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2017年6月10日 (土)

八十八 スランプ

 五月も下旬になった頃、私はエチュードの壁にぶつかっていた。

 せっかく今まで苦労して練習を積み重ねてきたショパンのエチュードがうまくいかず、機嫌の悪いアシスタントにとうとう、曲を変更してはどうかと言われたのである。他のエチュードも引っ張り出してみたが、乗り気にならない。完全にスランプだった。試験が近づくと、どうしてこう精神的にも低迷するのか。毎日、うまく眠れず、不安定になっていた。私はつい、東北の彼の電話番号を回す。

 彼は疲れて寝ていた。が、別れた女には気を使い、起きて喋ってくれた。いつ帰ってくんだよ?と訊かれたり、カオルはピアノ、いつも失敗するか成功するか、どっちかなんだから、思い切りやんなさいよ。なんて言われた。私はまだ、彼のことを好きなんだなと思う。会いたい。完全に、現実逃避である。

 仙台の彼からも手紙をもらったり、私は試験前になると日本とよく交信をしていた。一緒に師匠のお墓まいりに行った、先輩のヨシミちゃんも、いつ帰ってくんの〜と電話をくれて、来月三人目が生まれるんだよと教えてくれた。彼女は何を隠そう、私に、留学先をベルギーにすれば?と提案してくれた、進路のインスピレーションの恩人である。ヨシミちゃんは、ベルギーが自分の行くはずだった留学先の一つだったのに、潔く男に走り、今では三人目までしっかりと子育てを終えた後、これまた潔く旦那と別れて新しい音楽人生へと方向転換した、味わい深いピアニストである。ああ、たくさんの友人がいる懐かしい日本。逃げ出して、帰りたいのは山々であった。世紀末をどこで過ごそうかと、真剣に悩んだりもしていた。

 うまいこと弾けないリストのため息も、東北の彼氏を想いながら弾いてみた。するとけっこううまく弾けたりする。お、ヤツもなかなか、いい役目してくれるじゃないか。いいセンいけそうだぞ。失恋もしてみるもんだな。なんて思いながら。

 大好きなアキカさんにも電話を入れてみた。彼女は、カオルちゃん、若いうちは、好きにやって大丈夫よ。と励ましてくれる。一足先に帰国した彼女は、日本での仕事もうまくいっているようだった。私は一体この先どうなるんだろう。とぼんやり思った。日本で着実に人脈を広げて行っている人たちが、羨ましかった。私はまだまだ、勉強の途中。宙ぶらりんで、不安で、寂しくてたまらなかった。こういう気持ちになるのはいつだって、試験前である。

 そんな、試験も一ヶ月前に迫った六月上旬、私はある演奏会へ行く。ツィメルマンがやって来たのだ。しかも、プログラムには私の試験曲、ショパンのバラード三番が入っていた。これが、その後私の気持ちと演奏を大きく変えることになる。

 私はワクワクして、コンサート会場へ向かった。

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