旅行・地域

2017年6月 6日 (火)

八十一 アムステルダムへ

 アムステルダムは、大変面白い街であった。

 ただしオランダ高速はトロい。トロすぎる。ドイツ高速に入ったとたん、あんなにも速度が変わるのか、というほど、オランダ人たちはのん気で安全運転であり、ドイツ人はせっかちである。(違うかもしれないけど。)二時間ほど走ると、ほどなくアムステルダムには到着した。

 道中、オランダは本当に海面よりも地面の方が低くてびっくりした。さすがは海抜ゼロメートルの国である。そして、とても美しい。ユニークで、洗練された街、というイメージを受けた。

 アムスの駅は、東京駅のモデルとなっている。だからそっくりである。街全体に活気が溢れつつ、運河はのどかに流れている。そして何というか、風変わりで、保守的ではなく、何事にも新しいことを受け入れるチャレンジ精神を持っている。キレイなお姉ちゃんがナイスバディでウインクしている飾り窓なんかもすごいし、人々はマリファナを普通の感覚で吸っている。可愛い風車やチューリップの絵葉書の隣に、男性器の象徴の絵葉書なんかが置いてあるのは、そのギャップに笑えるものがあった。陸続きの、色んな国を旅するようになって、だんだんその国々の特色がわかるようになってくるので、面白い。

 アンネ・フランクの家も観てきた。ここに、あの暗黒の時代、アンネたちがひっそりと隠れ、耐え忍んでいたのかと思うと、何とも言えない想いが込み上げてきた。入ってみればわかるが、大変暗い。広島の原爆ドームに行った時もそう思ったが、何というか、そこにはただならぬ雰囲気が漂っているのである。きっと、アウシュビッツなどに行ってもそう感じるのだろう。戦争とは、罪のない人々の命を残酷に奪い取る、許されざるものである。 

 さて、私たちは、この先もちょくちょくアムステルダムには出向くことになった。同じ大学の先輩がこの街に留学してきたので、よく会いに行ったし、よっちゃんのお兄さまが仕事の関係で、ヨーロッパフライトの際にはこの近辺にしばしば降り立ったからである。

 その日は日帰りで、サクッと戻って来た。オランダは、自転車の国。道は美しく整備され、市街から皆、チャリンコで通勤してきて、それを停め、市内を走るトラムに乗り換える。大変合理的な国で、完全に車社会ではなかった。それも、この土地が平坦で、坂道がない。と言う利点にあるだろう。本当に美しく整った街だった。

 そういえば昔、東北の彼氏も、ここからチャリンコでベルギーまでやって来たっけなあ。そんでベルギー国境を越えたとたん、坂道多すぎるよー!なんてブーブー言ってたっけ。などと思いながら、日に日に私は、想い出に変わって行くのを感じると同時に、彼に対する友情の念が増して来る気持ちに気が付いていた。

2017年6月 5日 (月)

八十 チューリヒへ

 元旦の夜、私とよっちゃんは、またスイスへの旅に出かけた。

 今回は、寝台列車での旅。チューリヒに留学してきた、私の大学時代の友人に会いに行くためである。夜行列車は初めてだったが、安い六人部屋はやめて、二人部屋にした。これは正解だった。とてもじゃないが、六人部屋は私にとって厳しそうであった。二人部屋は、パスポートを預けられたり(途中、起こされなくてすむ)とても快適である。それなのにやっぱり私は眠れず、上でガーガー寝ているよっちゃんが羨ましかった。

 到着は朝九時。二時間強の遅れだった。彼女とは七時に待ち合わせしていたので、とても心配になったが、彼女はかえって気を遣ってくれて、満面の笑みで駆け寄って来てくれた。よっちゃんとも、ウマが合っているようだった。そして私たちは、彼女のホームステイ先に案内してもらった。

 スイスのこの家のマダムは、私の住む、完全独立型の大家さんたちとは違い、まるで本当の親戚か、母親かのような印象を受けた。ちょっと神経質で、気に入った人間とでないと暮らさないわよ、と言わんばかりの女性であったが、幸い私たちは気に入られた。マダムがもてなしてくれたチーズフォンデュは、ブリュッセルで食べるそれよりも、ワインが効いていてとても美味しかった。フランス語で丁寧に、作り方を説明して下さる。

 チューリヒはドイツ語圏だったが、スイスは言語が四つに分かれており、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語になっている。ちなみにブリュッセルはフランス語圏であるが、ベルギーという国はフラマン語(オランダ語の方言)とフランス語に分かれており、ブリュッセルの駅は、二つの言語で表記がされている。だからヨーロピアンたちは割と普通に何ヶ国語かを喋れるのだ。語学とは、はっきり言って、必要に迫られてナンボである。日本という島国に居て、日本人だけに囲まれ、英会話教室に行ったって、いつまでたっても話せるようになんてならない。だから本気で喋りたいと思う人は、文法など気にせず、サッサと海外へ出て喋りまくるべきである。

 さて、スイスという所は、何をするにも物価が高かったけれど、清潔で、高貴な雰囲気のある国である。ずっと後になって私は夫とも一緒にこの地を訪れるが、高貴な夫はB級なブリュッセルよりも、チューリヒがすっかり気に入っていた様子であった。

 彼女たちにすっかり親切にしてもらい、四日の昼の列車で私たちはブリュッセルに戻ることになる。駅まで見送りに来てくれた彼女は、慣れない土地で寂しかったのか、大粒の涙を大きな目からポロポロとこぼしてくれた。

 ブリュッセル到着は、夜の八時。こうして三年目になると、私もすっかりヨーロッパ各地に慣れ親しむようになってきていた。次の週にはお隣のオランダへ旅することになるのである。

2017年5月27日 (土)

六十六 ニース、そしてブリュッセルへ

 彼女のアパートメントは、ニースのものすごい中心街にあった。

 今思えば、住所ひとつでよくぞ探し出せたと思う。人間は、世の中が便利になればなるほど、その能力が退化していくのかもしれない。でもまあ、探し当てたはいいが、彼女は残念ながら留守であった。私たちは、来たという証に、置き手紙を残してその場を去ろうとした。だが、帰ろうとしたその時、偶然エレベーターから降りてきたミキと遭遇するのである。まさにドラマ。

 彼女は私たちの姿を見て固まっていた。そしてやっと開いた口から、

 「な、なんで居るの?!来ないって言ってたのに〜!」

 と言って、ビビっていた。(そりゃそうだ。)

 友人、ミキは、一度ブリュッセルに遊びに来てくれた際に、猫のプーすけの口からネズミを取り出して庭に投げた前科のある彼女である。私たちはそして大笑いをして、水着を着てニースの海へと繰り出した。ここの日差しは強く、我々は真っ黒に日焼けをした。

 夕飯は、カフェのテラスでスープ・ド・ポワソンと、サラダ・ニソワーズ。これは頬っぺたが落ちるほど美味しかった。さっすがニース〜、と言う感じ。帰り道は迷わず、二時間半でサン・レミまで到着。途中、雷がすごかった。

 そしてまだまだ楽しい南仏の日々は続く。

 次の日は昨日行かれなかった、カシスの海へ。

 ここへは、港から小さい漁船で行くのだが、これがものすごかった。大波が来る時には、船長はエンジンを切ってそれを迎え撃つ。抵抗せず、素直に波に乗るのだ。それがもう、バッシャーン!とすごい迫力で、まるでウインドーサーフィンのよう。私は一人、キャーキャー騒いで皆に笑われた。

 船は穏やかなビーチまで付けてくれるのかと思いきや、海底が浅いところへは行かれず、ここで降りろと岩場の山あいで降ろされる。こういう、日本では考えられないことが、よく向こうでは起こった。相棒よっちゃんは、岩など物ともせず、ひょいひょいと登って行く。私はサンダルだったので、足場が悪く進めない。こうなったらハダシの方がマシであった。そしてついに力尽き、ここからもう泳いで行こうと言うことになる。

 よっちゃんは泳ぎもまた、上手かった。どこからでも平気で飛び込んで、バシャバシャと行ってしまう。私は泳げることは泳げるが、とてもじゃないけどはるか向こうの岸までたどり着くのなんてムリ。彼はシュノーケルを貸してくれて、コバルトブルーの海の中、魚たちが気持ちよさそうに泳いでいるのを見ることができ、感動したのを覚えている。

 余談だけど、私の好きになるタイプの男性たちは皆、スポーツができる。よっちゃんは何をやらせても上手かったし、東北の彼はテニスと波乗りにかけてはピカイチであった。何を隠そう、我が夫も、そうは見えないかもしれないが運動神経はとても良い。学生時代はバリバリの運動部員であった。だいたいにして、私は体育が大の苦手だったので、スポーツができる人は憧れである。まあ、脳みそにまで筋肉がついてそうな奴は、イヤだけど。まあいいとして。

 南仏の海には、あちこちにヌーディストビーチがある。来ている女性たちは、別にそのビーチじゃなくっても、けっこうな確率でトップレスになる。私も思い切って、やってみた。サイコーの開放感とはこのことである。楽しかったなあ。夜はホテルにあったピアノを弾かせてもらい、マダム、ムッシューたちも集まってきてワイワイやった。

 ここは本当にアットホームで素敵なホテルで、大きな庭でいただく食事も大変美味しかった。カルパッチョに、野菜の南仏風スープや、焼きナスのトマトソースがけ、フロマージュブロンに、ショコラショー。飼っていた大きな黒いワンちゃんもおとなしくて可愛かった。またぜひ行きたいホテルなのだが、名前を控えておくのを忘れてしまったのが残念である。

 私たちは一週間のヴァカンスを終え、楽しかった思い出を胸に、またブリュッセルの街へと戻ってきた。夏だというのに、やっぱりここは寒くて暗かった。

 ユキやしづちゃんたちにお土産を渡し、こちらにずっと居たであろう、しんみりした顔をしたユキと、土産話をする。そして預けていたプーすけと、感動の再会。七月下旬から帰国する予定の、日本行きのチケットを手配する。

 その直前、またもや私と東北の彼は喧嘩をし、初めて「別れる」というセリフが二人の間に出る。それは多分、帰国しても東北には絶対に来るなと言われてのことであると思う。怪しい。人のことなんて全然言えないが、怪しすぎる。

 とにかく、私は楽しいヨーロッパでの夏のヴァカンスを終えて、いよいよ日本での、長い夏休みを迎えるのである。東北の彼氏との別れを、目前に控えて。

六十五 南仏の旅

 さて、幼馴染みの到来の次は、この夏のメインヴァカンス、南仏への旅である。

 当然、決まって、相棒よっちゃんとの車で出発。ヨーロッパでは皆、早組、遅組と分かれてヴァカンスをとるのだが、少なくとも二、三週間、普通に一ヶ月間という人もいるくらい、ガッツリ遊ぶ。よく大家さんに、日本人はヴァカンスをほとんど取らないで仕事ばかりしていると聞くが、本当か?と訊かれた。本当である。ベルギー人たちはホントに働かない。そして合理主義である。普段も、夕方四時には帰宅ラッシュ。勤勉な日本人たちは、現地の奴らは働かなくて困る、といつもこぼしていた。

 夜中十一時、いざ、出発。カオルちゃんは寝てていいよ〜。と言われたが、そうそう寝てもいられない。何故なら高速をぶっ飛ばしている途中、オレンジ色の炎に包まれた車を目撃したからである。事故であった。向こうはスピードを出している分、事故の大きさもハンパない。真っ暗闇の中、パパと二人の子どもたちが、メラメラと炎上している車を指差して泣き叫んでいた。あの様子から言って、まだ中にママか誰かが…と考えるとゾッとした。私たちはたびたび、こうした惨事を目の当たりにした。気をつけようと、引き締まる。

 目的地のマルセイユには、ノンストップで朝九時に着いた。若かった彼の体力はすごい。けれど慣れない暑さと、不眠のために私たちはクラクラであった。マルセイユでは、あのモンテ・クリスト伯の「イフ島」へクルージングをし、サン・レミでチェックイン。大きな庭付きの、アットホームで、素晴らしく良いホテルだった。眠くて、さんざん歩き回って辛かったが、アヴィニョンで食事をとる。美味しいフレンチに満足して、その日はぐっすり眠った。

 サン・レミ・ド・プロバンスは、今思い出しても素敵なところだ。カラッと晴れた濃い青空、焼け付くような太陽、一面に咲く、ひまわり畑。パリやブリュッセルの、暗い曇り空の街から皆、太陽を求めてヴァカンスに出る気持ちがわかる。あんなところにずっと居たんじゃ、人間性まで暗くなってしまう。言っておくけど、日本から南仏に飛んでもそこまでの感動はないと思う。あの、寒くて薄暗い北ヨーロッパから行くからこその感動である。ああ、なんて開放的なんだろう!あちこちにヌーディストビーチがあるのも、うなずける。

 そして二日後にはカシスの海に行くつもりが、あいにくの曇りだったので、私たちはお決まりの突発的行動で、突然、高校時代の友人、ミキがいるニースへと方向転換するのであった。

 いざ、彼女に会えるか?ナビもない中、道に迷って四時間半。私たちはようやく、ニースへ到着し、ミキを驚かせるべく、彼女のアパートメントを探し出すのである。

2017年5月20日 (土)

五十三 スイスを後にして

 マイエンフェルトの小さなホテルは、素晴らしく快適なところだった。

 朝、起きると快晴。そこには三百六十度、見渡す限り、アルプスの山々が。すごい!

 私たちは青空の中、まだ雪の残る、高くそびえ立つ山々に囲まれて、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、箱根じゃないんだぜぇ〜、スイスなんだぜ〜。なんて言いながら笑った。感動で涙が出そうだった。

 何しろ、なんの準備も知識もないから、まずインフォに行って、日本語案内の紙を手に入れ、それだけを頼りに歩き回る。もう、海外はお手の物。二人とも、慣れたもんである。ヨーロッパのリズムはゆっくりで、旅行においても、せかせかと動き回ることの多い日本人と、食事に何時間もかける欧米人とは、はっきり言って全然違う。

 のんびりと、迷いながら移動。「ハイジ」と書いてある標識を見ながら、適当に山を登った。

 そこには、本当にアルムおんじの小屋のような家が建っていて、しかも、中からおじいさんそっくりな人が出て来るのを見て、思わず顔を見合わせる我々。あれは一体誰だったんだろう。今でも気になる。とにかくも、山からの眺めは最高だった。ハイジの泉を見て、散歩道を歩き…。

 そこからラガーツの村へ移動。ラガーツとは、ハイジの物語の中で、クララのおばあさまが温泉療養しつつ、クララの歩けるのを待った場所である。(やたらと詳しい。私はハイジの大ファンだったりする。)そこでもホテルは大当たりで、マダムたちはフランス語が通じ、大変親切にしてくれた。

 だいたいにおいて、よっちゃんは運のいい男なので、一緒にいると何事においてもスムーズに行く。ハズレたことが少ない。彼いわく、運とはまわりまわってくるものであり、一度運を掴んだ時にはそれにしがみつかずに、また他の人へと気前よく受け渡すといいそうである。それを、まさに寅さんのようにやってのける姿は圧巻であった。私なんてせこくて、いつも運にしがみついちゃうから、まわってくる運も少ない。その代わりに努力でカバー、みたいな。全く、彼の気前の良さは、いつもいつも見習うべきものがあった。

 で、ラガーツの後は、バーゼル、オッフェンベルグ、ストラスブルグと、いろいろ寄り道しながら、 フランス経由で帰る。中でもベルギーのお隣さんであるルクセンブルグは気に入った。静かで、素朴で、緑多く、よいところ。また遊びに来たいな、と思いながら、その地を後にした。

 ブリュッセルに戻ったのは午前一時とある。日記には、「とても早い時間だった。」などと記されてある。これにはたまげた。今の私にはとうてい無理。日付変更線をまたぐともうダメ、とたんにボロ雑巾のシンデレラ状態である。体力が持たないし、一週間はやられてしまう。これが若さ、というやつであろうか。あの時はピチピチの二十代。ああ、羨ましい限りである。

 そんなこんなで楽しいパックの旅行は終わり、友人、ユキもナポリやソレントへ楽しい旅をしてきたようであり、学生たちは皆、大いに息抜きをして、再びやってくる六月の試験へと準備を始めるわけである。四月からは日本より、私の後輩たちも続々と留学をしに欧州各地へやって来て、ネットワークは広がって行くのであった。

 そしてこの頃から、東北の彼氏とは、何となく雲行きが怪しくなり始めるのである。
 

2017年5月19日 (金)

五十二 スイスへの旅

 さあ、三月下旬から四月上旬にかけてのヨーロッパは、楽しいパックのお休みである。街のあちこちに、可愛い玉子のお菓子が置かれている。学生たちにとっても、ちょうど試験が終わった息抜きになるのだ。コンセルヴァトワールではこうして年中、コンジェ(休日)が多かった。

 私とよっちゃんは、待ってましたとばかりに、旅行に出た。まさに、あての無い旅。行き先も、宿泊先も決まっていない旅に、一応、ドイツのバーデンバーデンあたりと狙いを定めて、車で高速をぶっ飛ばして出かけた。

 彼とは何度も旅行をしたが、こういうところが、私たちの気の合うところ。まさにOとBの、最強コンビである。

(お察しの通り、私が自由奔放でマイペースなB型。彼が、おおらかで包容力があり、かつ独占欲も強いO型。ちなみに、東北の彼氏と、現、夫は、完璧主義で物静かで、インテリジェンスなA型。なんてわかりやすい図式。私はかなり自由でひどい女なので、O型とは気が合うようで、誰と付き合っても喧嘩が多い。A型の男性とは、かなりの確率でうまくやっていける。A型大好物である。)

 そう、よっちゃんとは本当に、仲も良かったが喧嘩も多かった。私はすぐに他の男友達の話をするので(しなきゃいいのに)当然、独占欲の強い彼にはムッとくる。別に、男の話ばかりしていたわけではない。私には、男女問わず、面白い友人が多すぎるのだ。そんでもって、私がちょっと、ユキちゃんたちと遊びに行く時に、他の男どもも一緒だとわかると、大喧嘩になる。まあだいたい、友人ユキが悪友だったからだ、というせいもあるが。彼女は海外でもとてもモテたし、私たち二人は彼にとって、全く信用のおけない人物であった。

 彼と一緒に現地の飲み屋なんかに行ったりして、他の女の子たちから
「彼女、カワイイね。(←私のこと)心配でしょう?」
なんて言われちゃったりすると、もうその後ケンカである。他の女性からもカオルは、そう見られているなんて!と、まるで私が尻軽女に見られたかのように、怒る。(まあそうだったけど)わたしゃ、一体、どうすりゃいいのさ?と、そのたびにムダな大げんか。

 だいたい、O型の彼氏と付き合う時は、いつもそうだった。私から言わせてみれば、面倒臭いし、非常に疲れる。周りの友人から言わせれば、それはお前が信用ならないからだという結論に達する。こんなケンカばっかりして、腰痛にもなるハズである。だけどA型の男性からは、呆れて放っておかれるので、ケンカはゼロである。あ〜楽ちん。今の夫なんて新婚の頃、「三つ子の魂百までもって言うだろ。この年までそうだったオマエの性格なんて、治らん。」とか言って、私は矯正を受けたことは皆無である。おお、なんてうまいモノの例え。感謝しきりである。

 ま、いいとして。そんなケンカが勃発する以外の時は、私たちはとても仲良しであった。

 前置きが長くなっちゃったけど、私たちはガラガラの高速道路を、時速百四十キロ超えでぶっ飛ばし、(あっちでは普通。ドイツ高速なんて四車線で、二百キロ近くは出ているであろう、ポルシェなんかが追い抜いて来る。)オランダを越えドイツを越え、もっと先へ行こうと調子に乗って十二時間。着いてしまったのだ、スイスのマイエンフェルトに。もう、夜になってしまっていたから、スイスの山々は見えず、星空のみ。景色は明日の朝のお楽しみ、ということで、かけこみでホテルを見つけ、疲れた身体を休めるのであった。

 次の日にご対面するであろう、アルプスの山々を楽しみにして。

2017年5月 3日 (水)

二十六 バルデモサの元旦

 マヨルカ島は、ショパンと女流作家のジョルジュ・サンドが一冬の間、パリから逃避行して、彼の結核療養で訪れていた島として有名である。ここで雨だれや、バラードなどの名曲を作曲したのですね。

 マヨルカの天気は素晴らしかった。とにかく、地中海の青空というのは、その青さのレベルが違う。真っ青で、はっきりとしていて、濃く澄み切った青空である。後になってギリシャへ行った時もそう思った。光がとても眩しい。

 次の日の元旦は、風が強かったがあたたかく、気持ちが良くて、春を思い出した。ふと、日本に帰りたいな、と思う。そう思いながら、「地中海なんだぜ〜、日本海じゃないんだぜ〜」なんて言いながら、私たちは歩いていた。歩きに歩き、バルデモサの村まで行くのに船が出ていないことに気づき、十五時のバスにも間に合わないことが予想された我らは、誰からともなくヒッチハイクに乗り出す。そうせずにはいられない、切羽詰まった状況であった。

 三人の若い日本人の女の子たちが、大通りで手をかざしてヒッチハイクをする姿に、車の人々は皆、笑いながら通り過ぎて行った。すぐに一台、「ヘーイ!」と言って止まってくれた車があったのだが、そこには何人かの男たちが乗っていたので、それは無視。親切な人たちだったかもしれないが、危険すぎる。

 そのうち、優しそうなマダムが止まってくれた。十五時のバスにどうしても乗りたいと訳を話すと、快く乗せてくれた。彼女は偶然フランス語が話せたので、とても嬉しかったのを覚えている。ヒッチハイクはそれが初めての経験だったけど、その後帰国してから、北海道でも同じように切羽詰まった状態になり、我が経験を生かして夫と共に生涯二度目のヒッチハイクをやり、成功するのである。

 とにかく、親切なマダムによって無事目的地にたどり着けたのだが、結局のところ私たちはバスではなく、タクシーでバルデモサまで行くことになった。間に合わなかったか、出ていなかったか、それは忘れた。しかも、入ってみたかったショパンの家は休館日。まあ元旦だし、仕方ない。バルデモサは海岸沿いとは違い、とても寒かったが、素敵なところであった。スペインは全体的に良心的な値段で、ホテルのビールも安く、夜はテイクアウトで宴会をした。

 私は二日にはブリュッセルに帰り、短い旅行ではあったが、とても楽しい旅であった。ブリュッセルは寒く、またしても暗いどんよりとした街に戻ってきたのであるが、自分の部屋に着いたらホッとしたものである。

 そしてまた、新しい年が、この暗い半地下の部屋で始まろうとしていた。

二十五 マヨルカ島の年越し

 一年目の冬は、先輩方も友人もとても気を使ってくれて、スキーをしにスイスの山へ行かないかとか、モンサンミッシェルまで行かないかとか、色々と楽しいお誘いがあった。

 コンセルヴァトワールは、年間通して何かにつけ休みが入った。やれ、クリスマス休暇だ、パック(イースター)だと、しょっちゅうまとまった休みがあり、そして夏休みはたっぷり三ヶ月間もあった。だけど心から楽しめるのは夏のバカンスのみで、その他の休みは、それっとばかりにピアノの練習時間に使った。

 スイスの山も、モンサンミッシェルも、魅力的であったが、何しろ毎回で申し訳ないが私はお金がなかった身なので、断るしかなかった。後半、生徒も増えてゆき、心強い助っ人であるパートナーができてからは、陸続きのヨーロッパ各地をいろいろまわることができたが、留学一年目はそんな余裕はみじんもなかった。

 けれど二泊三日くらいの年越しなら、ちょうど安いチケットが取れそうだったし、スペイン旅行に行く友人たちと途中合流するのも悪くない。そう思ったか、例の北京の彼が、ちょっと無理してでもヨーロッパをまわってきなさいよ、と言ってくれたのかは定かではないが、多分どっちもだったような気がする。私は同級生たちに賛同の返事をし、その旅行を楽しみにしていた。

 同い年であり、ブリュッセル留学の先輩でもある、しづちゃん。それから、日本食レストランに働きに来ていた、年下のゆかりちゃん。その二人と、大晦日にマヨルカ島で合流した。二人はとても喜んでくれて、早速みんなでレストランを探しに行く。夜十一時をまわっていたが、とても美味しいレストランで、タコに生ハム、マスタードソースの肉やジャガイモ、それにシャンパンを楽しんだ。

 十二時前のカウントダウン。スペインの風習では、ブドウを十二粒、カウントダウンと共に食べる。そしてハッピーニューイヤー!店中の人々とキスし合い、広場では皆、踊り狂っていた。私たちも仲間入りして踊った。笑いがとまらないほど陽気なお祭り騒ぎ。日本の厳かな年越しとは全く違う。(その代わり、クリスマスが厳かであるのだ。)

 新年の幕開け、カテドラルのライトアップも美しく、本当にスペインに来て良かったと思ったのを覚えている。明るく天気の良い国ってほんとに、開放的な気持ちになれるもんだよね。二日目に続く。