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2017年7月の18件の記事

2017年7月 1日 (土)

百十 私が帰国を決めた理由

 二月十一日。一時帰国する日、私は朝イチでコルニル先生のレッスンを受けた。

 この日はコンチェルトの二、三楽章。これで、一通りの試験曲目がとりあえずレッスン終了してホッとする。ユキが久びさに私のレッスンを聴いていて、「カ〜オルちゃん、弾き方変わったねぇ〜!」なんて言っていた。

 先生に、ボン・ボヤージュ!(よい旅を)と言われて、速攻で帰宅。よっちゃんに、バレンタインのお花を買って、プーのトイレを掃除して、コンセルヴァトワールに電話をかけ、ディプロム(卒業証書)がまだ出来上がっていないことを確認してから、大家に挨拶をして家を飛び出した。

 今回の帰国は、サベナの旅。新しい機内は快適であった。満席だったので窮屈だったが、直航便はやっぱり楽である。私は次の日の午前十一時に、成田に到着した。

 着いたら、成田エクスプレスの出発時刻まで四十五分もあったので、判断をミスった私はJR快速に乗ってしまった。そっちの方が早いかと思ったら、これがローカル過ぎて二時間もかかってしまう。辛すぎて、無になっていた私。どうやって実家まで帰ったか、フラフラしていてよく覚えていない。幼馴染みのヨシエに、駅まで迎えに来てもらったが、とりあえず即、寝た。愛犬のビビはいつもながらに耳を垂れて、ウルウルと感動して出迎えてくれた。

 冬の日本は、暖かくて幸せだ!それに家族はVIP待遇してくれるし、お風呂はあるし、お米は美味しいし。(向こうでは、カリフォルニア米を食べていたと思う。)でも、そんな幸せ満喫もつかの間、私は風邪をひいてしまった。喉が痛くなり、熱を出す。あ〜、こんなはずじゃなかったのに。一週間経っても一向に微熱が下がらず、病院で、おかしいから耳鼻科へ行くようにと言われる。ヨーロッパじゃ、こんなに丁寧に診てもらえないなと思い、感動する私。やはり、私は風邪から鼻に細菌が入ってしまったようで、抗生剤を飲むことになった。

 何だか、風邪をひくために日本に戻ってきたような感じになってしまったので、もったいないからもう少し延長してくれば。とよっちゃんにも言われ、少し余計にチケット代を払ってそうすることにした。その甲斐あって、私はだいぶ回復し、元気になってから、日本の先生方にも連絡を入れる。大学にも行き、毎度のこと、懐かしい顔ぶれに挨拶をしてきた。

 そこで私は、自然と、今年の夏に勉強を終えて、帰国することについて心が決まるのである。

 大学で、お世話になっていたある方と学食で喋っていた時に、ふとしたセリフに大きな疑問を感じた。私が帰国後の仕事探しについて話していた時、彼は私にこう言ったのだ。

「カオルちゃん、せっかくベルギーにいるんだから、帰って来てから音大附属の音楽教室なんかで働くなんて、もったいないよ。大学の講師とかなら別だけど。」

 と、好意で言ってくれた言葉に、私は違和感を覚えた。

 確かに、附属の音楽教室へは、ある程度優秀に大学を卒業した者ならば、そのまま面接を受けて採用されることが多かった。せっかく海外に留学したのに、卒業生たちと同じ道よりも、大学の講師を受けろ。と言う気持ちはわかる。でも、「音楽教室でなんか。」というレベルならば、そんなところで教えている先生も生徒も、そんなものなのか。だから日本の文化は、良くならないのである。大学の講師は良くて、その附属の教室はダメ?そんなの、ヨーロッパじゃ考えられないことである。向こうでは、パン屋の売り娘だって、あんなにタカビーに、誇りを持って働いていられるのだ。日本は一体、何なのだろう。

 私は日本を外から見て、この国の長所も短所も共に垣間見ることができた。そしてまた、ヨーロッパの長所短所も感じ取ることができた。プライドばかり大きくなって帰って来ることはしたくない。もっと、ポジティブな方向で、人々に音楽を伝えて行きたい。

 そう思ったら、あと残り少ないかもしれない欧州での生活を頑張ろうという気持ちと共に、日本での活動の目的がはっきりしてきた。今日、大学へ行ってみてよかった。その時私は、使命感に燃えていたと思う。

 勉強は、どこででも続けられる。問題は、どこで踏ん切りをつけるかだ。音楽に終わりはないので、もう少しもう少しと思い続けるとキリがない。お金にも限りがあり、いつまでも学生でいられないのなら、今までの恩返しをするべく、後進の指導にも尽くすべきである。その時の私は、そこまでハッキリとは思わないまでも、漠然と、彼の一言により感じることができた。

 今、日記を読み返してみてわかった。これが、私がそろそろ引き上げようと思った、大きな決定打である。その時はまだ、迷いもあったかもしれないが、私は確実に、このことを思って帰国して来たのだ。あ〜、良かった、男のために帰って来たんじゃなくって。もしかしたら、そうだったんじゃないかと思って、ハラハラしていたところであった。行きは北京のカレにつられたのであって、結果オーライだったとしても、帰りまで男のためだったらシャレにならない。私は、正々堂々と、正当な使命感により、帰国をすることになったのである。よしよし。

 そしてそんな志し高き中、私はついに見合いをさせられた。

2017年7月 2日 (日)

百十一 お見合い

 私の風邪は、微熱も完治し、すっかり良くなった。

 診てくれていた内科のおじいちゃん先生は、「もう大丈夫だな。外国でもどこでも行っちまえ!」と無罪放免にしてくれる。この先生は大変怖いガンコじじいだったが、見立ては評判が良く、今でも娘がお世話になっている医師である。

 そして私の体調が良くなったところへ、父は待ってましたとばかりに見合い写真を差し出してきた。いい人が見つかったようである。私は気が進まなかったものの、半分は、妹ユリコと一緒に面白がっていた。恋愛一直線の人生で一度くらい、見合いなんてものをしてみるのも悪くない。話のネタになる。ユリコは、「お姉ちゃん、可愛く撮ってあげるからね!」と言って、本当に、最高に爽やかな写真を一枚、撮ってくれた。父は大喜びで、でかしたユリコ。と笑い、私に、履歴書みたいなのを書けと言うので、思い切りふざけて、趣味は料理。とか心にもないことを書いて渡した。

 その日が来るまで私は、幼馴染みたちと遊んだり、ショットバーへ行ったりして過ごした。東北の彼が今どうしているか知りたかったので、みんなで実家に電話をかけると、なんと引越しをしていた。今、青森らしい。たぶん彼の方もここで、結婚相手が見つかり、互いに別々の人生を歩んで行くことになるのだが、私たちは面白いことに、ほぼ同時期に結婚をしている。私もそろそろ三十まであと残り何年かとなり、確実に夫との出会いに近づいて行く頃であった。

 見合いの日は、十時十五分に横浜にて、紹介役の方と三人で待ち合わせをした。どうやら、ユリコの撮った、私のとびきり可愛い写真を見て、気に入ってくれたらしい。こりゃあ、とんびが鷹を生んだなあ!とか、紹介役の方に、父は言われたようだ。私は多少緊張して、横浜までの電車の中、貧血で倒れるかと思った。そして、私に会おうなんて思う度胸のあるヤツは、一体どこのどいつだ。顔を見てやろう。なんて、ベルバラのオスカルよろしく、息巻いていた。待ち合わせ場所に着いたらもう二人は来ていたので、私はまず、自分から名乗りを上げて挨拶をした。見合いの君は、大慌てをして、続いて自分の名前を言って会釈した。

 後から聞いた話によると、これは大変、相手を動揺させてしまったらしい。女性の方からさっそうと、しかもフルネームでシャキッと挨拶されるとは、このオンナ、ただものではない。と思うんだって。これから見合いをする女の子、よく覚えておいてね。私しゃそんなことはどうでもいいことだと思うんだけど、よほどインパクトがあったようで、最後までこれについては言われた。面白い。私の方だって、彼の第一印象は爽やかで、写真とは別人だな、合格合格!と感じていたのだが。(その写真はかなりひどいものだったので。)

 そごうのカフェでお茶をしたが、緊張の糸もほぐれたところでお決まりの、
「じゃあ、あとは二人で。」
 という展開。おお、見合いって、本当にそうなんだ!と、軽く感動する私。
 彼とはすでに打ち解け始めていたので、話がはずんだ後、車をとってきて、ドライブでもしようと自然に事が運んだ。

 見合いの君は私よりもかなり年上で、当時三十五才くらいだったと思う。とても誠実そうな、気のいい人であった。しかもそれだけではなく、私と同じB型の、ちょっと風変わりなところもある面白い人だった。どうりで同じ種類の匂いがしたワケである。私たちは初対面にしてはすっかり気が合い、意気投合してしまった。へえ、見合いって言っても、こういうことってあるんだなァ。なんて思ったりしていた。全然気を遣わなくても済んだし、彼の方は私の話を始終笑って、楽しそうに聞いてくれていた。私は向こうでの生活や、勉強のことを面白おかしく話した。そして正直に、実は私、真剣に結婚相手を探そうと思って見合いしたんじゃないんです。と打ち明けた。彼は、納得して聞いてくれた。何でも素直に話せると思えた相手だった。よっちゃんのことだけは、抜きにして。

 彼は、とてもいいヤツだったのだけれど、B型特有の、余計な一言も忘れなかった。私は同じタイプの人間なので全然許せちゃったが、例えば海辺の散歩から戻った時に、

「大丈夫でしたか?病み上がりなんだよね?ごめんね。でもまあ、風邪ひくの、オレじゃないし!」

 とか

「帰り、遅くなっちゃったね。ご両親心配させちゃったかなあ。ごめんね。ま、印象悪くなったら、オレも損だし!」

 とか、おっしゃったりもした。

 冗談のつもりだったんだろうけど、私は密かに違う意味で、心の中で爆笑していた。面白いなあ、この人。よっちゃんとは全然違うわ。彼ならば絶対に言わないようなことを、平気で言う。結婚するなら、どんな人がいいんだろう。いろんな人がいるけれど、私には一体、誰が合うのだろう。だいたい、結婚って何だろう。私って、結婚したいの?いや、まだまだ勉強がしたい。でも、こんな彼と一緒になったら、経済的には安定するんだろうな。それに、楽しい。よっちゃんとはまた全然違って、笑いのツボが一緒だったりするみたいだ。どうしよう。こんなはずではなかった。やっぱり気なんて合わなかったよ〜。破談にして!と、父に言うつもりだったのに。

 私の心は揺れ、とりあえずは無事、見合い終了となった。

 結論を言えば、私にとって結婚とは、何の計算も、打算も、心の迷いもなく、ただただ、直感でビビッと来て、気が付いたら式を挙げていた。というようなものであった。そんなもんである。人生に、目標も計画もない。それが一番である。心の叫びを大切にするべし。

 さてまあ結果オーライなのはいいとして、困ったのは、見合いのその後である。何故だか、見合いの君のことが、心から離れなくなった。

 まったく、気が多い女とは私のことである。

2017年7月 3日 (月)

百十二 プロポーズ

 私は見合いをしてから一週間ほど日本に滞在し、ヨーロッパへ戻ったんだけど、その一週間はほぼ毎日、彼から連絡をもらい、仕事がある日も早退をして会いに来てくれている。

 最後にプロポーズをされ、「帰って来たら、指輪買いに行こう。」と言われたのだが、私は咄嗟に「え、何の指輪かなぁ」などと言い、はぐらかしてしまっている。

 でも、嬉しかった。そんなにはっきりと、プロポーズなんてしてもらったのはその時が初めてだったと思う。たぶん。そうじゃなかったら、してくれてた皆様、ゴメンなさい。(鈍感な女。)その後私は自分の気持ちを正直に話し(よっちゃんのことは言ってないけど)、ゆっくり考えさせて欲しい、みたいなことを言ったかもしれない。

 冷静に考えると、オイ、そこのお前、もっかい二股かけるつもりか?悪いことは言わないからやめとけ。キミはこれから、またもや色々な男性たちが出てきてややこしいことになるのだよ。と、言いたいところである。が、その時は、好きな気持ちを抱いてしまった相手に、断ることなどできなかった。嫌いなら、話は早かったのに。どうして気の合う相手と出会ってしまったのだろう。私の気持ちは本気で揺れていた。いや、もしかしたら、私は二つの国の間で揺れていたのかもしれない。ベルギーでなら、よっちゃんとの生活は確実にうまくいっていた。でも、日本に帰って来たら?私は、自分自身も大きく変わってしまうであろうことを予感していた。経験してみないとわからないけれど、本当に、向こうでの自分と母国での自分は、違うのである。言い訳じゃないけど。

 出発の前日、私はまた、友人一同に別れの挨拶をした。日記によると、仙台の彼氏や、お見合いの君に、「行くなよぉ」みたいなことを言われていたらしい。今まで全然気付かなかったけど、仙台の彼、ずっと私のことを見守っていてくれたように思う。それに気付かないなんて、私って何て鈍感な女なんだ。

 幼馴染みの二人は、たまたまこの期間に私のお見合いの君と会う機会があって、二人とももれなく、彼をイチオシしていた。こいつらが褒めるなんて珍しい。結婚するなら絶対、彼!みたいなことを言っている。まあ、そりゃあね。将来のビジョンが見えるし、安定は絵に描いたように約束されてるし。わからないこともない。

 そして出発当日。月曜日であったが、お見合いの君は、バリッとスーツでお出迎え。

 成田には朝九時半過ぎ頃に着いたが、あっと言う間に十二時になってしまう。

 最初ははしゃいでいた私も、やはり見送られるのは好きではない。うちを出る時も、ビビがウォーンと鳴いてくれたっけ…。

 飛行機は、一時間ほどのディレイで飛んだ。彼はサベナが飛び立つまでずっと、見ていてくれたらしい。信じられない。うちの夫なら即、お帰りになられるハズである。

 到着はブリュッセル時間の夕方五時。ちゃあんと、空港までよっちゃんは迎えに来てくれていて、私は彼の顔を見るとホッとした。

 久々のブリュッセルは、嬉しかった。そして悪友一同は、私の帰りを、いや、土産話を、待ち構えたかのように楽しみに待っていた。またもや私の複雑な生活が始まろうとしていた。でも、時は三月。ここからは恒例の、試験に向けての苦渋の日々も、始まろうとしていたのである。

2017年7月 4日 (火)

百十三 ユリコとぶんちゃん

 ブリュッセルに戻ってきてから、私はモーレツにピアノをさらった。

 久々に静かな環境で、暗譜に燃える。早く仕上げなくてはいけない。それなのに、友人たちは代わる代わる、電話をしてきてくれた。ユキとは直接会って、日本での一部始終を話したが、案の定の大爆笑で、散々からかわれた。私は悪友たちに囲まれて、幸せである。

 そして私は髪を切った。バッサリのボブ。この時はもう、日本人がやっている美容院を見つけていて、私はもっぱら、そこでしか切ってもらわなかった。よっちゃんもオリビエたちも、今までで一番似合っていると言って褒めてくれた。今はずっとショートカットにしているが、当時はロングとショートを繰り返していたように思う。何しろ、お金がなかったので、ショートを保てなかった。というのが理由だろうけれど。

 お見合いの君とは、電話の日を決めて、かけてもらっていたらしい。結構頻繁に電話をもらっているので、電話代はきっとすごいことになっていたに違いない。一度私が心配して、何らかの提案をしているが、君は一切、心配しなくていい。その気持ちだけを受け取っておくよ。みたいなことを言われ、貧乏学生としては、社会人の心意気に感動してしまっている。一週間しか会わなかった代わりに私たちは、電話で本当によく喋った。でも、私が試験でイライラしてくると、何も話題がない相手にイラついて八つ当たりしているから、ホントに勝手な女である。

 さて、三月半ばになると、妹ユリコとその彼氏(現在の夫)、ぶんちゃんがやって来た。

 彼らは一浪し、今年の大学受験を終えて、初めて二人で姉のところに訪れたのである。どんなに接待に疲れるだろうな…と覚悟していたけれど、実際はそんなこともなかった。海外に慣れない両親と違って、若い二人は飄々としていたし、また幼馴染みのような日本っ子でもなかったため、とても楽だったので驚いた。思うに、この辺りから、二人の海外放浪癖は素質十分だったのかもしれない。彼らはこの後、学生時代に思いっきり、お互いに別々の一人旅で、バックパッカーとして世界中を歩き回ることになる。

 途中、ぶんちゃんの大学合格の知らせが入った。

 お母様より国際電話をいただき、獣医になるための、北海道の大学に受かったと報告があったのである。

 ユリコは残念ながら、二浪が決定した。呆然とする彼女。可哀想に、まだ十九才で、神奈川と北海道とで遠距離恋愛をすることになろうとは、すでに遠距離で破局している姉としては、同情した。

 しかし、最初こそガッカリしていた妹たちであったが、結局、結婚後においても遠距離別居婚をずっと続けていたわけであるから、人生とは面白い。もうすっかり離れていることに慣れてしまったのか、それでも二人は超がつくほどの仲良しを保っている。結婚なんて、決まった形などない。今となっては、そう思う。いや、当時も思ってたかもしれないけど。

 二人はブリュッセルに十日ほど居てパリに移り、友人のエミコに少々お世話になって、無事日本に戻った。楽しいひと時であった。ピアノはその間、ほとんど弾けなかったけれど。

 そして、あっという間に三月も終わり。まずい、四月がやって来る。

 ここから私は、怒涛のレッスンに揉まれる日々を送ることになる。

2017年7月 5日 (水)

百十四 ディプロム取得

 妹たちが帰ってすぐの、三月三十一日。

 ちょっとした予感がして、コンセルヴァトワールのセクレタリーに寄ってみると、その日、プルミエプリのディプロムが出来上がっていた。やっと手にした卒業証書である。嬉しい!日本でこれだけ嬉しかった卒業証書があろうか。ヨーロッパサイズの変わった大きさで、ちょっと横長の、大きめの紙で、学長先生はじめ、先生方のサイン入り。私もサインさせられた。これは、汗と涙の結晶である。ずっと大切にしようと思った。

 今でもこれはピアノの部屋に飾ってあり、生徒たちにたまに「これなに〜」と訊かれるが、私が外国へ行っていたことを知らないチビちゃんもいるので、驚くようである。子どもたちは本当に可愛い。

 それからは、七月あたまの試験に向けて、切磋琢磨の日々だった。

 コンチェルトの合わせが始まり、プーランクも意外と難しいので汗だくになっている。

 それから私はレッスンの日、うっかり楽譜を忘れてユーターンし、もう間に合わないのでタクシーでコンセルヴァトワールまで行ってもらったことがある。運転手の兄ちゃんに訳を話すと、もうノリノリで、トラムも信号も無視して車をぶっ飛ばしてくれた。おかげで間に合ったが、ベルギー人の運転はただでさえ荒いので、かなり青ざめながら乗っていたと思う。

 バーバーのソナタは全体的にいつも褒められており、エチュードは苦労している。日、一日と追い詰められ、早く日本に帰りたいと現実逃避が始まる。

 けれどこの最後の年は、やはりずいぶん曲を仕上げるスピードも、完成度も高くなってきていた。アンリオ先生にも初めて褒められる。バッハのパルティータを弾き終わった時、先生は一言、

「カオル、これはマリアージュ(結婚式)のダンス音楽だ。タリス(ブリュッセルとパリを繋ぐ新幹線)のように、ぶっ飛ぶな。もっと、まわりの風景を見ながら呼吸してみろ。」

 と言われ、ハッとする。

 なんだかわかったような気がして弾き直してみたら、

「beaucoup mieux !(ずいぶん良い)やればできるじゃないか。わかったか!」

 と言われたのである。
 自分の音も、澄んでいたのがわかった。

 聴いていたシホちゃんに、
「いいな、カオルちゃんは、音が綺麗でいいなあ。」
 と言われたのも、嬉しかった。

 私には、何かひとつ、小さな光る星があるんじゃないか、という希望が湧いた出来事であった。

 それに加え、私は師匠のMr.カワソメから、母校のイタリア研修所でのリサイタルについての提案も受けて、はしゃいでいた。発表の場ができるのは、本当に嬉しい。頑張って仕上げよう、という気が湧いてくる。

 四月に入るとエリザベートコンクールも始まり、街は四年に一度のオリンピックのような活気と興奮に包まれていた。日本から、友人のしづちゃんもベルギーに再来して、私たちは久々の再会に喜ぶ。

 そして勇敢なるエリザベート出場者たちの応援に、私たちは熱狂するのである。

2017年7月 6日 (木)

百十五 エリザベートコンクール一次

 ヨーロッパでは本当にあちこちで、国際音楽コンクールが開かれている。

 エリザベート王妃国際音楽コンクールは、その中でも、ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールと並んで、世界三大音楽コンクールの一つとされる、非常に権威のあるコンクールである。私がレッスン帰りに廊下を歩いていると、テレビ局の取材が来ていたりして、なんだか賑やかなことになっていた。ああ本当にこの学校が舞台となるんだな、すごいなあ。なんて感じていた。

 そんな中、忘れてはならないのが、当時のユーゴスラビア問題である。

 ベオグラードにはこの時期、友人のエミコがパリから国際コンクールを受けに行っていたのだが、ちょうどNATOによる空爆が始まる直前であり、彼女は日本大使館から引き上げ命令を受けて、コンクールの途中でパリに戻って来ている。私は彼女を非常に心配していた。新聞の国際欄にはユーゴ問題について書かれていて、毎日のように目を通していた。日本の両親に電話をしても、お見合いの君と話していても、そんなことはどこ吹く風。この緊迫感の違いは何だろう、と感じた。ユーゴの記事、読んでないの?え、読んでない?!なんて、私は飽きれつつ、偉そうに叱り飛ばしたりしていた。

 日本は、遠い。外国の出来事など、海を挟んだ遠い異国の物語である。北海道にいる時でさえ、本州の出来事が遠く感じるから、なおさらであると思う。

 しかしお隣の、大陸続きのベルギーに居る私たちにとっては、いつ隣で空爆が起きてもおかしくないような危機感があった。今でこそ、テロで騒がれていたりするが、欧州ではテロも日常的なものだったため、私は飲みかけの缶ジュースを持っていたためにバスに乗せてもらえなかったりすることが、よくあった。

 ベオグラードでは放送局なども爆破され、罪のない若者たちが、次々に死んでいった。この年、ノストラダムスの予言もあったように、私たちは皆、明日こそついに決定的なことが始まるのではないかと噂をしあっていた。友人のエミコは途中で危機一髪、最後の邦人として帰って来たが、置いてきた異国の友人たちのことを大変心配していた。あの人たちも、無事、空爆が始まる前に逃げられただろうか。そんなことをよく、口にしていた。

 さて、長くなってしまったが、そんな世界情勢の中、エリザベートが開かれたのである。

 私たちは、一次予選に出場する、ミタ君のことを応援しに出かけた。

 コンセルヴァトワールの学生たちは、チケットを買わなくても聴講を許されたので、混んでいない日にはすんなりと入場することができた。素晴らしいシステムである。音楽学生たちは進んで勉強をしに来なさい。というところであろう。学生証を見せればパスなのだが、どさくさに紛れて、よっちゃんも侵入可能なこともけっこうあった。いい加減である。

 そして、いよいよミタ氏の出馬。

 いや〜、勉強になった。今年まで残れて、本当に良かった。とにかく、あの会場の張りつめるような緊張感の中、出場するだけでもう尊敬である。

 前回は四年前だから、ちょうど私がブリュッセルに留学する直前に開かれていて(毎年、ピアノ、声楽、ヴァイオリン、作曲と順に開催されているので、各部門とも、四年ごとにまわってくるのである。)その時は、我らがアキカさんが出場し、一次予選を突破して、セミファイナリストまで残っているので、日本では奈良先生がかなり盛り上がっていたのを覚えている。大変大きなコンクールなので、一次を通過すること自体が難しいのだ。本当に。

 しかし皆、弾く、弾く。同じピアノとは思えないほど、音色も違っていて面白かった。

 私は確か、ウクライナ出身の、クマぞう君が弾いたメフィストワルツが気に入っていたが(勝手に名前をつけた)、ユキたちは、キライ!と言っていたから、音楽とは賛否両論で難しい。コンクールに落ちる人だって、いいところはたくさんあるのだと知った。コンクールとは何だろう、という気持ちになる。

 Mr.ミタは、図体のでかいロシア人たちに比べると、華奢で小柄な日本人というイメージであったけれど、その腕前をガッツリと披露してくれた。一次に通ればいいな。私は、祈るような思いだった。

 翌日には予選通過者の二十四名の発表となり、残念ながら彼はその中には入らなかった。素晴らしい多くの演奏者たちも落とされていた。何が基準になったのか。

 けれど母とはエリザベートの話で盛り上がり、
「良かったわね、聴けて良かったわね。勉強になるでしょう。」
 と、またもや、胸を張って誇らしげに言う母に、私は笑いながら、本当に幸せだと感じていた。

 この後、私は二次予選を聴きに行くのであるが、自分の弾いたことのある舞台で、あのピアノで、このコンクールに聴衆としてでも参加できたことは、四年間残ったうちの意義あることだったと思う。

 話は二次へと続きます。

2017年7月 7日 (金)

百十六 エリザベートコンクール二次を聴いて

 五月十三日、エリザベートコンクール、二次を聴きに行く。

 三時からの部で、私は日本人男性と、イスラエル人男性の演奏をそれぞれ一時間ずつ聴いてきた。アンポゼ(ベルギー人作曲家の曲)二題と、二人ともショパンを当てられていたが、つくづくショパンのフレーズは美しいと感動してしまった。何を今さら、なんだけど。思わず帰ってからバリバリ練習してしまう。

 私は本当に、四年間ヨーロッパで勉強できて、多くのことを学べて幸せだった。自分の中で、音楽とは何か、確固としたものが定着しつつあるのをはっきりと感じていた。

 それから、美しい音色の出し方、フォルテを出す瞬間の力の抜き方など、エリザベートを見ていると、それだけで、自分の技として盗むことができた。

 しかし友人のユキはスランプだったらしく、私に泣いて電話をかけてきている。大丈夫か?と、心配している私。

 これらは全て、日記に書かれていることである。詳しいことまでは忘れたが、日記とは本当に、財産である。その時のことが鮮明に蘇ってきて、ああ、そうだったと懐かしい。最近は昔に比べて、書く内容も年々、日々の忙しさにかまけて雑になり、薄れてきたんだけど、頑張ってちゃんと書くようにしよう。それでも、若さ溢れる感受性には全然負けるんだから。

 本番と言えば、六月に入り、私たちはペライアのコンサートも聴きに行っている。

 私は本当にラッキーガールだったらしく、今回も、私のプログラムであるバッハのパルティータ一番が含まれていて、大喜びで出かけた。

 すごく癖のある演奏だったが、パリッとした弾きっぷりで、私もユキも非常に感動して帰ってきた。バッハは、タメが上手くてとても勉強になった。と書いてある。自分たちも早く、ちゃんとした舞台でコンサートをやってみたい。試験とは違う、自分の個性を発揮できる舞台だ。ユキと私は、そう話しながらお茶をした。

 本番数日前には、友人ヤザワ君のコンサートもあった。我ら学生一同はまた、久々に集会を開いたかのような集結ぶりで、楽しかった。彼の演奏はとても緻密で、頭の良い人だと感じさせられる。その人柄も知っているのでますます好感の持てるものであった。私たちは中華を食べに行き、Mr.ミタに、またもや「カオルちゃんは、付き合ったら怖い女だ」と言われて大笑いをしていた。何故だ。私って、しつこいのか?ミタ氏よ。

 私はこの時期、試験の練習の合間に少しずつ、日本への帰国準備も始めていた。

 時期は十月。試験が終わって、イタリアのコンクールを受けてから帰国する計画を立てた。荷物整理で、持ち物を売り始めたり、エヴァにドレスをあげたりしている。でも一方で、帰国したらもう、コルニル先生たちのレッスンは受けられないんだな、という不安と寂しさも抱いていた。ユキやオリビエはとても寂しがり、心は揺れる。オリビエからは、「もう、カオルの笑い声も、ピアノの音も聞こえなくなるのか。」と言われた。

 こうなってくると、人の気持ちとは、去ろうとしているところに執着するものである。

 私は一時、見合いの君に傾いていた気持ちも、多少冷め始めていた。言ってみれば、日本に対する執着が薄れて行ったのである。

 でも私は迷いながらも不思議と、今年は何故か着々と、帰国の準備を進め始めていた。きっと、その時が来ていたのだ。最後の最後まで、私の気持ちは揺れるが、最終的には迷いはなく、決然と帰国している。きっと、本当に、その時がやって来ていたのだと思う。

 人生とは、不思議なものである。あの二十七才の秋、帰国を決めていなかったら、今の私はいなかったかもしれない。あの秋に帰ってすぐに私は夫と出会い、二年の時を経て再会し、あっという間に状況は変わって結婚することになった。

 生きることに希望は必要だが、目標は無理に決めることはない。だって、そんなものなかなか決められないし、決めたとしても流れなんてすぐ変わっちゃうし。ただただ前を向いて楽しく走ってりゃ、幸運の女神なんていつだって微笑んでくれるものである。私はそう思う。辛い時だって、前を向いた者の勝ちである。けっこう難しい時もあるけど。いつだって、そうやって生きてゆきたい。

 そんな訳で、私は帰国を決めた。もちろん、何度も言うが、気持ちは常に揺れていた。

 そして試験は迫り、目前に控えた時、母からの一通のファックスが届くのである。
 

2017年7月 8日 (土)

百十七 母からの手紙

 本番前のリハーサルが続き、追い詰められモード全開だった時に、母からの一通のファックスが届いた。

 カオルちゃんの、寂しい気持ち、察します。

 ベルギーでの生活に馴れ、たくさんの培った想い出や、又、これで勉強を終えてよいものかどうかと迷いが一気に押し寄せ、悲しくなるのは当然だと思います。

 人生には、どちらにするか選択をしなくてはいけない時が幾度もあり、どちらを選んでもそれなりの苦労も楽しみもありで、先が見えないだけに難しい問題です。

 きっと、コンクールの終了後、カオルなりの心の決着が出来るのではと思いますが、どちらを選んでもカオルは体当たりして、一時的に沈んでも立ち直りが早いからエライ!とお父さんが褒めていました。

 と、ここで日記の文章は終わっているが、私は母からの励ましの手紙に胸が熱くなった。

 やはりこれでもうベルギーを終えよう。先生たちにも、一緒にここまで勉強できて幸せだった、またベルギーに来た時、よろしくお願いしますと伝えよう。と思う私。

 そして気持ちを切り替えて、試験まであと一週間、全力を尽くすことを誓う。

 和声のメルクス先生にも、この秋に帰国するかもしれないと告げる。

 先生はとても悲しいと言ってくれて、この夏はブラジルに行くんだと教えてくれた。

 結局、上級の試験は私は受けなかったような気がする。全然覚えていないんだけど、日記には書いていないので、多分、授業だけを受けていて、まだ自信がなかったのでその年はトライしなかったようだ。先生とはその日が別れの日になるのかもしれないと、胸が一杯になってしまったが、もう一度、帰国する直前にお会いすることができて、今はどうなさっているのかがわからない。お元気でいらっしゃることを祈る。

 試験直前のリハーサルでは、ユキがショスタコーヴィチのコンチェルトの合わせに四苦八苦していた。アシスタントではなく、コルニル先生が直接、オケパートを引き受けていらっしゃったが、とても難しいので、二人してなかなか息が合わず、イライラしながらやっていたのを覚えている。

 私は何とか今年は曲も出来上がっていたのだが、ピアノが思うように鳴らずに困っていた。ちょっとパンチが足りない。つくづく、本番って大変だと痛感である。でも、本番まで腕を痛めないように、カルムに(静かに)練習しておくように、と忠告を受けて帰ってきた。

 最後の試験前。頭の中は、もうピアノ一色である。

 思うに、この四年間で、試験前のさらい方は一番の出来であった。

 そのため幾分、精神的余裕はあったが、前日などもうやっぱり、心ここに在らずとなる。ユキやキボウちゃんからも電話が入り、皆同じ心境だと知る。一日早く試験が終わったトッコちゃんの話によると、何やら今年はえらく長いこと弾かされたらしい。

 明日はどの曲が当たるだろう。コンチェルトは弾かされるとしても、バーバーが当たったらどうしよう。恐ろしい。

 私はかろうじて気分転換に生徒にピアノを教えに行き、「今年の夏はギリシャへクルージングしたい!」といきなり言い出すよっちゃんを尻目に、一人、明日の試験へのプレッシャーに耐えていた。

 そして、私の、ベルギー留学生活最後の試験はやって来るのである。

2017年7月 9日 (日)

百十八 コンセルヴァトワール最後の試験

 一九九九年、七月一日、木曜日。

 私の、留学生活最後の実技試験がやって来た。曲目は当日の午後二時に発表され、よっちゃんの予測通り、プーランクのコンチェルト一楽章と、ベートーヴェン悲愴ソナタの三楽章、バーバーのソナタ三、四楽章に決まった。比較的長いプログラムである。

 バーバーが当たったと聞いた時は卒倒しそうになった。一年目に弾かされたフーガを、またもや三楽章から続けて演奏することになろうとは。よし、望むところだ。自らリサイタル用にと準備したこの曲。弾いてやろうじゃないの。そう思いたいところだが、フーガというのはいつだって暗譜が吹っ飛びそうになり、相当の集中力を要する。私は緊張に冷たくなった手にハンカチを握りしめ、舞台に上がった。

 舞台からお辞儀をしたその時、審査員の中に、一年目にお世話になったマダム・アンシュッツが居て、私をまっすぐに見て微笑んでくれていた。最後のステージであったので、これは嬉しかった。先生に、いい演奏を聴かせたい。私は落ち着いて深呼吸をした。

 まずはプーランクから弾き始める。弾いている間にも、ああ、綺麗な音を出せてるな。テンポもいいな。と感じる余裕があった。アシスタントと一緒に二台ピアノで弾くコンチェルトは、楽しかった。続いてベートーヴェン。細部が転んでしまい悔しかったけれど、音色や、フォルテとピアノの使い分けはうまくいったと思う。

 バーバーは最後に弾き始めた。三楽章はいわゆる緩徐楽章で、ゆったりと重々しい曲想なので問題なかった。私はこれが得意である。さあ、続いて問題のフーガだった。最高の緊張感。間合いを入れて、よし行くぞと呼吸を整えてから入る。これはやっぱり恐ろしかった。旋律の特色までうまく表現することができない。もう、それどころじゃあない、と言った感じ。いやはや、勉強になりました。止まらなくって良かった。セーフセーフ。ヒヤヒヤもんである。おかげで、帰国リサイタルで演奏する時は、一番落ち着いて弾くことができたと思う。

 全体的に、集中力は非常に伸びたと思えた、コンセルヴァトワールでの最後の舞台であった。終わってから、Mr.ミタに「プーランク、良かったよ。」と言ってもらえて、これも嬉しかった。

 弾く直前によっちゃんからも置き手紙をもらった。

 本当に四年間よく頑張りましたね!

 私も三年あまりず〜っとカオルちゃんの演奏を聴いて来たけれど、今年程、曲の仕上がりが安定していて、聴きごたえのあるのは初めて。だから大丈夫、安心して落ち着いて、ちょっとのミスぐらい、出口がわからなくなっても迷わず、堂々と思いっきり弾くことです。試験を思う存分楽しんで来て下さい。

 と、熱いメッセージが書かれてあった。

 これが日記の間からパラリと落ちて来た時は、思わず笑ってしまった。

 時は巡り、こんなに時間が経ってもなお、手紙とは残るものなんだなあ。下手なことは書けん。よっちゃんに伝えたら、今すぐ焼き捨てて!と言われそう。そんなことを思う、今日この頃である。

 そして私はめでたく、満場一致で合格した。我が最後の試験に、悔いなし。本当に、生涯で最後の試験となる演奏だった。長い学生生活だった。

 後で実感することだが、試験と、コンクールと、コンサートの本番はそれぞれ違う。それぞれに違ったプレッシャーがあり、舞台の雰囲気も、全く違うものである。言ってみればコンクールが一番会場の雰囲気が冷たく、コンサートが一番温かい。私はやっぱり、お客さんに喜んでいただけるように作る舞台が一番好きだ。

 さて結果を報告するべく、師匠Mr.カワソメに電話。イタリアのリサイタルの件はうまく話が運んでおらず、まだ決まってもいない状況だそうで、私はブリュッセルでのコンサートに切り替えることにした。結果的には、これも会場が取れずにキャンセルとなってしまうのだが、きっと何かしら、そうである方が良いことになっていたのだろう。

 私は、試験が終わった喜びをかみしめながら、しばらくその自由を満喫し、解放感に浸った後、九月に受ける予定のコンクール準備に取り掛かかることにした。

 その間にも、帰国することについてなお、心は揺れ動くが、その時を十月十七日に決める。そしてよっちゃん自身も八月下旬で仕事を辞めることに決め、共に帰ることとした。

 風来坊がサマになっている彼としては、ベルギーに何の未練もなく、サッパリと手放しで喜んでいたように思う。そして驚くほどドカドカと荷物を捨てて、スーツケース一個にまとめていた。すごい。さすが、卒業した次の日にランドセルを捨てようとした男である。

 反面、自由な割に、その土地に根付きやすい私は、本当にいろいろなことを考えながら、その最後の夏を過ごすことになった。

2017年7月10日 (月)

百十九 ブリュッセル最後の夏

 試験が終わってからの夏は、コンクールのための練習や、イタリアの会場へ行くまでの手配、それからその合間に、帰国するための荷造りをしながら忙しく過ぎて行った。

 会場は何と言っても、いい加減なイタリアだ。ミラノから汽車で乗り継いだ小さな町なので、時刻通りに行かれるかどうか、慎重に検討しなければならなかった。ブリュッセルから事前に調べようと思って駅に行って尋ねても、ここじゃあ時刻表はわからないと言われ、他の窓口へ行ってみたらアッサリ調べられたりと、非常にいい加減である。海外では、一度ダメと言われても必ず食い下がってみることだ。聞き分けのいい日本人はだいたい諦めてしまうが、そんなことをやっていたらあちらでは暮らせない。なんなら、母国語でケンカを売ってもいい。昨日と今日とで言っていることも違ったりするので、要注意である。

 七月は平和に何事もなく過ぎた。ノストラダムスの大予言に、七の月に世界が滅亡するなんて書いてあったから小さい頃からビクビクしてたけど、な〜んもなかった。私たちは最後に、ブリュッセルの王宮で行われたパレードを見たり、宮殿の中に入れてもらったりした。もっと質素なのかと思いきや、さすがは王宮。シャンデリアの舞踏会用大広間などは見事で、素晴らしく美しかった。

 八月になると、よっちゃんの友人である、お菓子づくりの職人さんが開いたホームパーティーに招待される。よっちゃんは顔が広かった。そして友人のリサさんたちも一緒だった。素敵なアパルトマンの八階で、風通しも見晴らしも抜群な豪邸。いい夜だった。絶対住むぞ、こんな家!と、日記には書いてある。

 それから忘れてはならない、二十世紀最後の皆既日食もあった。

 八月十一日正午、もともと暗いブリュッセルが、真っ暗になった。パリのエミコが興奮して電話をかけてくる。これは、三時間くらい続いた日食で、皆既最大時間は、ルーマニアの二分二十三秒であった。ユキはちょうどイスラエルへ行っていたと思う。

 日食は、カナダの東の海で、日の出と共に始まり、インドを通過して、日没と共にベンガル湾で終わった。大昔の人が見たらきっと、何かのたたりだと思うに違いない。ふと、ノストラダムスの予言ってコレだったんじゃないの?と思った私。非常に感動して日本に電話をしたのだが、母に三分で切られたと、怒っている。本当に美しい日食だった。そして八月も半ばを過ぎると、短い夏も終わり、私の荷造りも終わっている。

 日通の船便は日本到着まで二ヶ月ほどかかるので、私はもう必要のなさそうなものは全て送ってしまうことにした。部屋はすっかりガランと寂しくなった。全てが終わりの儀式へと向かってゆく。学校にも届けを出し、コルニル先生にも最後のレッスンを受けてきている。よっちゃんは仕事納めで、送別会を開いてもらった。ちょうど、リサさんたちも一緒のお別れ会となったので、賑やかな会となった。

 私は帰国後のリサイタルも、二〇〇〇年の春と決め、ブリュッセルを去る寂しさの中にも、未来へと向かって動き出していた。

 そうだ。自分は今、四年間の下積みの勉強を終えて、自由の中に飛び出さねばならないのだ。コンクールに向けて、自信を持つのだ。

 七、八月のブリュッセル最後の夏は、あっという間に過ぎた。

 そして九月。ヴィオッティ、バルセシア国際コンクールの日は近づいて来るのである。
 

2017年7月11日 (火)

百二十 イタリアへ

 イタリア入りの前夜。私はオリビエ一家を招いて、リハーサルかねて、部屋でミニコンサートを開いた。

 一次予選の、ラフマニノフのエチュードと、スクリャービンの小品、二次予選のモーツァルトのソナタだけをとりあえず聴いてもらう。間に、みんなで軽くお茶をして、たくさんお喋りをして、とても楽しかった。その時、エヴァが日本に来たがっていることを知る。私は歓迎し、コンクールが終わったらみんなで食事をしようと話した。いい夕べであった。

 九月七日、八時起床。フランス語教室へ行くよっちゃんに、行ってきますと告げて、いざ、イタリアバルセシアへ出発した。

 飛行機はvirgin。意外にも定刻通りに飛び、到着時刻ジャストにミラノに着いたので驚いた。しかも、その次の乗り継ぎも良く、十四時二十分発の電車に飛び乗る。次の乗り換えにも、五分の待ち時間でスムーズに済んだ。VARALLO行きは汽車で、ポーッと言いながら黒いススが入ってくる。ローカルな路線である。イタリアはいいなあ。なんて呑気に思っていたのも束の間、VARALLOに着いてからは、物珍しそうな、まるで異星人でも見るかのような人々の目に驚いた。ここには外国人などめったにこないらしく、小さな町の善良な市民は、イタリア語以外は絶対に喋らないと決め込んだかのようであった。

 私の泊まったホテルはとても良いところで、フランス語も通じるマダムも居て、快適であった。バルセシアはとてもいい天気である。山あいなので朝晩は冷えるが、日中は日差しが強く、とても暑い。歩いて会場まで行ってみたが、けっこう遠かった。置いてあったピアノはカワイで、一人十分間、交代で触らせてもらう。とても良く響くピアノで、皆、とびきりのテクニックでガンガンに弾きまくっていたが、私は音が綺麗に響けばいいな、と思う。うまく弾けますように。

 練習は二時間半、飛び飛びに、学校の校舎のようなところで、アップライトの、えらく響く教室で行われたので、隣の音と混じってすごいことになった。

 私はロシア人の、二十五才のアリッサという女の子と友達になった。とても可愛い、性格のいい子で、私たちは英語で何とか会話しながら、食事をした。彼女は初めてのコンクールだと言って、緊張していた。偶然、私の日本の大学で非常勤講師をやっているというマツオカさんとも出会い、ポーランド人の男の子とも知り合い、一緒に行動することになる。こういうところに来ると、友達がたくさんできて楽しい。

 そして、明日はいよいよコンクール一次予選の本番となる。

 どうか、悔いのない演奏ができますように。私は祈りながら、眠りに落ちた。

2017年7月12日 (水)

百二十一 コンクール本番

 コンクール、一次当日。ありえないことが起きた。

 七時半に部屋のドアをノックされる音で目が覚める。ビックリして飛び起きると、七時にかけたはずの目覚ましが止まっていた。明け方とても寒くて目が覚め、セーターを着たり服をかけたりでブルブル震え、具合が悪かったせいもあり、体調は最悪だった。

 五分で用意をして、ホテルのマダムの車に乗せて行ってもらったのだが、(よりによって、こんな遠いホテルに朝イチ出場者が四人も泊まったのだ。)私は練習室でずっと貧血気味で、力も出ず、もう本番にかけるしかないと思っていた。

 私の出番は十時。マツオカさんの、ショパンバルカローレの次だった。休憩を挟むはずだったのに、時間が押していたのでなくなり、すぐに舞台へと上がった。

 朝から調子がこんなだったので、あまり良い出来にはならないと思っていたのだが、信じられないことに私は三曲共、変なミスもなく、まともに弾くことができた。本番の、ど根性である。ここまで完璧に弾けたのは久しぶりだった。コンセルヴァトワールの試験では、曲が多くて集中力も分散していたのかもしれないな、と発見する。会場の雰囲気も、午前中ということもあって、穏やかな感じでとても弾きやすかった。アリッサが聴きに来てくれているのが見えた。嬉しかった。

 ただ、反省点としては、テクニックを見せる部分でいまいち精神力が弱くなってしまったこと、フォルテッシモの時に力が後ろに引けてしまったこと、などが挙げられる。緊張するとどうしてもそうなる。今度からはもっとゆっくり練習しておこう。もっともっと、細部に渡って気を使っておかなければならない。いろいろなことがまた、勉強になった本番であった。

 嬉しい発見だったのは、「本番はみんな同じ気持ちなんだ。」ということである。

 いくらバリバリに弾ける人だって、ステージに上がる前は緊張するのである。皆、真剣勝負で、「本番、どうなってしまうんだろう」という不安は一緒なのだ。あんなに弾ける人が、舞台裏では真っ青な顔をしていたりする。私も昨夜は、「もう絶対ピアノなんて、コンクールなんて嫌だ」と思って気絶しそうだったけれど、弾き終わってみると、またやってみたい!と思っている自分がいる。

 とにかく、今回のコンクールは私にとってとてもいい経験になった。帰国前にトライしてみて、本当に良かった。いや、まだ一次が終わっただけなんだけど、その時の私は心からそう思った。その後、日本へ帰国した後も、何度かコンクールは受けているが、コンクールというのはハッキリ言って、「自分との闘い」のみである。受かれば嬉しいが、落ちても誰も文句を言わない。ところが演奏会というものはそうではない。お客さんを呼ぶ以上、楽しんでいただかなくてはいけない、プロ根性というものが必要とされる。舞台とは、楽しいけれど、いつどんなものでも手を抜いてはならない、良い意味での緊張感を必要とされる、難しいものなのだ。

 終わった次の日、私たちは、審査員たちが入っていったピッツェリアの店を狙って、昼食をとった。そこはとっても美味しくてホッとした。何しろ我々は前日、安いピッツェリアで、まさかの冷凍パスタ機内食バージョンのようなものを食べさせられていたからである。美味しいお店でいただいたのは、サーモンの自家製タグリアテールだったが、さすがはイタリア、麺がハンパなく美味い。大満足のランチであった。

 午後は二次予選の曲の練習にあたる。二次には確か、バーバーとモーツァルトのソナタ、そしてコンチェルトを用意していた。二次はもう弾きたくない気持ちと、落ちたら悔しい気持ちとが半々である。とりあえずその日は、何のストレスもない中での練習なので、気分は良かった。他の出場者の演奏も聴きに行き、良いひとときを過ごす。皆、はぎれのよい、面白い演奏だったが、柔らかい音色の人が少なく、もっと綺麗な音を聴いてみたかった。まあ、あまり良いピアノではなかったのだけれど。

 私の演奏は、どうだったのだろう。アリッサが褒めてくれていたけれど、自分の耳は遠くには行かれないから、わからない。考えても仕方ないので、その日はぐっすり眠ることにした。

 ともかく、明日は合格発表の日であった。

2017年7月13日 (木)

百二十二 落選

 バルセシア国際コンクール、一次予選の発表日。

 結果は、落選であった。私は予選を通過することはできなかった。ガッカリである。私の前に弾いたマツオカさんも、ブリュッセルから偶然一緒に受けることになった友人も、共に落ちた。アリッサはこれからだったので、どうだったかはわからない。審査員のロシア人女性に評価を尋ねると、「シンプル過ぎた」との答えが返ってきた。

 スクリャービンは、縦割り過ぎたので、もっと流れるように弾いて欲しい。貴女の音は一種類のフォルテとピアノしかないから、もっと増やすべきだ。とのことだった。そして、あなた、テクニックは問題ないのだから、音をもっと太らせなさい。と助言してもらった。

 私はびっくりした。テクニックは問題ない?今までの四年間、自分はテクニックがないと思い込み、そればかりに追われていた。音色のことより先に、もっとやるべきことがあると思っていたのだ。これは、けっこうショックというか、新しい発見であった。そうか、音色か。太い音か。難しい。私は当時、四十キロもあったのかというくらいに痩せていたし、まずはとりあえず、太らなければならない。これは難題であった。まあ、それよりももっと他に音色を増やす手だてはあったとは思うし 、音に対するイメージをもっと膨らませたら、音色の広がりが出てくるのだけれど、その時の私にはよくわからない。でも音の太さと言えば、十キロ以上太った今となっては、それだけで昔に比べたら全く容易くドカンと出るようになったのを感じるので、当時の私には、早いとこ出産して体型を変えろと言ってやりたい。

 とにかく、考えさせられることが多くて呆然としている私のところへ、日本人の有名どころの審査員もやって来て、アナタ、今度よかったらレッスンにいらっしゃいな、と言って、名刺をいただいた。自慢話が多く、私には好きになれないタイプの方だったが、気持ちはぐらついたのを覚えている。

 そして結果的に、予選通過者はもれなく、コンクール用の講習を受けに来た者か、審査員の弟子が多く含まれていたことを知る。おお、Mr.カワソメが言っていた、ウワサの「イタリア、コンクールマフィア伝説」という、あれか。初めて自分の目で、裏の世界を見たような思いだったが、まあいい。私は結局、至らなかったのだ。救いだったのは、あのアリッサがホテルまでわざわざ会いに来てくれて、「カオルの演奏はとてもドルチェで(甘くて)良かった。きっと他のコンクールへ行けば、いつか通るよ。」と真顔で言ってくれたことであった。これは嬉しかった。何よりも、彼女の心づかいが嬉しかった。優しい人である。そして、連絡先を交換し、私たちは握手をして別れた。

 私の気持ちは、ブリュッセルへと飛んでいた。早く、一刻も早く帰りたい。

 ほんとは、まだ先の二次を聴いて帰った方が良かったのだろうが、私は今すぐこの場所を立ち去りたかった。

 次の日の朝、virginのオフィスに電話をすると、ラッキーなことに今日の便に変更できると言う。ポーランド人の男の子、ピーターに荷物を部屋から降ろしてもらい、住所交換をして、大急ぎで、朝食も食べずにマダムに駅まで送ってもらった。

 飛行機は順調に飛び、ブリュッセルに着いた時は思わず感極まって涙ぐんでしまった。不思議なことに、コンクールの間じゅう、帰りたいと思っていた場所は、日本ではなく、ベルギーであった。フランス語が喋りたい!あの半地下の部屋へ戻りたい!完全にホームシックである。

 よっちゃんは、空港まで迎えに来てくれていて、嬉しかった。もう、べらべらべらべら、溜まっていたストレスを吐き出し、エヴァとセルジュに会い、庭でウサギを見ながら話し…。あとは、疲れていつの間にか眠ってしまった。

 よっちゃんから、留守中に、東北の彼から電話があったよ、と聞いたことだけが、驚きであった。そういえば、コンクールを受ける前、私は一瞬魔が差して、彼の実家に電話を入れておいたのだった。

 そして私と彼は帰国を目前にして、一年ぶりほどに話をすることになる。

2017年7月14日 (金)

百二十三 彼からの電話、そしてオリビエたち

 ブリュッセルに戻って来た次の日の朝は、実家にファックスを入れ、みんなに残念だったなあと言ってもらえる。でも私は、やることが多すぎて落ち込んでいるヒマもなかった。

 バタバタとやるべきことを片付けていると、電話が鳴った。驚いたことに、東北の彼が、一度よっちゃんが出たのにもかかわらず、もう一度私に電話をくれたのである。

 私たちは、一時間ほど話をした。こんなにゆっくり話すのは久しぶりだった。はじめはよっちゃんがそばにいた、ということもあり、お互いに多少ギクシャクしたが、そのうちに打ち解けて、色々なことを喋った。これは、本当に嬉しかった。彼の方も、「カオルとこうしてまた、こんな風に話すことができて幸せだと思う。」と言っていた。今までのことが全て、水に流れて行くような気がした。

 多分、私の気持ちは帰国に向かっていて、目先のコンクールも終え、やるべきことをやった後だったから、自分の気持ちもスッキリと整頓されていて、彼とも素直な気持ちで向かい合えたのかもしれない。恋愛は幾度となく、してきたけれど、彼がまさに付き合っている最中に私に向かって言った、「ボクはカオルにとって、別れてもずっと心に残るような存在でいられたら幸せだと思う。」というセリフが、結局その通りとなってしまった。彼ほど、いつも何かしら気にかかり、そういえば今ヤツはどうしているのだ、と思わせられる相手はいないかもしれない。まんまと思惑通りとなったのが、多少、負けた感があって悔しいが、まあいい。それだけ魅力的な人物と出会えた私は、幸せである。

 電話を切ってからも、よっちゃんは怒っていなかった。そして、私は二階にいるオリビエたちと、今度開くパーティーの打ち合わせをした。九月二十五日にしようということになる。

 それからは、生徒たちの引き継ぎ、いろいろな手続きと解約、やるべきことは山のように積み重なっていて、それらを一つずつ順番に片付けていった。四年も暮らすと、意外と最後は大変である。住んでいた半地下の部屋には、新しい音楽家が何人も見に来たが、結局、誰も入らないまま、私は帰国することになった。代々、演奏家たちが住んでいた一室だったけれど、私の四年間が一番長く、そして一番最後となり、一番仲良しになれたとオリビエは言っている。何年か後に、久しぶりに訪れた時は、シメヌ(エヴァの異父姉)が住んでいた。そして現在はきっともう、あのアパートには誰か全く別の家族が住んでいるのだろう。オリビエとベンチュラは離婚をしたはずだから。でも、きっとまだ仲良しのはずだ。そろそろもう一度、ヨーロッパに遊びに行ってみたい。今度は娘を連れて。

 約束の日となり、私たちは、オリビエ一家と最後のパーティーをした。私とよっちゃんがおもてなしをする、日本食パーティーである。半地下だと狭いので、上のリビングで、巻き寿司やら、いなり、焼き鳥、お好み焼き、お味噌汁、抹茶アイスと、純和食オンパレードであったが、皆、まあよく食べてくれた。特に焼き鳥とお好み焼きはヒットであった。

 エヴァとセルジュがいつか日本に来る約束や、メールアドレスをもらったり、私たちは最後の楽しい時を過ごした。そして同時に、何故ベルギーを離れることになるのか、寂しくてたまらなくなってしまった。この時はさすがのよっちゃんも寂しがっていたように思う。四年間の、彼に至っては五年間の、ブリュッセルでの生活は、長かった。

 そして私は、たくさんの友達や、先生方との、最後の挨拶をすることになるのである。

2017年7月15日 (土)

百二十四 アンリオ先生の贈る言葉

 九月下旬になって、私はアンリオ先生にご挨拶するために、パリに向かった。

 友人エミコは快く泊めてくれて、私たちは二ヶ月ぶりの再会を祝った。行くたびに閉まっていて、なかなか見られなかったオペラ座、ガルニエもこの日は開いていて、憧れのシャガールの天井を見ることができて、感激であった。

 アンリオ先生の御宅には、翌日の朝に出て、郊外のサンラザールにはお昼前に着いた。先生とは、一時間くらいお話ができた。色々なことを話せて、本当に嬉しかった。一番嬉しかったのは、先生からの「贈る言葉」として、

「日本に帰ったら、カオルのことを良く知っているアキカや、コースケ(奈良先生のこと)に習え。他の先生には変えるでないぞ。」

 と言ってもらったことである。

 実は、あのコンクール以来、会場で審査員の言った言葉が離れず、私は少々悩んでいたのだ。私のところへいらっしゃい。きっと、もっと良くなるはずよ。そう言っていた、あの冷たく傲慢そうな先生の一言。私は、このままではダメなのかと思っていた。でも、アンリオ先生はそんな私の気持ちを見透かして、はっきり助言をしてくれた。お前は、このままでいい。まわりにはとても良いピアニストが、コンセイユ(アドバイス)してくれる先輩が、いるじゃないか。と言われたようで、ホッとした。

 嬉しくて、帰ってからエミコにそれを伝えると、心から喜んでくれた。でもそれが、アンリオ先生からの最後の言葉となってしまった。本当に、お会いしに行って良かった。先生は私が帰国してしばらくすると亡くなり、もう二度と彼女の言葉を聞くことはできなくなってしまったからである。

 私はこの後、いろんな友達に送別会を開いてもらったり、先生方にも挨拶をしたりと、忙しい日々を送ることになるが、その前に生徒たちの発表会を開いた。大きな教会で、合同発表会を行ったので、人数は多く、華やかな会となった。私は帰国後、生徒の何人かを友人のミタ氏に引き継いでもらったので、彼はこの会に顔を出してくれて、生徒の親御さんたちにきちんと挨拶をすることができた。ありがとう、ミタ君。彼は生徒たちからも大人気であったため、私から引き継ぎの話が出た時は、皆喜んでくれた。

 そしてその翌々日。私とよっちゃんは、ヨーロッパ生活最後の思い出作りとして、彼念願の、ギリシャサントリーニ島の旅へと出かけることになるのである。

2017年7月16日 (日)

百二十五 サントリーニへ

 九月二十八日、四時半起床。いざ、ギリシャ、サントリーニ島へ!

 飛行機は少々の遅れがあったものの、無事に飛んだ。

 ミコノス島に寄ってからのサントリーニ到着であったが、島の滑走路というのは恐ろしく短くて、ギュイーン!と無理やりブレーキをかけて止まる感じであったから、ものすごくビックリした。機長の腕はすごい。

 サントリーニは素晴らしく良いところだった。日差しは強いが、二十五度〜三十度くらい。カラッとしていて、心地よい。何しろ私たちの宿泊先は、プール付きの、海の見えるホテルだ。素敵すぎて大喜びをし、早速プールでひと泳ぎして、昼寝をする。こんなのって、映画みたいだ。いいなあ、ヨーロッパ。

 私とよっちゃんは、何度も言うけど旅のペースがぴったりだったので、楽ちんそのものであった。彼は私よりも食事の時間が長く、ありえないほどゆっくり時間をかけて食べる。それから、虚弱ッキーな私を常に気遣ってくれて、ちょっとでも私が自分のキャパを超えて動こうとすると逆にセーブされるので、体調を崩すことはなかった。今日はあっちまで行っちゃおうよ!と提案しても、それは、悪いこと言わないからやめとけ。みたいに、私の身体のことはよくわかってくれていた。そして、彼の言う通りに動くと、あ〜ほんとだ、やめておいて正解だったわ。ということがよくあった。

 ギリシャの島の、さんさんと降り注ぐ太陽の下にいると、不思議なことに、不安なことも、嫌なことも、なあんにも頭には浮かばなくなった。旅って本当にいい現実逃避、ストレス解消である。

 ギリシャは食べ物がまずい、と聞いていたのだが、心配するほどではなく、ホテルの夕飯も、出先で食べるものも全部、とっても美味しかった。これは多分、私たちが日本から来たのではなく、ベルギーから来たということがあると思う。ちょっとクセのあるものが多かったし、日本人の口には合わない料理もあったかもしれない。でも私たちにとっては、鶏肉のグリルや、豚肉、それにど〜んと乗ったじゃがいも、タラマやイカの詰め物、ズッキーニのぶつ切り、ムサカ、サジキ、ギリシャ風サラダなどなど、美味しいものばかりで、たらふく食べて大満足であった。

 私たちはチャカチャカと移動をする旅が好きではないので、一週間くらいをずっと、サントリーニでのんびりと過ごした。もちろん、その間いろいろなところへ行き、フィラの町で遺跡を見たり、ちょっと遠出をしてビーチに出たり、イアの町でアーティストたちの作品を見たりした。

 思い出深いのは、いきなりの思いつきで、バルカーノ火山口へ出かけた時のことである。私たちはよく、フラッと思いついて行動に出ることがあったが、この選択は大正解となり、彼は忘れちゃったかもしれないけれど、私は今でもとてもよく覚えている。

 暑さにヘトヘトになりながら歩いたが、二時の船でバルカーノへ出発し、海風を受けながら、真っ青なエーゲ海の魚たちを見下ろしていた。

 三十分くらいで到着したバルカーノは、いかにも溶岩が流れ出た感じの、ごつい岩ばかりの島。そこまで船は着けられないから、泳げる者は泳いで行け〜、と言われ、若者は皆、船からボンボンと飛び込み、硫黄の温泉が湧き出ている場所まで二百メートルくらいを泳いで渡った。当然、よっちゃんもさっそうと泳いで行った。残るのは、私のように泳ぎの自信のない者と、水着を忘れちゃった者と、お年寄りである。羨ましい。カオルちゃんは、無理だよ〜〜!と海から叫びながら泳いで行った彼が忘れられない。

 しかしさすがにヨーロッパである。日本だったらこんな自由なことは、やらせるはずがない。しかも見張り一人いなくて、船員たちはその間、雑談しながら知らんぷりであった。誰か沈んじゃったらどうするんだろう。

 それは、火山口でも同じことが言えた。ロープだって張っていないし、道だってほとんど整備されておらず、そのままだ。暑さと険しさの中、頂上までヒーヒー言いながらたどり着いたが、大きな火口からは硫黄の煙がもくもくと出ていて、足元の砂は熱かった。けっこう疲れたが、サントリーニを一望する景色は素晴らしかった。風が心地よい。私にも泳げる場所があって、初めてエーゲ海に入ったが、エメラルドグリーンの水は少し重たかったのを覚えている。

 フィラの町へ戻ると、今度は階段をロバで上がった。おじさんが後ろから、ギャロップギャロップ!と叫ぶと、ロバは飛び跳ねて走ろうとする。私が振り落とされそうになるのを、おじさんはゲラゲラと笑いながら見ていた。

 本当に楽しい、ヨーロッパ生活最後の旅行であった。疲れたらのんびりと、ホテルのプールで泳ぎながら、持ってきた本を読んだり、昼寝をしたり。

 ロマンチックな夜のプールサイドのバーで、夜風を浴びながら飲むウゾー。ほのかにライトアップされた、レストラン。ウエイターたちには、「ヴァカンスか?それともハネムーンか?」と訊かれ、カップルで来ているのにもかかわらず、私が一人になると、常にウインクをしてみせた。

 最後の日、サントリーニの空港にはベルギー人ツアー客たちがひしめいていて、これがあの、陰気なベルギー人たちか?というくらい、陽気な雰囲気であったが、青天のギリシャから、雲の中を抜け、どんよりとしたベルギーに戻って来たとたん、皆、元の暗い顔に戻っていたから、不思議である。

 到着したら、ベルギーは十一度。ど〜んより。飼っているウサギに赤ちゃんが生まれた!と言って、はしゃぐエヴァに迎えられた。

 そして、私は日記に書いている。
「もういいや!ベルギー!」
 と。

 青天のギリシャへ旅して、私たちは四年間のベルギーでの想い出を、すっかりその地に置いて来られたのかもしれない。

 時は、一九九九年、十月五日。帰国する日まで、あと十二日となる。

2017年7月17日 (月)

百二十六 帰り支度

 ギリシャの陽気な太陽の下で、すっかりブリュッセルへの未練を断ち切れた私は、着々と帰り支度を始めていた。母からの電話でも、最後の最後まで、コンセルヴァトワールを中退することについて気にかけてもらったが、そんなことはもう念頭にはなかった。

 いいのだ。私は日本で頑張るのだ。なんだか、試験曲ばかりに追われる生活にも、疲れてしまった。この先もう二年、暗いブリュッセルで踏ん張って持ち曲を増やすよりも、新しいことにチャレンジしてみたい。リサイタルもやりたいし、もっと色々なコンクールにも出てみたい。私はそんな風に思っていた。

 帰って来ると、生徒の親御さんたちや、ユキたち友人一同から、送別会を開いてもらった。生徒たちとは、アンティーク調の、お洒落で美味しいイタリアンへ。ユキたちとは、仲間内でよく行ったカフェで、Mr.ミタ、ヤザワ選手、さとこっち、シホちゃん、キョーコちゃん、トッコとその彼、アキエちゃん、リョーコちゃんら、たくさんの友人たちが集まってくれる。来られなかったキボウちゃんとは後日、個人的にお別れ会を開いた。ユキとトッコは出発の日、見送りに来てくれると言ってくれて、嬉しかった。この時にもらった、クリスマスの可愛い飾りを今でも大切にしている。大事な想い出である。

 オリビエたちと最後にボーリングに行ったりもした。エヴァとよっちゃんは相変わらず、道を歩く時も腕を組んだりして、仲良しであった。彼らと離れるのは寂しい。電話会社のベルガコムと、私は最後まで反りが合わなくて、間違って三日前に電話を切られてしまったので、オリビエに電話を借り、国際電話でいろいろなやりとりもさせてもらった。エヴァには私の持ち物をたくさんあげたが、お礼にと言って、彼女は花束をプレゼントしてくれた。まだ十歳にもならない子どもが、何という大人っぽいことをするのだろう。私はきっと、彼女のママのベンチュラが気を利かせたのだろうと思って、「ママにもありがとうと言ってね。」と言ったら、「c'est pas Ventura, c'est moi !!(ベンチュラじゃないわ、私からよ!)」と言い返されて、びっくりしたと同時に、感動したものである。

 フランス語を教わっていたバージバン先生には、最後のレッスンにて、今度ベルギーに来る時はうちに泊まりなさい、と言っていただいた。何年か経って私は、夫と一緒に先生のところへ訪れている。そして先生は、フランス語でさようなら、「au revoir(オールボワール)」とは、再び会いましょう、と言う意味でしょう。と言って、ウインクしてくれた。嬉しかった。私たちは笑って、再会を楽しみにお別れをした。

 和声のメルクス先生にも挨拶しに行った。他の学生もちょうどいない時で、ゆっくりお話しできて良かった。住所交換をし、「東京に行くことがあったら電話をするぞ。アキカによろしく。」と言われる。それ以来、先生がどうしていらっしゃるかがわからなくて気になっている。今もなお、現役で、パリのマレ地区あたりをブラブラしていらっしゃるのだろうか。大好きな優しい先生であった。ぜひ一度、お会いしたいなと思っている。

 アシスタントと、コルニル先生には、その翌々日にご挨拶に行った。またベルギーに来たらレッスンをお願いします。と言ったら、もちろんだとおっしゃって下さり、色々な話をする。コルニル先生は私が勉強を続けたい気持ちをわかってくれていて、日本でもプロフェッサーがいるのか、尋ねてくれた。先生のところへは、帰国後も実はこれまた、夫を連れて一緒にレッスンに伺っている。いつも優しく、時には厳しく、帰国後も、リサイタルやコンクールなどのプログラム相談に乗っていただき、温かく親切な方だった。この先生がいらっしゃらなかったら、私の楽曲に対する分析力はつかず、感性のみに頼っていたかもしれない。毎回、ダメ出しされて厳しいレッスンだったけれど、本当にためになったと思う。merci beaucoup.ありがとうございました。

 そして借りていた半地下のピアノは、出発二日前に旅立って行った。

 ピアノを出すには大きなトラックが家の前に停められなければならないので、私はコミューン(役所)か警察かで手続きを取り、お金を払って、一日中、うちの目の前に看板を立ててもらい、他の車が停めてはいけないようにしなければならなかった。ヨーロッパでは道路に縦列駐車するシステムになっているのだが、これがベルギー人たちの守らないこと、守らないこと。ひどかった。仕方がないので、私たちは外に出て、追い払い作業をしなければならなかった。停めちゃダメだと言っても、彼らは平気で「2 minutes !(二分だけ!)」とか言って、いなくなる。で、実際、二分どころかずうっと戻って来ない。中には、「一体何に使うのよ?」と逆ギレする奴もいた。信じられませんね全く。そしてついに私は、一台の黄色い車をレッカー移動した。可哀想だったが、仕方ない。三時間も堂々と停める方が悪いのだ。

 四年間お世話になったピアノは、やっと夕方になって業者がやって来て、トラックに積み込まれ、ドナドナとなった。荷馬車が揺れる〜。の、アレである。ちょっぴり寂しかった。ピアノがなくなって一番びっくりしたのは、猫のプーすけであった。ピアノの上で寝るのが好きだった彼は、しばらく戸棚の中でいじけていた。

 そして、出発前夜。

 片付けがひと段落して、少し一休みした後、私はオリビエ一家とお別れをした。

 セルジュとベンチュラの二人は、明日の朝、出かけてしまって挨拶ができないからである。

 オリビエは、明日の朝食を一緒にとろう、と言ってくれて、エヴァときたら、まだ明日があるというのに、早まって涙目になり、「カオル、さよなら。」と言って、皆に大笑いされていた。でも、私も涙が出そうになってしまった。

 カオルは、何で帰っちゃうんだー!と言うエヴァ。本当だね、私はどうして帰ってしまうんだろう。寂しいよ。よっちゃんとも、しばらくは別々の家で暮らすことになる。日本に帰ったら、私たちはどうなるんだろう。そんなことは、誰にもわからなかった。知っていたのは、その時空の上から見ていた私の娘、なっちんのみである。

 明日は、四年間住んだベルギーのこの部屋とも、いよいよお別れの日。想い出の詰まった半地下の、薄暗い部屋のベッドに横たわりながら、私は静かに目を閉じた。

2017年7月18日 (火)

百二十七 帰国

 一九九九年、十月十七日、日曜日。

 出発の日は珍しく晴れて、そしてとても寒い日となった。

 朝九時半に、私たちはオリビエとエヴァと、それにエヴァの友達のアリアンとで、朝食を共にする。みんなで一曲ずつ、クラビノーバを弾きあったりして、賑やかに過ごした。それから半地下に戻って、最終準備を始める。エヴァもうさぎを連れて遊びに来たりした。

 猫のプーは、異変を感じて縮こまっていた。当時は飛行機に乗せるのに、猫の検疫はなかったので、問題は、長時間の移動にプーが参ってしまわないかということと、彼の体重がオーバーなことだけだった。病院からは睡眠薬のようなものをもらっていたのだが、それを飲ませるかどうかはとても迷った。お昼近くになって、私たちはようやく決断し、一粒口にポンと放り込む。プーはむしゃむしゃと飲み込んでしまい、あっけなくすぐにトロンとし始めた。

 十二時前に、家を出発。オリビエたちと空港へ向かった。最後にドアを閉める時、胸の奥がキュッと痛くなった。エヴァは進んで、プーの入ったカゴを膝に抱え、オリビエは「サヨナラ、ベルジック!(ベルギーのこと)」と言った。

 二十分ほどで空港には着き、エヴァたちとは駐車場でお別れだった。

 私たちは、抱き合ってさよならを言った。私は急に涙が止まらなくなった。さよなら、大好きだった人たち。エヴァも一生懸命、涙をこらえていた。日本に帰ったらもう、毎日一緒に暮らしていたこの人たちとは、長い間、会えなくなる。私はとても悲しかった。想い出が一杯詰まった、四年間のヨーロッパ生活は、おしまいになったのだ。どうして信じられるだろう。と同時に、私は、最後に心に残るのは、ベルギーでの勉強のことではなく、人との繋がりであることを知った。お世話になったコルニル先生たちや、一緒に暮らしていたエヴァたち。愛情。それは、私にとってかけがえのない、大切なものだったのだ。

 いつまでも泣いているわけにはいかないので、私たちはもう一度ハグをして、別れた。そして空港へ着くと、急にプーが正気を失い、半狂乱状態に陥った。私もよっちゃんも、一気に「お別れ」ムードを失い、プーに薬を飲ませたことを後悔する。しかしそれは後からわかったことだが、一時的な発作だったらしく、それからしばらくしてプーはとても静かになった。動物にとっても長距離の移動は大変なストレスである。私たちは心配でたまらなくなり、せっかく、ユキとトッコが見送りに来てくれたのに、ほとんど時間がなく、お茶もできずにゲートでバタバタとお別れ、となってしまった。

 引き上げ時の荷物は、ハンパなかった。その上、デブ猫のプーがいるときている。プーの機内料金は、その体重によって加算されることになっていたので、一体いくら取られるかとハラハラしていたのだが、たまたま係の兄ちゃんが気のいい奴で、カゴごと乗せられた体重計は明らかに八キロ近く指していたのだが、なんと「四キロ」にしてくれた。仰天である。そして私たちは、満席のルフトハンザに乗り込んだ。

 ほとんど定刻通りで飛んだが、フランクフルトに着いてから、またえらいことに、私のバッゲージが外に出るはめになってしまい、乗り継ぎが一時間しかないのに、もう一度、荷物チェックを通らなければならなくなった。ドイツの女の係員は不親切だし、行列の中国人は嫌な奴だったし、もう散々だった。何とか成田行きのチェックインの最終時刻に間に合い、汗だくになりながら、またもや満席の中に乗り込み、ホッと一息。

 その頃にはプーも落ち着いていて、「プー」と呼ぶと、か細い声で、ニャ〜、と鳴いていた。どうやら、薬が効いて、朦朧としているらしい。隣の兄さんがいい人で、プーをこっそり膝抱っこできたりして、本当に助かった。プーは水も飲まず、おしっこもせず、十二時間をひたすら耐えていた。成田到着二時間前くらいでようやく彼は正気に戻り、名前を呼ぶと元気に返事をするようになっていた。

 そんな具合で、私たちはフライト中、猫のことばかり気がかりで、気疲れグッタリであった。とてもじゃないけど、あれこれ想いを巡らせているヒマなどなかったのである。

 無事、成田に到着したその時は、ああ、日本だ。本当に、帰って来たんだ。という嬉しさと、ガッカリした思いが、入り混じっているような感じであった。まだ、夢を見ているようだった。ともかく、私は帰って来たのだ。一時帰国のヴァカンス気分の時とは、全く違う気持ち。

 日本。これから、何が起こるんだろう。私は、どうすればいいんだろう。

 全く一からのスタートを切ることになる自分は、真っさらな白紙を目の前にしたような気分で、未来に向かってたたずんでいた。

 お金もなく、仕事もない。あるのは、自由な時間と、可能性だけである。

 そうだった。帰って来た直後のあの頃は、本当に時間が山のようにあった。生活が軌道に乗り、仕事も忙しくなってからでは、とうていやることのできないことが、何でも好きにできた。懐かしい、貴重なあの時間。

 私は自由と、たくさんの友達に囲まれていた。そして出会い。ベルギーでお別れした分だけの、新しい出会いが待っていた。同時期に留学していたであろう、今現在の音楽仲間たちにも、次々と出会った。あの時、もしかしたらあのパリの街角で、ヨーロッパの石畳みを歩いているあの時に、私たちはすれ違っていたかもしれないと思うと、面白い。

 そして、日本での、ベルギー時代の友人や、先輩方との再会。私は、彼らの活躍に、たくさんの勇気ときっかけをもらった。

 その後訪れる、夫との出会い。リサイタル。そして巡り会う、可愛い生徒たち。

 これから先の話は、この続編として、ぼちぼち書き進めてみたいと思う。ハッキリ言って、留学時代と同じだけの、いや、それ以上のエネルギーを必要とした、日本でのスタートだった。留学から帰って来た者たちならば、皆、同じような思いをしているに違いない、もう一度すごろくの振り出しに戻るような気持ち。

 一九九九年、秋。年が明けて二十八を迎えるのを目前とした、二十七才の私であった。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 〜完〜

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