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2017年8月30日 (水)

続編三十 その後の私たち

 よっちゃんと別れた私は、自分でも帰り道のよくわからぬまま、帰宅した。

 帰って来た私が、玄関を開けてくれた妹に一言、よっちゃんと別れて来た。と言うと、彼女は仰天して絶句していた。そして私は迷ったが、いつかは言わなくてはいけないことだと、メールにてコヤマ君にそのことを告げると、彼もまたびっくりして固まっていた。

 ともかく、私たちは、別れた。六年間も一緒にいた、ブリュッセルでの想い出を共にしたよっちゃんと、私は別れたのだ。これは正しいことだったのか。グルグルと想いは巡った。だいたいにおいて、私は生まれてこのかた、ここまで潔く、誰かと別れたのは初めてのことだった。そしてまた、こんなにも気持ち良く、幸せになれと一言だけ言い残して去った恋人も、初めてであった。その一言に込められた想いは強く、私の心に響いた。

 だから私たちは今でも、仲の良い友人である。もう十年ほど会ってはいないが、この記録を書いていることも知らせてあるし、お互いの近況はだいたい、フェイスブックで知っている。私と夫が結婚した後に一度、二人で我が家に招いて、結婚祝いを持って遊びに来てくれたこともあるし、猫のプーすけの最期は子育ての大変な時期と重なったこともあり、彼に看取ってもらった。私と彼は、一緒にはならなかったけれど、私にとって大事な人であることには変わりはない。彼の幸せを、心から願っている。

 よっちゃんと別れた次の日の朝、その目覚めは最悪だったけれど、コヤマ君にのっけから誘われて会うことになった。彼の顔を見るまではどんよりとした気持ちを引きずっていたが、会った瞬間にそれはパッと晴れて、ああ、これで良かったんだな。と思った。

  このあと、コヤマ君の私への態度は明らかに変わった。私は、もしかしたら、ますます自分から遠ざかってしまうかもしれないな、と覚悟もしていたのだけれど、彼はその逆で、私に歩み寄って来てくれた。その時の私には、それがどうしてだかわからなかったのだけれど、夫と十五年以上付き合った今の私にはわかる。あれだけフラフラしていた私のような者が、意を決して彼と別れたことに対して、度肝を抜かれたか、慈悲のような心になったか、あっぱれだと感心したか、どちらかだったんじゃないかなと思う。いや、どれもだったかもしれないけど。我々はちょっと変わった音楽人間であるので、普通はこうだろうと言う感覚ではなかったことだけは確かである。一緒にして欲しくないかもしれないけど。

 十二月に入って、私は珈琲屋でソプラノのユミちゃんと演奏会をし、彼の方も別に演奏会をこなし、クリスマスと大晦日を一緒に過ごした。それは私にとって、今までの年越しの中で、一番素敵な時間となった。私たちには全然お金はなかったけれど、最高に楽しくて幸せな時だった。

 二〇〇二年の元旦は、彼は札幌へと里帰りをし、私は空港での送り迎えをする。実家に帰る彼は、とても嬉しそうだった。

 年明けにすぐ、コヤマ君は私の勧めと珈琲屋のオーナーの援助により、車の免許を取り、私はお金を工面するために、レッスンのない午前中に毎日、弁当屋で働くことにした。

 そして一月の誕生日、私は三十になり、初めて自分の車を買う。

 彼が勤めていた珈琲屋は、三月で閉店することが決まり、彼は別の珈琲屋に移動となり、同時に夜のファミレスでも働くことになった。

 一緒に住もう。そして二人で音楽も、生活も、頑張って行こう。そのために私たちは、必死で働いた。私たちはお金の有無よりも、若さと、お互いの可能性にかけた。結婚て、愛よりもお金よぉ。と言うお金持ちの友人もいたが、私はその彼女らしい断言っぷりが可笑しくて笑ったと同時に、愛に冷めると破局するであろう自分のサガを自覚して、自らの選択を貫いた。

 その間、私たちを心配した母は、四六時中反対をしていた。父はあんまり何も言わなかったように思う。留学していた時とは、まるで正反対である。私は親の反対には当然、辛い思いもしたが、これはしめたものだと内心思った。何故なら私の場合、いつも周りの反対が強ければ強い程、結果的に間違っていないことが多いからである。これは将来絶対幸せになれると思った。自分の選択は信じるべし。私の貧乏留学時代を知るユキには、またカオルちゃんは一から苦労する気か〜と言って笑い飛ばされたし、パリのえみこは驚いたし、師匠、Mr.カワソメも仰天していた。あいつって、いっつも、何事に対しても一生懸命なんだよなァ。と、笑いながら友人に話していたという師匠。

 それでも私たちは、良き音楽仲間たちに支えられ、四月にはピアノ付きで八万というアパートも見つかり、一緒に暮らし始める。私としては結婚にこだわる気持ちは少なかったが、彼の方がきちんとしようと言って、プロポーズをしてくれた。本当に全くお金がなくて、ほぼマイナスからのスタートではあったけれど、私たちは幸せだった。と、いうよりも、必死だった。お金を稼ぎながら、演奏活動もし、まさに昔の貧乏音楽家と言った感じ。ちゃんと就職したら結婚しよう、っていう、古い何かの小説みたいだ。

 そのうちに私には生徒が集まり始め、彼の方も学校の音楽採用が決まり、お互いに苦労したバイトを辞め、本業に専念する生活を送り始めるようになる。

 二〇〇三年、十月。私たちはお互いの両親に挨拶をし、式を挙げた。母は数週間前まで、式には出ないと怒っていたが、結局出席してくれた。ユリコには、嬉しいと言っていたようなので、母親の心情というものは複雑である。

 私たちはこの時も自分たちの身分相応として、山手の教会で式だけを挙げ、友人たちには散歩がてらに寄ってもらうスタイルで、その後簡単なパーティーを開いている。

 これからこの人とは長くてもあと五十年くらいしか一緒にいられないんだなぁ。短いなぁ。としみじみ思ったのを覚えている。新婚旅行には、彼の希望で飛騨高山と能登半島に行ったが、入籍したとたん、何だか今まで知らなかった別世界の扉がぱあっと開いた感じがして、ああ、結婚ってこんなものか。してみて良かったな。と、思った。

 それから十四年。その間、いろいろなことがあったが、私たちは今、幸せに暮らしている。よき音楽同志であり、よきパートナーである夫とは、笑いも絶えず、未だにほとんどケンカをしない。家族にはなったが、おかげさまでずっと、私の恋愛感情もほのぼのと続いている。そんなもの必要ないと言う人もいるだろうが、自分にとってはこれがないと関係が維持できない。私など絶対にまともな結婚はしないだろうと、友人エミコは内心密かに思っていたらしいが、人生とはわからないものである。

 そして、無事に雲の上から降りてきた、私たちの娘、なっちんは、もう少し大きくなったら読ませてもらえるこの話を楽しみに待っている。太陽の国で暮らしていたらしい彼女は、私たちを無事にくっつける任務を果たしてからすぐに、雲の上で見ていた一部始終を忘れてしまったらしい。彼女は私と夫のコンチェルトの演奏会が終わったその後、私がお腹を手術して環境を整えたとたん、待ったなしで空から降りてきた。きっと、ずうっと待たされていた彼女は、もう一刻も早く生まれて来たい一心で待ちきれなかったのだろう。

 愛する娘、なっちんに、この話を捧げる。そしてこんな自由気ままな私に愛想を尽かさず、見守ってくれた全ての友人たちへ。そして始終心配をしてくれた、愛する両親たちへ。

 
 私たちは今もなお、未来へ向かって歩み続けている。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 続編 〜おわり〜

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