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2017年6月の38件の記事

2017年6月 1日 (木)

七十二 三年目のブリュッセルに向けて

 東北の旅から帰ってきた私は、残りあと十日ほどの夏休みを満喫した。

 最後に師匠、Mr.カワソメに会い、
「お前、来年帰ってきたら(実際には、再来年となるのだが)『こうしなきゃならん』なんて考えるなよ。好きなようにやれ。」
 とおっしゃっていただく。

 それから、大好きなアキカさんにも会った。彼女は案の定、遅刻していらっしゃったが(ヨーロッパの感覚、そのままである。)帰国当時のままのアキカさんの様子に、私は嬉しくなった。そして東北の彼氏との別れを報告し、やっぱり、遠距離は難しいよねェ〜。なんて笑い飛ばしてもらえる。ついでに彼女の恋愛相談も聞かされちゃったりして、とっても楽しかった。

 幼馴染みのミーちゃんの結婚式もあった。彼女の花嫁姿はとても素敵だった。もともと美人な彼女は、若さも手伝って、とても華やいでいた。私はもう一人のヨシエとそろって祝福し、お次に行くのは誰だ、先に行かれたら、マジで涙だよ〜!などと言って、笑った。

 もうじきヨーロッパに戻る私は、男女共たくさんの友人たちに別れの挨拶をした。一人、ちょっといい感じになりそうな彼もいたりして、そのシチュエーションを大いに楽しんでいた。どうせ私はまた、ブリュッセルに帰る身。あっちだって、そのつもりでいたに違いない。だけど私の心の奥底には、東北の彼氏と別れた傷がしっかりとついており、ちくしょー、覚えてろよ!くらいな気持ちで、多少やけになっていたと思う。

 最後の日は、愛犬ビビとお別れをして(彼女は神妙な顔をしていた。)母に豪華な食事を作ってもらい、成田の夜の便に向けて出発した。

 成田空港で、私は最後に、東北の彼に電話をかけた。

「もしもし」と出た瞬間、時間が止まったような気がした。

「もう、かけないでおこうと思ったんだけどね。今から出発なんだ。」

 と私が言うと、

「そうか、頑張って来いよ。」

 と一言、想いを込めた様子で彼は言った。

 電話を切ってから、私はこの時初めて、涙が溢れた。彼はいつもいつも夢の中の人だった。大好きな人だった。叶うものなら、一緒になりたかった。本当に、いつになったら私は幸せになれるんだろう。あと一年か。しんどい。でも、頑張るしかない。当時高校生の妹、ユリコにも電話を入れた。お姉ちゃん、寂しいよ〜。タクさん(彼女の友人)も、寂しがってたよ。と言ってくれる。私は妹の友人たちともまた、仲良しであった。

 パリに向かうエールフランスの夜の便は空いていた。そしてブリュッセルには、九月十日、現地時間の八時半に到着する。

 そこにはまた、神妙な顔をしたよっちゃんが出迎えてくれていた。

2017年6月 2日 (金)

七十三【三年目】 ディプロムスーペリウールに進学する

 空港で出迎えてくれたよっちゃんは、なんといきなり、別れ話をもちかけてきた。

 私はびっくりしたと同時に、なんでいきなりこのタイミングで?しかも、会ったとたん、空港で言うかな〜と訝ったが、まあ、私の夏休みの一部始終を想像していただろうし、多分すごく嫌な思いをさせてしまったんだろうな、とちょっと反省して、いいよ、別れたいのなら、そうしよう。と応えた。

 その時の私には、怖いものなど何もなかった。すっかり愛に冷めていたし、何を言われてもへっちゃらだった。でも彼は、そんなことを言っていたくせに、結局その日のうちに、やっぱり別れるのをやめたらしい。さすがはよっちゃんだよ、でも自分の言ったことには責任を持て。と密かに思ったが、言うのはやめておいた。そして、猫のプーすけに会いに行ったり、ユキやしづちゃんたちにお土産を渡しに行ったりした。また、ブリュッセルでの日常が始まろうとしていた。一つだけ違ったのは、東北の彼とは別れた、という事実であった。

 今年から留学してきた、新入りの後輩、トッコちゃんとも初めてご対面した。なかなか面白そうな子であり、これから一年、楽しくなりそうだな、と思った。

 大使館にも挨拶に行き、これからまた一年お世話になることと、相談に乗ってもらっていたお礼報告として、彼と別れたことも告げた。
「いろいろ、あったんだね。」
 と、優しく肩を叩いてもらったのが、嬉しかった。

 そして新しい家に引っ越しを終えたユキのところへお祝いに行き、彼のホモ説で大いに盛り上がり、笑い飛ばしてもらって帰ってきたりした。ホントなのかな?と訊いてみたら、う〜ん、そんなの、わかんないわヨ〜。貴女と別れたかっただけかもしれないし、酔っ払って変なこと言っちゃったのかもしれないし、でもまあ、案外、ゲイも似合ってるけどネ。と、タバコを燻らせながら彼女は笑った。

 さてそれからは、日本であれだけ遊び放題の私だったが、さすがは暗いブリュッセル。地味に手紙を書いたり、日記を書いたり。ピアノを練習する以外に、何もやることがない。私は今年から、強く生きるんだ。そうしないと、自分がダメになりそうだから。そう日記には書いてある。早速国際コンクールにファックスを打ったり、ストイックな勉強に打ち込み始めた。結果的に、彼と別れたことは、音楽を続ける私にとって正解だったわけである。人生とはうまくできているもんだ。

 そして九月半ば、私たちは、ディプロムスーペリウールという、いわば大学院のような上のクラスに入るため、簡単な入試を受けることになる。

七十四 入試、そして二人暮らし

 九月十八日。十四時から、ディプロムスーペリウールの入学試験は行われた。

 と言っても、実技のみ。日記を読み返して初めて、おお、入試なんてあったのか、と思ったくらいだから、向こうの入試とは本当に儀式程度なものである。卒業資格はそう簡単にもらえないが、入る時は相当下手くそでない限り、基本的に、来る者拒まずであった。ましてや私たちはプルミエプリを取得しているのだから、進学は約束されたようなものである。

 まずコンセルヴァトワールへ行き、受付順に弾く。私は夕方に弾いたが、それまでユキたちとカフェでお茶していた。曲目は、六月の試験で弾いたものの中から、ブラームスの間奏曲と、プーランクのトッカータが当たったが、イマイチ乗り切れず。そりゃそうだ、あんなに日本で遊んじゃった後なんだから。何しろ、気合いが違う。夜、コルニル先生からの電話で、八十三点だったと聞かされた。う〜む。まあ合格したらしいから、いいか。

 何とか儀式は終わり、それから例年によって、今年度のプログラム曲を決め始める。今年は何と言っても、コンチェルトが入ってくる。ディプロムスーペリウールの準備曲は、プルミエプリとは違い、もっと多くの、より大きな曲を用意していかなければならない。加えて、私は師匠の言いつけ通り、今年は国際コンクールを受けようと思って準備を始めた。現代曲が得意なので、二十世紀コンクールを受けようか、色々と悩んだ。結局のところ、アンリオ先生が現代曲には反対されたので、違うコンクールを目指してぼちぼち頑張り始めたところだった。

 和声の授業もまた、今年こそは中級のモワイアン合格めざして、闘志を燃やしていた。メルクス先生とレッスン時間の打ち合わせをし、私は張り切っていた。多少、東北の彼と別れた痛手はあったが、そのおかげで、三年目の私はかなり日本から心が遠ざかり始めていたと思う。そして、私の傷心を癒すかのタイミングで、高校時代の友人が、一ヶ月強の滞在をしに、ブリュッセルの半地下へやって来たのだ。

 彼女のあだ名は、のら。 アフリカから、夏の間の避暑としてベルギーに来てくれた。高校時代、しばし一緒にバレー部で共にした仲間である。(私は一時期、女子バレー部のマネージャーなんかをやっていた。気が利かなくって、全然仕事できなかったけど。)

 何故アフリカからか、と言うと、彼女の旦那さんが、アフリカのボツワナで海外青年協力派遣隊として活動していたのである。夏の暑さは半端じゃないということで、彼女だけはどこか、友人のいるヨーロッパにでも行って来い。と言われて逃避行してきたのだ。彼女が話してくれた、アフリカの話はすさまじかった。ある日、起きると背中にノミがたくさん食い込んでいた話も、その一つ。旦那の髪の毛は私が切るんだヨと言って、その腕前をよっちゃんの頭を使って、披露してくれた。ヨーロッパは暮らしやすく、天国であっただろうと思う。

 のらは大変な勉強家であったので、滞在中、カセットテープ片手に、独学で英語を勉強していた。その他は滞在費の代わりに料理を担当してくれたので、私はとても助かった。何よりも、のらとは生活のリズムも合っていたし、気を使わず、暮らしやすかった。毎晩の話し相手がいることでとても楽しかったし、ユキがヤキモチを焼いたくらいである。

 だから私たちは、よくユキのうちで三人で飲んだ。楽しかったなァ。

 そんなわけで、三年目の秋は、のらとの二人暮らしにより、充実して過ぎてゆくのである。

2017年6月 3日 (土)

七十五 のらとの生活

 アフリカからやって来たのらは、大変な変態…いや、愉快な奴だった。

 毎日、私が学校から帰って来ると必ず、部屋のぬいぐるみたちがツガイとなって、変な格好をして散らばっていた。私がやめろと言っても、何度でもやるので笑ってしまう。それから大家さんの娘、エヴァとも大変な仲良しになり、日本語とフランス語でしっかり愛が通じ合っていた。(エヴァはお父さんがベルギー人、お母さんがチリ人なので、当時はフランス語とスペイン語しか話せなかった。)そして、のらの作る白菜鍋は絶品であった。確か唐辛子を入れて、骨付き鶏肉と白菜をぶちこむだけの料理なんだけど、それはそれは美味しかった。私たちは毎日、賑やかに暮らした。

 よっちゃんはのらのことを気に入ってくれたので、幸い、私たちに嫉妬するようなことはなかった。ここにユキが入ってくるとどうも男の匂いがしてくるので、だいたいにおいて、ヤキモチを焼かれたのだが。だけど何を隠そう、のらも男性たちには大変モテたのを、私は知っている。結局、面白くて魅力的な人物は、男女問わずモテるのである。私とユキとのらは、三人で集まっちゃあ、ワイ談をしたりして、バカ騒ぎしていた。どうしようもない。

 彼女は結局、一ヶ月とちょっとの間ブリュッセルに滞在し、十一月に入ると旦那さんの待つアフリカへ帰って行った。また、半地下の部屋には静けさが戻り、私は寂しくなった。ユキはそんな私の気持ちを察して、電話をかけてきてくれた。優しい奴である。

 そして私は、彼女がいなくなってから、よっちゃんと一緒にロンドンに行ってミュージカルを観たり、パリからまた後輩のエミコが遊びに来たりしながら、ぼちぼち以前の生活を取り戻していった。

 そんな中、ふと、心の穴を埋めるかのようにして、東北の彼の電話番号をまわしてみた。もしもし、と彼が出た。私はびっくりして、一度、何も言わずに電話を切ってしまう。それからしばらくして、もう一度、深呼吸して電話をかけてみた。彼はもう一度、受話器の向こうから返答をした。思い切って、元気?と、声をかける私。

 彼は至って普通で、私たちは冷静に話した。私たちが別れたことを、彼がショットバーの仲間たちに話したこと。私も、大使館のみんなにも話したこと。そしてお互いに、何だか、本当に終わったんだね。と言って、二人して何故か少し落胆した。でも、電話をかけてみてよかった。少しホッとしたのを覚えている。

 それからというもの、私は彼のことは徐々に忘れて、心穏やかになっていった。完全に忘れはしなかったし、何度か、ああ、今でも好きだなあと思ったりしたが、痛みはなくなっていた。年末あたりには、もうずいぶんと傷は癒えていたように思う。そして暗い静かなブリュッセルの部屋で、三年目の曲と向き合い、練習に精を出し始めるのであった。

七十六 三年目の選曲

 ディプロムスーペリウールに進むと、プルミエプリのように試験が二回に分けて行われることはなく、六月の本番一発勝負であった。ではその分、楽になったかと言うと、とんでもない。何てったって、コンチェルトが入ってくるし、エチュードもバッチリ弾かされる。おまけに今年は、コンクールの課題曲も同時に揃えなければならなかったので、大変だった。

 まず、コンチェルトには、モーツァルトのK488を選んだ。二十三番の、イ長調である。大好きな曲。頑張るぞ。それからショパンのバラード三番、バルトークの小品op.14。グラナドスのゴイエスカスより、マハと夜鳴きうぐいす。エチュードは、リストのため息、ショパンのop.10-10、変イ長調(六度のエチュード)である。

 普通はだいたい、日本でやったことのある曲なんかも入れたりするのだが、チャレンジャーな私は毎年、全曲新曲を選んだ。これは無茶苦茶、大変である。レパートリーを増やしたくて頑張ったが、そこまで優秀でもないくせに、本当によくやっていたと思う。おかげで自信がついた。これだけ厳しい状況で頑張ったのだから、日本に帰ってからの舞台では、以前に比べてかなり余裕が生まれたと思う。人間、苦労はしてみるもんである。

 私は張り切って練習していたが、コルニル先生のところへ初、コンチェルトレッスンで持って行くと、初めは「ビアン(良いね)」と言って聴いて下さっていたが、そのうち後半になると難しい顔になってきて、最後、カデンツァの部分になると、鼻で笑われた。くそっ。私にとっては、初めてのコンチェルト。慣れないことも多く、難しかった。

 十二月に入ると、初めてアシスタントと一緒に二台ピアノで合わせ始める。

(コンチェルトの試験では、二台目のピアノを使ってオーケストラパートを弾いてもらう。だから先生方やアシスタントたちは皆、分担して、生徒の人数と曲数分だけオケパートを弾かなければいけない。これは恐ろしく大変な作業だったと思う。)

 二台で合わせるともう、とたんに自分の音が聞こえなくなり、うまく弾けなくなってしまった。そうか、コンチェルトって、こういうものか。そして私は帰国後、夫と共にオケと初めての合わせをやることになるが、オケなんてもう更に、二台ピアノとはワケが違い、ここまで精神力を必要とされるのだ、と身にしみてわかることになるわけである。

 私は勉強に夢中になっていた。そして気付いたら、もっとブリュッセルに残りたい、残って勉強を続けたいと思い始めている自分がいた。苦しい遠距離の恋が終わり、私の気持ちはヨーロッパに自然と傾くことができたのである。

2017年6月 4日 (日)

七十七 芸術の秋

 十一月に入ると、ブリュッセルの街にはクリスマスの装飾が施され、一気に華やいだ雰囲気になった。十一月下旬には、よっちゃんと共に二度目のローテンブルグに訪れ、以前は買えなかった、クリスマスの小物を買ったりした。心は弾み、ウキウキした。

 演奏会にも行った。ブリュッセルの劇場は、パレ・デ・ボザールやモネ劇場などがあったが、コンセルヴァトワールのホールでも演奏会は行われていた。この時は確か、ボザールだったと思う。学生チケットは安く手に入るが、その代わり、最上階の一番後列で、太い柱の陰だったりする。だけど我らコンセルヴァトワールの学生たちは、その辺りを陣取り、観にくいので正座なんてしちゃったりしながら、大物たちの演奏を大いに楽しんだ。

 二十七日、ポリーニがやって来た。夜八時からの演奏会である。私は彼の演奏はあまり好きな方ではなかったが、一応、大スターだし、行ってみることにした。しかしこの日の彼の演奏は素晴らしかった。
 ショパンのバラード一番、四番、ノクターン、子守歌、ドビュッシーのプレリュードなどのプログラム。アンコールにはショパンエチュードから、10-4、25-1、黒鍵などなど。これでもかと言うくらいにアンコールは続き、観客たちは沸いた。私たち学生も、知り合いという知り合いが顔を出し、大興奮して拍手喝采していたら、前列にいたマダムたちが「あら、コンセルヴァトワールの学生たちも嬉しそうね!」と言う顔で振り返ってウインクしていた。それからしばらくの間、レッスンにおいても、師匠、学生ともにいい影響を及ぼし、かなり皆、やる気を出していたと思う。

 それから同じ十一月に、我らが師匠、コルニル先生の演奏会もあった。ちょっと郊外の、素敵な教会でのコンサートである。後輩のトッコちゃんと、よっちゃんとで聴きに行ったが(ユキは、何かの理由で来られなかったように思う。)お得意のフランク、トッカータが素晴らしく上手で、割れんばかりの拍手となった。あんなにバリッと弾けるなんて、私も見習いたい。先生のCDもたくさん出ていたのだが、何故買って来なかったのかと、今でも悔やまれてならない。

 私は、三年目のヨーロッパの文化にふれながら、自然と音楽を吸収して行った。自分の勉強にも、少しずついい影響が出てきていた。和声の授業も、メルクス先生に何度もパーフェクトをもらい、喜んで帰って来ては宿題に励んでいた。一番乗っていた時期であったと思う。

 そして十二月に入り、 三年目の冬は、初めてブリュッセルで静かに、平穏に過ごすことになるのである。

七十八 バスの運ちゃん

 私はこの年、勉強に乗ってはいたが、十二月に入り、寒くなってくるとよく、体調を崩した。もともとひどかった生理痛が、輪をかけてひどくなってきていたのである。今考えると、この頃から筋腫も育ち始め、内膜症になってきていたのだと思う。でも、ヨーロッパにいる私は、気付かない。三十を過ぎて結婚した後、それはようやく見つかるのである。だからその時は、なんとか薬を飲んでしのいでいた。

 十二月のある日私は、バスの中で倒れた。アシスタントのレッスンのため、コンセルヴァトワールに向かう途中、貧血を起こしたのだ。そういえば、こっちに来てからまだ外で倒れてないなァ。なんて思ってたら、どんどん気分が悪くなり、焦った。仕方なく座席でうずくまり、横に座っていたマダムがびっくりして声をかけてくれた。

 大丈夫です…いつものことだし…貧血だから。なんて、フランス語で応えている余裕はなかったので、「大丈夫大丈夫。」とだけ言っていると、なんとマダムは運転手のところへ、気分の悪いマドモワゼルがいるわ、と伝えに言ってくれた。

 すると親切な運転手のおっちゃんは、バスを停車させ、病院へ行くか?と声をかけに来てくれたのである。どうですか、このサンパ(フレンドリー)っぷり!日本じゃあ、考えられない。だいたいにおいて、隣の人だって、知らんぷりである。私は朦朧とした頭で、(さすがはヨーロッパだよ…)などと思いながら、「だいぶ気分が良くなってきたから大丈夫。ありがとう。」と答え、本当にマシになってきたので、目的地で下車することができた。

 まだふらつく足元でコンセルヴァトワールへと向かったが、もしあの時、私が病院へ行ってくれと頼んだら、あの運転手は本当に行ってくれたんだろうか。乗客たちも、私が少し良くなったとわかったら、皆、よかったねと言ってくれてたっけ。ああ、あったかいなあ、ブリュッセル。こりゃ、今日のネタだな。などとぼんやり考えていた。

 体調を崩すと決まって精神状態もブルーになるのであるが、そんな時、私は日本の友人たちによく手紙を書いた。幼馴染みのミーちゃん、大好きなアキカさん、そして、東北の彼にも、こちらの生活の報告をしていた。別れていたのに、意外としょっちゅう、コンタクトをとっている。日記を読み返して気付くのだけれど、私たちはけっこう、仲良しだったのだ。

 私はこの時期、男性関係は大変静かなものだったが、友人、ユキはかなり荒れていた時期であった。しょっちゅう私に会いに来ては、新しい彼氏の愚痴を言っており、
「なんか私、まるで新婚の愚痴言いに来てる主婦みたいじゃない?!」
 とか言って、大笑いした。

 私は彼女の彼氏を品定めしては、「あ、今回は続かないな」などと密かに思ったりしていて、案の定、その三日後にサッパリ別れたりしていた。全く、人の恋愛はよくわかるのに、自分の恋には盲目である。

 そしてベルギーの街はクリスマスを迎え、私の、一時期鎮火した男関係のように、静かな時を迎えるのである。

2017年6月 5日 (月)

七十九 静かなクリスマス

 クリスマスの少し前、私とユキは、アシスタントの立会いのもと、コンクール用の音源を作るために、楽器店のホールを借りて収録を行った。ちゃんとしたテープを作らなければいけなかったので、録音技師に来てもらい、バランス調整した後に製作してもらうのである。今と違って手頃な機材もなく、私たちはお金を払って仕事をしてもらった。録音というのは、ライヴと違って全然楽しくなくて、別の意味で身体が緊張してしまう。帰ってからもアドレナリンが出ていたのか、興奮していて、なかなか寝付けなかった。

 クリスマスイヴの日は、珍しく暖かい日であった。私は不覚にも昼過ぎに起き、(ブリュッセルでの生活は、完全に夜型だった。夜中まで好き放題に弾ける部屋であったし、私は毎晩、二時近くまで起きていたような気がする。今じゃとてもムリ。十時半就寝、六時半起床と、すこぶる健康的な生活である。)そして私は、街に出た。人々は皆、ウキウキしていた。今夜のメニューを考えながら、スーパーで買い出し。三千円前後で調達できた。食費は安く、日本ではこうはいかなかっただろう。

 そして、ずっと目につけていた帽子と、たまたま手頃なリュックを見つけ、よっちゃんにプレゼントする。喜んでくれると思ったら、案の定だった。彼の背負っていたリュックはもう古びていたのに、毎日同じものを使っていたからだ。この街では、おシャレなど皆、全然気にしていなかった。留学当時は、歩いていると「旅行者か?」とよく訊かれたのに、この頃にはすっかり現地化していて、たまに一時帰国すると妹に「お姉ちゃん、なんじゃその格好は!」と呆れられていたものである。

 さて、イヴのメニューに取り掛かるのは夕方から。ボン・ノエル!(メリークリスマス!)

 私は、トマトベースのソーセージ入りポトフに、じゃがいもスモーク、カリフラワーのサラダ、ミートローフ風牛肉巻き、デセール(デザート)には、パンナコッタミルクティー風味を作る。これらはパーフェクトに出来上がり、最高のノエルとなった。よっちゃんはイヴもしっかり働いて、夜になってから、ワインとシードルを手土産に持って来てくれた。

 日本のみんなはどうしているかな…。妹、ユリコはどう過ごしたんだろう。東北の彼は?みんな、メリークリスマス。楽しく過ごしていますように!と、思いながら。

 二十五日は、街中静まり返り、皆、家族団らんで過ごしていた。

 大家さん一家は次の日からヴァカンスに行くため、私は家の動物たちに餌やりを頼まれ、魚に餌をやったりしながら、センスのいい部屋の飾り付けなどに見とれたりしていた。

 ベルギーでの初めての年越しは、それはそれは静かに過ぎて行った。ひたすらピアノをさらい、大晦日には日本食屋さんで忘年会をした。

 そして元旦、私たちは静かなブリュッセルを後に、友人のいるスイスへの旅に出るのである。

八十 チューリヒへ

 元旦の夜、私とよっちゃんは、二度目のスイスへの旅に出かけた。

 今回は、寝台列車での旅。チューリヒに留学してきた、私の大学時代の友人に会いに行くためである。夜行列車は初めてだったが、安い六人部屋はやめて、二人部屋にした。これは正解だった。とてもじゃないが、六人部屋は私にとって厳しそうであった。二人部屋は、パスポートを預けられたり(途中、起こされなくてすむ)とても快適である。それなのにやっぱり私は眠れず、上でガーガー寝ているよっちゃんが羨ましかった。

 到着は朝九時。二時間強の遅れだった。彼女とは七時に待ち合わせしていたので、とても心配になったが、彼女はかえって気を遣ってくれて、満面の笑みで駆け寄って来てくれた。よっちゃんとも、ウマが合っているようだった。そして私たちは、彼女のホームステイ先に案内してもらった。

 スイスのこの家のマダムは、私の住む、完全独立型の大家さんたちとは違い、まるで本当の親戚か、母親かのような印象を受けた。ちょっと神経質で、気に入った人間とでないと暮らさないわよ、と言わんばかりの女性であったが、幸い私たちは気に入られた。マダムがもてなしてくれたチーズフォンデュは、ブリュッセルで食べるそれよりも、ワインが効いていてとても美味しかった。フランス語で丁寧に、作り方を説明して下さる。

 チューリヒはドイツ語圏だったが、スイスは言語が四つに分かれており、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語になっている。ちなみにブリュッセルはフランス語圏であるが、ベルギーという国はフラマン語(オランダ語の方言)とフランス語に分かれており、ブリュッセルの駅は、二つの言語で表記がされている。だからヨーロピアンたちは割と普通に何ヶ国語かを喋れるのだ。語学とは、はっきり言って、必要に迫られてナンボである。日本という島国に居て、日本人だけに囲まれ、英会話教室に行ったって、いつまでたっても話せるようになんてならない。だから本気で喋りたいと思う人は、文法など気にせず、サッサと海外へ出て喋りまくるべきである。

 さて、スイスという所は、何をするにも物価が高かったけれど、清潔で、高貴な雰囲気のある国である。ずっと後になって私は夫とも一緒にこの地を訪れるが、高貴な夫はB級なブリュッセルよりも、チューリヒがすっかり気に入っていた様子であった。

 彼女たちにすっかり親切にしてもらい、四日の昼の列車で私たちはブリュッセルに戻ることになる。駅まで見送りに来てくれた彼女は、慣れない土地で寂しかったのか、大粒の涙を大きな目からポロポロとこぼしてくれた。

 ブリュッセル到着は、夜の八時。こうして三年目になると、私もすっかりヨーロッパ各地に慣れ親しむようになってきていた。次の週にはお隣のオランダへ旅することになるのである。

2017年6月 6日 (火)

八十一 アムステルダムへ

 アムステルダムは、大変面白い街であった。

 ただしオランダ高速はトロい。トロすぎる。ドイツ高速に入ったとたん、あんなにも速度が変わるのか、というほど、オランダ人たちはのん気で安全運転であり、ドイツ人はせっかちである。(違うかもしれないけど。)二時間ほど走ると、ほどなくアムステルダムには到着した。

 道中、オランダは本当に海面よりも地面の方が低くてびっくりした。さすがは海抜ゼロメートルの国である。そして、とても美しい。ユニークで、洗練された街、というイメージを受けた。

 アムスの駅は、東京駅のモデルとなっている。だからそっくりである。街全体に活気が溢れつつ、運河はのどかに流れている。そして何というか、風変わりで、保守的ではなく、何事にも新しいことを受け入れるチャレンジ精神を持っている。キレイなお姉ちゃんがナイスバディでウインクしている飾り窓なんかもすごいし、人々はマリファナを普通の感覚で吸っている。可愛い風車やチューリップの絵葉書の隣に、男性器の象徴の絵葉書なんかが置いてあるのは、そのギャップに笑えるものがあった。陸続きの、色んな国を旅するようになって、だんだんその国々の特色がわかるようになってくるので、面白い。

 アンネ・フランクの家も観てきた。ここに、あの暗黒の時代、アンネたちがひっそりと隠れ、耐え忍んでいたのかと思うと、何とも言えない想いが込み上げてきた。入ってみればわかるが、大変暗い。広島の原爆ドームに行った時もそう思ったが、何というか、そこにはただならぬ雰囲気が漂っているのである。きっと、アウシュビッツなどに行ってもそう感じるのだろう。戦争とは、罪のない人々の命を残酷に奪い取る、許されざるものである。 

 さて、私たちは、この先もちょくちょくアムステルダムには出向くことになった。同じ大学の先輩がこの街に留学してきたので、よく会いに行ったし、よっちゃんのお兄さまがパイロットだったので、ヨーロッパフライトの際にはこの近辺にしばしば降り立ったからである。

 その日は日帰りで、サクッと戻って来た。オランダは、自転車の国。道は美しく整備され、市街から皆、チャリンコで通勤してきて、それを停め、市内を走るトラムに乗り換える。大変合理的な国で、完全に車社会ではなかった。それも、この土地が平坦で、坂道がない。と言う利点にあるだろう。本当に美しく整った街だった。

 そういえば昔、東北の彼氏も、ここからチャリンコでベルギーまでやって来たっけなあ。それでベルギー国境を越えたとたん、坂道多すぎるよー!なんてブーブー言ってたっけ。などと思いながら、日に日に私は、想い出に変わって行くのを感じると同時に、彼に対する友情の念が増して来る気持ちに気が付いていた。

八十二 新年の気持ち

 日本のような情緒あふれる年末年始の代わりに、私たちはこうしてヨーロッパめぐりを楽しんでいたが、私は新年の挨拶も忘れていなかった。

 日本の師匠に手紙を書き、実家に電話をかけ、妹が受験の真っ最中であることを知る。私はついに、妹の高校時代を日本で見ることはできなかったのだが、楽しそうな高校生活の学祭の様子などは、いつもビデオに撮って送ってきてくれたので、だいたいは想像がついていた。彼女が現在の夫と付き合いだしたのもこの頃からであったと思うが、もともと同じ水泳部だったし、妹がずっと好きだったのも知っていたので、めでたく恋が実ってよかったなあ、と思ったものである。そして、彼女はとんでもなくレベルの高い大学ばかりを狙っているようであった。がんばれ、期待の星。姉は一人、ベルギーの地で応援していた。

 かけづらいが、気になっている相手にも電話をしてみたりした。このブリュッセルでは、相当毎日がヒマである。だから、いつも学生たちは、練習に行き詰ってはお互いに電話ばっかりして、ヘタすれば一、二時間も潰してしまうこともあった。東北の彼には、日本時間の朝十時くらいにかけて、繋がった。

「おおっ、カオルカオル。新年明けましておめでとう。」

 と言うと、はじめは私だとわからなかったみたいで、すぐに気付くと

「何がカオルカオルだ。」と言って笑った。

 アムステルダムや、スイスの話。ソルド(セール)の話。フランス語もずいぶん、話せるようになった話。

「当たり前でしょー。何年目よ?」

 と言って、相変わらず笑っている。さすがに別れた彼女には気を遣うのか、疲れひとつ見せなかった。

 一月半ばには私の二十六才の誕生日を迎え(若い)、皆からお祝いのファックスをもらう。妹は無事に、センター入試が終わったようだ。この日はよっちゃんと映画を観たり、イタリアンへ行ったりして素敵な日を過ごした。

 平和で幸せな日。だけど私には、どこかにいつも、寂しい気持ちが残る。それは、いつ、どこにいても同じだった。私だけではないはずだ。これは一体、何なんだろう?

 多分、何か、生に対する、寂しい、説明のつかないようなものだ。

 この時の私は、今の自分には感じることのできない、若さゆえの行き場のない不安を感じていたのだと思う。外国暮らしというのはまさに、そういうところでもあった。

 この先、もしも願いが叶うとして、一体いつまで勉強を続けていけばいいのか。ベルギーでこのままずっと、彼と一緒に暮らして行けばよいのか。終着駅のない列車に乗っているような気持ちで、私たちにはどうすればいいのかわからなかった。音楽には終わりなどなく、自分で気持ちに区切りをつけるしかない。海外生活に心の底から満足し、日本でなど暮らさないと決めている友人を除いて、それは皆、いつも抱いている想いであった。そしてそんなことを考えては、結局未来など決められなくて、今この時をとりあえず頑張るしかない。という結論に達するのであった。

 道は、必ずどこかに繋がっていく。なるようになるのさ。

 と信じて。

2017年6月 7日 (水)

八十三 春になるまで

 三年目の冬は、色々なことを悩みながらも、ユキたちと集まっちゃあ、仲良く肉じゃがだの、シチューだのを作り、愚痴を言いながら笑い飛ばして過ごしていた。

 そして私たちは共に国際コンクールを探しあぐねていた。良さそうなコンクールのパンフレットを見つけては、年齢制限二十五才以下にひっかかって舌打ちする私。隣にいたユキ(まだ、夏が来るまでは二十五)がすかさず私の手からパンフをひったくって、「いっただき〜!」なんて言って、笑っていた。受けたいと思っていたスペインのコンクールは、日程的に、コンセルヴァトワールの試験シーズンから考えてかなり厳しかったのだが、急遽、九月に延期されたりして(ほんと、いいかげんである)ホッと胸をなで下ろしたりした。

 頼んでいた録音が、出来上がったりもした。恐る恐る聴いてみたが、なかなか良く録れていた。少しピッチが高く入っていたが、まあまあ、曲として形になっている。悪くないかもしれない。嬉しくなって、私は実家や、日本にいる友人たちにダビングをして送った。だけどよっちゃんだけは、もっとパーフェクトな出来を狙った方がいいから、録り直せ!と言ってきた。いやいや、そんな簡単なもんではない。こういうところで、音楽家ではない彼との食い違いはよく起きた。いちいち討論となって、お互いに面倒である。まあ、音楽家同士ならそれなりに違ったケンカも起こるんだろうけどね。でも私にはやっぱり、同じケンカをするなら、音楽家同士のケンカの方が良かったんだろうと思う。

 和声の授業でも、ずいぶん綺麗に曲を作れるようになってきていた。ピアノレッスンの方も、年が変わり、いよいよ先生方の目が厳しくなって、私はレッスンに行くたび、緊張に胸をドキドキさせていた。まだストレスはさほどなかったが、東北の彼氏がヨリを戻そうと言ってくる夢なんかを見ていたりしたから、そろそろプレッシャーもかかってきていたのかもしれない。

 そしてお金も足りなくなってきていた。父が送金してくれた分と、私の稼ぎを合わせて、だいたい夏までの間は足りるように計算していたはずなのだが、生徒たちが帰国して人数が減ってきたりして、予想外の展開になっていた。

 一方で、運の強いよっちゃんは、以前から転職したかった現地の会社からお声がかかったりして、順風満帆だった。私たちは、今後どうしたらいいか、何度も何度も話し合い、来年も一緒に残って暮らしながらやって行こうか、相談しあっていた。

 私の恋愛はすっかり落ち着いていたところだったので、代わりにまわりの友人たちの相談に乗ったりしていた。全く、自分のことはわからないが、人のことはよく見えるものである。ユキにしたって、私にはああだこうだと偉そうなことを言ってくれたが、自分のことになるとよく、七転八倒して大騒ぎしていた。そんな愉快な友人たちに囲まれて、静かな冬は過ぎて行った。

 三月に入ると、少しずつ気候も良くなり、私はパリのレッスンにも通い出す。

 妹は浪人が決まり、春の訪れと共に、状況はゆっくりと変化してゆくのであった。

八十四 アットホームな発表会

 三月に、私は初めて自分だけの主催で、門下生たちのミニ発表会を行った。生徒さんの御宅(豪邸)をお借りして、アットホームなパーティーを開いたのである。

 夕方四時からスタート。ちょっとした思いつきで、私はゲームもやることにする。近くのお店でケーキを調達してから出かけた。

 人数が少ないので、ソロと連弾を両方。みんなおめかしをして、よく頑張って弾いていて嬉しかった。最後に私からの、サプライズゲーム。

 内容はこうだ。生徒たちと親御さんが組になり、私が、有名どころの曲をメドレーで弾く。その曲が何回入れ替わったか、そしてそれは何の曲だったか、作曲家は誰かを当てるゲーム。これは盛り上がった。子どもたちは、知っている曲かどうか、だけでオッケー。 全て、得点はお母さんたちにかかっております!と言うと、え〜っ、そんなの聞いてないよぉ〜!と、はじめは皆、焦っていたが、いざ、始まってみるとあちこちで「あ、切り替わった!」「ベートーヴェン!」とか、子どもたちもひそひそとやっている。まずはショパンの幻想即興曲から、ジャーン!と弾き始めたが、みんなの回答の面白かったこと。ピアノが弾けるお母さんでさえ、「幻想即興曲、シューベルト!」「別れの歌っ。ベートーヴェン!」とか、もうめちゃくちゃで、皆、大笑いをした。

 思えばこれが、私の現在の発表会企画に繋がっているのかもしれない。こんな機会にでも、みんなに楽しみながら曲を覚えてもらえて嬉しかった。

 最後にレセプションにて、お菓子にケーキ。みんな、とっても楽しかったと言っていた。一人、ちょっと気難しい親御さんがいらっしゃったのだが、彼女も大変満足だった様子で、私はホッとした。いろんなタイプのママがいたが、私はだいたい、誰とでもうまく付き合っていた。とにかく発表会は大成功。私はこの頃から、生徒たちにピアノを教えることが好きだった。自分の勉強はもちろん第一だったが、子どもたちにピアノが好きになってもらいたいという想いは強かったと思う。

 この時期はまた、演奏会ブームでもあった。コンセルヴァトワールの学生たちがこぞって、大使館を借りてリサイタルを開いていた。翌日には友人キボウちゃんのコンサートがあり、夜八時から出かける。コルニル先生もいらっしゃっていて、終わってから先生は、ピアノと、音響が悪い!としかめっ面をしながら、壇上で仁王立ちしていた。(実際、本当にそうだった。)そしてレセプションにて、先生は有無を言わさず、次はユキがコンサートをやれ、と言って、その場で日程を四月に決めさせていた。女王君臨。ものすごい迫力である。

 私は皆の演奏会を聴きながら、一人落ち込んでいた。私はちっとも曲がはかどっていなかった。みんな、すごいなあ。本当に優秀だ。それに比べて、私なんて。取り残されたような焦燥感に襲われた。そんな気持ちでいるところに、突然よっちゃんが、

「そういえばオレ、こないだ夢を見たよ。カオルちゃんの先生が、『僕はもうついていてやれないから、君によろしく頼むぞ』って言ってたよ。」

 と、嘘だかほんとだか、調子の良いいつもの感じで、カルチェラタンで夕食をとりながら口にした。私が帰国するたびに、よくお墓で会話をする師匠のことである。う〜ん、本当か?だとしたら、嬉しい。私は思わず、涙が出た。先生、応援していて下さい。と心の中で祈った。

 六月の試験まであと三ヶ月くらいの中途半端なこの時期は、このようにして過ぎて行った。この夏が終わってから先のことも決まらず、試験の曲もまだ仕上がらず、私は宙ぶらりんな気持ちで、気だけが焦っていた。

 それが四月に入ると、ようやく現実を直視するようになってゆく。

 中だるみ状態から、再び猛烈にやる気を出し始め、我々は迫り来る本番に向けてスタートを切るのである。

2017年6月 8日 (木)

八十五 四月の私

 四月に入ってすぐ、友人ユキのコンサートがあった。

 プログラムは覚えていないが、多分、試験の曲と自分のレパートリーとを揃えて弾いたのではないかと思う。彼女はこの年、ベートーヴェンの三番のコンチェルトと、バッハのパルティータ二番、ラヴェルの水の戯れ、プーランクの小品、ショパンエチュード10-5、ラフマニノフのエチュードop.35-7を選曲している。

 ユキは音楽性豊かに弾き、私は友人として大いに満足した夜だった。ライバルではあっても、私たちは共に応援し合い、時には嫉妬もしながら、それでも友が良い結果を出すことが嬉しかった。自分も頑張ろう!という気持ちになれるし、これからの励みになる。そして我々は、終わってから皆でクスクス屋で打ち上げをした。

 パリの友人、エミコも、スペインのコンクール先から電話をかけてきて、三十番でディプロムをもらった!などと速報を送ってくれた。その時はスペインのコンクールが人気で、ユキも勢いよくそのまま現地へ飛び、六名の中に残って一次予選を突破したり、後にエリザベートコンクールに出場するMr.ミタなんかもスペインで二位を受賞したりして、私たちは沸いていた。

 私は九月に、イタリアのバルセシアコンクールを受けようかということになり、とりあえずの目標が決まって意気揚々としていた。もう落ち込んではいられず、とにかく練習するのみ。ショパンのエチュードは難しかったが、ようやくこの頃から手に付き始め、慣れると魔法をかけたように手が動く、と日記に記載している。

 コンチェルトは四月下旬になって初めて、コルニル先生と合わせた。あれだけ叱られていた曲だったが、この日は「bien!(なかなか良い)」と褒められ、大喜びで帰宅している。

 それからフランス語のレッスンも始めた。マダム・バージバンとの出会いである。始めはよっちゃんが紹介を受けて習っていた先生だったのだが、彼の方はすぐに挫折してしまったため、それならば私がと、ブリュッセル三年目にしてもう一度、きちんとフランス語を習い始めたのである。

 彼女のレッスンはとても教え方がうまく、楽しかった。毎日、日記をフランス語でつけることを宿題に出され、私は嬉しくて、書きに書いた。おかげで、メキメキと上達をし、日本語の日記にもフランス語が増えているのはこの頃である。和声の勉強の方も乗っていて、夜中はだいたい、ピアノの上で寝ているプーと共に、作曲に没頭していた。

 そうそう、余談であるが、相棒よっちゃんは、長いことブリュッセルに住んでいて、最後までフランス語がうまく喋れなかった。代わりに何故か、スペイン語が喋れるようになったりしていた。しかし喋れないが、ヒヤリングはずば抜けていて、一度お店で電子レンジの説明なんかを受けている時に、私はさっぱりわからなかった箇所を、よっちゃんは「だからね、ここが解凍ボタンで、ここを押すとこうこう、こうなるって言ってるんだよ。」なんて、パーフェクトに理解できていて、感心したものである。

 そして彼の方の生活も変わり、来年に向けて生活費を削減するために、アパートを引き上げてわざわざ私の暗い半地下に引っ越してきてくれた。来年は一緒に、なんとか生活しながらやっていこうと決めたのである。お互いに将来の約束をしたわけではなかったが、彼の方も私の勉強を応援してくれていた。感謝しきりである。

 私は徐々に、ブリュッセルに根付いて行った。ここでずっと暮らして行こうと思えばできる環境が整いつつあったのである。そんな私に感づいて焦り始めた父は、私の写真を社内にばら撒き、勝手に見合い相手を探し始める。一方、祖母の介護に必死な母は、私のことなど二の次であった。おばあちゃんは日に日に悪くなり、肺炎を起こしては意識不明になったり、もうだいぶまわりの人間のこともわからなくなっているようであった。

 四月、日本は桜が満開。私はもう、長いこと見ていない。妹、ユリコは彼氏とうまくやっているようだった。みんなに会いたかった。ここでの生活はまわり始めたが、私の心は常に、故郷にあったのである。

2017年6月 9日 (金)

八十六 五月の私

 五月のブリュッセルは、真夏のような爽やかな日と、冬に戻ったかのような寒さが交互に訪れた。

 ベルギーには、冷房がない。だからたまの暑さが来ると、蒸し風呂になる。特に地上を走るトラムやバスは開閉窓がほとんどなく、厳しかった。けれど私の住む半地下は常に天然のエアコンが効いていて、いつでも涼しかった。でも、三年目ともなると、私はどうしても外の風が恋しくなり、台所のドアに網を張ることを思いつく。BRICO(ホームセンターみたいなところ)で千円ほどの網を調達してきて、虫が入ってこないようにピンで留めただけの網戸だったが、私は大満足だった。どうしてもっと早く思いつかなかったんだろう。猫のプーは、庭に出てみたくて興奮していた。何故なら、庭にはウサギのダゴベルたちが跳ね回っていたからである。プーは小心者だったので、頭を低くお尻を振っているだけで、飛びかかろうとはしなかった。たまに大冒険をして、四、五歩庭に出てみては、私に怒られて逃げ帰って来た。可愛いやつである。

 真夏日の中、パリのレッスンにも通った。アンリオ先生は、試験間近の曲を聴いて下さり、例の、リストため息のレッスンもこの時の話である。後輩のエミコも大歓迎してくれて、まるで南仏のような風通しの良い部屋で一泊させてもらった。ただし、窓を閉め切って練習をしなければならない時は地獄だそうである。

 フランス語は、バージバン先生に習い始めたこともあり、もともとお喋りな私は、輪をかけて楽しくなってきていた。和声の授業でよく会う女の子とも、もちろんメルクス先生とも、日本語で会話している時よりもずっと面白かった。自分が全然違うニュアンスの人間になれるからだ。あちらの言葉で話していると、自然と表情もしぐさも大きくなれるし、大人しい日本語よりもずっといい。イエスノーがはっきり言えることも気分が良かった。長らく行っていないが、もう一度ヨーロッパに行ったら、またその気分が味わえるだろうと楽しみである。

 ピアノは、七月の本番に向けて、この頃は称して「ヤバイものシリーズ」の練習に取り掛かっていた。バルトークなど、またもやレッスンにて「trop vite!(速すぎる)」と叱られ、メトロノーム地獄となり、鼻で笑われ散々であった。エチュードも何度弾いてもうまくいかないところが出てきて、苦戦していた。

 だけどそんな日々の中、私は夢を見る。

 夜空に浮かぶ、満天の星を見上げながら、暗い海にキラキラと光り輝いている夢。

 とても印象的で、これは希望が叶う暗示なんだ。だから誰にも言わないでおこうと思った。

 そして五月十七日。この一年間かけて頑張ってきた、和声の中級モワイアンの試験日がやって来るのである。

八十七 和声中級バス試験

 六時半起床、七時半のバスでコンセルヴァトワールへ。

 和声、中級モワイアン、バス課題の試験日である。

 この日は日曜だったので空いていて、十分で到着してしまった。コンセルヴァトワールの前には何人か学生が来ていて、ユキも後からやって来た。

 私は一人離れて、中庭を通り、C館へ。窓が開けられてとても気分良く、試験もはかどった。

 今年のバス課題は簡単だった。いや、私が以前よりもレベルアップしていたせいかもしれないが、とにかく、私は余裕で、時間を持て余し、バルトークなどを呑気に弾きながらやっていた。十一時にはもう出来上がっていたが、念のためになんだかんだとねばり、結局二時過ぎまでかけて作った。途中、お弁当を食べていたら、大きな口を開けたその瞬間に見回りの先生が入ってきて、「セ・ボン?(うまいか?)」と笑われたのを覚えている。

 この日は二十キロマラソンの日だったので、帰りはバスがなく、えらく苦労をして遠回りしながら帰宅する。その上帰って来ると家の目の前ではフェスティバルをやっていて、うるさくって昼寝ができなかった。玄関のドアを開けたらちょうど犬の曲芸の広場のど真ん中と化していて、たまげた。

 後日、私はメルクス先生の授業で試験課題について質問をし、知らなかった禁則をおかしてしまったようで、多少しょんぼりしたが、まあそれも勉強だと思って諦める。

 お次は六月のソプラノ課題。これで、今年、晴れてプルミエプリの卒業証書が取れるかが決まるのである。それでも私は特別気負うこともなく、和声に関してはマイペースに勉強を進めていた。

 それよりも、迫ってくるピアノ実技試験の恐怖に、私は日に日に追い詰められてくるのである。

2017年6月10日 (土)

八十八 スランプ

 五月も下旬になった頃、私はエチュードの壁にぶつかっていた。

 せっかく今まで苦労して練習を積み重ねてきたショパンのエチュードがうまくいかず、機嫌の悪いアシスタントにとうとう、曲を変更してはどうかと言われたのである。他のエチュードも引っ張り出してみたが、乗り気にならない。完全にスランプだった。試験が近づくと、どうしてこう精神的にも低迷するのか。毎日、うまく眠れず、不安定になっていた。私はつい、東北の彼の電話番号を回す。

 彼は疲れて寝ていた。が、別れた女には気を遣い、起きて喋ってくれた。いつ帰ってくんだよ?と訊かれたり、カオルはピアノ、いつも失敗するか成功するか、どっちかなんだから、思い切りやんなさいよ。なんて言われた。私はまだ、彼のことを好きなんだなと思う。会いたい。完全に、現実逃避である。

 仙台の彼からも手紙をもらったり、私は試験前になると日本とよく交信をしていた。一緒に師匠のお墓まいりに行った、先輩のヨシミちゃんも、いつ帰ってくんの〜と電話をくれて、来月三人目が生まれるんだよと教えてくれた。彼女は私に、留学先をベルギーにすれば?と提案してくれた、進路のインスピレーションの恩人である。ヨシミちゃんは、ベルギーが自分の行くはずだった留学先の一つだったのに、潔く男に走り、今では三人目までしっかりと子育てを終えた後、これまた潔く旦那と別れて新しい音楽人生へと方向転換した、味わい深いピアニストである。ああ、たくさんの友人がいる懐かしい日本。逃げ出して、帰りたいのは山々であった。世紀末をどこで過ごそうかと、真剣に悩んだりもしていた。

 うまいこと弾けないリストのため息も、東北の彼氏を想いながら弾いてみた。するとけっこううまく弾けたりする。お、ヤツもなかなか、いい役目してくれるじゃないか。いいセンいけそうだぞ。失恋もしてみるもんだな。なんて思いながら。

 大好きなアキカさんにも電話を入れてみた。彼女は、カオルちゃん、若いうちは、好きにやって大丈夫よ。と励ましてくれる。一足先に帰国した彼女は、日本での仕事もうまくいっているようだった。私は一体この先どうなるんだろう。とぼんやり思った。日本で着実に人脈を広げて行っている人たちが、羨ましかった。私はまだまだ、勉強の途中。宙ぶらりんで、不安で、寂しくてたまらなかった。こういう気持ちになるのはいつだって、試験前である。

 そんな、試験も一ヶ月前に迫った六月上旬、私はある演奏会へ行く。ツィメルマンがやって来たのだ。しかも、プログラムには私の試験曲、ショパンのバラード三番が入っていた。これが、その後私の気持ちと演奏を大きく変えることになる。

 私はワクワクして、コンサート会場へ向かった。

2017年6月11日 (日)

八十九 ツィメルマンのコンサート

 六月二日。この日はツィメルマンのコンサートだった。確か、一度アニュレ(キャンセル)で演奏会が潰れていたから、私はこの日を楽しみにしていた。ヨーロッパにいる利点は、こうした大物たちの演奏会を頻繁に、しかも安い学生チケットで聴けることである。日中は和声の授業に出かけ、メルクス先生に、五日後の最後の試験を頑張って来い!と励まされた。本当に、いい先生であった。

 演奏会場に着くと、コルニル先生も来ていて、学生たちが、彼女の演奏会の宣伝をしていた。だから会場は、もしかしたらコンセルヴァトワールだったかもしれない。よくは覚えていないのだが、ツィメルマンのその夜のプログラムは、ベートーヴェンの悲愴ソナタ、ワルトシュタイン、ショパンのバラード第三番、ショパンのソナタ第三番であった。

 私はこの時、彼の生演奏を初めて聴いたと思うが、その素晴らしい演奏に感動してしまった。一様にして言えることであるが、ライヴというものはやっぱり違う。たとえ、CDで聴く限りではあまり好きでないピアニストだったとしても、生演奏を聴くと、その一流ぶりが伝わってくるのである。ツィメルマンは、特に緩徐楽章が素晴らしかった。ゆっくりと、音色豊かに、情緒たっぷりに歌わせる。もう、ステキ!の一言である。ベートーヴェンが大好きになってしまった。私もあんな風に弾いてみたい。音楽って素晴らしい。そして、バラードなんてもう、前座として弾き飛ばされてしまった。私はあんなに苦労して練習しているのに。その歌い方もとても参考になったし、そうか、そういうことか、と納得しきりであった。レセプションでは学生同士が盛り上がり、口々に感想を言い合っていた。

 次の日、盛り上がった我々は、仲間同士で試験のレペティション(リハーサル)をやろうと、南駅近くの楽器店ホールを予約しに走った。メンバーも速攻で決まる。

 そして翌々日、コルニル先生のレッスンがあり、恐る恐るバラードをみてもらった。始めだけ聴いてもらうつもりだったが、結局最後まで弾かされ、弾き終えた後、先生はキラキラとした目で
「beaucoup beaucoup mieux maintenant!! beaucoup change toi!! tu a écouté Zimerman?(とても良くなったぞ!ずいぶん変わったわねカオル。ツィメルマンを聴いたのか?)」
 と言われる。

 私は嬉しくて、天にも昇る心地だった。やっとだ…。やっと、少しわかったような気がする。そうなんだ、音色なんだ。もっと深く、もっと色を作らなきゃ。そして、音楽を大きく。

 余談だけど、ショパン、ロマン派時代の「バラード」とは、今で言うゆったり調の切ない系音楽ではなくて、「物語詩」という意味合いを持つ。ソナタなどの形式にとらわれず、自由に作曲された、ロマン派独特な作品である。
 ショパンのエチュードも、「どうしてカオルは弾けないのかわかるか?速すぎるからだ。trop ff(強すぎる)からだ。もっと、カルム(静か)に、音楽的に。」と指導され、アシスタントに変えさせられそうになったもう一つのエチュードの方にするかどうか、お前の好きにしなさい、と言われて帰ってきた。

 こうなったら、意地でも変えたくない。このまま、失敗してもいいから、挑戦してきたショパンのエチュードで行こう。

 何か一つのことを頑張っていると、何度も何度も壁にぶつかるが、乗り越えた時はとても嬉しい。これは、自分の決めた道を突き進んだ人にしかわからない気持ちだ。私はいつも、オリンピックのフィギュアスケートと、ピアノを重ね合わせる。何百回、何千回と練習を重ねても、本番は一回だけなのだ。あんなに練習したのに決まらなかったスピン、どれだけ悔しいだろう。決して消しゴムでは消せない本番。舞台は水ものである。そこまで持っていくための、精神力。そして見ている観客は、一緒に感動したいがために、好き勝手なことを言う。だが本番とは、やってみた人にしか、わからない。

 苦しい気持ちを抱え、残り一ヶ月を切った六月七日。お次は和声のソプラノ課題の試験がやって来るのである。

 ああ、しんどい。書いていても、しんどいこと、この上ない。ほんっと。

2017年6月12日 (月)

九十 和声中級ソプラノ試験

 六月七日。またもや日曜日に、和声のソプラノ課題、中級の試験が行われた。

 六時に起きて、お弁当にミートボールを作った。眠い。私はヨーロッパでの生活はほぼ、夜型で、毎日昼近くに起きだしていたので(もったいない。)この時間帯がいかに眠かったかお分かりになると思う。今じゃあ、早起きの夫と娘のおかげで、毎日超〜規則正しい生活を送っているけど、学校でのレッスンがある日以外は、本当にフリーな生活をしていたもんである。

 四日前くらいに起きた、ドイツの新幹線の壮絶な事故のことを考えながら、私はコンセルヴァトワールに向かった。(覚えている方も多いかと思う。あれは本当に、衝撃的であった。)

 試験は八時開始。課題を見たら、はじめは複雑そうに見えたけれど、やってみたらそうでもなかった。あまり好きなタイプではなかったし、バス課題の日よりも疲れていたが、四時までねばって、ほぼ自分では完璧に仕上げたつもりで、提出してきた。さあ、何点とれるかな。と思う。

 家に帰ると、電話が鳴りっぱなしだった。母からも電話があった。聞くと、おばあちゃんがもういよいよ、だめだと言う。私は悲しかった。祖母はその後、夏の終わりに亡くなることになるのだが、思えば私の試験が終わるまで待ってくれたのだ。亡くなるその時、夢枕に立ってくれたし、私のことはずっと心配してくれていたのだと思う。母は、私が集中して試験に臨めないと思い、いつも祖母の容体を告げるのは、試験が終わってからにしてくれた。私にとっては、幼い頃から一緒に暮らした、第二の母だ。どうしているか、私もいつも、気にかけていた。

 私は、短かった髪がだいぶ伸び、なるべく美容院へは行かないですむ髪型にしてはいたものの、二十六歳、今、一番女性として華やかな時期を迎えていた。お世辞かもしれないが、久しぶりに会う人には「キレイになったわね〜」と言われたし、その昔、ガリガリで、ベリーショートで真っ黒に日焼けをし、ショットバーのみんなから「蝉とり少年」などと呼ばれていた頃から比べると、確実に女性らしくなっていた。そんな私を、父は本当に心配し始め、なんとかして今年の夏が終わったら日本に連れ戻そうと、躍起になっていた。母は相変わらず、のんきなものである。

 ちなみに、ベルギーの美容院は最悪である。日本人の髪は多くて、コシがあって、切りにくいのよ、などと文句を言われ(私は多くもないし、細くて癖っ毛だ。)その腕前はかなりザツである。思いっきり、「段が五段ばかり、入ってます。」って髪型になってしまう。コケシか何かのようである。一度、お金を節約するために、「ブローノーマルと、少し安いブローナチュラル、どちらがよいか」と訊かれた時に、じゃあ、ナチュラルで。と答えたら、ザッとカットされた後、髪の毛ガーッと乾かされたまま、ハイ、終了。となって、何がナチュラルだ!これじゃ、ただボサボサに乾かしただけじゃないか、と腹を立てたものである。まあいいとして、私は必ず、歯医者と美容院だけは、一時帰国の時にとっておいた。

 余談が多くなったけれど、とにかく無事、和声の試験は全て終了した。

 あとは四日後の得点発表である。私はドキドキしながら、結果を待った。

2017年6月13日 (火)

九十一 プルミエプリ取得

 和声の試験結果が発表になった。

 中級、モワイアン。確か七十点以上が合格とされたが、私は八十一、五点でプリをとった。嬉しい!これで、やっと全教科合格となり、プルミエプリの証書がもらえることになったのだ。ただしこの証書を授与するまでには、結局一年ほどかかった。さすがはヨーロッパ、遅すぎる。

 まず、実家に電話をかけてみたが、妹しかいなかった。ユリコは喜んでくれたと思う。それから、師匠、Mr.カワソメに報告。先生もとても喜んでくれて、同時に、今年留学するつもりがうまくいかなかった後輩がいるんだと話してくれる。残念でしたね、と言うと、まァ、今までの留学生とはちょっと違うタイプだったからなァ。お前たちみたいに、太々しさと毒々しさもないしな。と言うので、失礼しちゃうねェと答えると、ニヤニヤと笑っておられた。

「お前、日本に帰国したら、絶対にリサイタル開けよ。就職とか、こだわらんでもいいから。自由にやれ。」

 と、二十分くらい話して切った。

 次の日、奈良先生とアキカさんに報告。母とも話した。母はとても喜んでくれて、
「やっぱり、残って良かったでしょう!人の言うことに惑わされないで、自分で決めたから、後悔もしなかったでしょう!」
 と、胸を張って言っていて、なんだかとても可愛らしかった。

 父からは夜中に電話をもらい、家族からのお祝い寄せ書きファックスを送ってくれる。

 よっちゃんと、その仕事先の仲間からは、合格祝いに握り寿司をいただいた。

 次の和声の授業では、メルクス先生に答え合わせをしてもらった。先生の評価としては、ソプラノ課題四十四点、バス課題四十点、合わせて八十四点ということであった。

 ミスをしやすいポイントはまぬがれているし、あまり人の使わない和音も使っている、と褒められたが、何ヶ所か寂しい和音や、鋭すぎる和音を使ってしまっていて、導音が変移動した点と、五度の和音が突っ込んでしまっていた点を指摘された。残念。今度からは気をつけよう。と思う私。本当に勉強になる。マンツーマンで、こんなにも丁寧に授業を受けることなど、日本ではできなかった。ヨーロッパ万歳である。

 さて、和声はめでたく合格となったが、私の目標は卒業証書だけではなかった。ディプロムスーペリウールのピアノ実技は迫っている。残りあと何日か、というところで、コンチェルトのリハーサル、その他の曲のリハーサルと、別々に会場を貸し切って行われた。そして学生同士で集まってのリハーサルも。

 私たちは、最後の追い込みで真剣勝負であった。

2017年6月14日 (水)

九十二 リハーサル

 リハーサルは、まず初めに、大曲であるコンチェルトから行われた。

 学生たちは張り切って臨んだ。これは、早々に五月上旬に行われたので、まだまだ出来上がりはこれから、というところだ。私は軽めのモーツァルトだが、皆、ラヴェルやラフマニノフなど、難曲にチャレンジしていた。すごいなあ。ラヴェルのコンチェルトは大好きだったので、もしも私が五年目も残っていたら、ぜひやりたい曲ではあった。二楽章の旋律は素敵だったし、フルートが入ってくるところなんてもう、聴くだけで泣けてくる。アンリオ先生もお得意の、憧れの曲であった。

 さて、本番直前のリハは、六月二十五日。一週間前を、切っていた。

 その日は夜七時から始まり、コンセルヴァトワールのホールにて行われる。

 私は最後から二番目に弾いたので、すでに十時近くになっており、体力は限界で、弾き始める前から疲れてフラフラしていた。こりゃあ、うまくは弾けないな。仕方ない。何とか、弾くだけでもいいや。と思いながら舞台にあがり、モーツァルトのコンチェルトから弾き始めた。ああ、あんまりいい出来ではないかもしれないな…とぼんやり思いながら弾き終え、コルニル先生の方をふと見た。

「ブラボー、カオル!」

 と先生は、ステージの私に向かって言った。

 え?今、先生は何て言った?

 私は、キツネにつままれた感じだった。

 が、先生は、パーフェクトだから、そのまま動かすな、わかったか。と一言おっしゃり、そのまま次の学生へと移った。

 聴いてくれていたユキや、アシスタントたちも、「とっても綺麗で、モーツァルト!って感じ。良かったよ!」と言ってくれる。

 そうか…?あんまり、気負わない方がいいのか。私は疲れていたので、完全に力が抜けていたし、それがかえって幸いしたのかもしれない。このホールの響き、音色…何となく、わかったかもしれない。奈良先生にも一度、私にはコンセルヴァトワールのホールの響きは合っているんじゃないか、と言われたことがあるのを思い出した。どうしたら音を遠くまで、綺麗に飛ばすことができるか。研究してみよう。

 そんなことを考えながら、試験日三日前の、学生たちで予約したリハーサルの日も迎えるのである。

九十三 学生同士のリハーサル

 いよいよ、試験三日前。私たち学生らは、希望者だけで集まり、南駅近くの楽器店ホールにてレペティション(リハーサル)を行った。私はこの日、知人の披露宴だったので、二時頃抜け出してホールへと向かった。着いたらもうユキがいて、外でタバコを吹かしていた。

 メンバーは確か、ユキ、私、キボウちゃん、キョーコちゃん、それからMr.ミタだったように思う。他にも何人かいたかもしれない。ユキから最初に弾き始めたが、音もよく伸び、大胆で、とても上手くなっていた、と日記には書いてある。私は皆に、カオルちゃん、上手くなったねェ〜!と言ってもらった。嬉しかったと同時に、そっか〜、私ってそんなに下手くそだったんだなァ〜、なんて苦笑する思いである。他のみんなは、いつものように素晴らしく上手に弾いていた。キョーコちゃんの、ベートーヴェンのソナタop.101がとても良かった、と記載されている。

 終わってから皆でカフェへ。盛り上がって、九時近くまで、三時間近くも話しに花が咲く。恋愛談、お笑い談。そしてMr.ミタの彼女が発覚する。密かに思いを寄せている子がいたので、期せずして失恋!となってしまった。残念。でも何を隠そう、私もミタ氏のことはタイプだったので、な〜んだ!なんて思ったりするのだが、彼には私のバカさ加減を気に入っていただき、カオルちゃん、今度また飲もう!電話する!と誘われた。本人は全く覚えていないであろうし、私も覚えてなかったけど。ああ、私って何でこういうオンナなんだろう。ほんとに書いていて呆れる始末である。よっちゃんがいるのに。

 帰宅するとオリビエ(大家さん)が、今モーツァルトの二十三番のコンチェルトを練習しているだろう、と話しかけてきた。大好きな曲らしい。私の試験を聴きに行きたいと言ってくれたが、その日はちょうど、ドイツに行くのでダメだと残念そうにしていた。そうそう、余談だけど、私とオリビエたちは、近所の建設工事反対の署名運動をしていた。裏の、鴨のいる池を取り壊して、ビルを建てると言うのだ。けしからん。そこはのどかで素敵な場所で、春になると必ず鴨たちが帰って来るところだったのである。そんなこんなで、私は特に、すっかりオリビエと仲良しになっていた。

 試験二日前には、来年度の学校のアンスクリプション(授業登録)と、学費の紙が届いていた。今年の実技試験もまだこれからだというのに、私はたまげた。う〜む。もっとピアノが上手になりたい。でも、私がもう一年、四年目の延長を決めると言ったら、親は嘆くだろうなあ。まあ、母は別として。

 私の勉強は、一体いつまで続くのだろう。何だか、とてつもないエベレストのふもとに来てしまったようで、私は少し切なくなった。無鉄砲に日本を飛び出した、昔の自分が懐かしくなった。でももうこうなったら、とりあえずの目標である明後日の試験を突破して、それからゆっくり考えるしかない。

 そしていよいよ、実技試験当日がやって来るのである。それも、予定より、一日早まって!

2017年6月15日 (木)

九十四 本番、一日早まる

 私は試験前日に、本番が一日早まって明日になったことを知らされた。驚きであった。でも日記には、不平不満は一切書いていない。もうヨーロッパってそういうところだし、ハイそうですか。と受け入れるしかないので、慣れっこになっていたと思う。

 前日に私はまた、東北の彼氏に電話をしている。ここまで来ると、もう別れたんだか何なんだか、結局のところ、電話の回数が減ったくらいで、以前と何が変わったのだかわからなくて笑ってしまうが、まあ私たちの中では気持ち的にすっかり整理はついていたので良かったのだろう。

 明日、試験なんだよ。と色々話をしたが、彼はすっかり、私と付き合う前の彼に戻っており、「ヨーロッパいいなあ、もう一度行きたいなあ。知り合いが居てくれるといいよな〜。」とか言っていた。

 午後は銀行へ行ってみると、残金がほとんどゼロになっていてガッカリしたが、とにかくも、来年度のアンスクリプションは提出しておいた。授業料なんて年間登録費一万五千円ほどだったし、もしも途中で帰国することになったとしても、まあ、損はない。

 そしてあくる日の七月一日、私は興奮してよく眠れなかったが、いざ、コンセルヴァトワールへと向かった。

 私の順番は、午後の最後、アルファベットMの、ミタ君の次であった。昼過ぎにアシスタントから電話があり、事前に、モーツァルトのコンチェルト二、三楽章と、ショパンエチュードに決まったと知らされる。きたか、あのエチュードが。コルニル先生には、バラードが当たるかもしれないから練習しておけ、と言われていたが、現在の夫いわく、あのエチュードを持ってきたら必ず当てられるだろうよ、とのことである。それだけ、難曲ではあった。審査員たちは、待ち構えたかのように聴くだろう。

 私はまず、腹ごしらえするために、フラフラとカフェに寄り、むりやりオニオングラタンスープを飲んだ。店のムッシューが私の顔色を見て、どうしたのかと尋ねてくる。私は、これから試験で、ピアノを弾くんだ!と答えると、おお、それならばもし、bien passé(うまく行った)なら、また来なさい!と言われる。学校へ着くと、友人たちに会い、少し落ち着いた。

 そして、緊張の本番はいざ、始まるのである。舞台はいつだって、死刑を宣告されて断頭台の上にあがるような心境であった。私だけではないはず。舞台を体験した者ならば、大きく首を縦に振るに違いない。

2017年6月16日 (金)

九十五 三年目の本番

 会場に着くと、ちょうどキボウちゃんが弾くところであった。少し聴いていたが、上手な彼女でもやっぱりけっこう緊張するんだなあ!と思う。続いてMr.ミタの演奏を舞台袖で聴き、緊張で心臓が速まりつつも、落ち着いてから試験に臨んだ。

 モーツァルトのコンチェルトは、私の出番の少し前のベルギー人の男の子が、同じ一楽章を弾かされていた。私は、彼に続いて二、三楽章を弾く、という按配だった。緩徐楽章である二楽章は、ピアノのソロから入り、後からオケがついてくる。よって、自分のペースで、テンポ設定ができるのが強みだった。少々ゆっくり過ぎたかもしれないが、三楽章はバッチリ、音楽的に弾けたと思う。

 ショパンのエチュードは、一回壊れかかったが、なんとか立ち直り、最後まで無事に弾ききった。難しいエチュードだった。

 演奏を終えるとジュリーたち(審査員)は控え室に戻りがてら、私の横を通り過ぎ、「良かったよ。」と言う顔をして目配せしてくれた。

 聴いていたしづちゃんたちには、モーツァルト、とても綺麗だった。ミタ君とはまた違って、小さい音なのに不思議と引けを取っていなかったし、よく飛んで来る音だった。と褒めてもらった。ミタ氏は確かベートーヴェンの皇帝を弾いていたと思うが、彼の演奏は素晴らしく、そのテクニックは抜きん出ていたので、私は密かに北斗の拳と呼んでいたのだ。

 家に帰ってからテープを聴いてみたが、壊れたエチュードは心配していたほどではなく、全体的に音楽的にまとまっていたのでホッとした。確か聴きに来てくれたよっちゃんも、満足だったよ!と言ってくれて、私はとにかくも、無事に終わった本番に安堵したのである。

 次の日はユキの本番であった。彼女はとても落ち着いて、音楽的に弾いていた。ちょうどその時、日本から聴きに来ていたユキのお母さんが、彼女の演奏を聴いて感動されていた。昼はみんなでコリアンで食事をする。ユキのお母さんは、彼女をパワーアップさせたような存在感のある方で、彼女のヨーロッパでの成長に大満足して帰って行かれた。そう、私たちは本当に、三年目にして大きく成長し始めていたのである。

 私はまだテンションが上がっているため、次の日もなかなか眠れないので、キボウちゃんや、しづちゃんたちと長電話をする。

 キボウちゃんは、私の次の年から入って来た優秀な学生だったが、カオルちゃん、今回は相当気合入れてたね。と言い、しづちゃんには、モーツァルトね、本当に良くなったよ。カオルちゃん、変わったよ。私、感動したもん。何て言ったらいいかうまく言葉にならないけど、音がすごく自然で、無理なく伸びてたよ。とまた、褒めてもらった。皆、私なんかよりずっと上手いのに、心から励ましてくれて感激したのを覚えている。

 そして私は無事、ディプロムスーペリウールの一年目の試験にパスした。プルミエプリの時とは違い、点数はつかずに、審査員たちのoui,non(イエス、ノー)の数で合否が決まった。私の前に弾いたモーツァルトのコンチェルトの男の子は落ちていた。厳しい。

 私は大喜びで師匠に電話を入れる。Mr.カワソメは自分のことのように喜んでくれて、現代曲しか弾けなかったお前が、モーツァルトを弾くとはなあ。お前、帰ってきたら絶対リサイタルやれよ!と、またまた念を押されたのであった。

 辛く長かった一年間の練習からようやく解放され、私は次の日、猛烈な食あたりと共に、夏休みを迎えるのである。

2017年6月17日 (土)

九十六 夏休みの訪れ

 夏休みの訪れと共に、私は猛烈に腹を下した。

 食あたりである。おそらく、ユキたちと二日前に食べたレバ刺しにあたったと思われる。身体中痛むし、熱で怠いし、辛すぎて、よっちゃんに病院まで連れて行ってもらった。その日は一日苦しんだが、次の日には何とか復活をした。ユキに訊いてみたが、彼女は何ともないと言う。きっと、一緒に飲んだ酒の量がハンパなかったので、消毒しちゃったんだろうと笑っていた。う〜ん、私ももっと飲めば良かった。ちょっと後悔。(ホントか?)

 まだ体力はなかったが、ヨロヨロと起き上がってコルニル先生に電話を入れる。この夏は日本に帰らず、イタリアのコンクールを受ける予定だった。今までのレパートリーを使って、選曲のアドバイスをしてもらう。

 先生は張り切ってプログラムを決めてくれた。一次でラフマニノフとバルトークをやれと言う。私はちょっと迷い、アキカさんにも電話をしてみた。彼女は、カオルちゃん、もっと綺麗な曲を入れた方がいいんじゃないか、と言う。私もそう思った。どうしようかなあ、なんて思っていたらふと、東北の彼にまだ試験結果を報告していなかったことを思い出し、彼にも電話を入れてみる。すると。

 彼は、珍しく話しにくそうにしている。つい先日の電話では、あんなに楽しそうにヨーロッパ行きたいな、なんて言っていたのに。どうしたの?と訊くと、う〜ん、もう電話、しない方がいいかもしれない。と言う。どうやら、彼女(彼氏?)か誰かが居たらしい。なーんだ。私はガッカリして、電話を切った。どうして男と女の間には、友情が成り立つのが難しいんだろう。せっかく親しくなった人たちと離れなければならないなんて、寂しいな。と、日記には書いてある。まあ、でも仕方ないか。そして私は、サッサと気持ちを切り替えて、四年目のコンセルヴァトワールの試験選曲についても、アシスタントと相談を始めるのであった。

 そう、私は、四年目も引き続きブリュッセルに残る気満々であった。でもそれはまだ確かな予定ではなかったかもしれない。父は反対していたであろうし、相棒よっちゃんは、残りたい気持ちはあったが、そろそろ仕事に見切りをつけたいと思う気持ちもまた、あったと思う。私自身もまた、日本に帰りたいという気持ちもあり、でも勉強のことを考えると、もう一曲新しいコンチェルトをやってみたいと思ったり。皆の気持ちは、それぞれに揺れていた。そして私は、とりあえず、目先のコンクールのことだけを考えるようにしていた。

 そんな訳で、この夏は初めてブリュッセルに残って、ピアノの練習に費やそうと思っていたのである。あの電話が入るまでは。

2017年6月18日 (日)

九十七 夫の名前

 日本に帰らないと決めた夏は、黙々とピアノをさらいながら、同じくブリュッセルに居た、居残り組の友人たちと楽しく過ごしていた。

 まず私たちは、試験の打ち上げと称して、呑んだくれた。約束通り、ミタ君は電話をくれたし、ユキと三人でカフェに行ったり、ビリヤードをして夜中まで遊び惚けた。当然よっちゃんは怒ったのかと思いきや、疲れて寝ていたので助かった。教会で開かれたレクイエムのコンサートにも行ったし、よっちゃんの友人の、リサさんのお家にお呼ばれに行ったりもした。リサさんの彼は料理人だったので、その日はこれでもかというくらいの豪華な食事が出て、病み上がりの私には少々ヘビーだったが、美味しさのあまりに食べ過ぎて、次の日苦しんだ想い出がある。彼女のお家にはその後、たびたびお邪魔しているが、いつもいつも美味しい手料理でもてなしてくれて、私もいつかこんな風にパーティーを開いてみたいな、と思ったりしていた。こういう想い出が、今の我が家のパーティー好きにつながっているのかもしれない、と思う。

 よっちゃんのお父さんが、お兄さんに付き添われて、日本から遊びに来たりもした。いろんなところへ案内差し上げたが、お父さんは大変喜ばれて、そして、私たちのことをとても心配してくれた。いいお父様であった。お兄さんともとても仲良しになった。こんな半地下の暗い部屋で可哀想に思ったのか、大きな花束をプレゼントしていただいた。最後には、部屋に置き手紙がしてあり、涙が出てしまった。同時に、母からの手紙も届いていた。これにもまた、泣けてしまう私。早く日本へ帰って顔を見せてあげたいし、早く結婚でもしてホッとさせてあげたいと、こういう時は都合よく思ってしまう。でも母は、私が残ってコンクールを受けることにも、勉強に対しても、非常に好意的であった。いつも応援してくれていたように思う。もしも私が、一生ヨーロッパで過ごすと言ったら、どうだかはわからなかったけど。

 一方で父は、ついに気持ちを爆発させる。秋に帰って来ないつもりか?調子に乗って!と、電話をかけてくる。こちらとしては、昔っから親の言うことなんか聞いたことがない悪ガキなので、そんなの余裕でスルーなんだけど、コンクールを控えている身としては、耳栓したい思いだった。コンクール先からは招待状が届き、曲も整い、私はイタリアに乗り込む気満々で、調子を整えていた。

 師匠Mr.カワソメにもよく相談に乗ってもらい、私の演奏録音テープを送って感想を聞いたりしていた。こんなんで、日本でリサイタルなんて開けるかな?少しは演奏、マシになったかな?と尋ねると、お前、マシになったどころか、大きな進歩だよ。もっと固めて、レパートリーを大きくすれば大丈夫。ぜひ、やれよ。と言っていただく。

 この時、私は初めて師匠から、夫の名前を聞かされた。

 オレな、今、大学で、ピアノ愛好サークルってやつの、顧問してんだよ。そこの部長がなかなか頼りになるヤツだから、お前、ちょっと世話になって、今年の秋に帰って来たら学祭で弾かせてもらえよ。と言うのだ。

 なんだ、ピアノ愛好サークルって。と、私は笑った。でもこれが、私と夫の出会いとなるのだった。運命とはわからない。結果的には、その秋には私と夫は出会わず、来年の話となるのだけれど。

 という訳で、ベルギーの短い夏が終わってしまう前に、私たちは大いにその開放的な暑さを楽しんでいた。部屋の模様替えもしたし、庭にテーブルを出して食事をしたり、パリから後輩のエミコが遊びに来て、グランプラスの花の絨毯を観に出かけたりした。これは素晴らしい眺めで、二年に一度開かれる、広場一面に花びらが敷き詰められる美しいフラワーカーペットのお祭りである。

 そして、八月も半ばを過ぎると、ブリュッセルは急に涼しくなり、夏の終わりを告げる。寂しいもんだな、もっと夏が続けばいいのに。なんて思いながら、私は夏休み気分もしまいこみ、来月のコンクールに向けて本腰を入れようと、ピアノに取り組み始めた。

 でもそれは急遽、一本の電話で変わった。

 おばあちゃんの急変が知らされ、私は日本へ帰国することになるのである。
 

2017年6月19日 (月)

九十八 おばあちゃんの死

 八月三十日。おばあちゃんはその日、私の夢枕に立った。

 いつものように、朝っぱらから父の「帰れコール」で目が覚めて、うるさいなあまったくもう。と思い、またウトウトとした時に現れたのである。その時私は何か他の騒々しい夢を見ていたのに、突然その夢は消え、祖母は真っ白な割烹着のような服を着て、五十代くらいの頃に若返り、たくさんの白い服を着た知らない人たちと一緒に、それはそれは嬉しそうな顔をして、私の方をニコニコと見ていた。若い頃の祖母など知らないのに、私には祖母だとハッキリわかった。そして、また電話の音で目が覚める。

「落ち着いて聞いて。おばあちゃんが、今亡くなったのよ。」

 私はハッとして、まさに今、おばあちゃんがお別れの挨拶に来てくれたことを母に告げる。それから大変だった。バタバタと電話をかけ、よっちゃんに頼んで急遽、現地の旅行会社(日本人経営)に連絡してチケットを探してもらい、パリ経由のANAがすぐに取れたので、飛行機に飛び乗った。成田到着は次の日の十五時だった。そこから直接JRで茨城まで向かう。

 おばあちゃんの通夜には間に合った。きっと祖母は、間に合うように手筈を整えてくれたのだと思う。コンクールには残念ながら出られなくなってしまったけれど、試験は絶対に受けておきたかった。祖母はそれを察してくれたのかもしれない。危篤を繰り返しながら、何とか持ちこたえてくれていた。

 通夜はカトリック式で、厳かに行われた。祖母は敬虔なカトリック信者だったので、賛美歌を歌い、神に召されて天国に昇るであろうことを皆で祈った。祖母は長い闘病生活から解放されて、喜んでいたに違いない。夢に出てきたおばあちゃんは、ものすごく生き生きとした顔だったもの。きっと天国へ行けて、嬉しくて仕方がないんだ。よかったね、おばあちゃん。聞くところによると、母の方にも、昨日キラキラとした光が現れて不思議な思いをしたと言う。これは本当かどうか怪しいけど、とにかく、八十五才でその生涯を閉じた祖母は、八十を過ぎて病院に入るまではとても賢く、しっかりしていて、家族皆で尊敬していた才女であった。

 告別式は私にとって重たいものだった。聖書とお花を入れ、棺が閉じられた時には、逝ってしまったんだなという、諦めに似た、複雑な想いだった。祖母はもう年だったので、あまり大げさに泣くのもな、と思い、我慢していたけれど、まだ若い妹ユリコはショックが隠せないようで、接待などとうていできない様子だった。母は、疲れ切った顔で、それでも後悔のない顔色を浮かべていた。最期は兄嫁たちに喪主を任せていたが、私は、一番介護に大変だったのは母だったことを知っている。

 全て終わって茨城から戻って来たのは夜七時。私は時差ぼけも手伝って、ドッと疲れが出てしまい、幼馴染みたちに連絡をしてから、すぐに眠った。

 そういう具合で、私の予期せずとした帰国は、新学期が始まるまでの九月一杯となった。本当のところは、九月上旬にはイタリアのコンクールを受けて、その後に日本に帰国したら、母校の学祭でピアノを弾く予定だったと思う。私はだからこの年はパリのエミコに役目を交代してもらい、彼女が私の代わりにピアノを弾き、エミコはその時、大学三年だった私の夫に初めて会っている。

 それからはベルギーの友人や先生方への連絡、コンクール先のキャンセルなど、バタバタとした日が続いた。そしてよっちゃんの方も、少し遅れて一時帰国して来た。この秋は、おばあちゃんの死をきっかけに、私は彼の家族にも挨拶することになり、彼との絆が深まってくる年となるのである。

 そして徐々にまわりは勝手に、結婚という二文字を気にかけて動き出していた。

2017年6月20日 (火)

九十九 葬儀のあと

 おばあちゃんの葬儀を終え、自宅に戻って来た私は、よく母とお喋りをした。

 母は祖母の介護中はずっと悲しみの中にいたが、私が帰って来ると毎度のこと賑やかになるので、ずいぶん気が紛れているように見えた。祖母が亡くなってからは、妹も交えて一緒におばあちゃんの書いた日記を読んだりして、よく笑うようになった。祖母は妹、ユリコのことを「心の優しい、穏やかな子」と書いていたが、私のことはそうは書いておらず、日々相当心配をしているようであった。納得いかん。でもあれだけ心配をかけていたから、ああやって夢に出て来てくれたのかもしれない。私の日記もいつか人に読まれるのだろうか。どうか私を想って泣いてくれ夫よ。そして笑ってくれ、娘よ。まあ、もうすでにこうしてほぼ、公開しちゃってるんだけど。

 三年目の夏の終わり、急遽一時帰国をした私は、心は常にベルギーにあった。日本にうまく馴染めなくなっている自分がいた。だから、少しの間だったが、よっちゃんが帰って来てくれることは嬉しかった。昨年の夏のように恋に荒れ狂い、男どもと遊ぶことなどはなかった。身内を亡くした私に向かって心ないセリフを吐き、密かに縁を切った男友達もいた。ユキはそんなマジメな私を見て、多少残念そうだったけれど、私もたまにはまともになるのである。

 幼い頃から一緒に暮らしていたおばあちゃんの死は、その最期、離れていた私に突き刺さり、家族と離れていることをよりいっそう、考えさせられるようになった。けれどだからと言って、私は勉強をやめようというつもりはなかった。もう少し、もう少し。私はまだ、全然上手くなっていない。まだまだ吸収しなければならないことが、山ほどある。師匠、Mr.カワソメには、お前、コンクール残念だったなあ。と言っていただき、大学でも後輩たちはじめ、奈良先生とお会いして帰ってきたりした。考えてみれば、この時もどこかで夫とすれ違っているのかもしれないと思うと、面白い。

 父はこの時とばかりに、私に見合いの話を進めてきた。とっておきを紹介するから、と言ってうるさい。もううるさいので、適当に返事をしておく。父はそれは嬉しそうに急ピッチで仕事を進め始めた。私はおかまいなしに、両親によっちゃんを紹介する。ムッとする父。そんな、今から思えば漫才のようなことを、私たち親子は繰り広げていた。本当に、娘など、自分の思い通りにはいかないもんである。アーメン。

 留学帰りの後輩の、演奏会を聴きに行ったりもした。確か二年くらいで帰国したヴァイオリニストで、私は彼女の演奏を聴きながら、自分の耳が以前よりずっと肥えていることに気付く。やっぱり、勉強は二年じゃ短い。私はもう少し、勉強してからでないと帰れない。そう感じた。そして帰ったら、頑張ってリサイタルを開こう。私は結婚のことなど頭になく、(いや、そりゃあ、話のネタでは始終盛り上がってはいたが)この先のヨーロッパでの暮らしと、帰国後のぼんやりとした目標について考えていた。

 そんな私に、真剣にアプローチしてくれた彼がいた。

 昨年の夏、実家にフラッと遊びに行った、仙台の彼氏である。

 彼は相当、女性にモテていたに違いないが、帰国していた私に向かって、帰って来たら、一緒に暮らさないか?と言った。散々考えていたけど、ようやく決めた、と言う表情をしていたから、真剣だったと思う。私は迷った。彼とは二十歳の頃、大恋愛をして、別れてからも何度かヨリを戻そうとしたが、お互いタイミングが合わずに、すれ違いばかりだった。そして、今回もそうであった。せっかくの申し出に、その時の私はイエスと言うことができなかった。よっちゃんがいたし、この彼にだけは、私は二股などかけることはできなかった。別に、東北の彼のこともよっちゃんのことも、遊びだったと言う訳ではない。私はいつだって、恋に真剣である。二股だろうが、三股だろうが、巡り合ってしまった恋には真剣勝負である。誰にも理解できないかもしれないけど、適当に付き合うつもりは全くない。全集中型である。いいよいいよ、誰にも理解してもらえなくったって。

 とにかく、私は仙台の彼に、今の状況と自分の気持ちを話して納得してもらった。私が帰国リサイタルをした時には心から応援してもらって、しばらくの間、よく会っていたが、お互いに結婚してからはほとんど顔を合わせていない。今では音楽業界で大活躍していることと思う。このブログも読んで、笑ってくれているかもしれないけど。

 そんな切ない想いも抱えながらいたある日、よっちゃんはベルギーから帰国する。

 私は喜んで、横浜まで迎えに行った。そしてしばし、彼との一時帰国の生活が始まるのである。

2017年6月21日 (水)

百 よっちゃん一時帰国

 帰って来たよっちゃんはまず、やっとこさ、歯医者へ行くことができた。

 彼はブリュッセルでずっと、歯痛に苦しんでいた。普段元気な人がたまに具合が悪くなると、それはそれは大げさな程痛がるので、ちょっと可笑しかったが、可哀想であった。向こうで何軒か紹介された歯医者へ行ってみたが、どこへ行っても「セ・パ・グラーブ(問題ない)」と言われて、埒があかなかったのである。日本の歯医者へ行ったら一発で、「毎日通え」と言われていた。向こうの歯医者と美容院だけは信頼できない。そうハッキリと確信した夏であった。今はどうだかわかんないけど。

 私と彼は下北沢あたりをブラブラしたり、日本を楽しもうとしてショッピングしたりしたが、どうもなかなか二人してよく、馴染めなかった。何故だろう。ブリュッセルではあんなに仲良く息も合うのに、日本で会うと、何だか巨大な街に飲み込まれるかのような感覚で、違和感が拭えなかった。こっちに帰ってきてしまったら、私たちはうまくいかないのかな。と、ふと思ったりもした。暑さにバテたせいだろうか。でもこのカンはその後、結局当たってしまうことになる。その環境と二人の相性、というものはあるのだ。確実に。私たちは結果的に、日本ではうまくやって行くことができなかった。決して仲が悪くなったわけではなかったのに。

 よっちゃんは不意に買い物途中、指輪を買ってあげるよ、と言い出した。指輪?急にどうしたんだろう。そして彼は、もし、オレたちがうまく行かなくなったら、オステンドの海にでも投げて、捨ててくれ!と言う。(オステンドとは、ベルギーにある海沿いの街である。冬のオステンド海岸は本当に寂しかった。)私は思わず笑ったが、そういう寅さん風な物言いをするよっちゃんが好きであった。私はその指輪を、彼の運の強さを込めて大事にすることにした。

 そしてはるばる、うちに挨拶にも来た。父も一応、ちゃんと顔を合わせてくれて、ホッとする。私の方も、彼の実家に遊びに行った。お母様は近所の仲良しおばちゃんを連れて来て、非常に緊張した。後から絶対に色々言われているに決まっている。やだなあ、と思いつつ、その場は終了。後日お兄ちゃん夫婦の家にも誘われ、家族大集合でバーベキューをした。私は歓迎され、少しずつみんなと仲良くなっていった。

 よっちゃんは一週間と少しすると、またブリュッセルへ帰って行った。帰るとほどなく、寂しいブリュッセルに耐えきれなくなったのか、カオル早く帰って来いコールがかかってくる。わかるわかる、その気持ち。九月のブリュッセルは日に日に寒くなってきて、本当に寂しいのである。

 私はあと残り二週間ほどの日本を落ち着いて過ごした。おばあちゃんの遺骨と共に教会へ行ったり、実家の膨大な写真を整理したり。母は嬉しそうで、妹は毎日予備校通いで忙しくしていた。
 それから幼馴染みと会ったり、仙台の彼氏のライヴを妹と一緒に観に行ったり、東北の彼に連絡を入れることも忘れなかった。東北の彼は、新しい彼女(彼氏?)を作っていたのだが、身内の死により帰国した私の電話に、きちんと応対してくれた。私は何だか、彼だけが幸せに着実な人生を歩んでいるように思えて、理不尽な怒りがこみ上げてきたが、これは私のひがみなので蓋をすることにした。

 そして私は九月下旬、四年目のブリュッセルに向けて出発をする。

 ブリュッセルへ再び向かうことは、家族と離れて寂しい半面、とてもワクワクしていた。

 四年目。私にとって、これで最後の留学生活となる年である。四年間の中で最も充実した、幸せな環境の中で勉強に励める年となった。少なくとも、父に呼び戻されて見合いをすることになる日までは。

2017年6月22日 (木)

百一【四年目】 最後の留学生活

 百話を越えたところでちょうど四年目。私の留学生活最後の年の、始まりである。何だか偶然とはいえ、キリのいい数字も感慨深い。ここから先が私の、想い出の四年間、完結編となる。

 この最後の一年間は、今日記を読み返しても大変充実していた年であり、たくさんの後輩たちに囲まれて、先輩として今までの恩を少しずつ返していた年でもある。ピアノの楽曲に対する理解も、曲作りもだいぶ早くなり、和声も上級に進み、フランス語会話の方もかなり上達していた。コンクールの準備をする余裕もあり、私はリベンジに燃えていたと思う。

 そして同時に、この最後の一年間は、日本でのスタートを切る最初の準備期間でもあった。私はこの年、とても充実していたが、後半、状況は少しずつ変わって行き、確実に日本へ帰国させるための運命の手招きがあったと思う。もしかしたら、この先生まれることになるであろう、現在十歳の娘がそうさせたのかもしれない。私をこのタイミングで日本に帰国させたのは、雲の上からずっと見ていた彼女であった、と考えると面白い。

 今までずっと、この最後の年の日記だけは読み返すことがなく、封印していた。別にあえてそうしていた訳ではないのだが、私は今を生きる女なので、過去にはあまり興味はなく、基本的に読まなかった。でも今そのページを開いてみると、何度も言うけどものすごく充実した日々だったのがわかる。それなのに何故、私は日本へ帰る決心をつけたのだろう。昔のことすぎて、わからない。まだ今のところ、冬までしか読んでいないから、その理由は謎である。この記事を書くと同時に読み進めてみたいと思う。四年間の自分の心境の移り変わりが客観的にわかって、そうだったのか、と納得できるはずある。

 私は一九九八年九月二十八日、父と妹のユリコに横浜まで見送ってもらい、成田まで向かった。妹は改札で、ずっと手を振ってくれていた。ANAはエンジントラブルのため二時間のディレイ。でもまあ、トラブルに気付いてくれて良かった。私は何度も乗るハメになっているが、飛行機なんて大っ嫌いである。できるならば、乗りたくない。怖いし、揺れるたびにドキドキする。でも私は悲しいかな、飛行機とはとても縁がある身だ。今でも夫の実家は札幌だし、乗らずにはいられない。できれば、新幹線で行きたいところだけど。早く開通してくれ、と願う。

 私は空港で、母と、それから仙台の彼に電話を入れて別れを告げた。パリからのエールフランスは、これがまた小型機でものすごく揺れて怖かった。ザベンテム空港ではまたよっちゃんが出迎えてくれて、半地下室に着くとホッとする。もう、ブリュッセルの街は私の第二の故郷となっていた。猫のプーは一瞬私を忘れていて、逃げていた。猫とは薄情なものである。

 そんな訳で、私の四年目の留学生活は、スタートをする。

 最初こそ日本が恋しくなり、つい涙ぐんだりもしていたが、最後となるこの一年間のスタートは、最強のパートナーよっちゃんもいて、私は幸せ一杯であった。

2017年6月23日 (金)

百二 始業

 ブリュッセルに戻ってきて四日後の、十月二日。コンセルヴァトワールで、セレモニーが開かれた。こんなの、毎年あったっけ?忘れたが、この年に初めて、私はこのセレモニーに出席した。いくつもの演奏と、先生方の紹介に、授賞式もあった。はじめは退屈だったが、最後のジャズ演奏や、テアトルの人々のパフォーマンスは最高だった。拍手喝采である。テレビの取材も来ていたようで、なかなかコンセルヴァトワールもやるな。と思った。そう、ブリュッセルではジャズも盛んで、確か毎年夏になると、グランプラスでジャズフェスティバルが開かれていたと思う。

 四年目に入ると、たくさんの後輩たちも入ってきて、友人関係は広がった。私とユキは相変わらず仲は良かったが、お互いに別々の友人も増えてくる。

 まだ全然フランス語がわからない後輩のために、レッスンでの通訳も任されたりした。ところがこの通訳というものは、言葉がわかればできるというものじゃない、ということを思い知らされる。何故なら、私たちはフランス語をフランス語として理解しているため、それを日本語に変換する、ということが、咄嗟にできないのである。ええと、ホラ、あれだよ、あれ。あれだってば!…なんてことになっちゃって、全然役に立たなかった。通訳者って、すごいのである。

 和声の授業は上級の、スーペリウールまで進んだ。今年からは、メルクス先生のレッスンも一時間もらえるようになる。課題がはかどって早く終わった日にはお喋りに花が咲き、先生がエリザベートコンクールにも出場されていたこと、私が四年目に弾くことになる、バーバーのソナタも先生の十八番だと言うことを知り、嬉しくなった。校舎の一階で無料楽譜コーナーが設置された日には、先生と一緒に楽譜を漁った。ラフマニノフのエチュードの楽譜なんかをゲットして、喜んで帰ってきたのを覚えている。

 一年間、和声を違う先生に教わり、ちっとも理解できなかったと言う後輩のトッコにメルクス先生を紹介してやり、彼女は大変喜んでいた。私は彼に最初から教わることができて、本当にラッキーだった。スーペリウールは難しかったけれど、先生と一緒ならできそうな気がした。今、メルちゃんはどうしているのだろう。懐かしい。

 先生といえば、フランス語を教わっていたマダム・バージバンは、その年、五十を過ぎてから再婚した。彼女は幸せ一杯で、散々、彼との馴れ初めを話してくれた。ヨーロピアンたちの熟年離婚、再婚などよくあることで、それも大恋愛が多いものだから、う〜む、上には上がいるな、と思ったものである。後々、私の大家さんたちも離婚することになり、彼らはお互い、新しい伴侶と暮らしている。理由は、「僕たちの間はもう色あせた」からである。

 子育てにおいても、子ども中心の日本とは全く違い、あくまでも夫婦がまずあって、子どもは子どもとして、例えばデートにも置いていかれたりする。小さなエヴァはよく、「今日はパパとママは映画に行くからお留守番なのよ」と言ったり、「もう子どもは寝る時間だから」と言いながら、ウインクして見せた。この考え方は私の子育てにおいて、大きく影響を及ぼしている。

 話がずれちゃったけど、私が大家さん一家とずいぶん仲良しになったのも、この四年目であった。私は彼らにも支えられながら、思う存分ピアノの練習に励んでいた。

 そして私は、四年目のレパートリーを、今までの数倍速でずいぶんと早く仕上げられるようになっていたのである。

2017年6月24日 (土)

百三 四年目の選曲

 四年目の試験課題曲に、私はまず、プーランクのコンチェルトを選んだ。

 これは確か、アシスタントに勧められた記憶がある。貴女によく、似合ってるわ。それにこれ、エリザベートコンクールのテーマソングなのよね。オープニングで流れる曲よ。と言われる。実際、これはモーツァルトのコンチェルトよりも簡単であった。(近現代得意な私にとっては。)だけど綺麗な曲なのだが、どうもやってみるとピアノがメインというよりはオケがメインで、ピアニストとしては少々、物足りなく感じる。けれど四年目の選曲としては、コンチェルトよりももっと他に、私の目標としたいものがあったのでヨシとすることにした。

 私は少しずつ、日本でのリサイタルプログラムを意識するようになっていた。だからこの年、私は自分の得意路線で、大きなソナタに取り掛かることに決めている。

 バーバーのソナタ、全楽章。最終楽章のフーガだけは、一年目にチャレンジしていたが、全楽章は初めてである。前章で、メルクス先生が十八番だと言っていた、その曲。これは日本の大学で、先輩であるヨシミちゃんが弾き、その時から大好きな曲となったもので、いつか自分も弾いてみたいと思っていた。私は当時痩せていて、なかなか迫力ある音が出せなかったのが難点であったが、今ならばこの曲を仕上げることができるような気がしていた。今振り返ると、よくぞこの膨大な課題の中で、このソナタを仕上げることができたなあと思う。よっぽど最後の年は、私にはやれるという自信があったのかもしれない。そして後ほどこれを、帰国リサイタルのトリに持ってきている。通すと二十分前後ある、けっこう難解な曲である。

 その他には、バッハのパルティータ一番、ベートーヴェンの悲愴ソナタ、スクリャービンのエチュードop.65-3、ドビュッシーのエチュード、アルペッジョコンポゼを選んだ。

 私が最初に譜読みに取り掛かったのはベートーヴェンである。一番ラクだったし(と言っても全楽章であるが)、とにかくどれかを早めに仕上げてレッスンに持って行かねばならなかったからだ。その次に練習にかかったのは、バーバーのソナタ。大きい曲なので、少しずつ仕上げていかなくてはならない。順序よく計画を立ててやらないと、とてもじゃないけど間に合わなかった。でもこの年はずいぶんと譜読みも早くなり、自分でも驚いている。

 この秋にはまだ、私には、果たして夏の試験が終わるまでベルギーに残っていられるかどうかわからなかったが、演奏会のひとつでもして、納得できるくらいになるまでは居たい。と書いている。父からの帰れコールの圧力がかなりかかっていたが、私にはまだやりたいことが残っていた。

 ディプロムスーペリウールを卒業するまでには最短で四年、つまりあと二年は残らねばならなかったが、私にとってはこれは重要ではなかった。それよりも、演奏会一本できるくらいのレパートリーを作りたい。という思いが強かったと思う。お金ももう残り少なく、両親からの送金はもちろんない。ギリギリのところで、ただひたすら応援してくれているよっちゃんと共に、できるところまで残ろう、と決めていた。

 そしてその充実した秋は過ぎて行くのである。たくさんの、仲間たちと共に。

2017年6月25日 (日)

百四 私がハマっていたこと

 私が留学生活最後となったこの年は、いわゆる世紀末で、二十世紀がまさに終わろうとしていたところであった。

 世紀末というのは、必ずやくだらない噂が流れる。ノストラダムスの大予言もそうだった。私は小さい頃に読んだ本の衝撃が残っていて、本気でこの世紀末をどこで過ごそうか考えていた。もしも世界が終わるなら、最期をヨーロッパで迎えるか、日本で迎えるか、どっちにするかな〜なんて思っていた。

 そして、暇つぶしにタロットカードと、ホロスコープの本などを買った。このホロスコープの本っていうのがかなり本格的な分厚いやつで、真面目に勉強すれば占い師になれるんじゃないか、というくらいだった。そして私はもれなく、真面目に勉強してみた。私はいつも、何かにハマる癖があるので、今でも副業にできるんじゃないかというものが、いくつかあったりする。ヒマなブリュッセルでは占いはもってこいで、友人たちはキャーキャー言いながら、私の占いを順番待ちしていた。

 四年目の生活が始まってから半年くらいの間は、私は本当に落ち着いた生活を送っていた。浮ついた気持ちもなく、すこぶるよっちゃんとも好調で、二人してキンダーサプライズのおもちゃ集めに燃えたりしていた。これには意外とハマっている人がいたりして、友人しづちゃんなんかも、ピアノの上にビッシリ、小さなマスコットを飾って、お互いにダブったものを交換したりしていた。

 これは、玉子型のチョコか何かのお菓子の中から出てくるオマケなんだけど、今でも日本で手に入ると聞いた。当時、二百個は集めたと思うけど、帰国する時にいくつか残して捨ててきてしまった。言っておくけど、日本人の感覚だと、あまり可愛いマスコットではない。一度、幼馴染みのミーちゃんに送ったことがあったが、「可愛くないっ!」と返事に書いてあったので、そうなんだと思う。

 ヨーロッパに長いこと住んでいると、ファッションセンスも何もかも、あっち仕様となっていくので、この冬、先に帰国したしづちゃんは、「あのね、日本に帰ってから、届いた荷物の箱を開けるとね、ほとんどが、着られない服ばかりよ…」と教えてくれたが、その通りである。私は一時帰国のたびに、solde(セール)で買った服を母に自慢して、優しい母は「ヨーロピアンみたい」と褒めてくれたが、妹ユリコは白い目で見ていたのを知っている。ミーちゃんとヨシエにも、ゲラゲラ笑われたので、きっと変だったに違いないが、まあいい。

 世紀末のことも手伝って、私はおばあちゃんの影響もあり、フランス語のバージバン先生に頼んで、カトリックの勉強をしたりしていた。敬虔な信者の先生は喜んで色んなことを教えて下さり、洗礼を受けるには一年間は勉強しなくてはいけないのよカオル、と言って、クリスマスプレゼントに聖書を贈ってくれたりした。結局、洗礼は受けて帰って来なかったんだけど、おかげでフランス語の勉強にはなった。クリスマスにはミサに出たりして、かなり楽しんでいたような気がする。

 そんなこんなで、私はピアノの練習時間以外は、そのようなことに没頭しながら過ごしていた。学校へ行くか、練習をするか、友達と長話をするか、ご飯を作るか。生徒たちを教えてはいたものの、相変わらず、だいたいがそれくらいしかやることがない日々だったし、静かなブリュッセルはゆっくり勉強をするには本当によいところであった。

 それに今年は、超お金持ちの可愛い後輩が近所にやって来た。

 私は彼女を可愛がり、同時に、私とは比べものにならないくらいの金持ちっぷりに仰天するのである。
 

2017年6月26日 (月)

百五 四年目の友人たち

 この年は、いろんな面白い後輩たちがコンセルヴァトワールに入って来た。

 その中でも、新しく入ってきた十九歳のミミちゃんは、とびきりのお金持ちガールであった。

 私は、彼女がうちの近所に越して来たことと、妹ユリコと同い年だったことも手伝って、とても可愛がった。彼女もまた、カオルさんてお姉ちゃんみたい!と言って、よく遊びに来てくれた。私はミミちゃんのレッスンに一緒について行き、通訳をしてあげたり、食事に誘ったりした。私はずいぶん料理の腕も上がっていたようなので、ミミは私のメニューの真似をして、他の友人たちを呼んでホームパーティーを開いたりしていた。カオルさんも一緒に来てと言われて、私もちょくちょく遊びに行っていた。

 彼女のうちはすごかった。ブリュッセルの学生の中でもかなり豪華な部屋に住み、ピアノはもれなく、超高額なベーゼンドルファーを買ってもらっていて、私たちはたまげた。お父様は開業医で、お母様は娘に世話を焼くのが楽しくて仕方ない様子であった。ミミは甘やかされてはいたが、大変素直ないい子だったので、皆から可愛がられた。けれど彼女はいつまでも私たちに頼りがちなので、私は途中で自立させるために、わざと突き放したりもしていた。

 若くて吸収も早いだろうと思われたミミは、けれど半年も経たないうちに、やっぱり日本の大学を受け直すと言って帰国してしまった。ピアノまで買ってもらっていたのに、私たちはまたもやたまげたが、本人がそう決めたなら仕方がない。(ちなみに、ブリュッセルの学生たちはほとんど、グランドピアノはレンタルしていた。向こうは娯楽品の税金は高かったので、これが一番の出費であった。)ミミはその半年の間に何度も一時帰国していたけれど、その反対に、日本にはほとんど帰らないツワモノもいた。

 後輩のトッコちゃんは、何故だったか、日本へは一度も、というくらい帰らなかった。おじいちゃんが亡くなった時にも、帰りたいのに帰らせてもらえないと言ってしょげていたから、何か事情があったのかもしれない。そして彼女は現地のベルギー人の彼と付き合っていて、結局、向こうで結婚し、今でも多分、ベルギーで暮らしている。

 私はトッコの彼氏とも仲良しで、よく一緒に遊んだんだけど、ホントにいい奴であった。あの彼氏と結婚すればよかったのになあと、内心思ったりしている。(たぶん、私が帰国してから彼女は、別の彼と巡り合っている。)私がもしフリーで、よっちゃんもいなくて、もしも彼がトッコの彼氏じゃなかったら、私たちはもしかしたら付き合っていたかもしれない。自慢じゃないけど、私はこれだけ自由奔放な女でも、友達の彼氏を奪ったことは一度もない。私は友人を大切にしたし、何より、私の友人たちは皆、個性的だったので、誰も趣味がかぶらなかった、ということが大きいかもしれないけど。

 そんなわけで、私の四年目の楽しい友人たちはまだまだ他にもたくさんいるので、追って紹介しつつ、書き進めていきたいと思う。

2017年6月27日 (火)

百六 冬が来るまで

 その年のブリュッセルの秋も、日に日に寒さを増してゆき、冬の女王はもうすぐそこまでやって来ていた頃、私の住む半地下のショファージュ(ストーブ)が壊れた。

 以前から調子が悪くて、気が付くと火が消えていたりしたのだが、だんだんその回数が増えてきていた。その度に大家のオリビエを呼んで直してもらっていたのだが、もうこれはいよいよ危ないということになり、買い替えるか。との話が出た。私はすかさず、
「あの、本物の火がゆらゆらとしているように見えるショファージュがいい!」
 とおねだりしてみた。

 オリビエは笑って、ああ、あれか!あれが好きなのかカオル?と言い、そのタイプはちょっと高いので、ここはひとつ、モワティエ・モワティエ(半分半分)で買わないか?ともちかけられる。私は承諾し、ウキウキ気分で街に出ては、ショファージュを探したりして楽しんでいた。

 オリビエは早々に中古のお手頃を見つけてきてくれて、壊れたでっかいショファージュを息子のセルジュと一緒に運び出し、豪快に壁を壊して、新しいものを取り付ける工事をやってくれた。オリビエは精神科医だったが、大工仕事も何でも自分でやる人だった。長年ブリュッセルに住んでいる日本人に話すと、いい大家だね〜、ベルギー人でそこまでしてくれる人って、なかなかいないよ!と感心されたので、嬉しかった。私は相当気に入ってもらえていたんだと思う。

 その日の夜は一緒に「ワリビー」という遊園地もどきのプールに出かけ、エヴァとよっちゃんは怖いものなしで、ガンガンに飛込み台から飛び込んだり、滑り台を楽しんだりしていた。ここのプールはまたすごくて、飛込み台近くの深さなんかは四メートルくらいもあるんだけど、監視員なんていないから、水底で人が死んでいても気付かないんじゃないかと心配になるほどだった。だいたい、ワリビーのジェットコースターは一度、回転真っ逆さまの途中で故障のため止まったりして、大騒ぎになったこともあった。人が何時間も吊るされっぱなしになったのである。ヨーロッパ、恐ろしや。こういうことは向こうではしょっちゅうあり、遊ぶ者の自己責任とされる、施設の放任ぶりには信頼ならないものがあった。

 大家さん一家とはこの年に本当に仲良しになって、エヴァとセルジュはよく私の部屋へ遊びに来ては、ママに「もう夜遅い!」と叱られて戻って行った。ちなみにエヴァは猫のプーすけの天敵で、遊びに来るたびに、「プーは死んだか?」と訊いていた。エヴァは大変なやんちゃ娘だったので、プーが警戒して、一度彼女をひっかいたのである。

 彼らとは、プールだ、ボーリングだと、しばしば一緒に出かけた。そしてオリビエは私が弾いていたバッハのパルティータが気に入り、ショファージュの取り付けで壊した壁を塗りに来てくれた時に、「いい曲だ。コピーしたいけど、難しいか?」と訊くので、楽譜をプレゼントしてあげた。彼は喜んで、毎日練習を重ねた結果、最後のジーグだけを完璧に弾きこなすことに成功した。いつも上から聞こえてくるので、何度かレッスンをしてあげたように思う。

 私はこの年、バッハが大好きになった。日本の音大時代にはバッハの平均律をほとんど全巻さらってはいたが、その良さは半分もわかっていなかったと思う。

「ずっとバッハはわからなかったが、今、やっと理解できるようになってきて、ヨーロッパってやっぱりすごく音楽と身近なんだな。」

 と日記には書いてある。

 私が好きになったのは、バッハだけではなかった。モーツァルトや、ベートーヴェン、意外とこの四年間で歩み寄れたのはロマン派よりも古典の方であった。

 好みが近現代に偏っていた私としては、まんべんなく勉強させられたコンセルヴァトワールのシステムは、本当にためになったと思う。当時はそれだけに悩んだりもしたが、結果的に大正解だった。しかし不思議なことに、とうとう最後まで、あの舞台でロマン派の大曲を弾かされることはなかった。それが、唯一残念なところ。ぜひともリストやショパンを弾いておきたかった。だから今、私は自分から、その辺りを好んで弾いているのかもしれない。面白いものである。

 とにかくも、四年目の秋はそのようにして過ぎ、十二月になると友人のしづちゃんは帰国をして、大使館のマツザキさんも、二月に帰国という知らせを受けた。

 彼らの帰国は私にとって寂しかったけれど、日本での活動にともしびを与えてくれた。今まで漠然としていたビジョンが少し具体的な形となり、私には少しずつ、帰国する目標が出てきたのである。

 マツザキさんは、日本に帰ったら音楽家をサポートする、マネジメント的な仕事を立ち上げると言っていた。若い音楽家を応援し、演奏会を企画したりするビジネスらしい。私は嬉しく思った。そして彼に誘われたら、ぜひやらせてもらおうと思った。

 そして私は声をかけられるのを楽しみに、気持ちも前向きに勉強に励み出すのである。

2017年6月28日 (水)

百七 十二月の日々

 十二月に入ると、いよいよ父が見合いの話をうるさく言い出してきた。本当にうるさい。ある時は、九州のいい人がいると言ってきたし、またある時は、北大のいい人がいると言ってきた。どうやら意地でも私を早く帰国させたいらしい。このままでは、よっちゃんと一緒に永住する、なんて言い出しかねないと思っていたのだろう。その気持ちはわかるが、結婚相手くらい、自分で決めるわい。と内心思っていた。けれど一方では、そんな父を面白がっている自分もいて、好きなようにやらせておいた。こりゃあ一度、日本に帰って、父の気の済むように見合いでもしてやって、破談にでもするか。そうすりゃ、落ち着くだろうな。なんて思ったりもしていた。悪い娘である。

 私生活が落ち着いていたせいか、私のピアノは、かなりはかどっていた。バーバーのソナタを早々にコルニル先生のレッスンに持って行って、二楽章まで進み、「大きな曲だ。とてもスペシャルな曲だし、とても現代的であるし、何より大変美しい。」と言われている。アシスタントには、テーマをレガートに弾いたらどうかと言われて私は憤慨しているが、コルニル先生には、ノンレガート。マルカートだ。その方がずっといい。と断言され、大喜びしたりしている。頑張って、この曲をクリアーに仕上げたいと思った。

 ドビュッシーのエチュードは、ヨーロッパでの勉強は初めてだったので、私はかなりとまどった。教わることが多く、自分はまだまだ日本には帰れないな、学ぶべきことが多すぎる。と落ち込んだりもした。プーランクのコンチェルトは、その合間に苦し紛れにさらっていて、何とか年明けのレッスンに間に合わせようと必死だった。

 十二月はクリスマス市も開かれるので、練習の息抜きによっちゃんと出かけ、一変してアイススケート場となったグランプラスに感動したりもした。大きなサパン(クリスマスツリー)も買い、二人で楽しく飾り付けをしたり、よっちゃんはお得意のティラミス作りに精を出したりした。この時期、トッコちゃんとも私はよくデートしている。そして私はバージバン先生から聖書をいただき、クリスマスイヴには、私たちはディナーを済ませてから教会のミサに行く。神父様は本当のサンタのようであった。コラールは美しく、私もちゃんと歌えたので感動だった。イヴはおばあちゃんの誕生日でもあったので、今頃天国で喜んでくれているかな、なんて思ったりしていた。

 クリスマスには、パリで寂しくしていたエミコが遊びに来て、何日間か、大いに盛り上がる。

 大晦日は鍋を囲み、オリビエたちとシャンパンで乾杯しながら、ハッピーニューイヤーを祝った。ブリュッセルの街では、あちこちで花火が上がっていた。一九九九年の、幕開けである。

 ああ、本当に、平和で、静かな秋冬であった。この時期が一番、私の中では、よっちゃんとも仲良く過ごせていた時だったと思う。それなのに年が明けて、事態はまたもや、一変してしまうのだ。それもこれも、今の私に繋がっていることなのだから良しとしても、この平和なひとときをとても愛おしく思う。

 そしていよいよ帰国の年となる、一九九九年は始まるのである。

2017年6月29日 (木)

百八 新年の私

 九十九年の元旦の朝は、お節もどきを作って、よっちゃんやトッコたちと一緒にお祝いをした。黒豆や数の子、きんとん、豚の煮物、お雑煮。ワインを開けて、正月のご馳走を平らげた。よしよし、海外のわりには、日本らしいものが勢ぞろいできて、私たちは満足だった。

 翌日はロンドンへ、ミュージカル「Cats」を観に行く。イギリスは、同じ島国のためか、日本の気候と似ている。風の感じが同じである。なんと表現したらよいか、うまく言葉が見つからないが、ロンドンに行くたびに、大陸とはまた違うなあ、ベルギーはやっぱり大陸なんだなあ、と感じていた。

 さて、私たちの席は、着いてみてビックリ、なんと最前列のド真ん中であった。よっちゃんの強運のせいだったかどうかは、よく覚えていない。彼は本当に幸運の持ち主で、よく、くじなんかも当てていた。一番前の席では始終、ダンサーたちの細かい表情や表現まで、その素晴らしい演技が手に取るように伝わり、私は心の底から感動した。

 私は舞台が好きだった。中学の時は演劇部で、夢中になって演技をしていた。オマエは将来有望だから、今度オレが劇団の舞台を観に連れてってやるぞ、と言ってくれた先生もいた。音大進学の時に、実は最後まで迷っていたんだけど、結局、自分を表現するための手段が違うだけで、舞台好きは基本的に変わっていないと思う。だからこの年、私は徐々に、日本に帰って舞台をやる。ということに、意思が固まりつつあった。

 ロンドンから戻り、一月も下旬に差し掛かった時、大使館のマツザキさんが電話をくれた。私にも、オファーがかかったのである。日本に帰ったら、ボクがマネジメントをするから、帰国リサイタルをやらないか。と言ってもらった。嬉しかった。自分なんて、たぶん気に入ってもらえていないだろうし、声はかからないだろうな。と考えていたからである。これが、私の帰国の決め手の一つになった。よし、この夏で留学生活を終えることになるなら、日本での目標は決まった。帰国リサイタルをやろう。それからのことは、それから考えればいい。そんな風に思ったかもしれない。

 私は、いつもそうだった。その時の恋が順調で、もしそのままその時の風にうまく乗ることができたなら、破局には至らなかったと思うのに、いつもいつも、最後の最後で自分の道へと走って行ってしまう。それは良い選択であり、それが自分の人生を歩むということだと思うけれど、少し寂しい気もする。当時の日記にはそう書かれていた。

 たぶん、漠然とだけれど、日本に帰ったらよっちゃんとはうまくいかなくなる気がしていたのだろう。彼が一緒に帰国するかもわからなかったし、それに何よりも、私のために、彼の人生を棒に振ることはして欲しくなかった。彼はこの年、ベルギーでの永久労働ビザがもらえているし、(これを取得できる人は少ない。彼は本当に、ラッキーな運勢なのである。)だから私のために自分の人生を決めて欲しくなかった。だけどまあ、結果的に言うと、彼は世界のどこでだって百二十パーセント楽しめる人物なので、私が心配することなどなかったのだけれど。彼は今でも、飄々と独身貴族で人生を謳歌しているはずである。

 こうしてこの年に入って、私の気持ちは少しずつ、日本での生活に目が向いて行った。けれど同時に、まだまだブリュッセルでの勉強も頑張らなければならないな、と思っていた。

 たくさんの、優秀な仲間たちに刺激を受けながら、その年は過ぎてゆくのである。

2017年6月30日 (金)

百九 演奏会と、仲間たち

 年が明けると、いつも私たちはパリの公開レッスンへと出かける。

 その年もお決まりのように、私はパリのエミコのうちに一泊して、彼女の愛のこもったオニギリを持たせてもらい、ルーブシエンヌの公会堂に向かった。

 私はトップバッターに、バッハとベートーヴェンを弾いたが、アンリオ先生には、

「il fout beaucoup travailler ! on a encore de temps !」
(もっと練習しろ!まだ時間はある!)

 と、一喝される。そりゃそうだ。まだ、全然形になってないもの。バッハはそのテンポ設定とピアニッシモについて、ベートーヴェンは、悲愴ソナタ、trop jentil. 優しすぎる。とアドバイスいただく。コルニル先生の言っていることとはまた、全然違うけれど、いつも先生の音楽的な指摘には頭が下がる思いであった。

 そんな中で、他の仲間たちは皆、先生に、tres bien(トレ・ビアン。大変良い)と褒められていた。キボウちゃんのダンテは素晴らしかったし(リストね。)演奏会の近いキョーコちゃんも、もう曲はすっかり出来上がっていた。私だけがダメ出しを食らって、しょんぼりと帰って来たように思う。友人のエミコはそんな私を毎度、励ましてくれて、夕飯にパスタを作ってくれた。彼女のパスタは、絶品であった。ありがとう、エミコ。

 キョーコちゃんのミニリサイタルは、二月に入ってすぐに開かれたが、私はメトロの行き先をうっかり間違えてしまい、しょっぱなバッハのシャコンヌを聴き逃した。大好きな曲だったのに、残念である。彼女の演奏は素晴らしかったのだが、聴いているうちに、なんだか自分まで本番を想像してしまい、緊張の汗が出る。いろんなメンバーたちが集まっていて、楽しかった。演奏会とは、音楽仲間が集結する場でもあるから、いいもんである。今年から入って来たであろう、背の小さくて可愛らしいアコちゃんは、

「カオルちゃん、私の彼がね、カオルちゃんって言う、すごく感じの良い子がいるよって、教えてくれたのよ。今だから打ち明けるけど。」

 と言ってくれたりして、何だか嬉しかった。アコちゃんの彼氏とは、一足先にブリュッセルに留学して来た秀才で、ずっと、彼女の渡欧を心待ちにしていたヤザワ氏である。私は彼と仲が良く、学校で会えばとても親切にしてもらっていた。ヤザワ選手、私のことを彼女に褒めるなんて、いい奴じゃねーか。なんて、日記に書いてあった。彼女たちはめでたく結婚し、日本でもご夫妻でよく、リサイタルを開かれている。

 二月九日には、ウゴルフスキーのコンサートがあった。会場がどこだったかは覚えていないが、さすがに学生たちはほとんど集まっており、Mr.ミタは、可愛いスペイン人の彼女とベッタリであった。(この二人も、結婚して可愛いお子さんが生まれていると思う。たぶん。)

 ウゴルフスキーはロシアのピアニストで、確かドイツに亡命して来ていたんだけど、彼の演奏はさすが、個性的でとても面白かった。ムソルグスキーの展覧会の絵などは、ちょっとやりすぎと言うか、本当に独特なものだったが、スクリャービンは最高だった。だけど五番のソナタは、危なっかしくって、聴いていられなかった。でも、人気があるのはわかるような気がする。

 演奏会が終わって、珍しく雪降るブリュッセルの街を歩きながら、私はユキと一緒にカフェに寄りながら帰った。辺り一面真っ白に輝く、静かな夜のサブロン広場はとっても美しかった。私たちは冷たい、澄んだ空気を吸い込みながら、綺麗!すごく綺麗!と言って、はしゃいだ。この光景を、私は一生忘れない。と日記に書いてあるのに、読み返すまではすっかり忘れていた。読んだらあの時の光景が脳裏にパアッと蘇ってきて、なんだかとても嬉しくなった。帰ってから、猫のプーに雪を踏ませてやったら、速攻で逃げ帰っていて、可愛かった。

 私は、二月のその時を、そのように、仲間たちの演奏を聴きながら過ごしていた。

 そしてとうとう、痺れを切らした父のために、日本へ一時帰国する。この時まで私は、本当に幸せに過ごしていた。まあ、その後だって、幸せには変わりないんだけど。

 とにかく、またもや私の恋愛ドタバタ劇は、始まろうとしていたのである。

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