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2017年8月の30件の記事

2017年8月 1日 (火)

続編一 まえがき

 これまでず〜っと私のヘタクソな文章にもめげず、留学記を読んでいただいた皆さま、どうもありがとうございました。

 ここからは私の、帰国後の出来事になります。留学して帰って来たら、まさに浦島太郎。自分の国であるのに、何だか新しい場所のような感じで、誰もが戸惑い、困惑しながらのスタートとなります。

 本当は、留学生活四年間のみを書こうと思って始めたことでありますが、そこで終わると何だか尻切れとんぼのような気になってきました。

 だって、留学後の話は、本当に面白い。

 本当に、真っさらな、一からの紙芝居の始まりと言った感じで、その生活が落ち着くまでに、留学生たちは皆、めちゃくちゃ苦労をします。

 まずは、仕事探し。ぶっちゃけ、ヘタにプライドだけは高くなっちゃってるもんだから、なかなかこれが、決まらない。日本ですでに活躍している数々の友人たちが羨ましくて仕方がない。自分はどうして行こうか、悩みもだえる。

 それから、住処探し。

 今までは自由きままな一人暮らしで(まあ、私は後半、二人暮らしだったけど。)自由に音楽をやり、好き放題に生きてきた。それがいきなりまた、親元でのスタートである。これは、誰もがうなずくと思うけれど、双方かなり厳しい現実となります。早く自立したいのに、お金もない。仕事もない。このジレンマ。中にはそのまま、実家に居着いちゃうタイプの人もいるとは思いますが、私は一刻も早く、独り立ちしたかった。きっと母たちも、そう願っていたと思う。

 そんな、決して順調ではない帰国後の生活について、またもや暴露しつつ、夫と付き合い出すまでの激動の二年間を、少しだけ書いてみたいと思っております。

 それでは、軽〜くお楽しみ下さい。続編おまけ、ピアニストMama♪ 帰国その後です。

2017年8月 2日 (水)

続編二 夫との出会い

 いきなりドカンと行くけど、このタイトル。でも本当に、帰国してすぐの十日後に、私たちは出会ったのだ。まさに娘なっちんの、さしがねとしか思えない。雲の上から見ていた彼女は私の行動の一部始終に焦りまくって、このタイミングで、どうにかして私たちを引き合わせたのだ。多分ここで出会わなかったら、私たちはこの先も巡り合っていないだろう。縁とは本当に、不思議なものである。

 帰国してから私は、まず師匠たちにご挨拶をした。Mr.カワソメには、今後のことについて色々アドバイスをしていただいた。さすがは大先輩である。奈良先生は、この時ちょうどお忙しそうで、それどころではないと言った感じであった。大好きなアキカさんにも、連絡を取った。早く会いたくて仕方がなかった。彼女には、仕事の方もたくさんいただき、本当にお世話になる。

 さて、十月二十八日、木曜日。

 私は母校である、昭和音大のA306号室へ行き、ピアノを触らせてもらった。ヤマハのそれは思ったよりも良くて、部屋も広々としていた。ここで授業も受けたことのある、懐かしい教室である。昨年に弾かせてもらう予定だった学祭でのピアノを、カワソメ先生のはからいで、今年に持ってきていただいたのだ。

 学生たちは、皆忙しそうに学祭準備をしていた。その教室は、例の「ピアノ愛好サークル」の持ち部屋で、私は三日後の本番のために試弾に来た、というわけである。部長さんを探したが居らず、他の部員たちは、そのうち来ると思います、と言っていたので、私はピアノを弾き続けていた。

 そうこうしているうちに、「部長さん」はフラッとやって来た。

「あ〜、どうも、ミヤチさん?よろしくお願いしますぅ。ピアノ、適当に弾いてっていいからね。ミヤっさん、ベルギー行ってたんだよね?いいな〜。楽しかったぁ?あ、ボク、部長です〜。学祭、よろしくね〜。」

 みたいな会話を、多分したと思う。

 痩せて背の高い、飄々とした風貌の部長。彼は大学四年生であった。第一印象は、何だこの子。変わった子だなぁ。相当面白い奴か、相当ヤバイ奴か、どっちかだなぁきっと。というものだった。

 何度か言うけれど、私は一目惚れというやつをしたことがない。どちらかと言うと、一言惚れならばある。これが、私と夫との出会いだった。そしてこの後、ちょくちょく会う機会はあったものの、ずっと先輩後輩の関係が続いていた。私が好きだとはっきり意識したのは、この日から二年後のことであり、結婚に至ったのは、四年後のほぼ同日のことである。

 昭和祭での演奏は、日本に帰って来てからの初めての演奏だったせいか、結構緊張していた。どんな小さな本番も、もちろん大きな本番も、きちんとした演奏で出たい、という心構えだったせいかもしれない。

 モーツァルトのソナタと、アンコールにスクリャービン。三日で仕上げたわりには、まあまあ、まともに弾くことができた。この時、お見合いの君も聴きに来てくれたのであるが、「部長さん」は、誰だあいつ?と首を傾げていたそうである。その時はまだ、帰国リサイタルのプログラムも決まっておらず、やっぱりモーツァルトを入れようかなぁ、と迷っている。夫が、なかなかチャーミングなモーツァルトだったよ、と言ってくれたのが印象的だった。本人、あんまり覚えてないと思うけど、縁のある相手との出会いの日とは、意外と細かいところまで覚えているもんである。ここに書いた詳細は、はっきり言って、日記にはあまり書かれていない。私の脳裏にしっかりと刻まれた記憶を、引っ張り出してきたものだ。

 そして私たちは、年末の飲み会で会うまで、何の連絡先の交換もしなかったと思う。たぶん。

 私は、新しい場所での仕事探しと、リサイタルプログラム決めに、躍起になっていた。

 山のようにある自由な時間の中で、友人たちと語り合い、また一緒に帰って来たよっちゃんの方も、新しい生活へ歩み出そうとしていた。

2017年8月 3日 (木)

続編三 仕事探し

 昭和祭も終わり、時はあっという間に十一月。日本の時間の進みは本当に早い。

 私はとにかく、少しでも仕事がないかなぁと思っていた。もちろんリサイタル準備のためにピアノはさらわなくちゃならないけど、稼ぎも欲しい。相棒のよっちゃんの方はと言うと、とりあえず実家のお店を手伝いながらしのいでいた。お店が休みの平日に、私たちは会っていたのだけど、そんなある日、ベーカリーレストランのサンマルクにフラッと入ると、ピアノの生演奏をやっていた。

 よっちゃんと私は沸いた。こりゃあひとつ、自分のプロフィールでも書いて、売り込んでみようか?彼いわく、身ひとつで帰って来た時にゃあ、ミカン箱の上でパフォーマンスをやるくらいの勢いでスタートするがよし!と言うことである。私は笑って、店のアンケート用紙の裏に自分のプロフィールを書いて、店長に売り込んだ。店長さんは良い人で、空きが出たら電話をくれると言う。おおー、何でもやってみるもんだ。友人たちに言ったら、笑うだろうな。これは後日、本当に店長から連絡が入るのだが、その時はすでに私もだいぶ生徒たちが増えていたり、演奏で忙しくなっていたりして、周囲の反対もあり、結局断ってしまった。でも、仕事があれば何だってやる、という気持ちは、当時の私の基本姿勢だったと思う。

 けれども、音楽関係以外のアルバイトはするつもりはなかった。私が欲しかったのはお金でなく、(まあ、欲しかったけど)自分がこれから活動を広げていくための仕事だった。その気持ちは、留学から帰って来たら、ほとんど誰もが同じだと思う。そして、そんな私に一番初めに仕事をくれたのは、先輩のアキカさんであった。彼女は、自分の生徒さんたちを引き受けてくれないか、という話をしてくれた。確か、仕事が一杯一杯で、レッスンしきれないようなことを言っていたと思う。私は飛び上がって喜び、感謝感激で引き受けた。その後、音大を狙っている彼女の生徒さんたちが何人かやって来たり、彼女の留守を預かって、レッスンしに行ったりと、私は金銭面が助かっただけではなく、教える勉強もさせていただいたと思う。

 そんな中、近所の方の紹介で、ピアノを習いたいと言う女の子がやって来た。当時四才の、アヤカちゃんである。彼女はピアノが上手く、大変賢い子であった。これが記念すべき、この教室の生徒、第一号。私はよっちゃんと相談して、教室名を現在の「クラシックピアノクラス」に決め、東急ハンズで黒い看板を五千円で作ってもらい、一人、また一人と生徒が増えていった。この看板は今でも使っているので、もう十七年近くになる。途中、買い換えようかなと思ったのだけれど、なかなか年季が入っていてこれもまあ、カッコイイかなと、そのままにしている。あのハンズのおっちゃん、ずうっと持ちのいいものを作ってあげるよ、と言ってくれたのだが、本当だった。ありがとう、おっちゃん。

 私は、ポツポツと仕事が入りながらも、リサイタルを五月に決め、いよいよ会場を予約する。嬉しさと緊張を抱えながら、翌日に大学へ行き、来賓教授ペルティカローリ先生の公開レッスンに顔を出して来た。その時にこの間の部長君、いわゆる現在の夫である、コヤマ君に会う。彼は公開レッスンのピアニストに選ばれた学生だったのだが、私は彼の出番を聴き逃してしまった。彼には学祭の打ち上げに参加できなかったことを詫び、いいよいいよ、また今度、年末の飲み会にでも顔出して下さいよ〜。と言われて帰って来た。

 私はこの時、夫のことはサッパリ、眼中にはなかった。彼だってもちろんそうだったと思う。その代わり、またもや新しい君が現れたりして、事態はますます混乱状態に陥るのである。

 ここからが私の、夫と付き合い出すまでの、波乱の二年間の幕開けであった。

2017年8月 4日 (金)

続編四 高校時代の彼、そして夫たちとの飲み会

 私が帰国した一九九九年から二〇〇〇年にかけては、通信網が目覚ましく進歩している時代であった。インターネット、携帯電話。古いポケベルに代わり、メールが世間に普及し始めていた。携帯は、その軽さとコンパクトさを競い、NTTドコモが圧倒的に支配していた。今ではいわゆるガラケーと呼ばれてしまうやつが、一世を風靡していた時代である。

 私は半年間、携帯を持たなかった。でも、友人たちとはマメに連絡を取り合っていたと思う。女友達はじめ、男友達とも例によって、よく飲みに行ったりした。この時私は、よっちゃんとはもちろん、お見合いの君とも、なんとなく続いて付き合っていた。私は結婚のことよりもまだ、仕事と演奏活動に頭が一杯であったのだが、どちらもまた、性格のいい人たちだったので、別れられなかったのである。まわりはこんな私を見て呆れていたが、私にとっては、多くの女友達と付き合うのと同じような感覚であったように思う。言い訳だけど。そんな中、昔から付き合っていた、高校時代の同級生ともたまに、会って話すようになる。

 彼とは高校二年〜三年くらいの時に少し付き合っていて、その時は私の片思いに近かった。しばらくして私には他の彼氏ができたのだけど、その後もずっと、いい友達として残った。ブリュッセルへ行っている間も、たまに連絡を取り合い、一時帰国の時もよく会っていた仲である。いわゆる、つかず、離れずと言った感じの間柄。

 年末はよく、彼と会って話をした。彼はとても頭の切れる男だったので、よっちゃんにも、お見合いの君にも話せないようなことを相談に乗ってもらったりしていた。同級生というものは、ケンカも多いが心の落ち着くものである。混乱させると申し訳ないので説明すると、留学時代に一度、イギリスから遊びに来てくれた彼ではない。その彼とは高一の時に付き合っていたわけなので、この彼とはまた違う人物である。ちなみに、イギリスからチャリでやって来た彼氏は北京の彼(東北の彼)なので、これも違う人物である。もうなんだかサッパリわかんないと思うけど、まあいいとして。

 年末は、リサイタルでお世話になるマツザキさんともよく会い、打ち合わせをしながら、着々と演奏会の準備を進めていた時期でもあった。そして、ピアノ愛好サークルの部長であり、現在の夫である、コヤマ君たちとも飲んだ。学祭の打ち上げに出席できなかったので、今度こそは約束を果たそうと思っていたのである。

 その時はパリから友人のエミコが一時帰国しており、彼女も誘って飲み会に出ている。その時に夫から、「ミヤっさん、彼氏いないんですかぁ」と、鋭い目でズバリ訊かれたのが印象的であった。彼はそうやっていつでもポーカーフェイスで、ここぞと言うタイミングで話の核心に迫る癖があった。夫を知らない人にイメージを与えてあげるならば、彼はちょっと、イチローとiPS細胞の山中教授を足して二で割った感じの風貌である。

 そしてサークルの学生たちの中には、今も仲良しな後輩たちがたくさんいて、おかげさまで私のまわりは年下ばかりだが、その中でも後輩のなみっちは、いっとう泥酔していて、居酒屋の鍋に信じられないくらい色々な調味料をごたまぜにし、帰り道では駅前の広場にて「雅子様、ご懐妊〜!」と吠えていた。ちょうど、皇室の雅子様が身ごもられた時期ですね。懐かしい。

 十二月は、そのようにして過ぎて行った。クリスマスイヴの日、猫のプーすけは、しばらく住み着いていたよっちゃんの家から、我が家に越して来る。私は、各種イベントの時には彼氏とでなく、一人で過ごすことに決めていた。そして大晦日。私は妹のユリコと近くの五社神社へお参りをし、おみくじを引いたその中身には、

「恋愛…今の人が最上。迷うな。」

 と書いてあった。一体今の人が誰なのか、サッパリわからない、その年の私。

 一九九九年も無事に終わり。ノストラダムスの不吉な予言も当たらなかった。そして気分も一新、新しい年が始まろうとしていた。

2017年8月 5日 (土)

続編五 音楽教室に落ちる

 時は二〇〇〇年。

 新年明けて、妹ユリコは成人式を迎え、私はよっちゃんと甲州七福神めぐりをしたり、ミュージカルライオンキングを観に行ったりと、楽しい時を過ごしていた。この年は、ユリコもようやく薬科大学に合格することになる。ブリュッセルの友人、ミタ氏が一時帰国をして、カワイの表参道店でコンサートをすると言うので、よっちゃんと共に聴きに行ったりもした。日本で会う私たちは、幾分雰囲気も変わったらしく、「二人とも絵になっとるよ」と言われたりして、再会を喜んだ。私は年が明けた頃から、だんだんとリサイタルへのプレッシャーが増してきていたが、相変わらずよく遊びよく学べの毎日であった。

 お見合いの君の、友人ご夫妻にも会った。とても良い人たちだったのだが、私にはこの奥様の方が、全く気が合わなさそうでどうにもならなかった。試しに彼に、彼女はどういう人なのかと訊いてみたら、ええ、いい奥さんって評判ですよ、料理はうまいし、健康だし。と言う返事が返ってきて、唖然とした。何だ、その答え。いい奥さんって、そういうものなのか。だとしたら、私は全くダメじゃあないか。料理も嫌いだし(うまいけど)、虚弱っキーだし。と言ったら笑われたのだが、なんだかサラリーマンの「普通と常識」を垣間見たような気分がして、私にはやっぱりムリだ…と密かに思ったのを覚えている。

 私は毎日本当によく遊んでいたが、ピアノの練習も忘れなかった(つもり)。しかし母は、こんな奔放な私を心配して、大丈夫なの、ピアノはちゃんと、弾けているの。最近あんまりな様子だけど…と、うるさい。誰の監視下にもなく、自由な一人暮らしだったベルギーが懐かしかった。自分には、自分のペースっていうものがあるのだ。でも今日記を読み返しても、おいおいカオルさん、ちったあ、ピアノ弾いとけよ。と思ったりするので、母が正論だったとは、思うけど。

 仕事の方は、まず母校の音大附属の音楽教室を受けることにした。

 説明会に参加し、二月に入って試験を受けた。

 スタジオにて、モーツァルトのソナタを全楽章弾く。選曲に悩んだが、Mr.カワソメいわく、スクリャービンなどは子どもには刺激が強すぎるからやめとけ。だそうである。私は笑い、正統派で勝負することにした。

 当日はよく知っている先生方が審査員として聴いて下さる。後から聞いた話だと、人前でモーツァルトを弾くのは至難の技なのに、あえてそれを持って来たとは、相当自信があるんだな、と楽しみにしてくれていたらしい。アナタが古典を弾くなんて。よく勉強して帰って来たわね。いい点つけたわよ。と褒めていただく。ちょっと嬉しかった。そして三日後の面接。私は、意地悪な、踏ん反り返った教授たちにズラッと囲まれ、ガラにもなく緊張して質問にうまく答えられず、しどろもどろだった。

 結果は、不合格。

 通知が届いた時、思わず「えーっ、そりゃないよ」と叫んだ。

 マジかー。母校の音教で雇ってもらえないとは、この先私はどうすりゃいいんだ。

 その時は、その結果について先生方が、ピアノは他の受験者がもっと大きくて派手な曲を弾いたからどうの、面接でモジモジしてたからどうの、私の点数は四番目で、三人しか採用しなかったからどうの、などと話を伺ったが、今なら私にはわかる。

 良かったのだ。私は、大学で働くのは性に合わない。

 大学に限った話ではない。私のような気質の者には、誰かに雇われて、そのシステムの中でやって行くのはとうていムリである。たぶん、途中でストレス爆発して暴走して、解雇されるのがオチだ。昔、亡くなった恩師てっちゃんに、「アナタのような自由な子が、学校でなんかやっていられるわけがない。」と言われたことを思い出す。

 きっと大学は私のそんな偏った性質を見抜いて、最初から蹴ったのだ。それで良かった。私はもう二度と、どこの音楽教室の採用試験も受けようとはしなかった。私は誰でも、自分の持って生まれた能力や才能を、人々に分け与えるために生まれて来るのだと思っている。どんな小さなことだっていい。その人にしかできない大切なことが、きっとある。私は、今まで経験したことを、こうして自由な自分の教室という環境の中で、生徒たちと一緒に生き生きと楽しみながら分かち合うために存在しているのだ。たぶん。

 その時はわからなかったことが、少し時が経ってみるとわかる。本当に人生とは面白い。

 そしてとりあえず目の前の職を失った私は、五月のリサイタルに向けて専念することに決めるのである。相変わらず、遊んではいたけど。

2017年8月 6日 (日)

続編六 リサイタルに向けて

 帰国リサイタル。これは私にとっての、一大プロジェクトであった。

 何が大変だって、演奏だけではない。マツザキさんという、強力な助っ人マネジメントが居てくれたおかげで随分と頼りになったけれど、チケットさばきや宣伝などは、練習に専念したい私にとって、けっこうなストレスだった。まあ、練習に専念って言ったって、毎日かなり遊んでいた私にとっては、はたから見たらマジメにやってたとはとうてい思えないんだけど。

 でも、その不真面目さが功をなし、男女問わず交友関係の広い私は、大勢の客を集めることができた。もう本当に、友情にカンパイってやつである。高校時代の友人らは、物珍しさも手伝って、それはそれは大勢がチケットを買ってくれたし(私は高校時代には美術クラスに居たので、ピアノが弾けることはほとんど知られていなかった)、母の交友関係、近所のおばちゃんたち、それに大学の後輩たちには、夫、コヤマ君が張り切って二十枚近く売ってくれた。ザ、地元パワー。感謝感激である。二月の時点でチケットは百二十枚出ており、結局のところ、招待も入れて、二百三十席ほどが埋まった。ホールは三百席ちょっとくらいだから、パッと見、ほぼ満席に近かったのである。集客についての不安は当時ものすごく抱えていたので、本当に嬉しかった。

 プログラムもなかなか決められなかった。迷いに迷い、マツザキさんや、師匠たちと相談をして、やっとこさ決めた感じ。結局、前半に、モーツァルトのソナタK333、スクリャービンの二つの詩曲、プーランクの三つの小品。後半に、バーバーのソナタ。アンコールに、ショパンのノクターン二番と、小犬のワルツを弾くことに決めた。

 ベルギー大使館の後援もとれた。これは嬉しかった。確かマツザキさんが掛け合ってくれたのであって、大変感謝している。

 奈良先生のレッスンも久々に受けに行った。教える立場から言っても、先生のレッスンはとても参考になった。いい助言をしていただいて帰って来る。人から指摘されることには、深い意味があり、的を得ているのだということを身にしみて感じていた時だったので、先生のレッスンは大切に聞いた。そして先生は、私が貧乏だったのを知っていたので、レッスン代を五千円にして下さったのである。半額。出世払い!ありがとう、先生!

 後輩のコヤマ君からはちょうどその時、彼の師匠が大学を辞めさせられると手紙をもらったりしていた。私は署名運動に協力して、微力ながらも力になれればいいなと思った。彼の方は卒業生代表で、読売新人演奏会に出演が決まったそうで、私もとても嬉しかったのを覚えている。

 でも私はこの時もまだ、彼のことは後輩止まりで何の意識もしていなかった。雲の上のなっちんは、ガッカリしていたに違いない。そんな彼女の想いは通じず、私は新しい恋に出会ってしまうことになる。

 本番二ヶ月前。私は、高校時代の彼と会っていた。携帯電話を買うか買わないかで、相談をしていたのである。その頃はぼちぼち、生徒からの問い合わせが入ったりして、留守中の私は電話を受けられず、これは無理をしてでも携帯を持った方がよいかと悩んでいたからである。貧乏な私が迷っていたら、彼はサラッとこう言った。

「しょ〜がねえなァ。オレが携帯、買ってやるよ。そのかわり、毎月の支払いは頑張れよ?」

 私は何だかとってもドキドキした。例の、一言惚れってやつである。こんなこと、よっちゃんにも、お見合いの君にも言われない一言であった。アホみたいだけど、彼が言うとすごくカッコよくて、サラッと決まっていたのである。私の心臓には一発の矢が命中した。そして、この日を境に、彼との仲は急進展して行ったのである。

2017年8月 7日 (月)

続編七 新しい恋と、新しい仕事探し

 この頃私は、とっても楽しいが勘が良く、嫉妬深〜いよっちゃんと、とても優しいけれど決定打に欠けるお見合いの君との間で揺れ動いていた。そして時は本番前の不安定な時期。現実逃避するにはうってつけの条件が揃っていた。そこへポンと飛び込んだ新しい風。私は足元からグラっと持っていかれたわけである。

 あくる日、高校時代の彼とどうしても喋りたくなり電話をかけると、彼はパチンコ屋にいた。

「お〜、今、オマエの携帯代、稼いでるとこ。」

 と彼は爽やかに言った。ズキュ〜ン。何だか、めちゃめちゃ嬉しかった。そして思わず私は、デートを申し込む。桜木町へ行って、夜の散歩をした。暖かくて、本当に気持ちの良い夜だった。

 日曜日には、一日彼とデートをした。と言っても、携帯を買いにである。私はついに念願の携帯電話を手にする。これは便利な反面、この先、色々なオトコたちから一斉に電話がかかってくるようになり、非常にうっとおしいものにもなってくる。別に、ただの男友達からなのだが、着信が入ると、その時に一緒にいた彼氏たちの機嫌が悪くなるのだ。なんてめんどくさいんだろう。いや、オマエが悪いんだ、と言う声があちこちから聞こえてきそうだが(その通り。)でも、束縛を思いっきり嫌う私としては、面倒臭いこと、この上なかった。

 高校時代の彼とは、一緒に夜の高校に忍び込み、夜桜を見たりして楽しんだ。桜!私はこの時期に帰国をすることはなかったので、実に五年ぶりの桜であった。感動だった。夜桜は闇に白く光り、夜風が優しく包み、日本の春は何て素晴らしいんだろうと思った。

 そして私は、リサイタルまでの一ヶ月を、ほぼ毎日のように誰かしらとデートしながら、うまく気分転換をして過ごしていた。日記を読み返すと我ながら浮かれ飛んでいる自分に、もっと練習をしなさい、と言いたくなる。でも多分、それが良かったんだろうとは思う。朝から晩まで部屋にこもって、暗く練習ばかりしていたらきっと私はウツになった。そして多分、楽しい演奏もできなくなった。アンリオ先生の言う通り。音楽には、恋が必要である。私に振り回された、相手の男性方には申し訳なかったけど。

 そんな日々の中でも私は要領よく練習をこなし、そして仕事のことも忘れなかった。

 音楽教室に落ちた私は、生徒を集めるために、リサイタルチラシを同封して、市内の全幼稚園宛てに手紙を書いたりして、降園後のピアノ教室の幼稚園導入の売り込みもした。これは一つも効果がなかったのでガッカリしたけれど、思いついたことは片っ端からチャレンジしていた。

 私のリサイタルのチラシを見て、取材を申し込みに来た地元紙の記者とも仲良くなる。地元紙は常にネタを探しているので、私はあちこちから声がかかった。大学の要項にも留学した卒業生の声として載ったりしたけれど、大学には使われてばかりで、仕事には落とされていたので少々腹も立っていた。

 けれど地元紙の影響力は大きく、大々的に記事が載ったことで、生徒の問い合わせが何件も入ったのには驚きであった。別に、生徒募集で載ったわけではないのに、新聞社に問い合わせがたくさん来たそうである。こういうのって、大きんだなあ。などと感心したりしたものだ。

 時は四月半ば。リサイタル一ヶ月前を切った頃から、さすがの私もマズイと思い始め、ここから本腰を入れて練習を始めている。

 私の、帰国後の勝負は、五月十日のリサイタルにかかっていた。これだけ遊んでいて、演奏の方もサッパリであったらもう、全然説得力なんてない。たくさんチケットを売ってくれたコヤマ君たちの顔に泥を塗らないためにも、いい演奏をしなければ。

 そしてリサイタル当日は、ある意味友人たちや、私の男友達やら恋人やらの集結の場にもなったので、別の意味で、母は一人、ハラハラしっぱなしであった。申し訳ない。

2017年8月 8日 (火)

続編八 帰国リサイタル

 二〇〇〇年、五月十日、水曜日。

 その日は記念すべき、帰国して第一発目の、リサイタルの日であった。さすがの私も、前日までは遊ばなかったらしい。体調は良く、コンディションも万全であった。後輩のコヤマ君からも前夜に連絡が入り、彼が珈琲屋でバイトを始めたことを知る。そこはグランドピアノが置いてあり、音楽仲間たちがしょっちゅう演奏会などを開いている、いわばアーティストたちの集うサロンと言っても過言ではないような、居心地のよい場所であった。昔、白いアップライトピアノが置いてある頃から私は知っていたので、コヤマ君がここで働き始めたと聞いて、なんだか嬉しかった。私も働こうかな〜。なんて、日記には書いてある。

 さて、帰国リサイタル当日。

 私は前夜から不安で眠れず、汗をかいたり、暑くなったり寒くなったりで体調も下降気味であった。うとうと状態で昼前に起き、三時に文化会館へ。家で待機する時間が一番辛かった。それに体力は夜までとっておかねばならないし。

 会場に着くと、スタッフや調律や録音の方たちがもういらっしゃっていて、雑用をやるうちに気も紛れる。調律は素晴らしく良かった。そして、よっちゃんがスーツ姿でお花を持ってやって来る。ハッキリ言って、惚れ直した。開演までずっとそばにいてくれたのは、とても嬉しかった。

 六時になると、母と妹のユリコもやって来る。父は来られなかった。私のお見合いの君に会場で会うのがどうのこうの、と言って、辞退したのである。まわりはそんな父を見て、どうして娘の晴れ舞台に行ってあげないの、としきりに言っていたが、我が家族と私は、音楽に疎い父を知っているせいか、ぜ〜んぜん何とも思わなかった。

 肝心のマネジメントであるマツザキさんはというと、渋滞に巻き込まれて六時半のギリギリセーフであった。ホッとする私。お客さんは開場時間前ですでに二十人近く、そして開場してからは、階段の下まで行列が出来ていたらしい。ものすごいプレッシャー。あっという間に七時である。五分前の、ベルが鳴る。興奮と、恐怖とで卒倒しそうな音だ。

 ああ、今夜は、成功するのも失敗するのも自分次第。自分一人に、かかっているのだ。一人きりなのだ。と感じていた。こうして書いている間にも、めちゃくちゃ緊張して心臓がバクバク鳴っている。本番とは本当にいつだって、舞台裏ではまさに断頭台に上る心地なのである。

 開演、五分押し。ドアが開いて、ステージに出る。客席からの割れんばかりの拍手に包まれた時、私は、何て温かい拍手なんだろう!こんなに温かい雰囲気の会場で弾いたことは一度もない。と思った。そして卒業試験の時も感じたのだけれど、我が亡き師匠、てっちゃんの存在をふと、感じた。先生が聴きに来てくれている。私はリサイタル直前に、先生のお墓まいりに行って、応援して下さいと頼んでおいたのだ。ありがとう先生。先生が来てくれたのはこれが最後で、その後の演奏会には一切感じなかったのが不思議である。そしてみんなの温かい応援の気持ちがひしひしと伝わって来た。私は舞台に出たとたん、涙が出そうになってしまった。ありがとうみんな。私、頑張って舞台をやり遂げるよ。すでに感動で倒れそうになる自分を抑えながら、シンと静まりかえる会場で、意識をピアノ一点に集中していった。

 弾いている間は、二人の自分がいた。

 客観的な自分と、集中している自分である。幽体離脱しているような感覚。

 モーツァルトはとっても怖かったので、一楽章は身体が硬くなってしまったが、二楽章からは徐々にほぐれていった。楽しんで、綺麗な音を響かせるように。天真爛漫なモーツァルトの魅力が、出ますように。

 続くスクリャービン、プーランク。

 この辺りはお得意路線なので、ようやくフォルテも出せて、ピアノも鳴り始める。プーランクのトッカータはもう少し落ち着いて弾けたら良かったが、前半はあっという間に終わってしまった。休憩。初めて一人きりでリサイタルをやってみて、本当に、自分一人で持つステージというのは、体力と集中力の勝負だと知る。幸い、この日は体調が良かったので、最後まで失速せずに乗り切ったが、後ほどの演奏会では、後半に体力が全然残っていなくて辛い思いをしたことも何度かある。

 後半ステージ。いよいよバーバーのソナタだ。

 これが無事に終わってくれれば。私は祈るような気持ちと、闘志に燃えた心持ちで、再度舞台に出た。拍手。重々しく貫禄のある一楽章。コロコロと高音をもて遊ぶかのような、二楽章。そして緩徐楽章である、謎めいた三楽章。ここまで、集中してうまく行った。さあ、問題の、フーガである。ブリュッセルでも散々弾かされた、あの飛び切り恐ろしいフーガ。行くぞ。私はテンションを大幅に上げて、自分の集中力との勝負に挑みにかかった。

 落ち着け。心の中で、必死にテンポキープしながら、鍵盤に指を走らせる。私には会場の奥まで鳴らせるような、フォルテッシモが欠けている。でも、なんとか、綺麗に響く音で、遠くまで音が飛んでくれたら。そう願っていた。必死だった。でも、同時に、自分の演奏と音楽を楽しめるような余裕もあったと思う。だって私はだてに四年間、あの暗い半地下で、下積みの生活をやっていない。ヨーロッパで頑張った、私の四年間の想いを聴いて欲しい。そう願いを込めての演奏であった。

 最後の低音を鳴らしきった時、会場から拍手が沸き起こった。どこからか、「ブラボー!」という低い声が飛んだ。後から知ったのだけれど、それは音楽仲間である、仙台の彼であった。彼は大変感動してくれて、思わず叫んだそうである。嬉しかった。

 アンコールのショパンのノクターン二番は、コヤマ君が大変褒めてくれた。小犬はイマイチだったけど(正直なヤツ)、あの現代曲バーバーの後に弾くノクターンはすごく良かったよ、と、彼ならではの感想を言ってもらえた。「バーバーのソナタも良かった。ボク、あんまりあの曲知らなかったけど、すげえいいね。」と。

 何だか夫のこの一言は、日記にも書いていないのに、すごく印象に残っている。他の人たちからもらったコメントはそれほど覚えていないのに。やっぱり、一生を共にすることになる人物と言うのは、その時はたいして意識もしていないのに、何かと心に残っているものなのだ。不思議である。それから随分経って、夫と付き合いだしてから、「実はあのリサイタル、聴く前までは正直、プログラム的にも全然興味なくて期待していなかったし、留学したって言ったってと、多少バカにしてたんだけど、でも良かった。弾けるヒトなんだと思ったよ。」と暴露された。う〜ん、面白い。

 終わってから私は、舞台の上から皆さんに挨拶のスピーチをしたのだけれど、これがまた、割れるような拍手をいただいて、感激してしまった。アキカさんは私の演奏会に聴きに来られなかったのだけれど、後日ビデオを渡したら、カオルちゃんのスピーチが素晴らしかった!立派になったねぇ…。と、まるで母親のように言ってもらったのが忘れられない。

 無事に全てが終わって、私は高校の友人たちや、先生方との打ち上げに顔を出した。皆、すごく喜んでくれていて、と言うか、私の気取ったステージでの振る舞いに、皆、大爆笑をしていて、ほんとに昔の仲間っていうのはアホでいいもんだよな〜と、私も一緒に笑った。高校時代の彼ももれなくそこに居て、私の舞台が無事終わったことを喜んでくれていた。

 そしてよっちゃんは、ステージが終わるやいなや、楽屋に飛んで来て、一言「感動した。」と言ってくれた。あの辛口が、そんなことを言ってくれるなんて、私は心の底から嬉しかった。ブリュッセル四年間の成果が出し切れて、本当に良かった。Mr.カワソメからは、「曲の完成度も高かったし、だてに四年も留学してないな、という感じだったよ。」とお褒めの言葉をいただき、感激する。近所のおばちゃんたちは、「現代曲が、あんなに素敵だなんて。」と言ってくれたり、コヤマ君の話では、後輩たちは、「留学しただけであんな風な演奏ができるようになるのかな〜。留学したいな〜。」と言ってくれていた模様である。

 私は終わった安堵感と共に、心の底から感謝をしていた。両親、妹、そして来ていてくれたであろう、亡きおばあちゃんと師匠のてっちゃん。そして全ての、応援してくれた皆様方に。

2017年8月 9日 (水)

続編九 コンクール、コンクール

 さて、無事に帰国リサイタルが終わってからというもの、私はホッとしてなどいられなかった。終わってからの一週間は、本当に早い。ウッカリすると、一日分くらいの勢いで過ぎてしまう。翌日からは、山のような花束の整理、そして片付け、来て下さった皆様へのお礼に、礼状書き。これで三日は過ぎる。終わったその日は興奮して眠れないから、疲れがやっと癒えてくるのは、三、四日を過ぎたあたりからである。

 ピアノをまともに再開することができたのは、十日後だった。私の次の目標は、浜松の国際コンクールである。それから、新しく出来たトッパンホールのこけら落としの演奏家募集にも応募した。これには、三百五十六名の応募者のうち、三十九名の中に残り、テープ審査が通ったのでびっくりした。確かその後更に十二名の中に絞られたように思う。お見合いの君は自分のことのように喜んでくれて、私は感激した。反対に高校時代の彼は、同級生の定めなのか、ライバル意識をむき出しにして、へえ〜、すごいじゃん。くらいにしか言ってこない。彼は、リサイタル終了後、私に対して少し刺々しくなっていたから、ヤキモチを焼いていたのかもしれない。よっちゃんはというと、合格通知を告げると、おぉ〜?それはそれは!と、大笑いをしてひょうきんに喜んでくれた。皆、個性それぞれである。

 リサイタルに来られなかったのは、残業で抜けられなかったお見合いの君と、確か海外にいた東北の彼もそうであったのだけれど、東北の彼は何週間か後にタイから帰って連絡をくれて、久々にデートをしている。彼からは相変わらず、仕事に対する自信に満ち溢れる話を聞かされて、楽しかった。けれどもう、今となっては私たちは、お互いに別々の世界へと歩み出していた。残る気持ちは、お互いを応援する心のみ。こういうのもまた、いいもんである。彼にはその後、よく恋愛相談にも乗ってもらった。結婚したら絶対に連絡をくれと言われていたのでメールをしたが、心からお祝いしてもらったのを覚えている。でもそこから何十年もご無沙汰となり、つい最近、久しぶりに再会をした。

 話は戻るが、私はコヤマ君にも誘われて、珈琲屋の演奏会に出たりした。コンクール用の曲を披露してきたのだ。そして彼もピアノを弾いている。彼はとてもいいものを持っているのに、埋もれてしまうのはもったいない、と日記には書かれている。純粋に音楽を愛し、毎日地道に、生きるための努力をしている人。私は結局のところ、そんな夫に惹かれたのだ。やはり、音楽をやっている身としては、同業者であり、音楽を知り、愛している人が一番安らいだ。まあ、後日談なので、それは置いといて。

 私は色々なコンクールを探しながら、少しずつチャレンジをしていた。浜松国際には、よっちゃんにぜひ見せてあげたくて一緒に行ったのだけれど、ヨーロッパのそれとは違い、コンクールの雰囲気は全然面白くなかった。私はモーツァルトのソナタと、ショパンのバラードを弾いたが、体調もイマイチで、パッとしない出来であった。結果は、もちろん不合格。やっぱりな、という感じ。審査員の中村紘子さんに会えただけで想い出に残った。コンクールとは、スポーツだ。しかも、短距離走である。

 トッパンホールのオーディションは、その一週間後。この日はコンディションも良く、順調だったのだが、行き先を間違えてまさかの遅刻。心中慌てているし、たまたま一緒の受験者だった女性はべらべら喋りかけてくるし、集中したいのに、散々だった。でも、本番はなんとか自分らしく弾けて、一箇所ミスって飛んでしまって悔しかったところを除けば、プーランクもバーバーも、リサイタルの時よりも落ち着いた演奏が出来たように思う。

 弾いたあとに質問を受けたのだが、「バーバーと、プーランクの音色は、変えますか?」との問いに、私は面食らってしまった。どう応えたのかは、全然覚えていない。そりゃ、変えたいと努力はします、とでも言ったのだろうか。結果は、残念ながらこれまた不合格であった。しかし私は予想が出来ており、次行ってみよ〜、次!と、前向きである。コンクールなんて、そんな気持ちでなかったら、やっていられない。そして反面、コンクールって結構面白いな、という気持ちも出てきていた。手応えはあったし、他の演奏者を聴いていても、自分も引けを取っていないぞ、と思えたからだ。

 そして、友人ユキから国際電話をもらい、ブリュッセルでも無事に今年の試験が終わり、何でも今年は厳しくて、あんなに上手なキボウちゃんが落第し、ユキたちは満場一致で合格したことを知らされる。

 本当に、音楽の世界とは深く、厳しく、そして面白いものである。

 私はぼちぼち日本での活動が増し、そんな中、私が以前バイトをしていたショットバーからお声がかかり、夜のステージで演奏をしてくれないか、という話をもらうのである。

2017年8月10日 (木)

続編十 マッカーサーでの演奏

 厚木のショットバー。知る人ぞ知る、昔っからある掘っ立て小屋、マッカーサーギャレッジである。

 私は音大生の頃、そこでバイトをしていた。そこにはマッカーサー元帥が乗ったキャデラックや、グランドピアノが置いてあり、たくさんの若者たちが集っていた。昔はもう少し大人っぽい場所だったと思うが、今は本当に、若者たちのたむろう場所と化している。

 そこの社長がなかなかの気まぐれ屋で、普段はジャズバンドが生演奏していたのだが、急に何を思いついたのか、クラシックピアノを演奏してくれ、と言い出した。そこで私のことを思いついた、という訳である。週に二、三回。夜六時か七時から、十一時半くらいまで、何ステージかに分けての演奏だった。ギャラは六千円。安いが、仕事のない私は何でもやる勢いだったので、二つ返事で引き受けた。「今日の演奏」と言って、外には黒板が立てかけられたので、私の名前も書かれた。面白いことに、それをフラッと通りがかったコヤマ君はしっかりと目撃していて、ミヤっさんも食ってくのに大変だなァ。なんて思っていたそうである。

 ここでの演奏は、一年くらい続けた。そのうち気まぐれな社長は、今度はDJバーにするからと言って、クラシックはおしまい。ということになったのである。ここで演奏することについては、よっちゃん始め、高校の彼なども最初は猛烈に反対をしてきた。仕事が来て喜んでいた私としては、びっくりした。なんだそりゃ。夜に、ショットバーでやるって言うのがそんなに嫌なんですかい。私が素直に言うことを聞く訳がないので、そんなことはスルーして仕事に出た。結局、家の遠いよっちゃんは一度も聴きに来られなかったけれど、地元である高校の彼なんかは、友達を引き連れて応援に来てくれたりしている。本当に、たくさんの友人たちが、飲みついでに聴きに来てくれた。偶然、後ろの席に座ったカップルが、小学校時代の同級生だったりもして、それをきっかけに、クラス会をやろうと言うことにもなる。

 演奏中にアンリオ先生の訃報が入った日は、動揺を隠しきれず、それでも演奏しながら、想いを込めて先生に捧げた。

 マッカーサーでの演奏は、楽しいことも多かったが、やっぱり私にとって、夜遅くまで演奏をするというのは体力的にキツかった。一年経って、そろそろ終わりと告げられた時はホッとした。その頃は生徒も増え、他の演奏活動も入っていたりしていたので、ちょうど良かったのだ。

 石の上にも三年、と言うが、日本に帰って三年も経つ頃には、私はモーレツに忙しくなっていた。その前後、本当にいろいろなことがあった。夫と暮らしてどうしても生活のためにお金が必要になり、毎朝配達の仕事をやった時もある。お金には本当に、始終苦労させられたが、こうして今思い返すと良い思い出だ。人生、山あり谷あり。常に修行。金よりも、愛と冒険である。

 そういうわけで、リサイタル後の私はボヤボヤしている暇などなかった。

 そしてその夏には忘れられない出来事、十才のエヴァの来日がやって来る。

2017年8月11日 (金)

続編十一 エヴァ来日

 二〇〇〇年、八月十五日。ベルギーから一人、飛行機に乗って、十才のエヴァがやって来た。彼女は毎夏、スタージュ(合宿のようなもの)に各国へ行っていたから、一人旅には慣れっこである。添乗員さんに付き添われて、長いフライトを存分に楽しんだらしく、元気一杯にゲートから顔を出した。

 私よりも背が高くなったエヴァは、ずいぶんお姉さんになり、いっそう可愛らしくなっていた。が、中身は全く変わっていなかった。図体がデカイし、顔立ちも大人びているので、はたから見ると十五才ほどに見えるが、始終後ろからケリを入れてきたり、よっちゃんに肩車してもらって大はしゃぎしている彼女は、周囲の人々をギョッとさせた。異様な目で見ているおばさま方に向かって、よっちゃんは「いやぁ〜、この子、まだ十才なんですよ〜。」と言ってまわらなければならないほどであった。こんなにおてんばで、やんちゃ盛りのエヴァだったが、彼女が実際十六才頃になって再会した時には、もうすっかり落ち着いてしまっていたので、何だかホッとしたような、寂しいような気持ちになったものである。

 とにかく、彼女に「時差ボケ」などと言う文字はなかった。

 暑い日本にもめげず、夏バテなどにも縁がなく、はしゃぎどおし。見るもの全てが物珍しく、日本の街並みは美しい!と叫んでいた。そうかな?ヨーロッパの方が、景観は素晴らしいのに。そして、コンビニに入っては、Oh〜!エアーコンディショネ!(エアコンのことね)と言って感動し、駅でティッシュ配りの人を見てスルーする私を見ては、「その方がいい。どうせ、お金を取られるからね。」と言って偉そうに頷き、タダだよ?と教えてあげると「何故もらわないんだカオル!」と言って、いっぱい受け取りに行っていた。

 エヴァはほとんど我が家に泊まることになったので、私は彼女が来るまでの間、実家の片付けに必死だった。七月は、たいていが片付けとリフォーム作業に追われた。エヴァの寝る部屋にもベッドを置いて、整えてやらねばならなかった。そんな忙しい私に、高校時代の彼は寂しん坊となり、それからお見合いの君とはこの頃すでに、かなりご無沙汰となっていた。高校の彼には一度、プロポーズしてもらっているのだが、なんやかやと誤魔化してしまった。申し訳ない。彼とはケンカが大変多く、仲良しの時とそうでない時のギャップが激しかった。だからちょっと、躊躇してしまっていたのが本音である。

 カンのいいよっちゃんには、「ちょっとカオルちゃん、ウワキしてる場合じゃないよ!二年後、結婚するからね!」と言われて、超驚いている私。すげー。やっぱりこの人、ただものじゃないな。まあ、私がわかりやすいんだろうけれど。でもとにかくその夏は、エヴァの接待で、よっちゃんとガッツリ、スクラムを組んだ。私の両親とユリコはエヴァを大変可愛がり、ユリコの彼氏であるぶんちゃんと、その妹のトモちゃんとも、エヴァは大の仲良しとなった。トモちゃんとは年も離れているのに、まるで大親友のように、日本語とフランス語とで会話をしていた。

 一度、草津に、みんなで旅行に行ったのだけれど、この時、私の父とよっちゃんの折り合いが悪く、散々な結果になった。どちらが悪いわけでもなかったが、大ゲンカとなってしまったのである。まさに、性格が合わないとは、このことである。でもそんな時も、エヴァとトモコは一向に構わず、二人で辞書を見ながらクスクス笑っていた。

 エヴァは体力が有り余っていたので、毎日いろいろなところに連れて行ってやった。大山でケーブルカーに乗って滝を見たり、水族館に行ったり、隅田川の花火大会に行ったり。浴衣を着せてもらって大喜びし、書道をしたり、百円ショップでたくさんお土産を買い込んだりしていた。彼女はおてんばだったけれど、本当は美味しくない食べ物を「美味しい」と言って気を遣いながら食べたりする、ちょっと大人びたところもあったりした。ヨーロッパの子どもらしい、気配りである。「実はね、カオル…」と言って、後でそっと教えてくれた。でも、我が家で食べる料理はどれもお気に召したようで、特にお米が大好きで、上手にお箸を使いながら、美味しそうによく食べていた。

 よっちゃんと私は、最後に、エヴァがどうしても見たいと言っていた相撲の稽古場に連れて行ってあげたのだけれど、それはそれは大喜びで、前日の夜は興奮のあまりに一時頃まで寝なかった。朝稽古の見学だったのだけれど、その間、彼女の目は輝きっぱなし。いいお土産になって良かった。そこでご馳走になった、ちゃんこ鍋がまた美味しくて、その後、お相撲さんと一緒に写真を撮ったり、サインをもらったりして、彼女は大満足であった。

 最後の夜、彼女は私と、暗い天井を見つめながら、布団の中でこっそりと語り合った。また、エヴァが二十歳になったら日本へおいで。その頃はもっとお姉さんになっているだろうから、京都へも行けるし、きっともっと違った目で楽しめると思うよ。そう言うとエヴァは小さな声で、「Oui(うん)」と言い、日本から帰りたくない、と言った。

 可愛いやんちゃなエヴァは、二週間ほど滞在して、八月三十一日、またあの寒いブリュッセルへと戻って行った。その間、帰りたくないと言い通しであった。

 が、我らは、彼女という台風が去った後、やって来た静寂の幸せを噛みしめながら、よっちゃん共々、ノックアウトした。相当疲れた。彼女がいなくなったのは寂しかったが、それでも自分のペースで動けるのが、こんなに幸せなことだったなんて。と、日記には書いてある。何年か後になって、我が娘、女王なっちんがこの世にやって来てからは、再度、いかに今までが自由な時間だったのかと、痛感させられることになるのだが。

 エヴァに次に会うことになるのは、夫と一緒に行ったベルギーでとなる。二度、渡欧しているから、彼女が十一才の時と、十六才の時だったと思う。

 今はもう、彼女も二十六、七。ずいぶん会っていないが、美しくなっているに違いない。そして多分、彼女は両親と同じように、医学の道を志しているはずである。たまにメールをするが、カオルはいつ、ヨーロッパに来るんだと言われている。お父さんのオリビエは、その後ベンチュラと離婚し、直後に傷心の旅で来日して、私と夫の新居に泊まりに来ている。ベンチュラといえば、新しい夫と最近、日本へ遊びに来た。

 そのように、実に自由なヨーロピアンスタイルの、エヴァ一家。

 彼女が去ってから、私はホッとして、今度は逆にヒマになり、何だかものすごく悩むことになってしまうのである。
 

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2017年8月12日 (土)

続編十二 ホームページ開設

 さて、エヴァが帰ってしまった後。 

 帰国半年後の五月にリサイタルを終え、夏休みのエヴァ来日まで駆け抜けた私は、ここで急にぽっかりとヒマになった。

 いや、正確に言うと、時間は前からあった。ヒマと言うよりも、目標を失ったのである。アレ?私は次に、何をすればいいんだ?と言う感じ。これには参った。私は漠然とした不安を抱えるようになった。

 秋になり、すっかり涼しくなる頃まで、私はとりあえず、父が買ってきたパソコンにハマることにした。ブラインドタッチの練習、メールの設定、それから、ホームページの作成。これは、その分野では得意中の得意である、高校の彼氏に教えてもらいながら、頑張って自分で立ち上げた。マニアなフロントページソフトを使って、一から作るので本当に大変だった。十一月二十六日。記念すべき、我がホームページの開設である。その後、少しずつページを増やしながら、リニューアルを繰り返して、現在へと続いている。

 まだブリュッセルに残っていた友人のユキとも、連絡が取りやすくなった。その頃彼女も、現地でネットを始めていたのである。世界が急に近くなり、ネットワークは広がった。そしてそんな中、友人ののらは赤ちゃんを身ごもり、先輩のアキカさんからも、結婚の報告が届く。彼女は日本で出会った彼と結婚したのだけれど、お二人の幸せそうな葉書に、私は嬉しくなった。

 一方私は、お見合いの君とこの頃、別れている。彼とはエヴァが帰った後、メールや電話だけとなっており、二ヶ月ぶりに会ってみたのだけれど、やっぱり私はこの人と結婚することはできないと確信したのだった。なかなか別れられなかったのは、彼がとても気のいい人だったので、いちいちタイミングを逃してしまっていたからである。最後の最後に、彼からは、私の結婚直前の演奏会の時に、大きな花束が届いてびっくりした。万歳、と書いてあった。それっきり、彼がどうしているかは、わからない。どうか幸せに暮らしていて欲しい。と、遊び人の男みたいに勝手なことを思う。

 十月下旬には、夫の師匠の演奏会を、表参道まで聴きに行った。

 そこで私は連れて行ったよっちゃんを、初めて夫に紹介している。

 ああ、早く身を固めたい…と思ったのを覚えているのだが、その帰りに私は高校の彼とも会っていて、罪悪感に襲われる。この頃はまさに、私生活の方でも目標が定まらず、二人の彼の間で揺れ動いている絶頂期であった。仕事も、プライベートも、半端な時期。でも、リサイタルのマネジメントをしてくれたマツザキさんは、新しい演奏の仕事をくれたり、ホルンの先輩からも伴奏の仕事を頼まれたり、また甲府での演奏が入ったりと、音楽活動はぼちぼち進んでいた。

 私の二〇〇〇年の秋は、そのようにして過ぎて行った。そして年末。

 その頃の私には想像もつかなかったのだけれど、新しい世紀と共に、私の生活もガラリと変わろうとしていた。二十一世紀は、まさに古き良き時代から、全く新しい時代への幕開けとなった。

 私の生活は、のらくらと前に進みつつも、確実に今に向かって歩み出すのである。

2017年8月13日 (日)

続編十三 二十一世紀の幕開け

 二十一世紀です!二〇〇一年です!おめでとうございます。

 と、十六年後に書いているのは何だか変な気もするけれど、とにかく、輝かしい二十一世紀の幕開けであった。私は、妹のユリコと、恒例の五社神社への初詣に行く。

 ここの神社のおみくじは、恐ろしいくらいに良く当たるのである。だからこの年も、ドキドキしながら本気で引いた。去年は、「恋愛、今の人が最上。迷うな。」であったが、今年はと言うと、「恋愛、うまくいかず。願い事、二つを叶えようとすると悪ろし。」であった。う〜む、恐ろしや、五社神社。果たして私の恋の行方はどうなるのか。

 そして私は、二十九才の誕生日を迎える。三十までのカウントダウンだ。ここだけの話だが、私は三十になる日の三日前、男泣き…いや、女泣きに泣いた。年を取るのが悲しかったのではない。勉強に一心不乱だった二十代の自分に別れを告げ、まだ、仕事も恋愛も未完成なその時、三十の大台に上がってしまうことが、どうにもこうにも不安でたまらなかったのである。

 私はこの冬から、水泳にハマった。自由な時間を利用して、せっせとプールに通う。春からは収入もだいぶ安定してきて、(と言っても、想像を絶する低額だけど。)私は憧れのジムにも通い始めた。

 春がやって来るまでに、いくつかの本番もあった。マツザキさんのプロデュースで、ヴァイオリン、チェロ、ピアノとで組み、茨城と埼玉で、映画音楽のコンサートをやったりした。一緒に組んだ、ヴァイオリニストの男の子がとっても爽やかでカッコ良くて、あ〜こんな人憧れるけど、私みたいなオンナにはとうてい、ムリムリ。なんて、日記には書いてある。彼らとの合わせは楽しかった。雪の日に新宿まで出て行って、リベルタンゴを合わせたり。映画音楽とは言っても、彼らの溢れる音楽性に触れていると、時間があっという間に流れた。茨城にはちょうど友人ののらが越していたので、本番前には一泊世話になった。彼女には可愛い赤ちゃんが生まれており、ああ、私も早くこんな赤ちゃん欲しいな!と思ったのを覚えている。

 仕事の方は、春になって急に軌道に乗り始めた。また地元紙の取材申し込みが入り、大きく記事が載ったので、それを見たレッスン問い合わせの電話が新聞社にたくさん入ったのである。自分で一生懸命に作った生徒募集のチラシなんかよりもよっぽど効果があったので、何だかむなしくもなったが、まあいい。そしてこの時に入った小さな生徒たちは皆、後々までずっと交流が続き、今でも発表会や、合宿などのイベントを手伝ってくれている。そのうちのサヤちゃんは、私たちの結婚式のリングガールをやってくれて、今では立派な幼稚園の先生として働き始めている。時の経つのは、本当に早いもんである。

 この年に、私はショーコちゃんという生徒を初めてコンクールに出した。いきなり、神奈川音楽コンクールなどと、大きいものに出場させてしまったのだけれど、これは生徒共々とてもいい勉強になった。コンクールは、教える側もその特色をよく知っておかないとならないものである。その後、厚木コンクールの存在を知り、地元での挑戦に力を入れるようになっていく。

 かなコン(神奈川音楽コンクール)と言えば、私もその春、シニア部門でチャレンジをしてみている。ちなみにこのコンクールでは、後々親友になるピアニストのマリコが一位をとり、ちょうど私が帰国する直前に、オケと一緒にコンチェルトを弾いているので、私の母は彼女の舞台を聴きに行っている。彼女はその後、ドイツ留学をしているが、当時私は彼女とはまだ友達になっておらず、母親同士がご近所さんということで、仲が良かった。私はブリュッセルで、母から、マリコがベートーヴェンの皇帝を弾いた話を興味深く聞いたのをとてもよく覚えている。

 私がかなコンを受けた時には偶然一緒に、パリに留学していた友人の男の子も受けていたが、私たちは揃って落とされた。五分という短い時間内にいまいち、ピアノの具合がつかめなくて、音を出し切れなかった。これを最後に、私はコンクールに出ることをやめたはずだ。小さい頃も何度か挑戦して、予選を通過程度はしているけれど、結局、私はコンクールという場で成績をおさめられたことはなかった。向いてないな。と、薄々感づいていた頃である。もうやめよう。それよりも聴いている人たちに、喜んでもらえるような舞台を目指そう。そして自分の代わりに生徒たちを育ててあげよう。その後、本当に自分の生徒たちが入賞をするようになった時、私は心の底から嬉しかった。

 妹のユリコと、彼氏のぶんちゃんは、春に一ヶ月の欧州放浪の旅に出た。そして友人のユキからも、コンセルヴァトワールのシステムが変わり、何でも、音楽院から、ユニバーシティになるのだと聞かされる。なんだそれは。多分、外国人排除のために、音楽とは関係のない法学などの一般教養も詰め込まれたらしい。旧システムに在籍していた彼女たちはその後、無事に卒業できたはずだけれど、そうやって欧州のシステムはどんどん変わって行くのであった。もったいない。

 ユキからは同時に、衝撃の報告も受けた。なんとあの恋多き彼女が、結婚することになったと言うのだ。私はびっくりしたと共に、本当か?だとしたら、ずっこけるなよ、ユキ。と願わずにはいられなかった。そして彼女の宣言はその後、真実となる。幸せなことに、いまだに離婚の報告は入っていないので、うまくやっているに違いない。

 そのようにして、状況は着実に進展して行った。私は長らく演奏していたマッカーサーでの演奏を終え、少人数ながら発表会ができるほどにはなった生徒たちのために、秋の開催を思いつき、ピアノ付き珈琲屋で働いているであろう、コヤマ君に一本の電話を入れるのである。

2017年8月14日 (月)

続編十四 珈琲屋での出会い

 ある日、ふとしたことで、生徒たちの発表会を思いついた。

 そうだ。そろそろやってみようか。小さな会くらいだったら、できるかもしれない。ちょうどあの珈琲屋さんがいい感じではないか。

 私は後輩のコヤマ君に電話を入れてみた。ちょっと相談すると、ボクがお店に話を通しておいてあげるよ。と気のいい返事をもらえる。その時は自分一人でやるつもりでいたのだけれど、後々、彼の生徒さんも一人だけ、一緒に出してもらえないか、と頼まれ、それならば一緒に進行しよう、と言うことになる。おおよその察しはつくとは思うけれど、この話が出てから、私たちは会う回数も増え、お互いに少しずつ惹かれあい…と言いたいところだけど、そこは私の完璧な片思いで、事は進んで行くようになるのである。

 私は何度かその珈琲屋さんのオーナーとお話しをしながら、発表会の打ち合わせをした。彼女は音楽家が大好きなので、夫も大変好かれており、私たちは本当にお世話になっている。彼女の息子のヴァイオリニストあっちゃんは、パリから戻って来て、後ほど私たちと親友になるのだが、彼の買ってきたビールやワインを、夫はバイト仲間たちとこっそり、珈琲屋の冷蔵庫から拝借し、後で呑気なあっちゃんは「あれぇ、確かここに入れといたはずなのに、おかしいな?」と言って首を傾げていた。裏で知らんぷりをしていたのは、悪いコヤマ君たちである。

 この店ではもう一人、親友となる重要人物にも出会う。ロシア留学帰りのピアニスト、がんちゃんである。彼女は夫から紹介を受けたのだけれど、「ミヤっさんに、紹介したい子がいるんだ。怯えたクマのような目をした子でね。いい子なんだよ。」と言われたのが大変印象的である。背の高い、大柄のがんちゃんは、彼の言う通りに気のいい目をした、豪快によく笑う女の子であった。彼女とは今もなお、ピアニストのマリコと共に、仲良し続行中である。本当にこの店は雰囲気の良いところで、ついつい長居したくなってしまう場所だった。私はよくここに入り浸り、いろんなお客さんと話をしたものである。

 私はそれまでのマッカーサーに代わって、何となしにくつろげる場所が出来たのだけれど、一方で、高校の彼氏とはケンカ三昧で、仲直りを繰り返してはぶつかっていた。後半はほぼ、会うたびにケンカになっているから、同級生というのは大変である。仲の良い時はすごくいいんだけれど、いちいち消耗してやっていられない。大学時代にも一度、ケンカの多い彼と付き合っていたことがあるんだけど、もうこの年になるとなるべくならば、要らぬ体力は使いたくない。

 そして私は実家でも、両親との同居に限界を感じていた。母はちょうど体調が不安定な時期だったようで、この頃は不機嫌な日が多く、私のような勝手で気の利かない娘に腹をたてることが多かった。いろいろとうまくいかないことが多い時期で、私にとっては、コヤマ君をはじめ新しい友人たちとの出会いは、唯一の心の支えであり、楽しみでもあった。何といっても、音楽をわかってくれる人たちと一緒にいることは、心強かった。もう一度あの頃の生活に戻れるような気がして、ワクワクしていたのかもしれない。

 コヤマ君との初めての打ち合わせと、連弾をしたのもこの時期。六月の下旬である。

 この日は体調が悪くて疲れていたのだけれど、彼との連弾はとっても楽しかった。音楽漬けで、久しぶりに幸せを感じている私。彼はとても多くの曲をレパートリーにしているようで、私は何だか恥ずかしかった。この時はまだ、さすがに気の多い私も、夫のことは好印象ではあったが、心臓に矢までは刺さっていない。けれども本当に久しぶりに音楽を知る男の子に出会って、すごく嬉しかったのは確かである。

 そしてこの月、私はこれまた久しぶりに、大物の演奏会へと出かけた。アリシア・デ・ラローチャ。私の大好きな、ピアニストである。

2017年8月15日 (火)

続編十五 ラローチャの演奏会

 二〇〇一年、六月十日。私は、アリシア・デ・ラローチャの、時の記念コンサートに出かけた。もう、ウキウキだった。

 彼女の演奏会は、大学一年の、まだ何も音楽についてわかっていなかった頃、友人と一緒に聴きに行った以来である。でもその時は確か、ベートーヴェンプログラムであった。そのため師匠てっちゃんに、「彼女のベートーヴェンねぇ…。やっぱりラローチャは、スペインものじゃないとねぇ。」と言われたのを覚えている。けれどその頃の私には、一体どうしてベートーヴェンじゃあダメなのか、演奏を聴いてみてもサッパリわからなかった。それから私はブリュッセルで、スペインもののグラナドスを勉強し、それが十八番であるラローチャの演奏をCDで聴いて、ようやく彼女の素晴らしさがわかり、大ファンになっていたのである。

 彼女の演奏会は、後に夫と一緒に、日本公演さよならコンサートへも行ったが、それが本当に、私が聴けたラローチャの最後の演奏となってしまった。最後の舞台は、彼女らしい、温かいものであったけれど、もう八十を越えてずいぶんお婆ちゃんになっていて、ステージで倒れちゃうんじゃないかとハラハラした。でもパワーは失ってはいたものの、半分あの世に足を突っ込んでる境地に達した演奏はまた素晴らしくて、涙が出た。そして二〇〇一年のコンサートでは、まだいくらか彼女は元気で、若々しい演奏だったと思う。

 私はよっちゃんに、九千円の席を譲ってもらい(席が離れていたのだ)、聴く前からワクワクを隠せずにいた。

 彼女が舞台に現れた時、何て小さい人なんだろう!と驚いた。昔聴いた時は、後ろの方の席だったので、わからなかったのである。身長は、一四四センチくらいしかないと言う。手も、オクターブがやっと届くくらいしかない、小さなピアニストだ。それなのに彼女の演奏は、その容姿まで大きく見せるほど偉大であった。

 ダイナミックな演奏ではない。テクニックで圧倒させるわけでもない。ただただ、ひたすら、音楽を愛した、純朴な演奏。温かい音。多彩な音色。余計なものの何もない、素晴らしい演奏であった。私は聴いていて涙が溢れた。どうしてこんな演奏ができるのだろう。彼女の中に、詩が流れているのだ。私、聴きに来て良かった。よっちゃんありがとう。

 この時のプログラムを今、必死に思い出そうとしているのだが、どうしても思い出せない。でもスペインものを弾いてくれたことは、確かである。やはり、大物の演奏会には、定期的に行かなければダメだ。音楽の真髄に触れて、そこに手を伸ばせば届きそうな気持ち。今、よく夫が「もしも宇宙が滅びても、音楽だけは残って欲しい」と言うけれど、本当にそう思う。私は音楽にたずさわることができて、幸せだった。そして、共に音楽を愛する人と出会えたことも。

 ラローチャの演奏会が過ぎ、七月もまた、音楽会は続く。

 私は珈琲屋で開かれた、コヤマ君たちの演奏会を聴きに行く約束をしていた。

2017年8月16日 (水)

続編十六 珈琲屋での演奏会

 暑い暑い、梅雨明けの七月。

 私は、実家の庭で、トマトの栽培に追われていた。暑くてピアノをさらう気になれず、伸びるトマトと格闘しながら、プールに行ってリフレッシュしていた。ああ、何て呑気な午後。トマトまではいいけど、平日プールなんか行って泳ぐことなど、今はなかなか出来ない。時間があるって、素晴らしいことである。

 それでも時間はたっぷりある、と思っていたのに、気が付いたらもう、演奏会の時間になってしまった。七時より、珈琲屋へ。その日は後輩のコヤマ君らの演奏会であった。ヴァイオリンに、歌に、ピアノソロ。誰が演奏したのかは忘れたが、はっきり言って、ピアノソロ以外は全然よくなかった。

 コヤマ君はこの時、バッハを弾いたのだけれど、すごく上手くて感心した。私にはなかなかあんな風に、整然としたバッハが弾けない。彼の中には理性的ながらも、内に秘めた芯の強さと、遊び心が流れている。感心したと同時に、私は彼の音楽をすごく大事にしたくなってきて、「良かったよ!」と言って、ポケットに千円札を一枚、押し込んだ。え〜、いいよいいよ。と彼は言ったけれど、結局嬉しそうに受け取ってくれた。確かこのコンサートは、感動した分だけを寄付するような催しで、空き缶が置いてあったような気がするが、私は、気に入らない他の演奏者には渡すもんかと思い、直接彼に受け取って欲しかったために渡したんじゃないかな、と思う。

 その日、確か演奏会が終わってから最後に余興として演奏をしていた、モリ君と言う男の子にも出会った。背の高い、一九〇センチはあるであろう、ハンサムな彼。彼の奏でる音楽もまた、異色で、独特の音色を放っていた。実に繊細な演奏家であり、ユーモア溢れる会話の持ち主である彼とはその後、大変仲良くなり、今でもホームパーティーの時には一家に一台的な存在である。そう考えてみると、本当にこの珈琲屋さんでは、たくさんの貴重な出会いがあったものである。今はもう閉店となり、最近さら地になってしまったのが惜しまれるところだ。

 さて、この日を境に、私の心の中には、音楽を愛するピアニスト、コヤマ君が少しずつ宿るようになった。高校の彼と会っていても、何となく落ち着かない。さすがに、大御所であるよっちゃんといる時はそうでもなかったが、夢の中によくコヤマ君が出てきているから、やっぱりその存在感は日に日に大きくなってきていたのである。彼はよく私にメールをくれて、これから仙台へ一人旅するんだと言っては、楽しそうに報告をしてくれた。

 でもそれはまだ、私にとって彼は、弟のようにフワフワと心地の良い存在で、恋愛対象なのかどうかは全く確信が持てなかった。そして彼の方も後日、「ミヤっさんて、お姉ちゃんみたい。」と言っているから、多分お互いに同じように思っていたのだろう。実際、彼の一番上のお姉ちゃんと私は同じ誕生日であり、初めて彼の家族に紹介してもらったのも、偶然こちらに仕事で来ていたお姉ちゃんにであった。私は彼と結婚することになり、仲良しの四人姉弟と家族になれたことも、とても嬉しかった。

 私が彼のことをはっきりと意識して、惚れていると自覚してしまったのは、それからまもなく、発表会直前の連弾合わせをした時である。それは私にとって、衝撃の一矢であった。私は思わぬ心の展開に動揺する。そして、私のことなど何とも思っていないであろう、年下の彼に、取って食われるような恐怖心を抱かせることになるんだと思う。たぶん。

2017年8月17日 (木)

続編十七 クラス会開催

 さあ、ここから一気に夫との進展、と行きたいところだけれど、事態はそう簡単には、進まない。それがものごとの実態、と言うもんである。

 私はこの時期、クラス会を開く。発表会直前に、何をやっているんだか、バタバタと忙しかった。

 例のマッカーサーで弾いていた時に、偶然後ろに座っていたクラスメイトのおくべえが、おい、クラス会、やろうぜ。と言ってきて、その後もしつこく言ってきたので、しぶしぶ幹事を引き受けたのである。それは、小学校六年生のクラス会であった。彼の方も一緒にやるよ、と言っていたのだけれど、仕事の忙しさに、結局、私が一人でほとんどやることになってしまった。まあ、学級委員だったし、いいんだけど。とにかく、それが六年生の旧友たちの、初めての集まりとなり、その後、その会は何度も開かれている。相当、インパクトのある仲間たちだったのだと思う。お盆だったのでちょうど帰省がてら、二十人近く集まってくれて、ものすごく盛り上がった。

 三十を目前にして集まった仲間たちは、皆それぞれの今を生きていて、それはそれは面白かった。人は大人になるものだ。会った時には顔も変わっていてびっくりするが、話していて十分も経つと、全員昔の顔に戻って見えて来るから不思議である。先生もいらっしゃって、懐かしい昔話に夢中になった。チョーク入れに死んだネズミを入れたのは誰か?だとか、おくべえをストーブの囲いの中に閉じ込めて、餌をやらないで下さい、と張り紙をした話(彼は当時、モンチッチにそっくりだった)、もう出てくる話が全て愉快すぎて、皆、食べるのを忘れて話し込んでいた。

 結局、二次会は二時頃まで続き、幹事の私は働きっぱなしで、クタクタになったが楽しかった。チビの頃のメンバーは、何をやっても気取らなくていいもんである。ぶっちゃけ、東大卒のクラスメイトなどに、今の年収も躊躇せずに訊ける仲。そういうのって、なかなかない。昔の、アホな仲間にカンパイである。そして私は帰り道、NHK特派員をやってる男子と東大卒の男子を送ってあげたのだが、幸せな結婚をした二人は私のことを大変心配して、始終、オマエは結婚、大丈夫なのか。早くしろよ、と言われた。余計なお世話である。

 楽しかったが疲れを引きずった次の日、私は追い打ちをかけられたかのように、コヤマ君との合わせがまた入っていた。私たちは発表会のトリに、バーバーの連弾をしようと言うことになっていたのだが、これがまた難しく、なかなか合わなかったのだ。だから私たちは発表会の九月二日がやって来るまで、毎朝お店のピアノで合わせようと言うことになった。これが、私の心の中で、彼を決定的なものにしてしまう。

 音楽とは、魔物である。一緒に奏でる相手と意気投合して恋に落ちることもあれば、その音楽感の違いに決裂してしまうこともある。

 彼はとてもいい匂いがした。女性にとって、本能的に好きか嫌いかと感じるのは嗅覚である。これに逆らって頭で判断してしまうと、絶対にうまくいかない。そして彼は、大きな、ピアニストにとっては最高の手をしていて、私はその手が大好きになった。

 自分たちの結婚に迷ったら、まず、相手の手を見てみるのがいい。本当に惚れている相手ならば、その手を見ただけで運命の人だと確信するはずである。そこそこの相手なら、まずそこまで何とも思わないはずだ。私は、夫の手は私にとって別格過ぎたからハッキリと感じとることができたが、よくわからなければ、手をつないでみるといいと思う。フワーッと熱い何かが込み上げて来て、ああ、この人は優しい人だなとか、安心できる人だなとか、実は冷たい人だとわかってしまったり、何もこれは、音楽家に限ったことじゃあなく、誰でも経験したことがあると思う。一度何かの本でそんなことが書かれているのを読んだことがあったように思うが、私は、夫の手には何かただならぬ魅力を感じる。そして、ピアノに並んで座った時、本能的に、ああ、この人だなあ、と直感した。留学を決めた時もそうだったけれど、何事も直感と本能のみで生きる女である。

 私は、久しぶりに、共に音楽を楽しめる相手と巡り会い、自分の中で何かが壊れるような、幸せと苦しみの叫び声が同時に上がったかのような感覚に陥っていた。ここまで来れば、しめたもの。雲の上の天使、なっちんは、ほくそ笑むように見守っていたであろう。彼女は私たちの間に、この瞬間を逃さず、電光を落としたのだ。間違いない。

2017年8月18日 (金)

続編十八 カオルさん、愛というものを知る

 午前中、十一時半からコヤマ君との合わせ。この日は実家のピアノで練習した。

 前日クラス会で遅かったし、だいたいにおいて夜型だった私は、とても疲れていたのだが、朝型の彼と付き合うようになってから一転せざるを得なくなる。この人はどんなに夜遅くまで遊んでいようとも、次の日の朝はシャキッと起き上がれるから羨ましい。朝の開店前七時半頃からお店で合わせ、なんて日もあったが、私はコヤマ君に待たされたことは一回もなく、今でも夫は待ち合わせ十分前には到着している男である。 私は今じゃあ毎日規則正しい生活を送っているが、それでも娘の学校が休みとなるとあっけなく崩れてしまう。昔は明け方に寝るのなんてザラだった。若かったんだなあ。と思う。

 実家での合わせは、お昼を挟んだので、彼に素麺と、焼き鳥を出してあげた。コヤマ君は、彼のCDコレクションの中から、すごく素敵なアンコール特集を持って来て、貸してくれた。四時からバイトだったので珈琲屋まで送って行こうとしていたら、ちょっと財布を見たいから一緒に行こうよと言われ、何だか少し、嬉しかった。デートみたい。

 珈琲屋では、スタッフの人たちとだんだん仲良しになっていた。皆、私が顔を出すと、喜んで迎えてくれた。そして私はこの時、人生で初めて、大切なことに気付いている。

 コヤマ君。彼と一緒にいると、私はすごく優しい気持ちになれる。それはどうしてだろう。

 彼の目がとても純粋だから、惹かれるのかもしれない。

 そして私は、これまでの人生で、誰かと付き合う時、相手から何かを与えてもらうことばかりを期待していたことに気が付いた。

 私は今まで、誰かに与えることをしていただろうか。高校の彼氏とはケンカばかりで、お互いに、自分の期待を相手に求めることばかりを要求していたのだ。私は彼に、何を与えてあげたんだろう。よっちゃんは少し大人で、そんな私を大目に見てくれているからうまくいっていたのかもしれない。少なくとも私は、よっちゃんに甘えていた。そして彼の方は、私の心を自分が心底キャッチできていない不安を覚えていた。

 私はこの時初めてそうした自分に気付き、そして今、目の前にいるコヤマ君に、むしろ与えてもらうよりも与えてあげたいと思っている自分がいることを知った。別にそれは、尽くし子ちゃんになりたい、と思ったわけではない。ごく自然に、自分から、相手に対して自分の出来ることをしてあげたい。と思ったのである。これは、愛情というものであった。そう、自分の子どもに対して、全ての母親が自然と感じる、愛情。それと同じである。何の打算もなく、何の見返りも期待せず、ただひたすら、自然とそれが出来る相手というものは、存在するのだ。私はびっくりしたと共に、今までの自分を深く反省した。私は何と勝手な女だったのか。まあ、今でも勝手きままであることには変わりないんだけど。そしてそんな私を見てもまた、夫も「変われ」とは強要しない。私も彼に対してそう望んだことはない。それが、相手に対する愛情であり、思いやりである。私は本来が自分勝手なので、誰とでもそれを成り立たせることができない。コヤマ君との出会いは衝撃であり、私の中で、何かがガラガラと音を立てて変わって行ったのである。

 私は、自分が壊れてしまいそうだった。コヤマ君と一緒にいて、その目を見ていると、身体が粉々になって張り裂けそうになった。だから、高校の彼に会って欲しかった。そして受け止めて欲しかった。けれど、その願いは叶わなかった。彼に連絡を入れて、会ったのだけれど、もう私の中に彼はいなかった。お互いがすれ違い、限界を感じていた。そして、私たちは話し合い、しばらく離れていようと言うことになった。

 私の心は、激動の中にいた。そんな中でも、ずっと一緒に、それこそ六年間も一緒だったよっちゃんとは、最後まで離れられずにいた。彼と別れる理由なんて、何もなかった。でもそれは、裏を返せば、どうにかしてでも一緒になりたい、という意識もまた、失われていたということなのかもしれない。

 そして運命とは渦巻きのように、グイグイと予測不可能な方向へと進んで行くのである。嗚呼、我が娘なっちんのパワー、恐ろしや。

2017年8月19日 (土)

続編十九 珈琲屋での発表会

 二〇〇一年、九月二日、日曜日。

 この日はいい天気で、爽やかな秋晴れとなった。嬉しい。記念すべき、我が教室の、第一回門下発表会である。初めてだから右も左もわからず、プログラムを手作りし、気持ちばかりの記念品を用意して、アットホームな司会進行のミニコンサートを行った。

 朝九時頃から生徒たちが珈琲屋に入り始め、バタバタと忙しくなる。貸切で五〜六十席くらいの店内は、満席となった。忙しくコーヒー豆を挽く音がする。私は写真撮影を、妹の彼氏であるぶんちゃんのお父様にお願いしていた。彼は写真家であり、プロだったのであるが、実に快く引き受けて下さり、お祝いだと言っていただいた。お父様にはその後、私の演奏会のチラシ写真なども撮っていただいたりして、大変お世話になっている。

 そして私の初めての発表会は、コヤマ君の助っ人もあり、順調に進んで行った。

 しかし、司会進行をしながら生徒たちを見守り、その中で自分も最後に弾くということは、ものすごくパワーを要し、大変なことであると、その日初めて私は知った。無事終わった時には、私は精も根も尽き果てて、ヘトヘトになってしまった。

 それでも生徒たちは皆、とても上手に弾いてくれて、子どもたちの本番の強さに感動した。珈琲屋のみんなやオーナーにも、選曲も楽しかったし、生徒たちのレベルも高くて、素敵な会だったと褒めてもらえる。コヤマ君からも、ミヤっさん、ちゃあんと子どもたちに教えているね。と言われ、なんだか嬉しかった。この日、出演した可愛い生徒たちは、アヤカちゃん、サヤちゃん、ショーコちゃん、イクミちゃんたちをはじめ、コヤマ君の生徒さんを入れて十二名。あの時は会場をウロチョロとして幼かった子たちも、今では立派な大人になり、このブログでも読んで笑っているだろう。時間の経つのは早い。そして私たちのソロと連弾も無事、成功して、ひと段落。ドッと疲れが出て、コヤマ邸アパートでの二人打ち上げとなった。

 本番が終わった後というのは、本当に嬉しくてハイになるものである。私たちはワインで乾杯をした。もうピアノはいいよね〜と言っていたのに、結局、二人でいろんなCDを聴きまくり、一休みしてから買い出しに出かけ、ニョッキやおつまみを色々作っては食べた。コヤマ君は料理がとてもうまいので、こういう時、彼もヒョイっと軽く作ってくれる、マメなやつである。私は疲れもあって久々に酔っ払い、いい気分だった。そして彼の部屋のベランダに出て、風にあたりながら、私だけがきっと彼に抱いている想いを、せつなく感じていた。何だか、複雑な心境だった。でもまあ、いいや。とりあえずは無事終わった本番に、乾杯である。

 そして翌日。早々にぶんちゃんのお父様は、写真を焼いてくれて、ぶんちゃんがそれを届けてくれた。とてもよく撮れていて、私は感激した。可愛い生徒たちの写真。小さな会場なので、お父さんはえらく近距離から激写していて、それがまたとっても良かった。珈琲屋の窓辺の緑と、木漏れ日が爽やかに、ピアノを弾く子どもたちと共に絵になっていた。

 それから私は、その中に写っている二枚の写真を見てハッとする。

 そこには私とコヤマ君、そして生徒との、スリーショットが収められていた。

 なんてことのない、普通の写真。

 でもその写真に写った自分たちを見て、私は突然、未来の私たちが結婚をして、我が子である小さな女の子を優しく見守っている、そんな姿がパアッと浮かんできたのである。

2017年8月20日 (日)

続編二十 直感

 コヤマ君と二人で写った写真。そして、私たちの前に写っている、可愛い女の子。

 私はこの写真を見つめていた。

 何年か先に、私たちが二人で、授業参観か何かで、我が子である女の子を優しく見守っている。そんな映像が脳裏にパアッと浮かんで消えたのである。今ならばわかるが、それは紛れもない私たちの娘、なっちんである。

 それから、最後に撮った集合写真。私とコヤマ君が真ん中に座り、生徒たちが晴れやかな顔で写っている写真。

 私は、自分たちを見て、何か漠然とした予感を感じた。

 私たちは多分、この先、ずっと一緒に人生を歩んで行くことになるだろう。そんな気がした。そしてそんな気持ちになった自分に驚き、焦った。私には霊感などないのだが、人生においてここぞという時、直感が働く時があるのだ。ごくたまに、不思議な体験をする。今出かけたら事故に遭うぞ、とか、そういう類のものである。それは多分、太古の昔から、人間に少なからず残された、第六感というものだろう。その後私は、コヤマ君のアパートに届いていた電気代の請求を見て、その瞬間自分の将来の名前も飛び込んできたりしていたので、ことごとく、雲の上の天使は私に呼びかけていたわけである。そりゃ、妄想だよ、と言う声も聞こえてこなくもないけど。

 でも何故?その時の私にはわからなかった。彼にとって私は、ただの先輩でしかないのだ。私が抱いている感情には薄々気付いているだろうが、そんな予感なんてしちゃったところで、まったく現実味をおびていない。ただひたすら、片思いがむなしくなるだけである。

 私はガッカリして、写真を見つめていた。でも、何度見ても、彼とは何か深い、きずなのような繋がりを感じる。前世があったのなら、何か縁があったのだろうか。彼とだったら、結婚をして、人生を一緒に歩んで行きたい。そう思った。こんな気持ちは初めてのことだった。それなのに彼はまだ二十六才。そんなこと、考えもしない年だろうな。日記にはそう書いてある。私が先に逝ったら夫よ、どうぞ読み返して泣いてくれ。

 私はこの先、どうしたらいいんだろう。よっちゃんとも別れられない。いや、別れた方がいいのだろうか。わからない。

 そんな私の気持ちにコヤマ君が決定的に気付いたのは、それから間もなくしてのことだった。当然、私にはよっちゃんがいることも知っているし、彼は彼で、まあ色々あっただろうから、私たちの関係は非常に曖昧なものとなった。そしてそんな中、あの痛ましいニューヨークでの、ツインタワー墜落事件も起こった。私たちはちょうど電話をしている最中で、その衝撃の瞬間を見ながら唖然とした。私とコヤマ君はその時、ベルギーへ行って、コルニル先生のレッスンを受ける計画を立てていたところだったので、海外の出来事は無関心にはいられなかった。妹のユリコは相変わらずインド方面に旅行中だったし、事態は緊迫ムード一色となった。

 世界情勢を睨みながら、私たちはベルギーへの旅行計画について話し合っていた。

 無理をしていたであろうよっちゃんは、私がコヤマ君を連れて行くことについて、意外にも寛大にオーケーしてくれた。

 今から思えば、よっちゃんの方も何か、予期していたものがあったのかもしれない。そしてもしかしたら、私とのことは多少お荷物になりかかっていて、思い切ってふっ切りたかったのかもしれない。それはわからないが、とにかく私は、コヤマ君の留学への憧れの気持ちに応えて、そろそろ戻りたいと思っていたベルギーに彼を連れて行く約束をしたのである。

 そんな心情で過ぎる毎日のある日、高校時代の彼が、連絡をしてきた。しばらく会わないつもりでいた彼。今、彼に会えば必ず、別れ話になるだろう。でも彼は、私を必要としていた。私はそれに応えるのにはもう、限界を感じていた。

2017年8月21日 (月)

続編二十一 高校の彼との別れ

 連絡を入れてきた、高校時代の彼。

 彼は今、私にどうしても会いたいと言う。仕方ない。私は、彼と会うことにした。今会えば絶対に別れ話になると思いながら。そして、私たちは、別れた。とても綺麗な別れだった。喧嘩も、罵り合いもなかった。今までのことが浮かんでは消える。でも、私にはもう、彼と続けてゆくことはできなかった。彼とはまた、いい友達に戻れるだろうか。

 私のもつれた交友関係は、その絡まった一本一本の糸を少しずつ探ってゆくかのように、解けて行った。私は真実を見始めようとしていた。自分の心の中から、東北の彼が去り、お見合いの君が去り、高校の彼も去り。そしてここで始めて私は、よっちゃんという人と向き合うことになる。四年間、共にベルギーでの生活を送り、その想い出を共有した人。私のことをよくわかっていて、大切に思ってくれているだろう、優しい彼。私はその彼をずっと裏切ってばかりいた。でも、そんな私を知っていながら、彼はなんだかんだと一緒にいてくれる。

 頭では、わかっていた。この人は大切な人だ。別れられない。それなのに、私はいざここで彼に会うと、息が詰まりそうになってしまった。心の中にはコヤマ君が入り込み、今、よっちゃんと会っていても、心はからっぽだった。今まで、こんなことはなかった。誰と付き合っていたって、また誰と別れたって、一緒にいられないと思うまで苦しく思うことなどなかった。でも、その時の私は完全にギブアップだった。水面ギリギリまで酸素を求めて顔を出す魚のよう。今の私には、コヤマ君や、珈琲屋のみんなとワイワイやっている方が気楽で楽しい。一人でいられなかった。お店のみんなに会いたかった。行ってみたら、ちょうどバイト仲間の一人のお別れ会で、深夜大宴会の真っ最中であった。

 気分転換。救われた私。心からホッとした。

 そして、煮詰まってどうにもならなくなった私は、急遽、東北に旅することにした。例の、東北の彼から連絡が入ったのである。

 私は、翌日の新幹線に飛び乗った。心の中の、ずっしりと重たい気持ちを、綺麗さっぱり洗い流して来るつもりで。

2017年8月22日 (火)

続編二十二 東北へ

 いい天気だ。急に思いついた旅には、おあつらえ向きの秋晴れ。

 旅っていい。新幹線って素敵だ。新たな気持ちになれるから。

 こうして日記を読み返してみると、東北の彼は、私の人生の所々で現れ、恋人でなくなった時も、良き友人として励ましてくれている。

 この時、彼は中国への転勤が決まり、意気揚々としていた。私は前から、三十を境に彼と会って話がしたいと思っていたので、これは昔から決められたことだったのではないかと思われるくらいだった。こうしたい、と漠然と思っていることって、叶うのかもしれない。でも、コヤマ君とのことは。その時の私には、全くわからなかった。

 東北の彼とは、温泉めぐりや、喜多方ラーメンめぐりなどをして、楽しい時を過ごした。彼は、悩み渦中の私をさりげなくフォローしてくれた。

 彼とは、お互いの人生を心から応援していたが、昔っから相手のことよりもまず自分、というスタンスであった。それが、その時の私にはよくわかった。でも、私が抱く、コヤマ君への感情は違う。全く今までの私にはなかったものだ。それだけに、私は無残に壊してしまいたくなかった。大切なガラス細工を手渡され、どうしてよいものやらわからず、不安でたまらずに、オロオロとしてしまうような気持ち。

 私は東北の温泉に浸かりながら、ぼんやりと、今までのこと、そしてこれから自分はどうしたらいいのかを考えていた。川沿いの静かな温泉は、ある意味現実から逃避できて最高だった。張りつめ、ざわついていた心が、ゆっくりと癒されるようだった。ずうっとこうしていたかったけれど、そうも言ってはいられない。私は彼に別れを告げ、月曜日の午前中の新幹線で、現実へと舞い戻った。

 帰って来た私は、幼馴染みのヨシエとミーちゃんに会う。彼女たちに話を聞いてもらいたかったが、私はうまく喋ることができなかった。私の今の複雑な心境を話したところで、とうていきちんと理解してもらえる気がしなかった。私は諦めて、珈琲屋に顔を出した。急に東北へ行くと言って出て行った私に、コヤマ君は驚いていたが、何も訊かずに迎えてくれた。むやみに詮索をしない。これが夫のステキなところであり、裏を返せば面倒臭がりなところである。

 現実に戻って来た私はもう、自分自身をどうにかしたかった。全くもって、取り扱い不能と化していた。

 そしてその翌々日。パリの友人、エミコの、帰国リサイタルが開かれた。

 私はこの日をとても楽しみにしていて、よっちゃん共々、応援に出かけた。

 そこで私とよっちゃん、コヤマ君の三人で、バッタリと、ロビーでの鉢合わせとなってしまうのである。

2017年8月23日 (水)

続編二十三 エミコのリサイタル

 友人エミコのリサイタルは、都内で行われるのかと思っていたら、なんと私の地元の会場となった。彼女は迷った挙句、集客しやすい、音大近郊に決めたらしい。彼女の地元は岡山なので、そちらでも多分、事前に開いたはずである。私はその日、午前中に珈琲屋の友達とお茶をして、それからお店で働くコヤマ君に会い、その後によっちゃんと合流をして、会場へと向かった。

 多分、よっちゃんを連れて来るとは思っていなかっただろう、コヤマ君は、ロビーで友人と一緒に私を待っていてくれて、入って来た私たちを見て、全員、固まってしまった。なんちゅうか、緊迫した空気。それに追い打ちをかけるかのように、コヤマ君は開口一番、「結婚、しないんですか?」とよっちゃんに語りかけた。よっちゃんの顔色が変わる。全くもって、しどろもどろな答え。私は、険悪としか言いようがないその場を解散とした。

 エミコの演奏は、素晴らしかった。勉強の成果が見え、フランスもののプログラムにますます磨きがかかった演奏であった。私はとっても嬉しくなり、自分もまた、頑張らなくちゃ。という気持ちになる。友人が頑張っている姿は、本当に嬉しいものだ。とてもいい演奏会であった。集客がいまひとつだったのが惜しい。私は終演後に片付けを手伝い、山のような荷物を持って、彼女をホテルへと送った。

 翌日、彼女の演奏会に刺激を受けた私は、ピアノを元気よくさらい出していた。

 その時だった。よっちゃんから電話が入り、思いがけないことを聞かされたのは。

 そういえば昨日、彼女の演奏会の打ち上げの時に、よっちゃんはファミレスで私とは別の席に座り、私の女友達の話し相手になっていた。その時、まさかの私の悪口を聞かされたのである。私の日頃の男関係の悪さに愛想を尽かした友人が、よっちゃんにその一部始終を話した。そこまでは私が悪いのであって、まあ仕方がないことなのであるが、それを友人のエミコや他の友人の名前を挙げ連ねて、皆が私のことを一線引いている、というようなことを、よっちゃんに洗いざらい喋ったのである。日頃、オトコをはべらかせていると、思わぬ友人の裏切りにあうので要注意。

 彼は気が動転して、私にそのことを伝えてしまった。それを聞いた私は一気にテンションが下がる。彼は、私が何も知らずに、みんなに笑顔で接しているのが悔しかったからだ、と言った。でも一番ガッカリしたのは彼だったろうに、そしてそれを心に押し留めているのが困難だった彼は、私に喋ってしまったのだ。

 私は途方に暮れて、ピアノなどもう弾く気にもなれず、レッスンを終えてから、抜け殻のように珈琲屋に行ってしまった。そこで会ったコヤマ君に、耐えきれずに打ち明ける。それを聞いた彼は、一言だけ、どうして彼はそのことをミヤっさんに伝えてしまうんだ。と言って、何も優しいことを言ってやれずにゴメン。というセリフと共に、自分に腹を立ててその場を立ち去ってしまう。 あんまり書くと夫は怒るけど、そういう、何というか、女に気の利いたセリフが言えない彼を初めて知った私である。

  私は翌日もらったエミコからの電話に、迷った末、その一件を伝えて、私が今までとてつもなく不愉快な思いにさせていたのだとしたら悪かった、と心から謝った。すると彼女は大変ご立腹となり、何を言っているんだ、私はカオルの男関係に呆れてはいるが、嫌ってなどいないぞ。エミコはカオルが大好きだぞ。と、愛の告白をしてもらう。友情に感動である。私は多少、元気を取り戻し、そしてまたピアノへの意欲も戻った。私が自由過ぎる恋愛に終止符を打ち、彼女いわく真人間に戻った時に、一番祝福をしてくれたのは、紛れもないこの友人、エミコである。

 とりあえずは、十月の末に再会するコルニル先生とのレッスンに向けて、新しい曲を頑張って仕上げなければならない。それから、大学で受けるペルティカローリ先生のレッスンも迫っていた。

 しかし、アメリカでの9.11テロ事件の影響で、この時、飛行機は次々とキャンセルになり、おまけに乗るつもりだったスイスエアーはつぶれると聞かされ、フライト計画が難航していた。

 そんな中、無事にインドから、元気そうな妹のユリコが帰ってきた。そして私は彼女を初めて珈琲屋に誘い、コヤマ君を紹介することになるのである。

2017年8月24日 (木)

続編二十四 ユリコ、コヤマ君と初対面

 インドから戻って来たユリコと私は、久しぶりに姉妹でショッピングを楽しんだ。一日歩きまわったのでヘトヘトになったが、よっちゃんの誕生日プレゼントに素敵な財布も見つかり、ホッとして、彼女はバイト先へ直行する。

 帰り道に旅行会社から、今度はサベナが欠航になったと連絡が入り、これは困ったぞと、次の案を練る。ちょうどそこへ、珈琲屋の店長から、千円札がなくなっちゃってヘルプの電話を受け、仕方がないので行ってあげることにした。ちょうど、コヤマ君とも旅行の件について相談をしなければならなかったし、私は千円札を何枚か用意して、出向いた。

 珈琲屋の店長はなかなかのハンサムで、マダムたちに超がつくほどの人気を誇る、これまた自他共に認めるプレイボーイだったのだが、私のことも気にいってもらっていたらしい。彼は私の顔を見ると嬉しそうにしてくれたが、私とコヤマ君の間には、先日の一件もあって、何となしに気まずい雰囲気が流れていた。それでもこのお店のメンバーはとても心地よく、私は遅くまで居座ってコーヒーを飲んでいた。

 ちょうどそこへ、バイト帰りのユリコから迎えに来てコールがかかってきたので、駅に近い珈琲屋まで来てもらうことにしたのである。私はいつも実家の年季の入ったボロ車に乗っていたのだが、それはでっかいマツダのバンだったので、マッカーサーの皆にも珈琲屋の皆にも、ミヤチバスと呼ばれていた。Mr.カワソメに至っては、オマエ、塗装屋の娘みたいだな。と言われていた。

 ユリコが店内に入って来たら、不思議なことに、彼女の雰囲気と店の雰囲気とが全く違い、彼女は店内で一人、異色なオーラを放っていた。面白いものである。そして彼女は、コヤマ君と少し喋り、後でこっそり私にこう言った。「お姉ちゃん、あの人カッコイイじゃん。知ってた?ああいうのが、カッコイイ、って言うんだよ?」

 私は笑って、そりゃどうも。私の趣味は今までどうかしてました?と言った。いや、彼らの名誉のために言っておくが、よっちゃんだって、東北の彼だって、なかなかのイイ男たちである。でも妹にとっては、コヤマ君はきっとヒットしたのであろう。そして我が妹の特技は、私の元カレたちと仲良しになってしまうことだった。今でもよっちゃんとユリコはよく会っていると思うし、何故だか彼女の不思議な草食動物的なオーラは、姉とはまた違った雰囲気で、男女共に友人がとても多い。

 それはそうと話は戻って、ヨーロッパ行きの計画は、確実に難航していた。

 私は一人あくせくしていたのだが、始めのうち、私任せにしていたコヤマ君が、そのうちやっと協力態勢に入ってくれた。フランス語を覚えるために、毎日私と仏語メールのやり取りをしたり、旅のルートを練ったり。二人で買い物にも行ったし、ペルティカローリ先生のレッスンにも行った。大学に久しぶりに顔を出した彼は、後輩たちにつかまってモテモテであった。

 レッスンが終わってから、河原で日向ぼっこをしながらフランス語を勉強し、私たちは、本当に仲の良い姉と弟のように見えたかもしれない。私たちの間には、本当に、それ以上のことはほとんど何もなかった。私はコヤマ君と穏やかな関係が続き、そして休みの日にはよっちゃんとも会っていた。

  何もない、平和な日々が続いた。そして、いよいよヨーロッパ出発の日。私は、二年ぶりに訪れるブリュッセルに、心を躍らせていた。

2017年8月25日 (金)

続編二十五 二年ぶりのヨーロッパ

 二〇〇一年、十月二十四日。私は、帰国して二年ぶりに、ヨーロッパへ再訪した。飛行機はエールフランス。テロの後だったので何かと難航したが、とにかく我々は無事、パリに着いた。もちろん、同行者はコヤマ君。シャルルドゴールに着いたとたん、私は嬉しくて、幸せに浸る。ああ、懐かしい匂い。懐かしいフランス語。私は何故、日本に帰って来てしまったんだろう!

 パリからは、ブリュッセルに向かう安いタリスのチケット(新幹線)が取れ、南駅に到着したのは夜の九時。限界の眠気であったが、エヴァのお母さんのベンチュラが迎えに来てくれて、無事、彼らのアパルトマンに着いた。エヴァとの感動の再会。疲れていたが、久々にフランス語で大騒ぎをして、私たちのために用意してくれた一室に案内してもらった。もうあの半地下には、エヴァの姉であるシメヌが住んでいたのだ。

 十一才のエヴァは、私にこっそり耳打ちをして、「一緒に来た彼とは別の部屋にするか。それとも同じ部屋にするか。どっちでも、カオルの好きな方を選んでちょうだい。」と、おませな顔をして言った。私は笑いをこらえきれず、とりあえず礼を言って、同室で構わないよ、と答えた。どうせ一緒の部屋に寝たって、私たちの間にはなんもない。コヤマ君は、私との間に恐ろしいほど一線を置いていた。

 ぐっすり眠った私たちは、次の日からアクティブに行動を始める。まずはグランプラスでワッフルだ。食べきれないほどの大きさのワッフルを見て、コヤマ君は仰天する。それからコンセルヴァトワールと、日本食屋。彼は、日本では見せたことのないほどのはしゃぎぶりで、どこへ行ってもウキウキした様子だった。そんなに喜んでもらえるとは、連れて来た甲斐があると言うもんである。良かった。

 でも、様子が変わったのは彼だけではなかった。私は、夕ご飯に美味しいムール貝屋へ行き、その帰り道を歩きながら、心の中が徐々に満たされてゆくのを感じていた。

 この感覚はなんだろう。私はやっぱり、ヨーロッパでの方が基本的に、性に合っているのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたら、コヤマ君にも「ミヤっさん、日本にいる時よりもこっちの方が、断然ハマってるよ。」と言われて驚いた。

 そうか、やっぱりなァ。この、妙なリラックス感は、一体どこから来るんだろう?と思っていたが、たぶん、日本にいる時、私は無意識に気を遣って、猫をかぶっていたのだ。それに比べて気楽なのだ、ヨーロッパは。そりゃあ確かに、四年も住んだ私には、欧州で暮らす大変さも、日本で暮らす快適さも知っているのだが。でも、久しぶりのヨーロッパは、まさに水を得た魚のようであった。そしてそんな素顔の私を、コヤマ君に見せることができて本当に良かったと思った。

 コルニル先生にはランデブーを取ってあったので、久しぶりに先生のお宅を訪問し、彼と共にレッスンをしていただいた。自分が何を弾いたのかをサッパリ忘れてしまったのだけど、彼がショパンのワルツをみてもらったのは覚えている。先生のレッスンを終えてから、私たちは懐かしい友人たちと会食をした。トッコちゃんとその彼、キボウちゃん、シホちゃんと、ロナルド。ユキはその頃、もう日本に帰国していたから居ない。新しいトッコの部屋は素敵で、料理好きの彼女らしい、充実したキッチンが付いていた。彼女には、その後二度目に訪れた時にも大変世話になっている。

 楽しく、懐かしいブリュッセルでの数日は過ぎ、そしてお次は、私のフランス語の先生、マダム・バージバンの住む、のどかな田舎町へと向かうのである。
 
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十一才のエヴァと、ベンチュラ

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2017年8月26日 (土)

続編二十六 シメイへ

 その日の朝ごはんはカフェで、私のお気に入りのオムレツシャンピニオンと、カフェ・グラッセを食べてから、バージバン先生の住むシメイの町へと向かった。

 電車の乗り継ぎ本数が少なくて、すごく時間がかかってしまったが、途中下車したシャルロワの駅で町をブラブラした時に、コヤマ君は私の手をさり気なくつないでくれて、それがとっても嬉しかったのを覚えている。なんて純情な私。

 先生のお宅に着いた私たちは、仰天してしまった。とびきり田舎の、牧草地の真ん中にたたずむ、素朴な一軒家。ここからあそこまでが、うちの庭よ。と言って笑う先生だったが、庭と言うよりはここはもう、広々とした草原。牧場ではないか。何という広大な敷地。一番喜んだのは、北海道育ちのコヤマ君である。その時の私には、彼が何故そこまで大はしゃぎするのかわからなかったが、今ならば理解できる。北海道から本州に移って来た人たちは皆、広い土地と澄んだ空気、それから真っ白な雪が、懐かしくて仕方ないらしい。

 そして夕食。先生の手料理は素晴らしく美味しくて、私は時差ボケで夢見心地の中、盛りだくさんの海老やサラダやデセールをいただいた。先生のフランス語は相変わらず聞き取りやすく、初心者のコヤマ君でさえも少しは理解できていたから、彼女の配慮は素晴らしいものである。先生の旦那様は、お喋りな彼女とは正反対でほとんど喋らない、物静かな方だったが、お二人は大変な仲良しで、こちらから見てもそのアツアツぶりが伝わってくるようであった。私はコヤマ君がいない時に、ここぞとばかりに先生から、私たちの仲について色々と質問をされ、好奇心旺盛なキラキラと輝く目で、愛と運命と未来について語っていただいた。いくつになっても、恋を忘れないヨーロピアンなのである。

 次の日はとてもベルギーらしい曇り空で、朝早くから、私たちは二人で森や町を散歩した。牧場にいた遠くの牛たちが、皆一斉にそろってこちらを凝視していたのが可笑しかった。明らかに、私たちが新参者だとわかっているかのようである。コヤマ君は…夫は、今でも旅行地に来ると朝散歩が大好きなのだが、この頃は手なんかつないじゃってラブラブだったけど、今じゃあ一人で勝手にプラっと小一時間ばかり出て行って、私となっちんは旅館でダラダラとしていることが多い。私は、歩くことの多い夫と付き合うようになってから、ヒールの高い靴は一切履けなくなった。

 そしてこの、記念すべき二人の、旅先朝散歩から戻った我々は、バージバン先生の美味しい手料理に、豚のローティとじゃがいも、それにプラムとクレープをいただいて、ルイ十四世時代の古いエトワールの町に連れて行ってもらい、そこで先生たちに別れを告げて、夕方の電車でブリュッセルへと戻った。

 今回の旅の目的の一つは、ヨーロッパのコンセルヴァトワールを巡るということがあったので、私たちはその翌日、ブリュッセルから少し離れた、リエージュの音楽院も探してから、ベルギーを後にしている。

 お次は今回の旅のシメである、チューリヒへ向かう。そこには私の大学時代の友人が待っていてくれた。

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2017年8月27日 (日)

続編二十七 チューリヒと、リギの山

 友人の待つチューリヒへは、パリからの便だったので、私たちはそこで一泊することにしていた。

 パリはさすがにブリュッセルに比べて物価が高く、ちょっとカフェでお茶しただけでもお金がすぐに飛んでしまう。

 けれど一日、何を買うわけでもなしにブランド巡りをしたり、コヤマ君と歩くパリの街は楽しかった。夜のセーヌ川はとても綺麗で、夜のベトナミアンは美味しかった。

 次の日の朝、私たちは、チューリヒへ向かうために乗るはずだった便をうっかり逃してしまう。ホテルでの朝食が美味しすぎて、のんびりしていたのが原因だった。空港のカウンターで、次の便に乗れないかどうか、意地でかけ合う。結局、七百フラン(一万四千円ほど)くらい払っての変更となってしまった。でもまあ、最初は「ムリ」と言われていたから、乗れただけでも良しとする。チューリヒ到着は午後三時になった。

 チューリヒは相変わらず綺麗な街である。駅では市場も開かれていて、ちょっと見るだけでも楽しい。彼はすっかりこの街が気に入ってしまい、住むならこんなところがいいなあと連呼していた。私の友人もまた、コヤマ君を大変気に入り、弟のように可愛がって、色々なところへ案内してくれた。小さい頃から、リギの山へ登るのが夢だったらしい彼の希望により、翌日はルッツェルンの街から、山頂へと向かう。よく晴れた日で、頂上には雪が積もり、澄んだ空気の中で食べたサンドウィッチは最高に美味しかった。これは彼女の手作りで、スイスのパンに厚切りチーズを挟んだだけのシンプルなものだったのだが、これが美味し過ぎて、格別な忘れられない味となった。

 その日の夜は、お決まりのチーズフォンデュをいただき、次の日はもう日本へと帰らねばならない日であった。

 朝、三人で森を抜けて散歩をする。午後は彼女の通う、チューリヒのコンセルヴァトワールへ。近代的な建物の、小綺麗なところだった。シャガールのステンドグラスのある教会にも入り、その美しさに感動する。本当にこの街は洗練されていて、ブリュッセルがとたんに汚い街に見えてくるほどである。

 私たちは空港で彼女とまた、しばしのお別れをした。彼女とはその後、日本にて共にジョイントリサイタルを開くことになる。

 帰りの飛行機はパリで多少の遅れがあったが、無事にエールフランスは飛び、成田には夜七時頃到着した。夜の到着便はなかなか良い。帰ったらそのまま眠れるからである。

 機内ではコヤマ君が毛布をかけて肩を寄せてくれたり、彼らしいさり気ない粋なはからいに、私はいちいち感動していた。日本に帰ったら一緒に暮らそうかと、私から強気に誘ったのも、パリの空港である。考えとくよ、なんて、かわされたけど。

 だいたいにおいて、思ったことをたいして考えもせずに口に出す癖のある私も、この時ばかりは本気であった。私はこの旅で、自分の気持ちを確信する。私は彼を、愛している。それは紛れもない真実だった。まあ今まで恋多き人生だったし、私がここで、年下の彼のことを本気だと宣言したところで、だあれも信じてくれないだろうと思ったけれど。

 そしてまた、私たちの日本での生活が、始まろうとしていた。彼はまだ幾分、私たちのことを迷っていた。それもそのはず、私はまだ、よっちゃんとのことをはっきりさせていない。彼と私は、イコール留学生活そのものだった。悩む。そしてコヤマ君の方だって、いろいろと考えなければいけないことがあった。人生とは、そんなに簡単で単純なものではないのである。特に、男と女という面倒臭い、恋愛においては。

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リギの山と、チューリヒの森散策。

2017年8月28日 (月)

続編二十八 カウントダウン

 帰って来た私は、時差ボケというよりもドッと疲れが出て、留学と旅行との差を思い知らされた。何というか、疲労の仕方が違う。ギュッと凝縮されたみたいだ。それに加えて今回は、ほぼ私の全身全霊をかけての旅だったので、クタクタになってしまった。とりあえずはこんこんと昼過ぎまで眠って、重い腰を上げてよっちゃんに電話を入れた。彼は、私の旅行中は確か、九州にヴァカンスへ行っていたはずである。

 彼は案の定寂しがっていて、いじけて電話を切った。私は一気に不安が押し寄せる。私のことを大切に思ってくれている、この人と別れて本当に良いのか?自分の気持ちを信じて、本当にいいのか。でもやっぱり、いつ終わるかわからない人生を、自分の気持ちに正直に生きてゆきたい。失敗したって構わない。いや、だいたいにおいて、私は失敗するかもしれないと考えて動いたことはない。まあそれなりに計画はするけど、基本的に、父親譲りの無鉄砲なのだ。

 私は、今やるべきだと思ったことを悔いなくやり、走り続けてきたけれど、迷いぶつかりながらの人生の中で、ずっと私が探してきた人に出会えたような気がした。少女の頃、電車の窓の外を駆け抜ける景色をぼんやりと見つめながら、私の結婚相手は今この世のどこかに生きているのかなあ、どこにいるのだろう。と思っていたけれど。私はずっと、彼を探してきた。この人を大切にしたい。でも、私たちの間にはまだ何も確かなものはなかった。おまけに一緒になったところで、お金もないし、安定もない。周囲にも、両親にも、それはそれは真っ先に反対されるであろう。でもこの時の私には確かに、何か説明のつかない、確信と自信めいたものがあった。それが何だかということは、天で見ているなっちんしか知らない。そして彼女には申し訳ないが、私たちはゆっくりゆっくりと、前へと進んだ。

 帰国して二日後、まずはコヤマ君と私は、念願のお寿司を食べに行った。もうずっと、帰ったら寿司寿司!と二人して騒いでいたのである。そして寿司を食べ終わった彼の口からは、やっぱりミヤっさんとは付き合えない、と言う言葉が出た。何故だかはわからない。でも全然めげない私。そりゃそうだ、私には強力な助っ人、これから生まれて来る運命にある、なっちんがバックについている。

 そしてさらにその二日後、私はよっちゃんに会って、お土産を渡した。二人で横浜へ行き、奈良先生の演奏会へ、大倉山へと向かう。私の気持ちはここでグラついた。よっちゃんは優しい。言い出せなかった。全くもって、タイミングなどなかった。とりあえずこの日は何事もなく帰宅。事はのらりくらりと、進んで行く。

 その頃から私は、どっちみち家を出るためにまず車の購入を検討していたので、仙台の彼(カーキチである)に付き合ってもらって、中古屋巡りをしていた。途中、コヤマ君から、今ヒマ。ご飯食べない?とメールが入って、せっかくのお誘いなのに断るしかなく、ガッカリする。

 そして日々はカウントダウンへと、着実に進んでゆく。幼馴染みの三人で気晴らしをしたり、コヤマ君とデートしたり、仕事あがりに珈琲屋のみんなとおしゃべりをしたり。

 そして次の水曜日になった。その日はいい天気だった。私は午前中に珈琲屋へ行き、十二月に予定している演奏会で組む、ソプラノ歌手のユミちゃんからプロフィール写真を受け取り、カウンターのコヤマ君ともお喋りをしてから、駅へと向かった。

 その日は、よっちゃんとNHKコンサートへ行く日であった。その前によっちゃんは、埠頭にあるマンションを見に行こうと言い出す。

 私はこの日も、何の心構えもせずにいた。まだこの日に彼と別れようなど、思ってもみなかった。でもそれは、何も決心する必要などなかった。自分の心に正直に、そして時の流れに身を任せていれば、自然と決着のつくことだと、その時の自分には知る由もなかったのである。

2017年8月29日 (火)

続編二十九 よっちゃんとの別れ

 その日。

 私はよっちゃんに誘われて、埠頭のマンションを見に行った。

 そこはまずまずのところだったが、部屋の印象はほとんど、覚えていない。がらんとしていて、殺風景で、外の景色だけは綺麗だったような気がする。いや、わからない。私の気持ちが、その時の想いをそうさせているのかもしれない。

 それよりも私は、二人でその部屋に入り、よっちゃんの背中をぼんやりと見つめながら、何故急に彼がそんなことを言い出したのかと考えていた。私はずっと、心ここにあらずの、上の空だった。

 今日、私は、決断することになる。そう感じた。これからコヤマ君と生きて行きたいのか、それとも今私の目の前にいる、ブリュッセルで懐かしい生活を共にした、よっちゃんと生きて行くのか。

 その日最初によっちゃんと顔を合わせた時は、私はとてもホッとして、温かい気持ちになれた。でも、埠頭のマンションを見ているうち、辛い気持ちがわあっと込み上げてきて、もう、自分の気持ちは隠せないと思った。いや、自分の気持ちを確信したのだ。今更ながらに、もやもやと引きずっていた雲がパッと晴れ、同時に稲妻に打たれたかのように、私の心は決心に奮い立った。

 NHKホールのコンサートも、何を観たのかさっぱり覚えていない。終わってから、たぶん一緒に来ていた彼のお母様たちとも会食をして、私はもう、ギブアップ寸前まで来ていた。早く、二人だけになりたかった。

 食事が終わり、私たちは公園を散歩した。秋の夜の散歩は、とても気持ちが良かった。今でも昨日のことのように、この風景を思い浮かべることができる。

 静かな風が吹き、私たちはライトアップされた草花を見て、静かに歩いていた。私は突然、口を開く。
 ごめん。もう、一緒にはいられない。私は泣いた。泣いて泣いて、逆によっちゃんに慰めてもらったくらいだ。

 何を話したかは、覚えていない。コヤマ君のことを喋ったのか。わからない。でも彼は、全てを見通していたと思う。そして、私に一言、笑って肩を叩きながらこう言った。

「そうか、わかったよ!幸せになれ。」

 と。

2017年8月30日 (水)

続編三十 その後の私たち

 よっちゃんと別れた私は、自分でも帰り道のよくわからぬまま、帰宅した。

 帰って来た私が、玄関を開けてくれた妹に一言、よっちゃんと別れて来た。と言うと、彼女は仰天して絶句していた。そして私は迷ったが、いつかは言わなくてはいけないことだと、メールにてコヤマ君にそのことを告げると、彼もまたびっくりして固まっていた。

 ともかく、私たちは、別れた。六年間も一緒にいた、ブリュッセルでの想い出を共にしたよっちゃんと、私は別れたのだ。これは正しいことだったのか。グルグルと想いは巡った。だいたいにおいて、私は生まれてこのかた、ここまで潔く、誰かと別れたのは初めてのことだった。そしてまた、こんなにも気持ち良く、幸せになれと一言だけ言い残して去った恋人も、初めてであった。その一言に込められた想いは強く、私の心に響いた。

 だから私たちは今でも、仲の良い友人である。もう十年ほど会ってはいないが、この記録を書いていることも知らせてあるし、お互いの近況はだいたい、フェイスブックで知っている。私と夫が結婚した後に一度、二人で我が家に招いて、結婚祝いを持って遊びに来てくれたこともあるし、猫のプーすけの最期は子育ての大変な時期と重なったこともあり、彼に看取ってもらった。私と彼は、一緒にはならなかったけれど、私にとって大事な人であることには変わりはない。彼の幸せを、心から願っている。

 よっちゃんと別れた次の日の朝、その目覚めは最悪だったけれど、コヤマ君にのっけから誘われて会うことになった。彼の顔を見るまではどんよりとした気持ちを引きずっていたが、会った瞬間にそれはパッと晴れて、ああ、これで良かったんだな。と思った。

  このあと、コヤマ君の私への態度は明らかに変わった。私は、もしかしたら、ますます自分から遠ざかってしまうかもしれないな、と覚悟もしていたのだけれど、彼はその逆で、私に歩み寄って来てくれた。その時の私には、それがどうしてだかわからなかったのだけれど、夫と十五年以上付き合った今の私にはわかる。あれだけフラフラしていた私のような者が、意を決して彼と別れたことに対して、度肝を抜かれたか、慈悲のような心になったか、あっぱれだと感心したか、どちらかだったんじゃないかなと思う。いや、どれもだったかもしれないけど。我々はちょっと変わった音楽人間であるので、普通はこうだろうと言う感覚ではなかったことだけは確かである。一緒にして欲しくないかもしれないけど。

 十二月に入って、私は珈琲屋でソプラノのユミちゃんと演奏会をし、彼の方も別に演奏会をこなし、クリスマスと大晦日を一緒に過ごした。それは私にとって、今までの年越しの中で、一番素敵な時間となった。私たちには全然お金はなかったけれど、最高に楽しくて幸せな時だった。

 二〇〇二年の元旦は、彼は札幌へと里帰りをし、私は空港での送り迎えをする。実家に帰る彼は、とても嬉しそうだった。

 年明けにすぐ、コヤマ君は私の勧めと珈琲屋のオーナーの援助により、車の免許を取り、私はお金を工面するために、レッスンのない午前中に毎日、弁当屋で働くことにした。

 そして一月の誕生日、私は三十になり、初めて自分の車を買う。

 彼が勤めていた珈琲屋は、三月で閉店することが決まり、彼は別の珈琲屋に移動となり、同時に夜のファミレスでも働くことになった。

 一緒に住もう。そして二人で音楽も、生活も、頑張って行こう。そのために私たちは、必死で働いた。私たちはお金の有無よりも、若さと、お互いの可能性にかけた。結婚て、愛よりもお金よぉ。と言うお金持ちの友人もいたが、私はその彼女らしい断言っぷりが可笑しくて笑ったと同時に、愛に冷めると破局するであろう自分のサガを自覚して、自らの選択を貫いた。

 その間、私たちを心配した母は、四六時中反対をしていた。父はあんまり何も言わなかったように思う。留学していた時とは、まるで正反対である。私は親の反対には当然、辛い思いもしたが、これはしめたものだと内心思った。何故なら私の場合、いつも周りの反対が強ければ強い程、結果的に間違っていないことが多いからである。これは将来絶対幸せになれると思った。自分の選択は信じるべし。私の貧乏留学時代を知るユキには、またカオルちゃんは一から苦労する気か〜と言って笑い飛ばされたし、パリのえみこは驚いたし、師匠、Mr.カワソメも仰天していた。あいつって、いっつも、何事に対しても一生懸命なんだよなァ。と、笑いながら友人に話していたという師匠。

 それでも私たちは、良き音楽仲間たちに支えられ、四月にはピアノ付きで八万というアパートも見つかり、一緒に暮らし始める。私としては結婚にこだわる気持ちは少なかったが、彼の方がきちんとしようと言って、プロポーズをしてくれた。本当に全くお金がなくて、ほぼマイナスからのスタートではあったけれど、私たちは幸せだった。と、いうよりも、必死だった。お金を稼ぎながら、演奏活動もし、まさに昔の貧乏音楽家と言った感じ。ちゃんと就職したら結婚しよう、っていう、古い何かの小説みたいだ。

 そのうちに私には生徒が集まり始め、彼の方も学校の音楽採用が決まり、お互いに苦労したバイトを辞め、本業に専念する生活を送り始めるようになる。

 二〇〇三年、十月。私たちはお互いの両親に挨拶をし、式を挙げた。母は数週間前まで、式には出ないと怒っていたが、結局出席してくれた。ユリコには、嬉しいと言っていたようなので、母親の心情というものは複雑である。

 私たちはこの時も自分たちの身分相応として、山手の教会で式だけを挙げ、友人たちには散歩がてらに寄ってもらうスタイルで、その後簡単なパーティーを開いている。

 これからこの人とは長くてもあと五十年くらいしか一緒にいられないんだなぁ。短いなぁ。としみじみ思ったのを覚えている。新婚旅行には、彼の希望で飛騨高山と能登半島に行ったが、入籍したとたん、何だか今まで知らなかった別世界の扉がぱあっと開いた感じがして、ああ、結婚ってこんなものか。してみて良かったな。と、思った。

 それから十四年。その間、いろいろなことがあったが、私たちは今、幸せに暮らしている。よき音楽同志であり、よきパートナーである夫とは、笑いも絶えず、未だにほとんどケンカをしない。家族にはなったが、おかげさまでずっと、私の恋愛感情もほのぼのと続いている。そんなもの必要ないと言う人もいるだろうが、自分にとってはこれがないと関係が維持できない。私など絶対にまともな結婚はしないだろうと、友人エミコは内心密かに思っていたらしいが、人生とはわからないものである。

 そして、無事に雲の上から降りてきた、私たちの娘、なっちんは、もう少し大きくなったら読ませてもらえるこの話を楽しみに待っている。太陽の国で暮らしていたらしい彼女は、私たちを無事にくっつける任務を果たしてからすぐに、雲の上で見ていた一部始終を忘れてしまったらしい。彼女は私と夫のコンチェルトの演奏会が終わったその後、私がお腹を手術して環境を整えたとたん、待ったなしで空から降りてきた。きっと、ずうっと待たされていた彼女は、もう一刻も早く生まれて来たい一心で待ちきれなかったのだろう。

 愛する娘、なっちんに、この話を捧げる。そしてこんな自由気ままな私に愛想を尽かさず、見守ってくれた全ての友人たちへ。そして始終心配をしてくれた、愛する両親たちへ。

 
 私たちは今もなお、未来へ向かって歩み続けている。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 続編 〜おわり〜

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