盤が見られることがわかっていたので、吐きそうになりながら見ておく。(これは非常に緊張するし、辛い作業なのである。)

 部屋に入ると審査員がずらり。学長先生がニッコリと微笑んでくれたのが嬉しかった。

 試験曲は、バロック二曲のうちからソレール、三曲選んでおいたバッハ平均律の中から嬰ヘ長調(めっちゃ難しいやつ)、 ショパンエチュードのエオリアンハープ、ラフマニノフの音の絵から、六度のエチュードが当たった。

 バッハは途中で迷宮入りして落ちてしまう(つまり、間違えて止まってしまう。どこを弾いているのかわからなくなるのだ)代表的な曲であり、絶対に負けるもんかと自分の精神力と闘った。エオリアンハープは随分良かったと、後でアシスタントに褒められる。ラフマニノフは多分、ショワ(自分で選べる曲)であったと思うし、気合いを入れて弾けたはずである。私はどのエチュードにおいても、三度は苦手だが六度は意外と得意だ。
(何度、と言うのは、鍵盤がいくつ離れているかと言うことである。その度数の和音を、始めから終わりまでずっと引き続けるような旋律を持つ練習曲。これが難しい。)

 「このくらい弾けていたら、六月もちゃんと弾いたらプリは取れるわよ。」

 とアシスタントに言われ、私は思わず、終わってからコルニル先生の前で、安堵のために泣く。

 緊張が解けると、急にお腹と背中が痛み出し、鎮痛剤を飲み、終わった学生たちとカフェでボルシチを食べてお祝いをした。皆、晴れ晴れとした顔をしていたから、きっとうまく弾けたに違いない。夜はよっちゃんがこれまたお祝いにと、美味しい日本料理店に連れていってくれた。

 ああ、無事に終わった!あとは運を天に任せるのみ。嬉しい。世界がこんなに明るかったなんて!

 次の日は疲れがドッと出て、それでもヨロヨロとピアノを教えに出かけ(向こうでは出張レッスンをやっていた)、東北の彼氏に留守電を入れておいた。

 そして三日後の、運命の点数発表の日を迎えるのである。

四十九 ラストスパート

 彼がまた東北に帰った後、私は、試験まであと一ヶ月のラストスパートに入った。

 何しろ、今年こそはピアノのプリをとらねばならない。私たちは必死だった。三月のテクニック試験で、ある程度の得点を出しておかなければ、いくら六月の舞台で良い演奏をしたところで、プリは取れない。得点は、合算されるからである。

 他の学科も含めて全部合格しなければ、プルミエプリという卒業証書はもらえないのだが、ピアノのプリを先に取った者は、実技だけは上のディプロムスーペリウールへ進んでおくことができるシステムになっていた。

 トータルで、マックス四年以内にプリが取れなければ退学、というルールがあったが、優秀な留学生たちは、実技は一年で合格したりしていた。ところが、私とユキは落とされた。名誉挽回のためにも、二回目の不合格などできない。そして、送金してくれている両親のためにも。

 それでも、漠然と「三年目の延長」を考え始めていたのは何故だったか。それは和声学の方が、多分今年はまだプリは取れないであろう、という予測があったからだと思う。

 初級はいけるかもしれないが、中級からはグンと難しくなる。一年目は初級に落ち、二年目は初級合格を狙うが、ついでに中級も…なんて、ヨーロッパは甘い世界ではなかった。どれだけ自分が、日本の大学で、和声を勉強していなかったかが身にしみてわかった。もっとも、ベルギーで勉強させられた和声のノートを、今、音楽家の友人たちに見せても、「え、これって、もう作曲の域だよね…」と驚かれたくらいであるから、あちらの勉強はかなり高度なのかもしれないけれど。

 それでもとにかく、今年プルミエプリの証書は取れないかもしれないけれど、ピアノのプリだけは絶対に取る。そういう意気込みがあった。私はエチュードが苦手で(まあ、得意と言う人はあまりいないだろうけど)レッスンでもかなり厳しくたたき直された。毎日毎日、半地下でピアノに向かっているばかりだともう、気が滅入り、そんな日は友達に電話をしてお互い憂さ晴らしをしたり、国際電話で彼にぶちまけたりしていた。彼に、

「また、だらんこだらんこしてるんでしょ。ダメダメ、そういう日は外に出て、感性を磨かなきゃ。」
なんて言われたり、試験直前には、
「試験前は、美味しいものをたくさん食べて、少しくらいお金使って、体調と精神を万全にするだけだよ。」
とか、まるで先生のような助言をしてくれたものだが、当時の私には響いた。まさに、その通りだったからである。随分、心救われた気がする。

 でも、本番前というものは本当に、今こうして日記を読み返してみても、精神状態はナイーブでめちゃめちゃになっている。私は彼氏に当たり散らし、友人ユキに、

「そんなんでもう〜。私は、試験前だろうが、絶対的なものを誰かに押し付けることはしなくなったゾ。彼氏になんて、振り回されないしね。」
と諭され、なのに直後に
「聞いてくれ〜!彼に電話したら、『何か用?』って言われた!キーッ!」
と怒り心頭で電話がかかってきて、大笑いしたものである。

 そう、私たちは皆、試験前は特に、精神不安定状態になっていた。

 そんなドサクサにまぎれて、何だか私はまた、よっちゃんとも復縁したりしていた。何故だったかは、よく覚えていない。何となく、付かず離れずの友人関係だったのかもしれないし、彼が優しくしてくれたのかもしれない。

 だけど私の不安定な、山あり谷ありの留学生活を、そばで何かと支えてくれていたのは彼であった。音楽家ではないだけに、たまに的外れなことも、トンチンカンなことも言われて腹を立てたりしてはいたが、とにかく、東北の彼にも、よっちゃんにも、真逆な彼らに私は支えられ、そして毎回の辛い本番を乗り越えていたことは、確かである。

 そして三月に入り、私たちの、二年目のテクニック試験の日はやって来るのだ。

2017年5月16日 (火)

四十八 彼氏、二度目のベルギー到来

 東北の彼氏は、日本からの直行便、サベナエアーでやって来た。よっ、社会人は違うねっ。私など学生には、とても高くて買えないチケットである。

 何度目の再会だろう。何回会っても、はじめは彼の、阿部ちゃんさながらの顔の濃さにびっくりさせられる。でもその次に、本当に私の良き理解者だなあと、ホッとする。自分でもまあ、わかりやすい性格だとは思うけど、でもこんなに自由奔放な私を放ったらかしにできる奴も、そうそういない。

 彼は待ってましたとばかりに、ホワイトビールを飲んだ。そして、ベルギーにイギリスからチャリンコでやって来た当時、お世話になった先輩方や、大使館の方々にお呼ばれの歓迎を受けた。私は現在の友人たちに紹介したりもした。そして、ずいぶん上達した私のフランス語をとても嬉しがって、よくここまで喋れるようになったね、偉い偉いと、親のようにしみじみ感心したりした。

 ちょうどその頃、先輩アキカさんは、日本の学校から仕事の話が舞い込み、長い留学生活に幕を閉じて帰国するかどうか、大いに迷っていたところであった。アンリオ先生は、「母国からの扉を自ら閉ざすことはない!」とおっしゃっていたし、彼女もそれをよくわかっていたのだけれど、感情というものはそうもいかない。私だって、悩む。留学生というのは皆、なんだか知らないけれどそのうち向こうの生活が長くなり、だんだんとそこに根付き、三年の壁、五年の壁、そして十年の壁を越してしまったらもう日本には戻れなくなる、と言うジンクスがあるくらいであった。彼女はそんな渦中であったのに、私たちを温かく迎えて下さり、もてなしていただいた。

 そしてブリュッセルだけでは飽き足らない彼は、ロンドンへも遊びに行ったりしていた。その間、私はモーレツにピアノを弾く。レッスンも入った。彼の到来により、おかげさまで、音楽的にはとても良くなってきたけれど、暗譜が浮かれている感じである。気を引き締めねば。

 友人、ユキはそんな私をからかい、ウワサの東北の彼とも面白半分、好奇心半分で、タバコをスパスパと吸いながら会ってくれた。

 後から聞いた話によると、彼の方はユキにさりげなく、私に現地で彼氏はいるのか、聞き出そうとしたらしい。ユキはしらばっくれて、「ご自分で聞いたら〜?」などと言い、「そっちこそどうなのよ?」とするどいツッコミを入れた。彼の方は、「まあ、通り過ぎた女の人は何人かいたけど。惚れた女性は、いませんでした。」と、あっさり認めていたと言う。

 だから、私にいないなんておかしい、それなのに何故カオルは隠すんだろう。と言ってたよ、とニヤけるユキちん。そりゃそうである。口が裂けても言うもんか。薄々わかってはいるだろうし、それだけで十分である。それに、彼がキスしようとからかっていた、あの感じの悪い男に出くわし、「あれ〜、久しぶりじゃない?こりゃまた、別の新しい男かと思ったヨ。」とか余計なことを言われただけでも、十分である。こやつは本当に、お勉強はできるんだろうが、自分がフラれた女の子には嫌味を言うしか能のない人物であった。

 さて、彼は美味しいブリュッセルのビールやムール貝をお腹いっぱい食べ、大満足で帰って行った。電話だけでは足りなかった、たくさんの積もる話をし、頑張ってプルミエプリ取って来いよ、オレも早く中国で仕事ができるように頑張るから。と言って、またもや未来の約束などせずに、抱き寄せてもらっただけで別れた。

 私にはそれで満足であったが、当然、寂しい思いも後には残った。それはその時、すでに三年目の延長のことをぼんやりと考え始めていたからでもあったかもしれない。二人の見えない未来は続く。この先、本当に一緒にいられることができるのだろうか、今度は彼の方がまた、海外に行ってしまうことになるのではないか。

 よくぞ続いている自分たちの気持ちに感心しながらも、私は毎度毎度、精神を試されているかのようで、ため息をつくのであった。

 今は苦しいけれど、最終的に、この留学が自分にとって本当にためになったと思える日が来るかもしれない。そう、当時の日記の一ページには、記されてある。

2017年5月15日 (月)

四十七 誕生日プレゼント

 北京の、もとい、東北の彼氏から十日遅れで届いたプレゼントは、タンザナイトのブレスレットであった。

 去年の誕生日には、デッカい段ボール箱にギュウギュウに詰められた、たくさんの可愛い中国の動物たちのぬいぐるみが贈られてきた。いたずらっぽい顔をしながら詰めている姿が想像できて、大笑いしたものである。

 「去年よりは全然、イケてないけど。」と言いながらも、プレゼントを選んでくれた彼。そんな彼に私は、お礼を言った。まあ、パッケージに三万円なんて正直に書くから、しっかり関税取られちゃったんだけど。社会人になったって言う証だね?

 一月の誕生日の日は、私は何人かの先生たちと合同で、生徒たちの発表会を行っていた。向こうでは、教会や楽器店などを貸切り、私たちも弾いてあげたりしながら、アットホームな発表会を行っていた。向こうの赴任の家族の家は広かったので、生徒さんのお宅で、自分の門下生たちだけでホームコンサートをしたこともある。自分の勉強に忙しかったが、生徒たちもまた、徐々に増えてきていた。留学生たちは皆、生徒を教えながら、小遣いや生活費を稼いでいたので、ベルギーを引き上げる時は生徒たちを何人かの留学生たちに引き継いでもらった。

 ピアノ実技の方は、まさに今、佳境を迎えるといったところであった。

 二年目の運命が決まる最初のテクニック試験は、三月下旬。あと二ヶ月だ。膨大な曲数を抱えて、暗譜が間に合うか、間に合わないか?というギリギリのところである。

 コルニル先生に代わり、去年よりもずっとレッスンの質も量も上がっていたが、それだけに苦しいところもあった。まず、エチュード類は、こてんぱにやっつけられた。左手の暗譜がうまくいかない。悔しい。パリのアンリオ先生のところへレッスンにも行き、他の留学生たちが私よりももっと仕上がっているのを聴いて、がっくりして帰ってきたりした。

 そう、上には上がいる、とはまさにこのことである。日本の大学にいた頃は、はっきり言って自分は上位の方に居たので、譜読みなんかも圧倒的にまわりの学生たちよりは早かった。それがどうだろう、世界は広い。まあ、音楽家連中というものは、ひょんなところで知り合いの知り合いだったりしたので、狭い世界なのかもしれないが、ライバルたちは皆、本当に優秀だった。一生懸命やっているのに、なかなか追いつかないという感じ。苦しかった。こんなに勉強したのは、一生のうちでこの時だけだったと思う。私はどちらかというと、小さい頃から勉強はよく出来る方で、そこまで苦労しなくても何事もうまく進められたのだが、挫折、苦労、という二文字をこの時ほど味わったことはない。まあ、適当に遊んで息抜きもよくしてたんだけどね。遊ばなきゃやってられなかった。本当に。

 ということで、まさに今が肝心の踏ん張り時、という最中に、東北の彼氏は大型連休だとぬかしてやって来るわけである。自分が忙しい時は絶対に会おうとしないくせに。

 恋とは、惚れたもんが負けである。私は自分の負けを承知で、忙しい真っ只中に、彼をまたもや迎え撃つわけであった。現地の彼とも別れ、勉強もひとまず棚に上げ、息抜きしよう、と決心をして。

四十六 お別れ

 私が惚れる男たちというのは、今の夫含め、共通して大変クールである。そしてまた、ここぞというピンポイントだけ、実に気が利いて優しかったりする。よくやりがちな男性陣の、ちょっと違うんだよなァ…って女性の期待を外しちゃうようなコトは、ない。

 女は愛するより愛されよ、と言うけれど、それは私の場合、全く当てはまらない。何故ならすぐに飽きちゃうからである。言っておくけど、飽きたくて飽きるわけじゃないし、望んで次を選んでいるわけでもない。大好きな人だったのに、気づいたら他の人を好きになってしまっていたりして、そんな自分に本当は、嫌気がさしていたのである。だけど結果的にそうなっちゃうんだから、しょうがなかった。だから友人たちは皆んな、カオルはとてもまともな結婚はできないだろうと思っていたようだし、まあこれを読んでもわかっていただけるかもしれないけど、私自身もそう思っていた。でも今の私はとびきり幸せな結婚生活を送っているわけだから、人生とはわからないものである。一番びっくりしてたのは、まわりの友人たちだったけど。

 とにかく、そのクールな東北の彼氏は、クリスマスは会えないと一点張りだったくせに、突然、ベルギーに遊びに行くと言いだした。そっちの彼氏は元気?なんてカマかけながら、確かめに来る気、満々である。

 「二月にちょっと、大型連休が取れるんだ。どうやって過ごそうかなって思ってるところ。カオルが迷惑だったら中国にでも行くから、決めて。」

 「会いたいの?」

 「ホワイトビールを飲みに。アキカさんや大使館のお世話になった方たちに会いに。それから誰誰さんに、キスしに。」

 ちなみに、誰誰さんというのは私ではなく、当時私にモーションかけてきていた、今思い出しても許せん男の名前である。

 私は笑い、そして会いたくて、「二月は私も休みだよ。来るなら言って。」

 と言ってしまった。

 さあ、大変である。どうしよう。ちょうどよっちゃんともその頃は喧嘩が多く、別れ話も出たりしていたものの、緊急事態である。ユキやアキカさんたちに相談すると、みな、口を揃えて

 「カオル、愛の逃避行よ!」と言う。東北の彼を、ベルギー以外の国に誘い出せと言うのだ。まったく、女というのはずる賢い。

 でもそんなこと、頭のいい彼が納得するはずなどない。

 案の定、「オレはベルギー以外は行く気ないから。」とかわされる。そりゃそうだ。

 もう、こうなったらやっぱりよっちゃんと別れるしかない。嫌いになったわけではない人と別れるのは、いつだって辛いもんである。だって私たちは、仲良く平和に過ごしていたわけだったんだから。もっとも、こんな私に耐えきれなくて、別れたかったのはあっちの方だったと思うけど。

 一部始終を笑って見ている友人一同と、優しいアキカさんは、
「まあ、新しい風はピアノがうまくいくと思う。その方がいいよ。」
と言ってくれた。そして私は意を決し、彼と別れるのである。東北の彼氏を迎えるために。

 その頃、ブリュッセルでは別れブームで、友人ユキももれなく、付き合っていた彼氏と別れたりしていた。異国の地での別れ。ましてや試験前。その不安さは、ハンパない。

 そんな私のグラついた心を支えるかのようなタイミングで、東北の彼からの誕生日プレゼントは届くのである。

2017年5月14日 (日)

四十五 日本の冬

 二度目に帰国する頃には、私もだいぶベルギーの方に馴染み、ブリティッシュエアライン乗り換え、ロンドンから乗って来る日本人の若者の多さと、その流行りの格好にウンザリしたり、実家に帰ってからの部屋の寒さに耐えられなかったりした。

(ベルギーは寒いけど、家の中はどこだって暖房が効いていて暖かいのだ。北海道もそうだけど。だから思い切り身体を暖房充電してから、寒い外に出ることができる。)

 帰国した次の日の朝は六時半に目覚め、部屋中の暖房をつけまくり、夕方から夜九時まで寝てしまって父に起こされたりと、時差ボケしまくりである。電話には、思わず「アロー(Hello)」とフランス語で出てしまいそうになるし。

 夜九時に起きてしまって眠れないので、仕方がないからバイト先のショットバーに行ってお土産を渡し、遅くまで飲んで帰ってきたりしていた。そこから東北の彼のところに電話をかけてもらい、みんなでワイワイ話すも、クリスマスに彼と会うことは出来なかった。一年目の仕事は、徹夜するくらいに忙しかったのである。残念。

 この冬の帰国中、彼と会うことはできなかったのだが、代わりに私はまた多くの友人たちと会って過ごした。今じゃあ考えられないほどの、日替わり友人メニューである。独身時代の、友達ネットワークには感心させられるものがある。高校時代のクラス会にも出席しているし、またもや、横浜国大のロシアで出会った彼らとも飲んでいる。

 でもそれだけではなく、おばあちゃんのお見舞いに茨城まで行ったり(この頃には祖母はかなり状態が悪く、母のもとから離れて、叔父のいる茨城の病院へ移っていた。)それから、大学で理事長にご挨拶したりしている。師匠のレッスンも受けた。

 私の一時帰国は矢のように過ぎた。そして、遅れて帰国したよっちゃんとも、初めて日本でデートしたりした。日本で一緒にいる感覚は不思議であったが、ベルギーに慣れてしまったことでの日本の居心地の悪さをぶつけ合い、共通の思いを抱いていたと思う。その時は。

 二週間とちょっとの冬休み帰国はあっという間に終わり、故郷に別れを告げて、私たちはベルギーへと戻った。半地下の部屋に到着すると、寒いのなんのって、ショファージュをつけてガタガタと震えていた。ユキちゃんに聞くところによると、この年末年始はマイナス十八度くらいになったそうで、今日は暖かい方だと言う。台所のオリーブ油も凍っているし、外のトイレは使えないし、暖房が効くのは、次の日までかかった。

 それでも私はすぐにまたブリュッセルでの生活に馴染み、猫のプーを預けていた友人宅に迎えに行き、三月の実技試験に向けて、相変わらず同じ生活を始めようとしていた。

 突然、東北の彼氏から 「またベルギーに遊びに行くよ。」
と連絡が入るまでは。

2017年5月13日 (土)

四十四 また日本に帰りたい

 そう、その秋、私はギックリ腰になった。

 確かよっちゃんと喧嘩をして、「ちょっと、聞いてるの!?」なんて言いながら、思いっきり彼を引っ張ったら、そうなった気がする。「バカだねぇ〜」と呆れられつつ、私は一週間、安静の身となる。ピアノを弾けないのは痛かった。膨大な譜読みがあるというのに、ここで弾けなかったら厳しい。病院へ行ってレントゲン撮ったほどだったから、けっこう重症であった。私はその他にも生理痛に悩まされていたから、下半身は常に最悪である。

 それでも友人たちと一緒によく飲んでは食べて、気晴らしに楽しく過ごしていた。ユキとはよく飲んだが、しづちゃんとはよく鶏鍋をやった。

 一緒にマヨルカ島に行った、仲良しのしづちゃんは、鳥が、特にインコが大好きである。彼女は一度ザグレブに留学し、そこからベルギーに移って来たのだが、物静かだけれど芯の強い美女であった。ベルギーはプレ(鶏肉)が大変美味しい。骨つき肉を贅沢にも鍋にドーンと入れ、出汁をとった鶏鍋は絶品であった。美味しいねえ、と私たちは頬張りながら、しづちゃんは「でも私、エビは食べられないの。」と言った。何故かと訊くと、ヨーロッパで巨大なオマールを見たら、飼っていたザリガニを思い出してしまったと言う。だけど鶏肉はいけるらしい。鳥を飼っていたのにね。そんなことを、物静かに語るしづちゃんはとても面白かった。

 ああ、話がそれちゃったけど、とにかく私はギックリ腰。焦る気持ちを抑えつつ、安静に過ごしながら、日本を想った。

 冬休みに、帰りたいな。

 そう思ったら一直線。どうせダメだろうと思いつつ、国際電話をかける。

 妹いわく、

 「お姉ちゃん、どうせクリスマスを東北の彼氏と過ごしたいから帰りたいだけでしょ。」
(図星)
「あいつ、腰のせいにして帰って来るつもりだぞ、って、父、言ってたよ。」
(バレたか)
「いいって。帰って来て、いいってよ。」

 意外である。許可がおりたのだ。私はびっくりしたが、嬉しかった。暖かい日本での年越しができる。しかも今回は、相棒よっちゃんも遅れて帰国すると言っている。楽しい旅になりそうである。

 私はなんだかんだ言って、彼ともまた楽しく過ごしていたところだったので、とても楽しみであった。仕事をしている彼はハツラツとして爽やかでカッコよかったし、何しろB型とO型同士で、気も合っていた。恋人同士、と言うよりは、もっと身近な家族のような感じであった。でも価値観は少し違っていたから、お互いに頭では理解していたけど、イライラさせたことも多かったと思う。夫婦になるのって、いちいち話し合わなくても自然と同じ感覚でいられる方がいい。だけどそういうのって、何年か暮らした後にわかったりもするから、人間同士って本当に難しいもんである。

 十二月にはクリスマス市も開かれ、年末のブリュッセルの街は華やいでいた。
だけど大晦日は、本当に寂しい。どこの店も閉まり、静まり返る年末。そして、何の飾り気もなしに始まる正月。誰もが日本のお正月が恋しくなる時期である。

 二年目の年末をギックリ腰で迎えた私は、ひょんなことから日本で過ごせることになり、正月を心待ちにしていたのであった。

2017年5月12日 (金)

四十三 二年目の友人たち

 二年目になると私は少しずつ生徒も増え、楽譜を買う余裕なども出来てきた。

 ブリュッセルには楽譜屋さんが二軒あって、学校からグランプラス方面に下りて行く途中、adagioという、見るからに楽譜屋。という名前の店などで、マニアックな楽譜を探しては喜んでいた。

 でもその他はだいたい、学校の図書館で借りてコピーしたり、メディアティックというCDレンタル屋で借りてはテープにダビングしたりしていた。今ならユーチューブでクリック一つで聴ける時代。便利になったものだが、その頃はまた、探しに行く喜びというのがあった。

 楽譜をめったに買わなかった訳は、いつか帰国する時に、膨大な荷物にならぬよう配慮したからというのもある。友人たちの中には、日本から楽譜をどっさり送ってもらった子らもいたが、私はやめておいた。結果、すごい量のコピー譜が、今、楽譜棚に置いてある。貴重な先生の書き込みがあるので、捨てられないのだ。でも、探すのに一苦労する。よって、生徒たちにはなるべくコピー譜は使わせず、使ったとしてもスケッチブックなどに貼り、楽譜を極力買うように言っている。まあ、もともと、楽譜をコピーしちゃいけないことになってるみたいなんだけどね。

 コルニル先生のレッスンは大変わかりやすく、熱心で、多い時など二時間もみてもらえた日もあった。アンリオ先生のところへ行くしかなかった、一年目のひどいレッスン状況とは大違いである。ただ、コピー譜を持って行っても怒られないが、全音出版の楽譜を持って行くと叱られる。かろうじて日本から持って来た楽譜だったかもしれないが、だからこれは使わなかった。

 図書館などにいると、いろんな国籍の子と仲良くもなれた。韓国(だったかな)のクーユンは、親切だったが高飛車だったし、中国混血のレティーシャは、とってもいい子で努力家であった。背が低くて手も小さく、何度も試験に落ちて、結局卒業できなかった気がする。応援していただけに、残念であった。

 日本からの留学生も、この年はとても多かった。芸大卒、桐朋卒、東京音大卒、いろんな大学からやって来る。中には、来年渡ってくる彼女を心待ちにしている彼なんかもいて、微笑ましかった。今はスペインで活躍しているであろう、Mr.ミタなんかには、「カオルちゃんとは絶対、その場限りの関係にはなりたくない、後が怖そうだから。」とか言われちゃったりなんかして、大笑いしたものである。覚えてないと思うけど。

 「私、ピアノ以外は何にもやったことないの。カオルちゃん、お裁縫得意なんでしょ?」と言う可愛い箱入り娘もいて、スカートの裾からほつれた糸を縫ってあげて、感動されたこともあった。

 とにかく、いろんな個性的な子たちがやって来たので、とても楽しい年になった。でも一様に言えたことは、裁縫はできなくても音楽にかけては皆、秀才だったことである。ピアノはもちろん、和声なども二年目の私なんかよりもずっと高い点数を取り、音楽史などもズバ抜けた成績で合格したりしていて、素晴らしい、の一言であった。おめでとう、と声をかけると、「まあ、人間ひとつくらい、いいところがないとね。」と、ニヤリとかわされたものである。

 そんな優秀な学生たちとよく、大使館に行ってはコンサートを開いたりした。
音楽留学生と大使館員たちはとても仲が良く、その中でも特に私たちは仲良しだった。大使館に行っては、恋の相談までして来たり。いろいろお世話になったものである。

 そして私は、二年目を順調にスタートしていたのもつかの間、秋も深まり冬が訪れた頃、ギックリ腰になった。

 ピアノの椅子に一週間座れない状態が続いて、すっかり気弱になり、まわりの友人たちや彼氏にぶちまけるのである。

四十二 猫のプー、ネズミと闘う

 十月に入ると、ニースに語学留学していた私の高校時代の友人が遊びに来た。

 彼女はとても頭の切れる美人で、だけどたまにドジ、という可愛い奴である。名前をミキちゃんと言う。今は、高校時代から上手かった料理の腕を生かして、料理教室の先生をやっている。通称、もっと違うあだ名で呼んでいたがそれはまあいい。とにかく彼女は、フランスに着いて少し落ち着いた頃、ブリュッセルに来てくれた。

 ちょうどその頃、依然としてネズミに悩まされてはいたが、うちには頼もしい味方、プーすけという猫がいた。よっちゃんが、目に入れても痛くないほど可愛がって育ててくれていたので、それはおっとりとした、可愛い性格の猫であった。どちらかと言うと、賢い猫ではなかったが、のんびりして悪さをしないところは助かっていた。猫はボーッとした子に限る。そして、ネズミはパタッとその姿を消していた。

 ミキちゃんが来て、私たちはブルージュへ遊びに行ったり、カフェや公園の昼下がりを楽しんだりしていた。一週間弱くらいの間、寒いところは苦手なくせに、ベルギーを堪能していたと思う。

 ある日、ミキと半地下の部屋にいる時に、プーすけが何やら部屋の隅を追いかけまわして大興奮しだした。どうしたんだろう?と思って近づいて見ると、なんと、口からしっぽが出ている。ネズミをくわえているのだ!私たちは、青ざめた。どうしよう?そして思わず、顔を見合わせた。すると勇敢なミキ様が、

 「プーちゃ〜ん、ちょ〜っと貸してごら〜ん?ホラホラ、いい子だから…」

 とか言いながら、おそるおそる、そ〜っと口に手を入れて、ネズミを捕まえたのだ。

 プーは大事な獲物をとられまいとして唸っていたが、根がおっとり屋なので、仕方なく獲物を差し出した。

 ぶら〜ん。ミキの手から、ネズミがぶらさがっている。もう、観念しました、と言わんばかり。私たちは、うろたえた。と言うか、ミキがうろたえていた。こ、これ、どうしよう!と言って、とりあえず庭に出る。咄嗟のことに、どうしようもできない。

 「な、投げちゃえ!」
と私は言った。ミキは思い切り、庭の奥の森へ向かって、え〜い。と投げ、ネズミは遠く彼方へ飛んで行った。

 今思い出しても二人で笑える光景である。だが、ネズミは投げてもまた戻って来る。

 その後、ミキちゃんが無事フランスへ帰った後、冬になって、もう一度プーが大興奮をし、何と十五分間で七匹連続、小ネズミらを捕獲した事件が起こった。私はいざ、その時のために用意しておいた手袋をはめ、一匹ずつ口から取り出しては、捕獲用の缶カンの中に入れた。

 缶の中でピョンピョン飛び跳ねているネズミたちを、車に乗せて、遠くの森まで捨てに行った私。ユキやアキカさんに話すとゲラゲラと大笑いされた。ブリュッセルでは猫ブームで、彼女たちも猫を飼っていた。ユキの猫のサリーなど、日本に帰国した今でも二十一歳という大婆ちゃん猫として、元気に関西で暮らしている。

 それ以来、ネズミたちと顔を合わせることはパッタリとなくなった。きっとあれは、ネズミの親子たちだったのだろう。決死の大移動中だったのかもしれない。

 それにしても、いくらおっとりした猫でも、本能というのはすごい。動物の本能というものは退化せず、便利になった今日でもちゃあんと、その能力は発揮されるものなのだ。

 というわけで、プーが大健闘した話。
今は亡き、プーすけの武勇伝として、ここに記します。

2017年5月11日 (木)

四十一 二年目の選曲

 十月のコルニル先生のレッスンが始まるまでに、私たちはアシスタントと相談しながら、二年目の試験に向けて選曲を始めた。

 各時代から好きな作曲家を、卒業時までにまんべんなく選んでゆくので、私はまず古典派からはモーツァルトを選ぶことにした。

 モーツァルト!幼い頃から、ベートーヴェンよりは、はるかに曲数をこなしてはいたが、きちんと弾くには難しい曲。そう思って敬遠していた。ところが、初めてブリュッセルに来た一年目の秋、大先輩アキカさんが、ベルギーのオケと一緒にモーツァルトのコンチェルトを演奏したのを聴いて以来、大好きになってしまった。惚れた、ってやつである。私もあんなふうに、楽しく幸せなモーツァルトを弾いてみたい。だから迷わず選曲した。ソナタK333、変ロ長調。頑張るぞ。

 ロマン派からは、ブラームスの間奏曲がまだ向いてるわよ、と言われてop.117を選んだ。ブラームスは、はっきり言って根暗だ。ドラマティックに盛り上がったかと思うと、報われない恋のようにしぼんで終わってしまう。暗い、暗いよ!と思いつつ、その恋い焦がれるような甘い旋律と、どっしりとした重厚な和音を出そうと、苦労した。だって、私には持ってないものばかり。相性が合わないのである。

 近代からは、プーランクの三つの小品を選んだ。これは何故選んだか覚えていないが、アキカさんの十八番だったので、彼女の影響は大きかったかもしれない。彼女は後々、コンセルヴァトワールのアシスタントになるので、何回かレッスンもしてもらった。とても良いレッスンを受けたのを覚えている。

 最後に、現代。これは私の得意とするところ。スクリャービンを選んだ。

 ド〜ンとソナタなど、と、いきたかったが、自爆しそうなのでやめておいた。五番のソナタは大学時代に弾いていたが、新しいものを弾きたかったので、二つのポエムop.32を選ぶ。スクリャービンは、初期の頃は多分にショパンの影響を受けて作曲しているが、後半はなんというか、エキセントリックで気狂いじみたところも多い。感情にまかせて荒れ狂うところも、事細かに表現を詩的に指示してくるところも好きである。型にはまらず自由奔放に弾けて、私の性格的には、やりやすい。迷わずこれをショワ(本番必ず弾く選択曲)にした。

 友人ユキは、ショワにグラナドスのゴイエスカスから一曲と、古典にベートーヴェンソナタop.10-3、リストのポロネーズ二番、プロコフィエフのソナタ三番を選んでいた。いずれも大曲である。

 それから忘れてはならない、三月のテクニック試験用にも、またバッハの平均律から三曲と、バロック二曲、エチュード三曲をやらねばならない。音楽やってる者にはわかると思うが、これは毎年かなりハードである。

 そんなこんなで、二年目は何が何でもプルミエプリを取る。と言う私たちの意気込みはハンパではなかった。十月までに少しでも譜読みを進めておかねばならない。そしてまた、たくさんの新しい留学生たちも日本からやって来て、交友関係も広がり、楽しく厳しい年の幕開けとなった。

四十 再びブリュッセルへ

 パリ、シャルルドゴール空港へ降り立つと、そこは懐かしいヨーロッパの匂いがした。冷たく乾いた空気、香水の香り。あちこちで聞こえてくる、フランス語。ああ、また頑張るぞ!と気合いが入る。

 エールフランスを乗り換えて、ベルギーのザベンテム空港まで向かって行く。機内から見える、どんよりとした雲が、ああ、戻って来たんだなぁと思う。

 到着すると、そこにはよっちゃんがお出迎えしてくれていた。

 「カオル大先生!元気でしたか〜。」

 と、ひょうきんな彼は、冗談めかしながら言って、荷物を持ってくれた。

 調子のいい奴!って思うでしょう? そうです、私は調子のいいオンナである。何とでも言ってくれたまえ。彼氏を二人抱えて、私はひどい女であった。土下座して謝ります。

 でも彼らは二人とも、私のことなんて全然信用してなかったし、だいいち結婚も決まってない若者が誰かに束縛されることはない。と、思っていた(と思う)。彼らとは今でも仲の良い友人なので、私の懺悔に笑ってくれているはずである。人間の心は複雑で、なかなか割り切れないものだ。と、屁理屈こねるとこも調子のいい奴の典型だとは思うが、とにかく、ブリュッセルに降り立ったこの瞬間、やっぱりよっちゃんとは良き友人に戻ろう、その方がお互いのためにいい、と思ったことは確かだった。

 時刻は夜で、街中のライトアップがとても美しかった。あっという間に、ヨーロッパに馴染む私がいる。家に着くと大家さんたちともすぐ会えて、早速ショファージュ(暖房)をつけてもらい、疲れ切っていた私はすぐに眠った。この部屋にももう一年住めることになり、家賃が少し値上がりしたものの、救われた思いであった。

 そしてまた、十月から始まるコンセルヴァトワールの授業に向けて、セクレタリー(事務局)での登録や、膨大な曲決めと練習が始まったのである。

2017年5月10日 (水)

三十九 師匠たち

 帰国中、師匠の演奏会を聴きに行った時のこと。

 「オイ、今度うちに遊びに来いよ。話聞いてやるから」

と、我が師匠Mr.カワソメは、楽屋にいる後輩たちの前でおっしゃった。

 「いいな〜、カオル〜!」なんて、みんなで盛り上がりながら記念撮影をする。

 そんなわけで夏休みには、師匠のところでいろいろ話を聞いてもらい、ピアノもついでに聴いていただいて、一年間で少しスケールが大きくなったんじゃないかとか、曲づくりについてアドバイスを受けたりして帰ってきた。

 奈良先生もまた、懐かしいブリュッセルの話を聞いて下さり、この先もう一年へ向けてのアドバイスなどをいただく。

 師匠たちに私の話を聞いてもらったのは、主にこの時と、本帰国した時であった。二年目以降になると向こうでの生活も慣れてくるが、完全帰国した時は、さてこれから先どうするか、と誰もが迷う時期だからである。帰国したはいいが、仕事はなく、リサイタルに向けて準備を進める苦しい時。日本で軌道に乗るまでは本当に大変だった。

 それから夏休みには、お墓参りもした。

 大学時代の私を育ててくれた、今は亡き師匠、てっちゃんのお墓である。

 先生は私が大学四年の時に病気で亡くなった。六十三才であった。とてもユニークな師匠で、私たちの個性を尊重してくれながらも、学生の能力を伸ばす才能に溢れた方であった。私は先生のお墓に来ると決まって先生と話ができるという特技を持っていた。 先生には霊感があったので、先生のお墓限定かもしれない。はたまた、妄想かもしれない。でもそんなことはどうでもいいのだ。とにかく、私はここへ来て、先生にいろいろなことを報告し、お話をした。

 八月の下旬頃、ブリュッセル音楽院でも動きがあり、私たちが一年間ついたアンシュッツ先生が退官され、コルニル先生に振り分けられることが決まった。どんな先生なんだろう。私たちは揺れた。ユキちゃんなど、もう他の国のコンセルヴァトワールを受ける気になっていたようだった。まあでも現状はとにかくこれ以上悪くはなるまい。

 さて北京の彼の方はというと、めでたくこの秋からの中途採用が決まった。中国にも店舗がある、大手の流通業である。どうやら、最初は東北に配属になるらしい。九月の入社式に向けて、意気揚々としていたと思う。

 そして九月七日。楽しかった二ヶ月ちょっとの一時帰国を終え、私はもう一度、二年目の留学生活へ向けて旅立つ。家族と愛犬に別れを告げ、最後の日は彼と一緒に過ごし、空港まで送ってもらい、お別れをした。これで何度目のさよならだろう。そうそう会える距離じゃないから、かえって開き直れるんだけど、やっぱり寂しい。どこでもドアーがあればいいのにと思った回数では、私が世界でトップ賞をもらえるはずだ。(そんなことないかもしれないけど)

 彼は最後にお寿司を食べながら、寂しそうな私に向かって

「頑張ってれば結果はついてくる」

 とまた、お決まりのセリフを言った。

「頑張るね。」「頑張って来いよ。」

 そう言い交しながら、やっぱりゲートに入って行く時、私は泣いてしまった。

 楽しい時間をどうもありがとう。そう思いながら、機内で気を取り直す。

 エアーフランスは、パリに向かって飛んで行く。楽しかった日本。また戻れる日まで、頑張るぞ。そう思いながら、私は長旅でまたもやヘトヘトになるのだった。

2017年5月 9日 (火)

三十八 日本の友人たち

 夏休みの間、私はたくさんの友人たちに会った。

 私は男女共に友達が多いが、結婚する前は、本当に付き合いが多かったと思う。別に今、自粛しているつもりはないが、結婚しちゃうと家事やら仕事やらで忙しくなるし、なかなか友達に会う機会はなくなる。ちょっと悲しいが、本当のことである。

 一時帰国すると、まわりの人々からそれはそれはチヤホヤされた。あ〜、チヤホヤされてんなァ私。と思ったものである。大学へ行けばたくさんの後輩たちが寄ってきて話を聞きたがったし、先輩たちは可愛がってくれ、先生方は、どうしていたかと尋ねに来てくれた。大学で呼ばれて、演奏したりもした。そしてまた、友達以外にも近づいて来る者たちがいた。留学に興味があったり、これから先の仕事に、私が便利だと思ったりする人々である。そういうのは本能的に察知したので、私の人を見る目は意外と鋭かったりする。だけど基本、来る者拒まずなので、そんな人たちとも楽しく付き合うことにした。やっぱり裏切られちゃったりもしたけど、まあいい。

 昔からの友人たちともよく会った。私の友達は、なぜか海外に出る者たちが多かった。特に、高校時代の友人たちである。彼女らは、語学留学や、美術留学、それに海外青年派遣まで、フランス、イタリア、イギリス、アメリカ、それにアフリカなど、バラエティーに富んだ個性溢れる友人層であった。この秋から留学を決めている幼馴染みもいたので、ヨーロッパでまた会おうという約束をしつつ、夏休みもよく遊んだ。そうでない友達たちは、私の帰りをとっ捕まえて飲みに出かけ、皆、面白がって話を聞いてくれた。仕事をしていた友人たちは皆、結婚の時期だったりしたので、彼女らの恋バナを聞くのもまた楽しかった。

 私は元カレとも良き友達に戻っちゃったりするので、彼らとも会ったりした。皆一様に励まして、応援してくれた。嬉しかった。二十歳の頃、大好きだった音楽家の彼も会ってくれたし、高校時代のマニアックな彼もまた、一緒にラーメン食べに行っては語り合ったりして(イギリス留学してた彼ではない。また別)私の鬱積した苦しい一年目の留学生活の想いも、霧が晴れて行くようであった。

 モスクワで出会った横浜国大の男の子とも会った。彼は私みたいな音楽留学生の生活に非常に興味を持っていて、何人かの同級生たちを誘ってくれて、みんなでワイワイ飲んだりした。実に爽やかなメンバーたちであったが、私のまわりの友人たちとはまた、異色だったので、へえ、普通の大学生って、こんな感じなんだなあ。なんて感心したりしていた。彼とはその後、北京の彼氏の相談にもよく乗ってもらい、帰国後もしばらく年賀状のやりとりをしていたが、彼の結婚後、何となく連絡は途絶えた。大好きな彼女と結婚したのは知っていたので、今も幸せにやっていることを願う。

 そしてそんな交友関係の広い私に我関せず、北京の彼は彼自身の道を黙々と歩いていた。
「カオルちゃんどうせ浮気してるんでしょ、そこんとこは全く信用してないから。」
と言いつつ、ニヤリと笑う。図星であったが、お互い様である。
この間、十五年ぶりに再会した時、過去の暴露話に大いに盛り上がり、お互いゲラゲラ笑いながら懐かしんだ。

 私はたくさんの楽しい友人たちに恵まれて、幸せだった。そして今も。どうかみんなでこの記事を読んで笑って下され。

 楽しい一時帰国はもう少し続く。

三十七 もう一年の延長

 私は何も一時帰国で浮かれ飛んでばかりいたわけではない。(そうだったけど)

 入院していたおばあちゃんを見舞い、手術の付き添いをしながら、半分呆けてしまった祖母になるべく思い出してもらおうと思いながら、病院へ通ったりしていた。祖母は幼い頃から一緒に暮らしていた、私の第二の母である。

 「おばあちゃん、カオルだよ。」
 
 そう言うと、じっと私の顔を見つめ、

 「気になっててねぇ。」

 とだけ、ポツリと言った。おお、覚えているのかな!と嬉しく思う。

 母は私のようないい加減な人間ではないから、娘の私たちが心配になるほど、介護に一生懸命であった。私が同じ立場になったら、気持ちはあるけど多分その適当さっぷりを、今から謝罪申し上げる。

 そしてまた、ブリュッセルのよっちゃんもたびたび電話をくれた。

 彼には私の不在の間、部屋を任せていたのだが、何と、猫を飼ったと言う。ネズミ対策にほとほと困り果てていたし、そんなところへ、知り合いの本屋さんのところに可愛い子猫たちがたくさん生まれたらしい。名前はプーすけ。ボクがちゃんと育てておくから、まかせとけ!と張り切っている。彼は本当に優しい人だったので、動物の世話なんかになるともう、愛情深くて深くて、私にはとうていそこまでできないくらいに可愛がってくれた。

 私が日本で彼と会っていることは知らせていたけれど、子猫の世話ももう全てを任せた。なんだかんだ言ってもどうせ私は、日本でリフレッシュした後は、またあの暗い穴ぐらの部屋へと戻って、黙々と勉強を続けて行くことになるのだ。

 日本で一息つきながら、色々と師匠たちに話を聞いてもらい、友人たちとお喋りをするうちに、またもう一度ベルギーで頑張ろう、と私は、日、一日と決心を固めていた。そして父も、卒業資格を取ってこいと、一年間の送金を約束してくれたのである。

2017年5月 8日 (月)

三十六 帰国した彼

 私の恋愛は、空港での想い出が圧倒的に多い。

 今書いている恋が、めぐりめぐって今の夫に辿り着くワケなんだけど、札幌出身の夫とも、まだビミョーな関係の中、羽田空港でのお出迎えやお見送りシチュエーションはあったっけ。あの時もドキドキしてたな。まあいいとして。

 私は彼の到着を、ドキドキで待った。思えば何度も空港での感動の再会、涙のお別れがあった。くっついたり別れたり、中国にまで乗り込んで復縁しに行ったりと、当時はフツーにやってのけてたが、今思えばいかにパワフルで、ドラマチックな関係だったことか。それはそれで大変だったが、面白かった。

 彼は二年間の北京大学での留学生活を終え、日本に帰国した。秋からの中途採用に向けて、就職活動するための夏休みである。だからあんまり会えないし、かまってやれないよ、と言われていた。私は私で、会えるだけで嬉しかったし、それに他にもたくさんの女友達や男友達、先生方とのランデブーがあったから、暇ではない。そんなことは承知の上であった。

 一年ぶりに会う彼との再会は、緊張して顔がまともに見られなかった。何を話したかも覚えていない。まあこんなに年月が経っちゃ、もともと覚えてないんだけど。でも嵐の中を運転して帰り、ブレーキの踏み方が危ないよ、と注意されたのは覚えている。その日はそのまま、彼の家に泊まった。彼の部屋は実家の離れで、キッチン付きのちょっとしたコテージのような素敵なところであった。

 彼とはショットバーのバイト仲間だったので、帰国するとまず、仲間のいるその店によく遊びに行った。考えてみたら、今の夫も当時は珈琲屋で働いていて、私はしょっちゅう入り浸っていたから、状況は似ていたかもしれない。とにかく、仲間っていうのはいいものである。まわりも応援してくれるし、彼に会いたいな、と思ったらとりあえず店に行ってみると居たりする。今みたいに携帯がなかったから、(あったけど、すっごくデッカくて重たいトランシーバーみたいなやつで、その次は電波の悪いPHSが普及した)家電話にかけるのも億劫だったし、とりあえず行っちゃえ、みたいなノリがあったのである。

 その店の仲間たちは本当に楽しかった。そして、就活で忙しいと言ってたわりには、私たちは頻繁に会っていた。ここを逃したらあと一年先まで会えないかもしれないからである。私たちは価値観も似ているところがあったので、お互い、気ままに異性とも遊び、嫉妬もしつつ、なんだかんだと仲良くやっていた。そしてうちの両親も、てっきり結婚するもんだと思っていたらしい。人生とは、わからないものである。

 私は全身全霊をかけて彼のことが好きだったが、お互いに発展途上で、これから先、やるべきことが山ほどあり、進むべき道がどこへ向かっているのか、誰にもわからなかった。彼のセリフは決まって「頑張っていれば、必ずうまくいく」であったし、具体的な私たちの共通の未来の話は全く出てこなかった。それが不安で、一体いつになったら一緒になることができるのか、私は怖くて考えたくなかった。そんな話になればなるほど、喧嘩になる。それよりは今、お互いの気持ちが続いているのなら、この瞬間を頑張るしかない。そうお互いに思っていたと思う。

 日本での楽しい夏休みの時間は、あっという間に過ぎた。楽しい時は早いものである。そして私は毎日、たくさんの女友達たちと会い、そしてまた無意識にたくさんの男友達に恋の種を蒔いては、人生の夏を謳歌していた。

 竜宮パラダイスな夏休みは続く。

三十五 日本へ!

 私は四年間のうち、何度か日本へ一時帰国したが、一年目の帰国ほど新鮮で感動に満ちた時はない。再び色々な衝撃を受けるのは完全に帰国した後であるが、旅行とは違う、ガッツリ海外で暮らした後の日本に感じることは信じられないくらいに大きかった。

 感じることも大きければ、時差ボケもまた大きい。ちょっと二週間旅行してきた時なんかとは訳が違う。不思議なことに、日本から欧州へ行く時よりも、向こうから帰って来る時の方がひどかった。皆そうらしい。なかなか慣れなくて、一週間くらいは辛かった。

 エールフランスのパリ乗り換え便で成田到着、まずは空港のトイレで尻もちをつきそうになり(日本は海外に比べて便座が低いのだ)横浜までリムジンで、それから我が家へと向かう。

 道中、ああ、懐かしい日本の匂いがする。蒸し暑い湿気と、青々とした草の匂い。空気が全然違う。そして何もかもが小さい。街も、公園も。こんなに小さかったっけ?

 実家に着くと、庭で寝そべっていた愛犬ビビが、「あっ!もしかして!」という顔になり、ワンワンと吠え出して、グルグル回って喜んでくれた。次に、「一年間も、何してたの!」と怒って吠えていたようである。家の中は小さく、天井が低くてびっくりする。(ヨーロッパは天井が本当に高い)私はチビなのに、大女になったよう。でも、さすがは実家、私はすぐに馴染んで、両親に笑われた。道ゆく女の子たちは皆、お洒落で、私の服装はヤバイ。そんなことを、早速国際電話でユキに報告すると、ゲラゲラと笑われた。

 懐かしい、夢にまで見た日本に帰ってきて、私は安堵すると同時に、ブリュッセルを恋しく思う気持ちも芽生えていた。

 しかし、宿題も、本番も何もないこのフリーな夏休み。思い切り充電してやろうと、私はまず、身なりを整えるべく美容院へ向かい、同じく北京から帰国する彼氏を迎え撃つのである。

三十四 留学生活あれこれその二

 海外で生活してみると、今まで気づかなかった日本の良さや悪さがわかってくるんだけど、私が暮らした四年間で、一番ヨーロッパの良いところと言えるのが、挨拶をきちんとするところである。

 いや、きちんと、ではない。気持ち良く当たり前に、それが習慣となっているというのか。

 人通りの少ない、自宅前の道ですれ違う、見知らぬ人とも「ボンジュール」
 お店に入った時にも、 スーパーのレジ係の人とも「ボンジュール」
 カフェで注文する時も、出先のトイレに座ってるマダムにも(向こうではトイレ掃除のおばさんがいて、チップを払って入るのだ)
皆にボンジュール、と言って挨拶をする。

 とにかく、いつもいつも挨拶をしていたから、日本に一時帰国をすると、コンビニでもどこでも、「いらっしゃいませ」と言われて何も挨拶しないということが気持ちが悪くて仕方がなかった。今でも私は、レジに並ぶ時はレジ係の人に、「お願いしま〜す。」と言ってカゴを差し出している。無言でいることは、できない。

 日本ではお客の方が威張っているけれど、向こうでは違った。お店に入れば、店員の方がプライドを持ち、常に対等か、上から目線であった。「貴女にはこれは似合わない、こちらの方がいいわ。」と言われたり。でもお世辞がないやり方はとても気分が良かった。日本で洋服店などに入ると、一様に「いらっしゃいませぇ〜」と黄色い声を出されて、今でも気色が悪い。「うるさい黙っとれ!」なんて叫びそうになったりね。

 一度、向こうのヴァカンスで他の国へ行った時、挨拶をしてお土産店に入って行くと、その店のマダムが、

「あなたたちは、日本人?日本人はね、たいてい挨拶をしてくれないのよ。ハローって言って入って来てくれないの。そして、中を見るだけ見て、なんにも言わないで、出て行く。日本に帰ったらみんなにぜひ、気持ち良く挨拶をしてくれるように伝えてね。悲しいって言ったらないのよ。」

 と言っていた。お店から出て行く時も、「ありがとう、さようなら」と言うのは常識である。

 ベルギーでは、小さな子どももイッチョマエな紳士、淑女だ。
バスで席を譲ってもらった三、四才くらいの男の子が、
「メルシー、マダム!」
と言っているのを見て、私は感動した。

 日本ではたいてい、お母さんがお礼を言うが、子どもはモジモジして言えない。うちの子だって言えてない。どうやらそれは、「サンキュー」「メルシー」などの、言いやすい言葉、気さくな雰囲気にあるのと、お国柄の性格もあるらしい。

 ある調査で、欧米人、アジア人など、同じ年くらいの子どもを集めてゲームを始めたところ、最初のうちお母さんの影に隠れてしまった子のだいたいがアジア人の子、そして我こそはと前に出たのは、欧米人の子だったらしい。

 アジア人は奥ゆかしく、引っ込み思案、ということであろうか。

 だけどある程度大人になったら、どうぞ向こうの良いところである挨拶は、常識としてお互いに交わして欲しいところである。

 次の人のためにドアを押さえてあげるマナーも日本にはなく、帰国するたびに悲しく思う私であった。もう慣れちゃったけど。

三十三 留学生活あれこれその一

 楽しい夏休みの話に入る前に、ここらでひとつ、留学生活での今だから笑える思い出を少し書いてみたいと思う。ちょっとずつ、合間に挟んで書いて行きますんで、どうぞよろしく。

 一年目の、いや、四年間通して困ったのはやはり何と言っても、フランス語での各種手続きである。特にもう、一年目ときたら、痛々しいモノ以外の何者でもなかった。

 手続きには、ありがたかったことに、初めのうちは先輩方がついて行ってくれたが、そんなにいつまでもお世話になるわけにはいかない。みんな、すごく忙しいのだ。私は勇気を出して、かなり早い時期からコミューン(市役所)や、学校、銀行、電話会社、保険会社などの手続きに、一人で乗り込んでいた。

 コミューンでの手続きは、主に滞在許可証などの件で通ったんだけど、待たされる場所は当然、外国人申請窓口で、アラブ人や黒人さんたちと一緒にじっとひたすら待つ。この時の心細さと言ったらなかった。自分は紛れもない、外国人なのだ。もしも今この国で何かが起こったら、一番後回しにされ、守られる保証もない外国人なのだ。と痛感させられた。そしてこの感覚は、暮らしている間じゅう、ずっとあった。祖国を想う昔の作曲家たちの気持ちがわかるような気がした。

 滞在許可は、まず自分が本当にそこに住んでいるのか、コミューンの役人が実際に見にきてから許可証がおりる。私は場所を伝えるために、辞書片手に、「地下室」という単語を見せたりして、何とか理解してもらえた。何週間かして、許可証がもらえた時はとても嬉しかった。

 それから保険会社。これは、学生保険などいろんな種類があるんだけど、私はまず、日本で何ヶ月間か有効の、旅行保険だか学生保険だかに加入して行き、それからブリュッセルの、先輩たちが入っていたアシュベルと言う保険会社に手続きに行き、無事、年明け一月から加入できた。これは病院などにかかると、一旦は全額を払うが後からその領収証をまとめてアシュベルに持って行き、何割かが戻って来るシステムになっていた。

 「お金がピンチになった時なんかに持ってくとね、ちょっとした小遣いが入ってきた感じで、嬉しいのよ。」と、アキカさんはニコニコと言っていた。彼女もまた、「私って丈夫そうに見られるんだけど、けっこう身体弱いのよ?」と言って、病院のレシートをパラパラと見せてくれた。彼女の助言通り、ピンチの時の換金は、ものすごく嬉しかったのである。

 学校のセクレタリー(事務室)にはしょっちゅう通ったが、まあ各国の学生を相手にしているだけあって、そこまで腹の立つ思い出はないが、待たされることと、変更になることには、ヨーロッパに住んでいるともう慣れっこになっていた。

 一番の相性の悪さで何度もケンカをしたのは、電話会社「ベルガコム」である。
ベルギーだけに、ベルガコム。ユニークな名前だが、いやもう、腹立たしいことこの上なかった。

 一度、送られてきた請求書に、どう考えてもおかしい高額な料金が記載されていた。問い合わせてみると、やはり間違いだと言う。私はホッとして、無事伝わったことで胸をなでおろした。がしかし、しばらくしてまた、同じ金額の請求書が送られてきた。私は腹が立ったのだが、やっぱりヨーロッパじゃ、口頭だけだとダメかもなあ、と思い直し、大家さんに頼んできちんとした文書を作ってもらい、送付した。

 ところがである。またもや間違い請求が送られてきた。もう私はカンカンになってベルガコムに乗り込んで行き、
「ちょっと、いい加減にしてくれ!何度言ったらわかるんだ!」
と、まくし立てた。
ベルギー人もオロオロ。何ならこういう時、日本語で喧嘩してもいい。本気で怒ってたら、だいたい通用するもんである。

 スッキリして帰宅した後は、もうまた間違いが送られてきてもいいや、とすっかり開き直ってしまった。だって私はその時、四年間の生活を終える予定で、もうじき帰国が迫っていたからである。

 さて、数ヶ月の後、無事日本に帰国した私はふと実家のポストを見て大笑いしてしまった。そこには何と、「ベルガコム請求書」がまたもや、海外からご丁寧に届いていたのである。

 もう、知ったことじゃないよ。と無視を決め込んだ。いい加減な国の割に、こういう時だけしつこいんである。まったく。

2017年5月 7日 (日)

三十二 決死の本番

 六月二十日。数日前にリハーサルを終え、いざ、決戦の時。実技本番である。これで、テクニック試験の点数合わせて、今年度の合否が決まる。

 午前九時半から開始で三番目のはずが、随分押して始まった。各自、ステージに上がる前に、隣のピアノの部屋で手慣らしができる。なんて親切。その直前に、その日弾く曲を知らされるのだ。いくつか用意してきた曲の中から、ジュリー(試験官)たちがピックアップするというワケ。

 私が用意した曲は、ハイドンのソナタ、ショパンの幻想ポロネーズ、ラヴェルの道化師の朝の歌、バーバーのソナタから終楽章の「フーガ」、それから必須課題(アンポゼ)であるベルギー人の曲である。日本の音大の試験ではたいていの場合、十分未満の曲を一曲しか用意しないから、コンセルヴァトワールの学生の大変さと、これらを何日間かに分けて朝から晩まで聴かされる試験官の労力も理解してもらえると思う。

 そのうち私は、バーバーのフーガをショワ(自分で選択する曲)にした。この曲はめちゃめちゃ難しいのであるが、日本の大学時代、先輩が弾いていた憧れの曲であったし、アンリオ先生にも、まわりの皆にもそうした方がいいと言われていたからである。

 当時私は現代曲が得意で、アンポゼなんかも学生の中で一番早く仕上げて驚かれていたし、本番も完璧に弾くことができた。音なんかも、当時は今よりも十キロ以上痩せていた私はなかなか重厚な音が出せなかったが、現代曲だけは打鍵の仕方が違うのか、ロマン派の幻想ポロネーズなんかよりもずっと迫力ある音を出すことが出来ていた。そういう意味じゃあ、今は太って良かったな。子どもは産んでみるもんである。

 話がそれたけど、とにかく、当日は自分のショワであるバーバーと、課題曲アンポゼ以外、残り三曲のうちから当たったのは、もれなくラヴェルの道化師であった。なぜなら一番の難曲だからである。そりゃあ、幻ポロだって長くて難しいし、ハイドンだってソナタをかっちりと聞かせるのは易しいことではないが、私がジュリーでもラヴェルを当てるだろう。練習室でそれを知らされた時は、ある程度予測していたため、「きたか」と思った。

 本番はどっこい、かなりうまくいった。変な意味での緊張もしなかったし、集中力も切れず、初めに完璧なアンポゼを弾いて、道化師、バーバーの順で落ち着いて弾き続けた。

 道化師は連打が多少まごついたが、
(この曲は、異常に多い連打音と、三度のグリッサンドが難しい)
バーバー終楽章は、テクニック試験の恨みとばかりに気合を入れてラストの盛り上がりまで突き進み、ダダーンと「弾いてやったり!」と言わんばかりで弾ききった。

 聴いてくれていたアキカさんには、
「カオルちゃん、ノリノリだったネ。すごい気合入ってたよ、良かったよ。プルミエプリ、取れればいいのにね…。」
と言ってもらい、ご機嫌のアンシュッツ先生は何と学食をおごってくれた。(その日の学食はバーベキューであった。)

 同期のユキちゃんは、リストのバラードをショワにして、ベートーヴェンのソナタop.31、ショパンのスケルツォ二番、シャブリエの二つの小品を選んでいたが、特にリストは大変よく弾けていたのを覚えている。「いいな、ユキちゃん、本番に強いんだな、さよなら、カオルは後から行くよ…」と、アキカさんに言ったら笑われたものである。

 音楽家ならよくわかるであろう、この本番が終わった高揚感と安堵感を胸に、その日はお祭り騒ぎ。そして早々に次の日、結果は発表された。

 私の得点は、なんと三月を合わせて七十五点の、ドゥージエムプリ。八十点以上が合格のプルミエプリ取得となるのでそれには至らなかったが、あの悲惨な結果からよく平均まで這い上がったものだった。我が本番に、悔いなし。嬉しかった。一方、友人ユキは、合格点にわずか一点足らず、二人そろって落第となった。彼女は悔しさのあまりに泣いていたが、素晴らしい演奏であったし、二人してそのうち、しっかり立ち直った。

 私が嬉しかったのは、他の学生たちの演奏を聴講していて、私が「あの子、いいな」と思ったラストのベルギー人の女の子が、最高得点の九十六点をとったことである。

(コンセルヴァトワールでは、廊下にデカデカと全員の得点が貼り出される。だから、誰が何点で合格、落第、と言うのが全てわかってしまう。)

 彼女はドビュッシーのイマージュ(映像)と、ショパンのバラード一番を弾いていたが、音楽を重視した、音楽を表現するためのテクニックを持ち、それは過剰ではなくとてもナチュラルで音楽的な、素晴らしく好感の持てる演奏だった。そんな彼女が一等賞をとったことが嬉しくて、ヨーロッパを少し理解した気がした。

 一年目というのは、その生活や外国語に慣れるのに精一杯で、試験に振り回されるだけで終わってしまう。今振り返っても、腰を据えて取り組めて行くのは、二年目以降である。今、もしもあの時代の私に会えるのならば、「まだがんばれ、今は辛抱の時だ、未来は明るいぞカオル。」と言ってあげたい。

 そして私は、落第はしたが実に清々しい気持ちで一年目の勉強を終えた。少しの間、夏のヨーロッパを楽しんでから帰国しようと思っていたのだが、おばあちゃんの骨折の知らせにより、急遽、慌てて成田行きのチケットを取ることになる。

 それから九月頭にまたベルギーに戻るまで、楽しい楽しい夏休みの恋を日本の故郷で大満喫するのである。

三十一 私の気持ち

 もう一年延長したい。

 というか、延長しなければもはや、卒業はできない。テクニック実技が悪く、和声も落とされた今となっては、卒業資格ナシで帰国するしかなかった。はっきり言って、資格なんてどうでも良かったけど、そのままで帰るのは悔しかった。もっと勉強したい。そう強く思った。

 と同時に、早く日本に帰りたいとも思った。それは理性の反対側で、感情が叫んでいるような感覚であった。ここに居るのは辛い。帰って、家族や、友達や、彼のそばに戻って、平和に暮らしたい。どうして誰も、戻って来いと言ってくれないの?そう思った。本当に寂しかったし、苦しかった。

 一緒に過ごしていた相棒のよっちゃんは、そんな私に気づいていて、彼自身複雑な心境であったに違いない。彼は働いていたが、世界のどこででも生きていけるような、言ってみれば男はつらいよの寅さんみたいな人物で、どこであろうが飄々と、実に楽しく暮らしていた。そして、彼独特の運の強さがあった。私はそんな彼が羨ましかった。彼は「まあ、夏休みに一度帰国して、色々考えてきたらいいよ。」とだけ言った。

 住んでいた半地下の部屋の方も、もしかしたら大家さんの奥さんの娘(前夫の娘である)がチリから帰って来るかもしれず、そうしたら私は延長して住むことは難しい、と言われていた。だから新しい部屋探しなんかも、開始してみた。グランドピアノをガンガンに弾いてオッケーなアパルトマンは、なかなか向こうでも難しく、値段もそれ相応に上がるので、良いところを見つけるのは至難の技であった。ブリュッセルの学生が住むような部屋の相場はだいたい五〜六万円くらいだったので、やはりここはどうしてもあの半地下を手放すのは惜しかった。

 自分の揺れる心を天秤にかけ、「ここに残って勉強を続けたい」という気持ちの方に傾きつつも、「帰りたい」と故郷を想い続けるのは、きっとここでの生活が気づかないところでストレスとして膨れ上がっているからかもしれない。日本で夏休みの間、リフレッシュすれば気持ちも変わるかもしれない。それに何よりも今、実技試験を控えて精神的に追い詰められているからであろう。

 そう考えながら、我々学生たちは、皆思い思いの感情を抱え、海外での苦しい試験前に突入していくのである。

2017年5月 6日 (土)

三十 学科試験

 六月の実技試験がやって来るまでに、色々なことがあった。

 まず、膀胱炎になった。何でなったかは、わからない。外にあるトイレに行くのが億劫で我慢したか、ストレスが溜まっていたか。それは謎であるが、とにかく、ある日血尿が出て慌てて私は病院へ行った。薬を飲めば治ったので大したことはなかったが、問題は、病院で使うフランス語であった。専門用語を使うわけだから、辞書を片手に、四苦八苦したのを覚えている。私はしょっちゅう病院通いしたので、その手のフランス語はかなり習得した。

 一度、レントゲンを撮らなければならない時に、若い兄ちゃん技師の前で、上半身ハダカにならねばならなかった。年を訊かれ、二十四、と答えると、「mange beaucoup!(たくさん食べろよ)」とニヤッとされた。余計なお世話である。

 婦人科へも行ったし、夜間救急にも行ったし、もともと身体の弱い私は、慣れない外国生活で輪をかけて身体をよく壊した。

 でも、身体の弱いわりに、気持ちだけはパワフルな私。だから、倒れる割にはアクティブに動いている。それは今でもそうなんだけど、とにかく、テクニック試験が終わってバカンスに入るまでの三月後半から六月後半までにかけては、ここ一番の正念場、という時期で、精神的にもキツかった。

 学科の試験は五月に行われた。和声や、アナリーゼ(楽曲分析)などである。いくつかの科目は申請が効いて免除になったが、この二つだけは判定試験に落ちたか何かで、残されたのである。アナリーゼの試験なんて、もう全くテキトーだったからほとんど記憶にないのだが、楽曲はソナタが出題された。何のソナタだったかは覚えていない。

 試験中、外国人の私たちは辞書持ち込み可だったような気がするが、それにしても長文回答を求められる問題などサッパリ書けなかった。危うく試合放棄するところだったんだけど、見回って来た先生に、「とにかく何でもいいから書け」と言われて、 私は慌てて楽曲の中に、「主題」だの「展開部」だのと書き込んでゆき、問題文の方には「楽譜を参照のこと」とだけ書いておいた。それを見た先生は、「ca va, ca va(ok,ok)!」と笑顔で脇を通り過ぎって行った。

 結果は、見事合格。コイツらには仕方ないから慈悲で点をあげようと思われたのか、六十三点もとれていた。いまだに不思議でならない。

 一方、同じ六十三点で、和声学の方は落とされた。

 和声には、アンフェリウール(初級)、モワイアン(中級)、スーペリウール(上級)があり、一年目はもちろん初級。と言っても、朝八時半から始まり、弁当持参で昼過ぎまでかけて、バス課題、ソプラノ課題とそれぞれ別々の日に分けて行われる。初級のテストはまあ昼頃には終わるが、中級となると私は夕方くらいまでかかった。

 和声が落ちたのは、そうかやっぱりな、という感じで、まあもう一年頑張ろう、と思った。楽しくなってきたのである。一つの曲を作り上げる、もういわゆる作曲の領域であったし、初級だけにとどまらず、その上にもチャレンジしてみたかった。先生も大好きだったし、もちろん宿題は時間をとられて大変ではあったが、勉強の楽しみを知った喜びは大きい。

 そして、じわじわと六月の実技本番は近づき、私の「もう一年延長説」も具体化されて行くのである。

2017年5月 5日 (金)

二十九 初めての実技試験

 今考えれば信じられないが、家族が日本に戻り、しばらくしてすぐに、ピアノの実技試験はやって来た。練習時間をどうしていたのであろうか。ハードなスケジュールである。

 そして一ヶ月後に学科試験も行われた。四年猶予のはずが、二年以内に全学科をパスしなければ退学、という新しいシステムも加わり、私たちは恐れおののいた。全く、コンセルヴァトワールというところは、すぐにコロコロとそのシステムを変えるのである。入ってきた年によって、免除の科目も違い、年々厳しくなっていた。私の卒業後は、ついにはコンセルヴァトワールは外国人排除のためか、法学などの科目も加わり、すっかり一般大学のようなカリキュラムに変化してしまったという噂である。今ではどうなっているのか、全くわからない。

 初めての実技試験は、まずは三月末から四月始めにかけてのテクニック試験から始まる。

 この時私は、バッハ平均律の三曲中から一曲を指定され、その他にショパンエチュードから黒鍵、シマノフスキーのエチュード、スカルラッティのソナタを弾かされた。

 プティ・サルと呼ばれる小さなサロン室は、絨毯敷きの部屋で響きがあまり良くないので、ごまかしがきかないが、まあなんとか自分としては満足する結果が出せた、と思った。しかし、二日後に出た点数は、四十点中、二十六、五点という衝撃の結果であった。同級生のユキちゃんは、二十九、五点。どちらにせよ、二人ともかなり厳しい得点である。六月の自由曲で相当の点数を取らなければ、落第は免れない。私たちは呆然としてしまった。

 頭の中をぐるぐると、色々なことがかけめぐり、どう解決していいのかわからない。

 自分でも、納得がいかなかった。私って、まだまだなんだな…と思う反面、どうしてだろう?と思ったり。レッスン状況が悪かった一年目、この先本当に上達していくことができるのだろうか、ここに居ても無意味なのではないだろうか、と思いはめぐった。

 が、寝起きは悪かったものの、次の日には立ち直る。こういう三日以内に即立ち直れるところが、ピアノを続けて行かれる人の特徴である。図太いのだ。

 アシスタントの先生が、「アンシュッツ先生(我々の師匠)が、貴女たちの点数はおかしいと怒っていたわ。」と、わざわざなぐさめるために伝えてくれた。今から思えば、一年目の学生たちには低い点数を与えるという風潮があったのだろうけれど、当時の私にはそんなこと考える余裕などない。

 もう、六月の試験にかけるしかない。

 そう前向きに捉えて、私は次の課題曲に向けて練習再開を決めたのであった。

2017年5月 4日 (木)

二十八 両親がやって来た

 三月になって、突然父からファックスが入り、日本から家族が遊びに来ることになった。

 もうビックリである。母は身体が弱かったし、何しろ海外なんて、初めて。それに一体、どこに泊まるのか。こちらには布団の予備なんてない。それなのにうちに泊まると言う。もともと無鉄砲な父の性格であるし、どうするのかとハラハラしていたら、寝袋を担いで来るらしい。お母さん、そんなんじゃ疲れちゃうよ!と心配したが、どうせ言ってもきかないのはわかっていたから、もう放っておくことにした。

 それでも両親との再会は嬉しかった。今まで一人で頑張っていた心細さと、無事に到着した安堵感とで、空港での再会は思わず涙が出た。しかしその気持ちはそこまで。それから一週間くらいの滞在の間、私は異国の地で、どれだけ両親が年をとったのかを思い知らされるのである。

 留学生たちは皆、遊びに来た親への対応に同じような苦労話を聞かせてくれた。まず、若い我々と比べて、ある程度年を取るまで日本でしか暮らしたことのない人たちというのは、コテコテの日本人というのか、柔軟性がきかない。郷に入っては郷に従え、ということが、できないのである。いや、しているつもりなんだろうけど、現地で暮らして半年くらい経った私から見ても、全然ダメだった。日本ではあんなに立派に見えた両親が、海外では子どものようになってしまう。立場がひっくり返る、という感覚が、信じられなかった。

 まず欧米では、日本人のよくする「謙遜」という態度が少ない。

 父を私の先生に紹介した時、先生は私のことを褒め、「She is a good student.」と言った。父は素直にthank youと言っておけばいいのに、「No,no no no no…!」と否定しまくった。いやいやいや、そんなことないですよ!と言うつもりだったのだろう。先生は、ぽかーんとした顔で、何と続けたらよいやら、困り果てていらっしゃった。

 余談だけど、私が向こうで暮らしやすかったことの一つに、「断りたい時はハッキリNon、と言えること」がある。「Non,merci.」いわゆる、「いいえ、結構です。でも、ありがとう。」という、便利でわかりやすい対応がサラッとできる。愛想笑いなども無用。むしろ、ハイなのかイイエなのか、わかりにくくなるからして、はっきりと顔を歪めてノーと言ってよろしい。これらは私の性格にマッチして、生き生きと生活することができた。これについては、また今度。

 両親の話に戻って、また、友人たちに両親を紹介する会でカフェに入った時。

 父はなかなか出てこない料理にイライラしはじめ、ついにはウエイターを怒鳴りつけてしまった。友人たち一同、必死になってとりなしたが、あとの祭り。まあウエイターはそんなこと気にしちゃいないんだが、ヨーロッパのいい加減さと待たされることに慣れっこになっていた私たちにとって、それは驚きであった。もっとも、両親も妹も、時差ボケで疲れていたし、次の日はイタリアに足を延ばすことになっていたから、母を少しでも早く休ませてあげたかったのだ。そんな時に、カフェなど来なければよかったと、つくづく後悔したのである。

 母は半地下の台所で、美味しい手料理をいろいろ作ってくれた。それでも日中、街中を走るトラムに一緒に乗っている最中、私に向かって

「カオルはこんな外人ばかりのところで、よく暮らせるわね。お母さん、怖いわ。」

とつぶやいていた。内心、「お母さん、私たちがここでは外人だよ…」と言いたいところだったが、やめておいた。いや、言ったかもしれないが。

 とにかく、両親は慣れない海外で四苦八苦している様子であったが、八才離れた、当時高校生の妹だけは違っていた。初めての外国にアンテナを張りまくり、興味津々だったに違いない。以来、彼氏を連れて二人だけでもう一度ブリュッセルを訪れてくれて、それを皮切りに、彼らは世界各地を放浪するバックパッカーとなるのである。姉と違い、高校生の頃から一途に愛を貫き通した妹は、その彼氏と仲良く結婚しているが、毎度、旅は別々に一人旅し、別居婚を送る個性的な夫婦である。

 そんな家族の寝袋ブリュッセル生活も無事に終わり、夏の一時帰国までしばらくまた、静かな一人暮らしが続いた。一度親元を離れたらもう一緒に暮らすのは難しくなると聞いていたが、その時私はそれを痛感した。自立に向かっての一歩とはこういうことを言うのだろう。

 そして、一年間のはずだった留学生活を、もう一年延長したい。とぼんやり考えるようになったのも、この頃であった。

二十七 ネズミが出た話

 スペイン旅行から帰り、年が変わって1996年。

 一月の誕生日がきて、春がやって来るまでの間、日本大使館のコンサートで先輩方と一緒に出演したり

(その時は友人しづちゃんとマ・メール・ロワの連弾をしたり、ラヴェルの道化師を弾いたりしている)

何かと忙しい毎日を送りながら、同時にたくさんの友人や先生方に手紙を送り、そして恋のお相手の方も五ヶ月ぶりに電話をくれたりと、なかなかストイックな日々を過ごしていた。今じゃあ考えられないほどの、アナログな通信生活である。それでも私たちは、なんだかんだ言いながら留学終えるくらいまでの間、お互いを放任しつつ、気持ちは続いていたんだから、けっこうすごい。

 そんな毎日の中、あの半地下の部屋の中で私は、もっぱらネズミに悩まされていた。

 そう、ネズミが出るのである。新年になってからコイツらはパワーアップしてきた。

 ダンゴムシならば我慢できるが、ネズミには困らされた。彼らは小さなハツカネズミだったので見かけは可愛らしいが、夜中に台所でカサコソと音がするので見に行ったら、ケーキの箱から顔をのぞかせたり、料理をしている最中にササッと足元を通り過ぎてびっくりさせられたり、うわっ!と驚きの声をあげると振り返ったり。一番イヤだったのは、スポンジの上やフライパンの下などに、糞を残して行くことであった。

 日本からネズミ取りを送ってもらったのだが、奴らは賢くて、中に仕掛けたチーズだけをまんまと食べ、小さな体で網をすりぬけて逃げて行った。全然話にならない。ついに困り果て、先輩アキカさんの飼っていた猫を一ヶ月くらいの間、レンタルさせてもらう。すると敵は見事に姿を消した。本能ってすごい。しかし、そろそろいいかと思って猫を返すと、またすぐにやって来る。これは本格的に、猫を飼わねばなるまいか。

 そんな時、知り合いになった男の子にそのことを話すと、一晩中張って、ネズミをしとめてやると盛り上がった。作戦遂行。だがそういう時に限って、ネズミは何かを察知するかのように出てこない。代わりに我々は、一晩いろんな話で盛り上がり、結果的にネズミの縁で仲良くなるのである。それがその後四年間の私のブリュッセルでの相棒、よっちゃんである。彼なしでの生活はなかっただろうし、今でも感謝している、私の良き友人である。北京の彼のことは知っていたが、ずっと私を守ってくれた。

 そんな訳で、ネズミについての悩みはその後半年くらいの間、猫を飼うまで続くのである。ネズミとよっちゃんの話については、また今度。

2017年5月 3日 (水)

ブリュッセル思い出の写真

ここらへんで一休み。ブリュッセル思い出の写真集です。

まずは私が四年間住んだ家。道路沿いから見た玄関と、庭先から見た、半地下の入り口。

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まだ到着して間もない頃です。部屋はガランとしていました。この貧乏っぷり。

それにしても若いな。年取ったもんだ。

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エヴァが飼ってた、ウサギのダゴベルたち。

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当時、エヴァ6歳。セルジュ8歳。

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雨降る日のグランプラスと、住んでいた家の裏の、カモのいる池。大好きな場所でした。

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コンセルヴァトワールにて。和声学の先生と。

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コンセルヴァトワールのホールと、日本大使館での演奏会。金びょうぶがそれっぽい。

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二十六 バルデモサの元旦

 マヨルカ島は、ショパンと女流作家のジョルジュ・サンドが一冬の間、パリから逃避行して、彼の結核療養で訪れていた島として有名である。ここで雨だれや、バラードなどの名曲を作曲したのですね。

 マヨルカの天気は素晴らしかった。とにかく、地中海の青空というのは、その青さのレベルが違う。真っ青で、はっきりとしていて、濃く澄み切った青空である。後になってギリシャへ行った時もそう思った。光がとても眩しい。

 次の日の元旦は、風が強かったがあたたかく、気持ちが良くて、春を思い出した。ふと、日本に帰りたいな、と思う。そう思いながら、「地中海なんだぜ〜、日本海じゃないんだぜ〜」なんて言いながら、私たちは歩いていた。歩きに歩き、バルデモサの村まで行くのに船が出ていないことに気づき、十五時のバスにも間に合わないことが予想された我らは、誰からともなくヒッチハイクに乗り出す。そうせずにはいられない、切羽詰まった状況であった。

 三人の若い日本人の女の子たちが、大通りで手をかざしてヒッチハイクをする姿に、車の人々は皆、笑いながら通り過ぎて行った。すぐに一台、「ヘーイ!」と言って止まってくれた車があったのだが、そこには何人かの男たちが乗っていたので、それは無視。親切な人たちだったかもしれないが、危険すぎる。

 そのうち、優しそうなマダムが止まってくれた。十五時のバスにどうしても乗りたいと訳を話すと、快く乗せてくれた。彼女は偶然フランス語が話せたので、とても嬉しかったのを覚えている。ヒッチハイクはそれが初めての経験だったけど、その後帰国してから、北海道でも同じように切羽詰まった状態になり、我が経験を生かして夫と共に生涯二度目のヒッチハイクをやり、成功するのである。

 とにかく、親切なマダムによって無事目的地にたどり着けたのだが、結局のところ私たちはバスではなく、タクシーでバルデモサまで行くことになった。間に合わなかったか、出ていなかったか、それは忘れた。しかも、入ってみたかったショパンの家は休館日。まあ元旦だし、仕方ない。バルデモサは海岸沿いとは違い、とても寒かったが、素敵なところであった。スペインは全体的に良心的な値段で、ホテルのビールも安く、夜はテイクアウトで宴会をした。

 私は二日にはブリュッセルに帰り、短い旅行ではあったが、とても楽しい旅であった。ブリュッセルは寒く、またしても暗いどんよりとした街に戻ってきたのであるが、自分の部屋に着いたらホッとしたものである。

 そしてまた、新しい年が、この暗い半地下の部屋で始まろうとしていた。

二十五 マヨルカ島の年越し

 一年目の冬は、先輩方も友人もとても気を使ってくれて、スキーをしにスイスの山へ行かないかとか、モンサンミッシェルまで行かないかとか、色々と楽しいお誘いがあった。

 コンセルヴァトワールは、年間通して何かにつけ休みが入った。やれ、クリスマス休暇だ、パック(イースター)だと、しょっちゅうまとまった休みがあり、そして夏休みはたっぷり三ヶ月間もあった。だけど心から楽しめるのは夏のバカンスのみで、その他の休みは、それっとばかりにピアノの練習時間に使った。

 スイスの山も、モンサンミッシェルも、魅力的であったが、何しろ毎回で申し訳ないが私はお金がなかった身なので、断るしかなかった。後半、生徒も増えてゆき、心強い助っ人であるパートナーができてからは、陸続きのヨーロッパ各地をいろいろまわることができたが、留学一年目はそんな余裕はみじんもなかった。

 けれど二泊三日くらいの年越しなら、ちょうど安いチケットが取れそうだったし、スペイン旅行に行く友人たちと途中合流するのも悪くない。そう思ったか、例の北京の彼が、ちょっと無理してでもヨーロッパをまわってきなさいよ、と言ってくれたのかは定かではないが、多分どっちもだったような気がする。私は同級生たちに賛同の返事をし、その旅行を楽しみにしていた。

 同い年であり、ブリュッセル留学の先輩でもある、しづちゃん。それから、日本食レストランに働きに来ていた、年下のゆかりちゃん。その二人と、大晦日にマヨルカ島で合流した。二人はとても喜んでくれて、早速みんなでレストランを探しに行く。夜十一時をまわっていたが、とても美味しいレストランで、タコに生ハム、マスタードソースの肉やジャガイモ、それにシャンパンを楽しんだ。

 十二時前のカウントダウン。スペインの風習では、ブドウを十二粒、カウントダウンと共に食べる。そしてハッピーニューイヤー!店中の人々とキスし合い、広場では皆、踊り狂っていた。私たちも仲間入りして踊った。笑いがとまらないほど陽気なお祭り騒ぎ。日本の厳かな年越しとは全く違う。(その代わり、クリスマスが厳かであるのだ。)

 新年の幕開け、カテドラルのライトアップも美しく、本当にスペインに来て良かったと思ったのを覚えている。明るく天気の良い国ってほんとに、開放的な気持ちになれるもんだよね。二日目に続く。

二十四 秋から冬における事件

 短い秋が過ぎ、冬がやって来ると、ブリュッセルの街は火が消えたように寂しくなる。

 ベルギーの冬は長かった。年中ほとんどがどんよりと寒いと言ってもいいし、それでいて、雪は降らない。短い夏の間は、夜十時頃まで明るく、皆浮かれ狂ったように夜更かしを楽しむが、冬は夕方四時には真っ暗になり、朝は九時を過ぎてもまだ薄暗い。ドイツ歌曲なんかに春の待ち遠しさと春の喜びの歌詞があったりするが、私はこの時初めて、心からそれを理解した。日本は四季がはっきりしていて素晴らしい国である。こんなに季節の移り変わりの美しい国はない。その代わり、地震大国ではあるが、四季もその活発な大地の恩恵だと言うことである。

 学校生活を必死でこなし、少しずつ慣れて行ったはじめの年の秋から冬にかけて、いくつかの事件も起きた。

 まず、生卵ぶつけられたよ事件。友達の家からの帰り道、バス停でバスを待っていたら、不意に若いベルギー人の男連中どもが、車の中から私めがけて生卵をぶつけてきたのである。それは見事、ど真ん中に命中した。私の着ていた、日本で買ったお気に入りのシルクのコートが台無しになってしまった。

 惨めで、悲しくて、帰ってきてからしょんぼりとベッドに突っ伏し、「日本に帰りたい」と口に出して言ってみたら本当に泣けてきた。後で聞いた話によると、十月の後半は、街の学生たちが悪ふざけをする時期のようである。ホームシックも出てきた頃だったので、この一部始終を手紙に書いて師匠に送ったら、「留学中はそんなこともある。些細なことで、日本にいる時よりも落ち込むことがある。気持ちはよくわかるぞ」と返事が来て、あの普段クールなMr.カワソメが!と、感激したのを覚えている。

 それからスリに遭った。その日のメトロ(地下鉄)は少し混んでいたのだが、そんなに押さなくても…と思ったら後ろからカバンに手を突っ込まれ、あっという間に財布だけ取られて終わり。犯人はアラブ人で、一瞬の隙にメトロから降りてドアは閉まった。すごい手口である。現金はたいしたことなかったが、クレジットカードも入っていたし、すぐに警察へ行ったけど何の役にも立たず。

 さてその財布は日本を発つ時に餞別で奈良先生からもらったものであり、その時に、

 「僕ね、これと同じものを妻にも贈ったんだけど、その財布はパリのメトロで、スリに遭ってなくなってしまったんですよ。貴女にあげる財布はどうなるかなぁ。あっはっは。」

 なんて縁起でもないことを言われていたのだ。

 もう、早速先生に国際電話。すると愉快そうに、

 「あ〜、やっぱりスラれちゃったの?不思議ですねぇ。」

 なんて笑っておられた。笑い事じゃないよ全く、人の悪い。というのは、未だに奈良伝説として残っているエピソードである。

 環境が激変した中で、生理痛も悪化して病院へ行ったはいいが、ピルを処方されて余計に悪化しちゃったり、何かと精神的にも苦しい時期であった。

 そんな訳で、一年帰らぬつもりが年末年始、ちょっと日本へ帰りたくなって、試しに父にファックスを入れてみたが、返事は「帰国はダメです。」と来たもんだ。

 こういうところが私の父の良いところ。しかし当時は「やっぱりな」と思いつつ、まあ少しは落ち込んだ。ま、帰るにはお金が必要だったし、航空券は高いので、仕方ないかと諦めたけど。

 そしてその代わりに、一人寂しく過ごすよりは気晴らしにと、安いチケットで同級生たちから誘いを受けた、スペインマヨルカ島での年越しを決めたのであった。

2017年5月 2日 (火)

二十三 同級生たち

 ベルギーでは男女問わず、たくさんの出会いがあったわけだが、同級生たちとの出会いは、私の留学生活を賑やかで楽しいものにしてくれた。

 一緒に入学したユキちゃん。偶然、同級生だった。(いや彼女は年下だと吠えているが、早生まれの私としては、日本では学年は一つ違いでも、九月始まりの欧州ではもうどっちでも同じである。)

 私は誰かと友達になる時、たいてい一目惚れから始まるのだが、彼女の場合もそうだった。面白そうな、何か癖があって、コイツと話してみたい。と思わせるものがなければ、友達にはならない。ちなみに、恋人との始まりは、一目惚れだったことは未だかつてないです。不思議なことに。

 ユキはその豪快な笑い声も、煙草をスパスパと吸う仕草も、お酒を記憶が飛ぶくらいまで飲む姿も、存在感溢れる魅力的な女の子であった。あんまり書くと怒られるから控えめに。でも彼女とは苦楽を共にし、試験も仲良く一緒に落ち、カフェで呑んだくれては愚痴をぶちまけたものである。

 よく一緒にパリへのレッスンに行ったり、彼女との思い出は、酒とオトコ以外には、列車を乗り継いで共に座った記憶も多いが、ある時向かい合わせで座った男性陣に、どこの国か?と聞かれて、私たちは「ジャポネーゼ」と答えると、

 「彼女が(私が)日本人だということはわかる。だけど君は、タイ人だろう?」

 と言われて、ユキはマジ切れしていた。

 列車で仲良く、作ってきたオニギリを大口を開けて食べ、車内の人々に物珍しげに見られたこともある。ちなみに、向こうの列車の中では、絶対に寝ません。危ないし、人前で寝る、なんてこと、ヨーロッパでは醜態をさらすようなことである。身構えていたって、スリに遭うような世界だ。私は一度、メトロで財布を見事にすられた。まあ、いいとして。

 毎年、夏休みなどに開かれるスタージュ(講習会レッスン)に、よせばいいのに彼女は当時危険だったイスラエルまで参加し、バスに外国人を乗せて、内戦の境目まで連れて行かれちゃったりして、危険な目にも一杯遭っている。ユーゴスラビアの空爆寸前まで、コンクールを受けに行き、日本大使館から連絡を受けて途中で引き返した友人もいた。私は節約の関係で、スタージュは受けに行かなかったけれど、イタリアのコンクールを受けたり、留学後半にはいろんな国を訪問した。そんな訳で、日本という島国の中にいる時よりも、新聞の国際欄は、すぐ隣で起きている出来事という感覚で、危機感を持って読んでいた。

 留学するくらいだから積極的な友人ばかりだったけれど、みんな、多かれ少なかれ、危険な目に遭ってはヒヤリとした思い出を持っている。まあ、命があって良かったけどね。

 ということで、友人たちとの思い出はまた続く。

二十二 美味しい国ベルギーその三

 えーと、ベルギーはチョコレートも有名ですよね。

 高級チョコはゴディバが有名だと思うけど、何もそんなの買わなくたって、普通のスーパーで買う三百円くらいのチョコでも十分美味しい。

 私がお土産によく買って帰ったのは、スーパーで売られているコートドールという箱入りチョコで、二口サイズくらいの板チョコが一枚ずつ綺麗に包まれて並んでいる。これはとても美味しかった。

 ゴディバは日本で買うよりずっと安い。だから私は貧乏だったけど、たまにゴディバの店に行って(うちのすぐ目の前の通りにあったのだ)小さい箱にトリュフをぎっしり詰めてもらって大事に食べたりした。ゴディバのチョコの中では、ミントスティックチョコが好きであった。日本でもあるのかなあ?見たことないけど、誰か知ってたら教えて下さい。

 ブランドチョコは、他にもヴィタメール、ノイハウス、レオニダスなどたくさんあるけど、まあ騙されたと思って、ベルギーに行ったらスーパーのチョコを買ってみて下さい。美味しいから。

 ベルギーのブランドチョコ店は、ブリュッセルのグランプラスへ行けばたくさん並んでいるけれど、そこから少し坂を上って行くとサブロン広場の方へ出て、(コンセルヴァトワールはそのあたりだった)その途中にところどころ、ピタ屋さんというのがあったりする。

 ピタというのは小麦粉で焼いた丸くて薄い、ピザがちょっと厚ぼったくなったような生地で(事実、これがピザの起源らしい)中東や北アフリカあたりの食べ物。これに、ケバブなんかの、野菜だの豆だの肉だのをギュウギュウに詰め込んで、色んなソースをかけて食べる。はっきり言って、食べにくいがウマい。

 バゲットサンドウィッチも学生たちの味方であった。町のバゲット屋さんに並び、焼きたてのバゲットに、フロマージュ(チーズ)やハムなど、自分で選んだものを挟んでお昼にパクパク食べながら歩く学生は多かった。パン屋と薬局は本当に多くて、どこを歩いてもあるんだけど、学校の近くにあるパン屋で食べられるランチメニューはとっても美味しかった。中がカフェになっており、寒い日なんかに、あったか〜い「本日のスープ」と、生肉のパテを塗ったパンにオリーブ油とパルメザンなんてかけて食べたらもう幸せだった。

 街のあちこちにはカフェがあり、昼間っからみんなビールを飲んでいる。うちの目の前にも一軒あったので、練習に疲れた時、気晴らしに入ったりしていた。

 うちの近所、で思い出したけど、隣のチェコビール屋さんは、すっごく美味しいシュークルートを置いていたし、お肉屋さんは、美味しそうな串刺しアニョー(羊)やソーセージなんかを置いていて、私は自宅でクスクスを作る時によく買って添えた。

 余談だけど、ブリュッセルのお肉屋さんには、日本のような「豚肉薄切り」が置いてなくて、生姜焼きが食べたくなった私は、「薄く切って!こんな風に!」とよくお願いして、変な顔をされたものである。

 スーパーに並ぶ骨つきのプレ(鶏肉)は本当に美味しい。骨つきじゃない鶏肉なんてなかったかも。それから子牛の肉もよく出回っているんだけど、柔らかくて大好きだった。学食ではウサギの肉も出たけど、自分で料理したことはない。これも美味しかったな。

 練習に疲れた時、ベトナミアンや中華などは本当によく行った。やっぱりアジア人。落ち着くのである。中華はご存知の通りだと思うけど、ベトナム料理はとっても美味しい。ちょっと甘酸っぱいソースは食欲をそそられます。

 そんなこんなで、ブリュッセルという街は、娯楽は少なかったけど食がいわゆる娯楽のようなもので、あちこち食べ歩いては幸せな気分に浸っていました。

 コンビニもなく、自炊オンリーの貧乏学生。ほとんど料理のできなかった私が、この四年間の美味しい国での生活で、舌も腕も上がったのは間違いない。

2017年5月 1日 (月)

二十一 美味しい国ベルギーその二

 フリッツ、ビールとくれば、ムール貝である。

 ムールの美味しいお店は、すぐに先輩方が連れて行ってくれた。よくツアーなんかで行く、グランプラスのムール貝レストランよりも、街中に入ったところの方が断然美味しい。1キロか、1キロ半か、どちらかの量を選ぶと、鍋ごとドカッ!と出てくる。最初見た時は「ムリ!」って思うんだけど、その美味しさに、ペロッと平らげてしまう。白ワイン風やプロバンス風で煮込まれており、ムールを平らげた後は、バゲットをスープにつけていただくとこれが絶品。ちなみにムールは、食べた貝を使って挟みながら食べます。

 それから日本でも有名なベルギーワッフル。フランス語では「Gaufre(ゴーフル)」と言う。

 これは、日本でよく見かけるのが楕円形の、少し厚めのワッフルだと思うんだけど、(リエージュワッフルと言う)私はもう一つのタイプの、ブリュッセルワッフルが大好きだった。四角くて、サクサクしていて軽い。別にワッフル屋さんに入らなくたって、スーパーに売ってる袋入りワッフルを買ってきて、トースターで焼いて食べても大変美味しい。

 でもお気に入りだったワッフル屋さんは、グランプラスから小便小僧に向かう途中にあるレストランで、そこの二階で食べるワッフルは頬っぺたが落ちそうなくらい美味しかった。大きなお皿にドーンと焼かれたワッフルに、フランボワーズや、木苺などのソースをかけて食べる。添えられた生クリームも、軽くてフレッシュ。ソースなしで、粉砂糖をかけてシンプルに食べるのもまた美味しい。ああ、食べたくなってきた。

 それから世界各地の料理も、ベルギーの中にはたくさんの名店がある。

 モロッコ料理の、クスクス屋さん。ちょっと怪しげな地区に足を踏み入れると、それはある。ブリュッセルという町は、一本路地に入っただけで住民層が違ってきたりするのだが、はじめのうちはそれに気づかなくて、平気で危険度が高い地区に歩いて行ってしまったりするので、来て間もない留学生などは要注意である。私は何度か黒人さんたちに囲まれて怖い思いもした。それについては後日。

 で、クスクス料理屋なんだけど、これがまた美味しい店が一軒あって、そこには北島三郎そっくりなモロッコ人のウエイターが居た。日本人たちは密かに「サブちゃん」と呼んでいた。サブちゃんはとてもいい奴で、大皿にドッサリとクスクスを運んできては、「おかわりはどうか?」と訊く。いや、もうお腹一杯だよ!と言うと、「何だ、もっと食べなきゃダメだぞ!」と怒りながらウインクしてみせた。

 クスクスというのは、パスタを粒にしたようなもので、それに野菜や肉で煮込んだ絶品スープをかけて食べる。アニョー(羊)やブフ(牛肉)、プレ(鶏肉)などもチョイスできる。食後には甘い甘いお茶を頼むととても美味しい。久しぶりにブリュッセルを訪れる時、必ず立ち寄るのがこのクスクス料理店である。サブちゃん、まだ元気かな。

 美味しいものの話は、まだまだ続きます。
 

二十 美味しい国ベルギーその一

 さて、レッスンの話が続いたところで、ベルギーという国の魅力のひとつ、食について語ってみようと思います。

 何を隠そう、ベルギーと言えば食べ物。寒くて年中どんよりとしたこの国で、この楽しみがあったからこそ、四年間も生活できたと言っても過言ではない。ベルギーの美味しい食べ物と言われて、何を思い浮かべますか?ワッフル?チョコレート?いいえ、それだけではありません。とにかく、世界各地の食べ物が美味しいのであります。まさに、ヨーロッパのグルメ中心部。

 学生が気軽に食べることができるB級グルメから始まって、高級レストランまで、本当にこの国はレベルが高かった。私の肥えた舌はこの時代に作られている。結婚するなら、同じく舌のレベルの高い人がいいというのは理想の第一条件だったけど、我が夫は見事クリア。まあそれはいいとして、当時、ガリガリに痩せていた私は、体重など気にすることなく、食べ放題に食べることができた。

 日本からベルギーにやって来ている若者たちというのは、音楽留学生、料理人、日本食屋で働く者たちが多かったが、単身赴任のおじさんたちにモテモテだったのは、我ら音楽留学生女子一同であったのは言うまでもない。そういうオッサンたちに抜かりなくついて行き、よく高いレストランでご馳走になったものである。おじさまたちも、若い女の子たちを連れて行くのは嬉しいし、何よりも「女性同伴で行く」のはヨーロッパの作法でもあるからして、日本人サラリーマンたちが男たちだけで飲んでる姿なんぞを見かけた時は違和感を感じたものである。

 高級料理も唸るくらい美味しかったけれど、
(実際、フランス料理は、本場フランスよりも美味しいのではないかと評判であった。私はフレンチはあまり行かず、もっぱら和食小料理店なんかがお気に入りだったけど)
なんと言ってもご紹介したいのはB級グルメである。どこまでがB級かはわからんが、とにかく美味しかったあの食べ物たち。どこから紹介してよいのかわからないほどある。

 まずは、ベルギー人たちがこよなく愛する、フリッツ。いわゆるフライドポテトですね。
 これは、街角のあちこちにフリッツ屋さんが出ているんだけど、何十種類ものソースの中から好きなものを選んで、でっかい袋にガサッ!と熱々のポテトを入れてくれる。それを、ベルギービールと一緒にベンチで食べたらもう絶品。お腹大満足である。大家さんの娘、エヴァは、フリッツ屋さんを見つけると必ずパパにおねだりして、「家で揚げればいいだろう!」と叱られていた。そう、各家には必ずフリッツ揚げがあり、ジュージューと揚げて食べる。あ〜うまそう。たまらない。

 それからビールはご存知の通り、その種類は数えたらきりがない。水を買うよりも安いので、とりあえずビールを買っとくんだと、酒飲みの友人たちは言っていた。私が大好きだったのはブロンシュ(白ビール)。それから、木苺などで作った果実ビール。父がやってきた時も、「うまい!」と感激していた。が、不思議なことに、日本で飲むそれは全く違う味に感じるのである。美味しいことは美味しいが、ベルギーで飲むあの爽やかで、抜群な美味しさとは違うように感じる。気候のせいで、味わいも変わってくるのだ。だからぜひ、ベルギービールを味わうのなら、現地にてお願い申し上げたい。父は、空港の検査で放射線を浴びて味が変質するのではないか、と本気で言っていたけど。

 ああ、でも一つだけ。毎年日本の各地で開かれる「ベルギー祭り」これは、レベル高いです!私はよく、妹と山下公園の祭りに参加するのだが、ベルギービールが生ジョッキで飲める。それからフリッツもマヨネーズをつけて売っている。これが、めちゃめちゃうまい。正直、あまり期待して行かなかったのだが、思わずおかわりを何杯もしてしまい、午後の仕事が憂鬱になってしまったこともあるので、休日に行くのがオススメです。混んでるけど。

 あ〜ダメだ、この記事を書くのが一番楽しくて、長くなりそう。まだまだ美味しいものは続きますので、ご紹介は次回へ続く。

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