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2017年6月18日 (日)

九十七 夫の名前

 日本に帰らないと決めた夏は、黙々とピアノをさらいながら、同じくブリュッセルに居た、居残り組の友人たちと楽しく過ごしていた。

 まず私たちは、試験の打ち上げと称して、呑んだくれた。約束通り、ミタ君は電話をくれたし、ユキと三人でカフェに行ったり、ビリヤードをして夜中まで遊び惚けた。当然よっちゃんは怒ったのかと思いきや、疲れて寝ていたので助かった。教会で開かれたレクイエムのコンサートにも行ったし、よっちゃんの友人の、リサさんのお家にお呼ばれに行ったりもした。リサさんの彼は料理人だったので、その日はこれでもかというくらいの豪華な食事が出て、病み上がりの私には少々ヘビーだったが、美味しさのあまりに食べ過ぎて、次の日苦しんだ想い出がある。彼女のお家にはその後、たびたびお邪魔しているが、いつもいつも美味しい手料理でもてなしてくれて、私もいつかこんな風にパーティーを開いてみたいな、と思ったりしていた。こういう想い出が、今の我が家のパーティー好きにつながっているのかもしれない、と思う。

 よっちゃんのお父さんが、お兄さんに付き添われて、日本から遊びに来たりもした。いろんなところへ案内差し上げたが、お父さんは大変喜ばれて、そして、私たちのことをとても心配してくれた。いいお父様であった。お兄さんともとても仲良しになった。こんな半地下の暗い部屋で可哀想に思ったのか、大きな花束をプレゼントしていただいた。最後には、部屋に置手紙がしてあり、涙が出てしまった。同時に、母からの手紙も届いていた。これにもまた、泣けてしまう私。早く日本へ帰って顔を見せてあげたいし、早く結婚でもしてホッとさせてあげたいと、こういう時は都合よく思ってしまう。でも母は、私が残ってコンクールを受けることにも、勉強に対しても、非常に好意的であった。いつも応援してくれていたように思う。もしも私が、一生ヨーロッパで過ごすと言ったら、どうだかはわからなかったけど。

 一方で父は、ついに気持ちを爆発させる。秋に帰って来ないつもりか?調子に乗って!と、電話をかけてくる。こちらとしては、昔っから親の言うことなんか聞いたことがない悪ガキなので、そんなの余裕でスルーなんだけど、コンクールを控えている身としては、耳栓したい思いだった。コンクール先からは招待状が届き、曲も整い、私はイタリアに乗り込む気満々で、調子を整えていた。

 師匠Mr.カワソメにもよく相談に乗ってもらい、私の演奏録音テープを送って感想を聞いたりしていた。こんなんで、日本でリサイタルなんて開けるかな?少しは演奏、マシになったかな?と尋ねると、お前、マシになったどころか、大きな進歩だよ。もっと固めて、レパートリーを大きくすれば大丈夫。ぜひ、やれよ。と言っていただく。

 この時、私は初めて師匠から、夫の名前を聞かされた。

 オレな、今、大学で、ピアノ愛好サークルってやつの、顧問してんだよ。そこの部長がなかなか頼りになるヤツだから、お前、ちょっと世話になって、今年の秋に帰って来たら学祭で弾かせてもらえよ。と言うのだ。

 なんだ、ピアノ愛好サークルって。と、私は笑った。でもこれが、私と夫の出会いとなるのだった。運命とはわからない。結果的には、その秋には私と夫は出会わず、来年の話となるのだけれど。

 という訳で、ベルギーの短い夏が終わってしまう前に、私たちは大いにその開放的な暑さを楽しんでいた。部屋の模様替えもしたし、庭にテーブルを出して食事をしたり、パリから後輩のエミコが遊びに来て、グランプラスの花の絨毯を観に出かけたりした。これは素晴らしい眺めで、二年に一度開かれる、広場一面に花びらが敷き詰められる美しいフラワーカーペットのお祭りである。

 そして、八月も半ばを過ぎると、ブリュッセルは急に涼しくなり、夏の終わりを告げる。寂しいもんだな、もっと夏が続けばいいのに。なんて思いながら、私は夏休み気分もしまいこみ、来月のコンクールに向けて本腰を入れようと、ピアノに取り組み始めた。

 でもそれは急遽、一本の電話で変わった。

 おばあちゃんの急変が知らされ、私は日本へ帰国することになるのである。
 

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