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2017年7月 9日 (日)

百十八 コンセルヴァトワール最後の試験

 一九九九年、七月一日、木曜日。

 私の、留学生活最後の実技試験がやって来た。曲目は当日の午後二時に発表され、よっちゃんの予測通り、プーランクのコンチェルト一楽章と、ベートーヴェン悲愴ソナタの三楽章、バーバーのソナタ三、四楽章に決まった。比較的長いプログラムである。

 バーバーが当たったと聞いた時は卒倒しそうになった。一年目に弾かされたフーガを、またもや三楽章から続けて演奏することになろうとは。よし、望むところだ。自らリサイタル用にと準備したこの曲。弾いてやろうじゃないの。そう思いたいところだが、フーガというのはいつだって暗譜が吹っ飛びそうになり、相当の集中力を要する。私は緊張に冷たくなった手にハンカチを握りしめ、舞台に上がった。

 舞台からお辞儀をしたその時、審査員の中に、一年目にお世話になったマダム・アンシュッツが居て、私をまっすぐに見て微笑んでくれていた。最後のステージであったので、これは嬉しかった。先生に、いい演奏を聴かせたい。私は落ち着いて深呼吸をした。

 まずはプーランクから弾き始める。弾いている間にも、ああ、綺麗な音を出せてるな。テンポもいいな。と感じる余裕があった。アシスタントと一緒に二台ピアノで弾くコンチェルトは、楽しかった。続いてベートーヴェン。細部が転んでしまい悔しかったけれど、音色や、フォルテとピアノの使い分けはうまくいったと思う。

 バーバーは最後に弾き始めた。三楽章はいわゆる感情楽章で、ゆったりと重々しい曲想なので問題なかった。私はこれが得意である。さあ、続いて問題のフーガだった。最高の緊張感。間合いを入れて、よし行くぞと呼吸を整えてから入る。これはやっぱり恐ろしかった。旋律の特色までうまく表現することができない。もう、それどころじゃあない、と言った感じ。いやはや、勉強になりました。止まらなくって良かった。セーフセーフ。ヒヤヒヤもんである。おかげで、帰国リサイタルで演奏する時は、一番落ち着いて弾くことができたと思う。

 全体的に、集中力は非常に伸びたと思えた、コンセルヴァトワールでの最後の舞台であった。終わってから、Mr.ミタに「プーランク、良かったよ。」と言ってもらえて、これも嬉しかった。

 弾く直前によっちゃんからも置き手紙をもらった。

 本当に四年間よく頑張りましたね!

 私も三年あまりず〜っとカオルちゃんの演奏を聴いて来たけれど、今年程、曲の仕上がりが安定していて、聴きごたえのあるのは初めて。だから大丈夫、安心して落ち着いて、ちょっとのミスぐらい、出口がわからなくなっても迷わず、堂々と思いっきり弾くことです。試験を思う存分楽しんで来て下さい。

 と、熱いメッセージが書かれてあった。

 これが日記の間からパラリと落ちて来た時は、思わず笑ってしまった。

 時は巡り、こんなに時間が経ってもなお、手紙とは残るものなんだなあ。下手なことは書けん。よっちゃんに伝えたら、今すぐ焼き捨てて!と言われそう。そんなことを思う、今日この頃である。

 そして私はめでたく、満場一致で合格した。我が最後の試験に、悔いなし。本当に、生涯で最後の試験となる演奏だった。長い学生生活だった。

 後で実感することだが、試験と、コンクールと、コンサートの本番はそれぞれ違う。それぞれに違ったプレッシャーがあり、舞台の雰囲気も、全く違うものである。言ってみればコンクールが一番会場の雰囲気が冷たく、コンサートが一番温かい。私はやっぱり、お客さんに喜んでいただけるように作る舞台が一番好きだ。

 さて結果を報告するべく、師匠Mr.カワソメに電話。イタリアのリサイタルの件はうまく話が運んでおらず、まだ決まってもいない状況だそうで、私はブリュッセルでのコンサートに切り替えることにした。結果的には、これも会場が取れずにキャンセルとなってしまうのだが、きっと何かしら、そうである方が良いことになっていたのだろう。

 私は、試験が終わった喜びをかみしめながら、しばらくその自由を満喫し、解放感に浸った後、九月に受ける予定のコンクール準備に取り掛かかることにした。

 その間にも、帰国することについてなお、心は揺れ動くが、その時を十月十七日に決める。そしてよっちゃん自身も八月下旬で仕事を辞めることに決め、共に帰ることとした。

 風来坊がサマになっている彼としては、ベルギーに何の未練もなく、サッパリと手放しで喜んでいたように思う。そして驚くほどドカドカと荷物を捨てて、スーツケース一個にまとめていた。すごい。さすが、卒業した次の日にランドセルを捨てようとした男である。

 反面、自由な割に、その土地に根付きやすい私は、本当にいろいろなことを考えながら、その最後の夏を過ごすことになった。

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