留学前

2017年4月25日 (火)

六 ブリュッセルへ

 私がこのブログを書こうと思った理由のひとつに、二十才の時から毎日日記をつけていた、ということが挙げられるんだけど、久しぶりに棚の奥から出してきて読み返してみるともう、当時の文章に胸が詰まってくるものがある。胸焼けしてるんじゃありません。若々しく、何事にも感動していてみずみずしいのだ、その一つひとつの文章が。

 今だって、年の割には前向き前進型だし、感受性は失ってない自負があるんだけれど、若さには勝てない。っていうか、昔の、あの頃の、いちいち何かにつけて浮かれ、また沈んだりした感情の波。こういうのって、今読み返しても楽しいもんだな〜と思う。留学という新しい世界に向かって突き進んでいる躍動感というのか。今は、そうして得たもので生徒たちを育てたり、恩返ししているつもりなんだけど、当時はまさに「自分のことで一杯一杯、未来へ向かって一直線」な時期であった。懐かしい。

 旅立ったその日の朝。順調だったかと言えばそうでもなく、アエロフロートが遅れてエアコンのきかない機内に閉じ込められたり、ロシアに着いてから見通しのつかない中、四時間も空港で待たされたりと、疲労しすぎて一人、また一人と空港の床に寝そべり出す有様だった。そこで、同い年くらいの日本人カップルに出会う。これからイスタンブールへ旅行だと言う。彼らは意外にも地元が近所なことが判明し、私が一人で留学するところだと言うと非常に感動して親切にしてくれた。彼氏の方は横浜国大の学生さんで、その後、一時帰国の際もたびたび飲むことになる。(女の子とはすぐ別れてしまったのだ)出会いとは、どこに転がっているかわからないものである。

 ようやくバスが到着して、ほぼ難民キャンプ状態になっていた我々は救われる思いで乗車した。安いチケットにはこういうワケがあるんだ。と思いつつ、着いたホテルを見てまた仰天。幽霊でも出そうな一室に通され、めちゃめちゃ後悔する私。あ〜、せめて一人じゃなかったら!もう、ロシア見物してる体力もないので、ろくに食べずにさっさと寝てしまった。

 無事、オバケも出ずに朝を迎えてようやくブリュッセル行きの便に乗り換える。ロシアからベルギーへの機内はとてもワクワクした。だって、もうじき夏休みで北京からやってくるカレシに会えるのである。(邪道)ご褒美でもなければやってらんないのである。そんなことで、私の二十代、恋愛の舞台も世界を股にかけた、波乱万丈な日々の幕開けとなった。

五 渡欧準備

 バイトを辞めた後は、それはもうピアノの練習がはかどった。と言っても、他にもやることは山積みで、相変わらずギリギリまでピアノも教えながらフランス語を習い、ベルギー大使館を往復し、面倒な手続きを進めていった。

 (これがもう、サッパリ覚えてないんだが大変なこと、この上なかった。企業の赴任ならば全部会社がやってくれるんだろうけど、個人学生の留学なんて誰も、助言すらしてくれない。唯一、経験者である師匠のアドバイスだけが救いであった。)

 あとは学科試験の準備である。ベルギーのコンセルヴァトワール(王立音楽院)は、何しろ王立なので学費がほとんどタダに近いのが助かったが、(年間、円換算で一万五千円くらいだった)実技以外にも音楽史やソルフェージュ、和声学、あらゆる学科を、フランス語で受けなければならなかった。いやいや、そんなの、イヤというほど大学で習ったものばかり。しかもフランス語でなんか、カンベンしてほしいところである。ウワサによると、入試の時にソルフェージュなどの試験もあって、ある点数以上をとれば単位免除となるらしかったので、わずかな望みにかけ、もうどうにでもなれ、とサジを投げた。

 とにかく、八月までにはなんとか試験曲と手続き書類一式を揃え、フランス語はほとんどわからぬまま、現地の先輩たちに連絡を取りつつ、荷物は入試に合格したら送ってねと両親に言い残して、カバンひとつに片道切符で日本を発った。当時は今ほど国際便のチケットは安くなくて、ロシア経由のアエロフロート、片道でも十万もした。しかもロシアで一泊。その時はちょうどロシアが崩壊していた時で、空港には拳銃かまえた警備隊が居たりしておっかなかったのを覚えている。ああ、こうして書いていくと、忘れかけていた些細なことが思い出されてボケ防止にもいいもんである。

 お次は、独りでおっかないロシアのホテルに泊まり、そこでの出会いから始まるブリュッセル到着までについて書こうと思う。

2017年4月24日 (月)

四 資金繰り

 私は音大に入った頃から、生徒にもピアノを少しずつ教え始めていた。まだ学生なので、授業と練習の合間に出張レッスンしたり。でも四年生の頃にはそこそこ生徒も増えていたので、自宅でも夕方レッスンしていたような気がする。しかしそれだけでは留学資金など、とうてい貯められそうにはなかったので、

(私は四年生の後、もう一年専攻科へ進んだのだが、両親はそこんとこの学費は出してくれない約束だったので滞納しながら自分で出していた。で、更にマイマネーでイタリア研修の費用と(半分は母が出してくれたような記憶がある。都合のいいことは忘れてしまう)例の北京の彼とヨリを戻すべく中国に追いかけてった費用をいっぺんに使ったので、もう持ち金が尽きていたのである)

 そんな訳で、今までのバイト先である楽しかったショットバーを辞め、仕方がないので、もっと時給の良いクラブで働くことにした。

 その頃、音大生たちがよく、ピアノを弾いたりして小遣い稼ぎをしていたナイトクラブ。時給千五百円につられ、私もちょっくらそこで弾いてみようと思いつき、面接へ行く。しかし都合よく毎日入れるほどの枠はなかった。ガックシ。

 クラブのママに事情を話し、どうにかして夏までに百万は貯めたいと相談する。
ママはなかなか話のわかる人であった。

 「そうかい。それじゃあさ、貴女たぶん全然向いてないと思うんだけど、お金を貯めたいんだったら、社会勉強だと思ってホステスでもやってみるかい?」

 二つ返事でオッケーする私。この話、今までオフレコにしていてあんまり人には話してないんだけど、話すともれなく全員に大笑いされる。自分でも思うし、やってみても思ったけど、向いてないんである、ホステスなんて。

  いいですか、ホステスさんをバカにしているわけではありません。むしろ尊敬しています。どんな客とも楽しく話せて、社会情勢を知り、どんな話題にも対応できて、サッと気を利かせることのできる女性。わたしにゃ〜ムリである。タバコの火はつけられないわ、わかんない話には苦笑いするしかないわで、ただそこに居るだけの役立たずである。

 そのうち、夕方のレッスン終わってから毎日三ヶ月間ビッシリ夜中まで働いて、日中はひたすら試験曲をさらい、留学の事務手続きに大使館まで走っていたら身体を壊して欠勤が続き、見事クビになった。いよいよピアノの練習が追いつかなくなってきた頃だったので、潮時だったのかもしれない。目標額の百万には至らなかったけど、まあ何とか貯まってきていたのでヨシとすることにした。

 そんなこんなで、カネがないところに、申請していた大学の留学基金もいただけることになり、半年だか一年だか、全職員に配られてしまう留学レポートとかいうのを書くことを条件に二十五万を手にして、いよいよ入試までのラストスパートに入る時期を迎えるのであった。

三 どの国へ

 留学したい。

 そう思っても、卒業と同時にすぐに行けるものではない。大学の掲示板に張り出される就職募集一覧のように、「留学生募集」などと募ってあるものは一枚もない。

 さあ、どうするか。

 私はどうしても卒業年のうちに渡欧したかった。何故かって、前に述べた邪道な考えがあるからである。少しも時間を無駄にしたくない。すぐにでもどこかへ飛び立ちたい。

 お金。それならば、どうにでもなる。いや、ならないかもしれないが、金は天下のまわりものと言うし、工面することはできるかもしれない。だけどいくら、留学したいと騒いでみたって、一体何処へ、誰のツテで行けばよいのか。それが問題だった。

 在学中に何度かレッスンを受けた、海外の先生たち。まず思いつくのは、在学中に行ったイタリアであったが、タイミングの悪いことに今は受け入れがないと言う。親が大反対の私としては、条件もまず、学費がかからないことが前提 。私の師匠が留学していたポーランドも、当時と違って外国人からは学費を年間百万くらい取るようになってしまっていた。国立なんだけど、どうして外国人にまで税金を払わなければいけないのか、ということなんらしい。納得である。どうしようかなァ。とブツブツ悩んでいたところへ、私の先輩がこう言った。

 「ベルギーにすれば?ワッフル美味しそうだし。」

 そうか、ベルギー!ピーン、と来る。
早速、師匠に報告。

 「おー、ベルギーかァ。ちょうどヨーロッパの中心部で、いいかもしれねぇな。ベルギーって言ったら、奈良さんが王立のコンセルヴァトワールから帰ってきてたな。ちょっと、世話になってみるか…。」

 どうですこの単純な理由。
それで私の渡欧先は、インスピレーションのみであっけなく決まったのである。

 そして、帰国して間もない、大学で教えていらっしゃったピアニストの奈良先生に深々と頭を下げ、ベルギー王立ブリュッセル音楽院について話を聞き、入試の八月に向けて現地にファックスを送り、読めないフランス語の入試要項を受け取り、膨大な入試曲の譜読みと学科の試験準備と同時に、私は資金を貯めるべく、バイトをガンガンに入れ始めるのであった。

二 留学を決めたワケ

 だいたいにおいて、私が留学を志したのは正統な理由からではなかった。今でこそエラソーな肩書きを書いているが、そもそもその時付き合ってたカレが留学をするから私もする、という邪道な理由からである。その彼は音楽家ではなく、中国語に興味を持ち、北京大学に語学留学して中国語ペラペラになるという目的だった。実際、彼はとても頭が良かったので、本当にペラペラになって帰国しており、現在も広州、香港で仕事をしながら頑張っている同志である。

 そんなこんなで当時の私は、どうせ遠距離恋愛するなら日本ではなく、自分もその間の時間を有効利用して大陸の果てまで行っちゃおう!という魂胆であった。今思えば、留学なんて気軽でも娯楽でも何でもなく、背中に苦労しょって歩くようなもんだから、そのくらいの原動力は必要不可欠なものだったんじゃないかと思う(ほんとか?)

 そういう意味では、彼にはとても感謝している。あの時、あの彼と付き合っていなかったら、もしかしたら今の私はいないかもしれないのである。人生わからないもんである。音楽家は恋愛をしろ、とよく言われるが、まさにそれ。昔の日記を読み返してみたら、恋愛日誌かと思われるほどの読み応えっぷりである。前置きが長くなったけど、そういうわけで私の留学生活が始まった。いや始まったと言いたいとこだけど、正確に言うと、始めるまでにまず、お金がなかった。

一 まえがき

 ずーっと書こう書こうと思っていたんだけど、早いものでもう帰国してから十八年も経ってしまった。十八年!驚きですよ。だってまだ私は高校時代すら、つい最近だと思っていたんだから(本気です)。でも十八年も経てば、そろそろ色んなことを暴露しても許されるんじゃあないかと思っている。音大出て留学して、生徒たちを教えててピアニスト。とか言ったら、もうさぞかし良いとこ出のお嬢様だったんではないか?でもまてよ、お嬢様の匂いはどう見てもなさそうだぞ、おかしいな?と思っている生徒たちのために、私のカッコつけじゃない経歴でもぼちぼち書いてみるかな、と思います。果たしてどんな生活をしてきたのか。興味のある方はどうぞご一読下さい。興味のない方も、時間のある時に暇つぶしに読んでみていただけたら、ある一つのことを続けてゆくということに定まった道などない、というオリジナリティーが判明するかと思います。それでは。