出会い

2017年5月 4日 (木)

二十七 ネズミが出た話

 スペイン旅行から帰り、年が変わって1996年。

 一月の誕生日がきて、春がやって来るまでの間、日本大使館のコンサートで先輩方と一緒に出演したり

(その時は友人しづちゃんとマ・メール・ロワの連弾をしたり、ラヴェルの道化師を弾いたりしている)

何かと忙しい毎日を送りながら、同時にたくさんの友人や先生方に手紙を送り、そして恋のお相手の方も五ヶ月ぶりに電話をくれたりと、なかなかストイックな日々を過ごしていた。今じゃあ考えられないほどの、アナログな通信生活である。それでも私たちは、なんだかんだ言いながら留学終えるくらいまでの間、お互いを放任しつつ、気持ちは続いていたんだから、けっこうすごい。

 そんな毎日の中、あの半地下の部屋の中で私は、もっぱらネズミに悩まされていた。

 そう、ネズミが出るのである。新年になってからコイツらはパワーアップしてきた。

 ダンゴムシならば我慢できるが、ネズミには困らされた。彼らは小さなハツカネズミだったので見かけは可愛らしいが、夜中に台所でカサコソと音がするので見に行ったら、ケーキの箱から顔をのぞかせたり、料理をしている最中にササッと足元を通り過ぎてびっくりさせられたり、うわっ!と驚きの声をあげると振り返ったり。一番イヤだったのは、スポンジの上やフライパンの下などに、糞を残して行くことであった。

 日本からネズミ取りを送ってもらったのだが、奴らは賢くて、中に仕掛けたチーズだけをまんまと食べ、小さな体で網をすりぬけて逃げて行った。全然話にならない。ついに困り果て、先輩アキカさんの飼っていた猫を一ヶ月くらいの間、レンタルさせてもらう。すると敵は見事に姿を消した。本能ってすごい。しかし、そろそろいいかと思って猫を返すと、またすぐにやって来る。これは本格的に、猫を飼わねばなるまいか。

 そんな時、知り合いになった男の子にそのことを話すと、一晩中張って、ネズミをしとめてやると盛り上がった。作戦遂行。だがそういう時に限って、ネズミは何かを察知するかのように出てこない。代わりに我々は、一晩いろんな話で盛り上がり、結果的にネズミの縁で仲良くなるのである。それがその後四年間の私のブリュッセルでの相棒、よっちゃんである。彼なしでの生活はなかっただろうし、今でも感謝している、私の良き友人である。北京の彼のことは知っていたが、ずっと私を守ってくれた。

 そんな訳で、ネズミについての悩みはその後半年くらいの間、猫を飼うまで続くのである。ネズミとよっちゃんの話については、また今度。

2017年5月 2日 (火)

二十三 同級生たち

 ベルギーでは男女問わず、たくさんの出会いがあったわけだが、同級生たちとの出会いは、私の留学生活を賑やかで楽しいものにしてくれた。

 一緒に入学したユキちゃん。偶然、同級生だった。(いや彼女は年下だと吠えているが、早生まれの私としては、日本では学年は一つ違いでも、九月始まりの欧州ではもうどっちでも同じである。)

 私は誰かと友達になる時、たいてい一目惚れから始まるのだが、彼女の場合もそうだった。面白そうな、何か癖があって、コイツと話してみたい。と思わせるものがなければ、友達にはならない。ちなみに、恋人との始まりは、一目惚れだったことは未だかつてないです。不思議なことに。

 ユキはその豪快な笑い声も、煙草をスパスパと吸う仕草も、お酒を記憶が飛ぶくらいまで飲む姿も、存在感溢れる魅力的な女の子であった。あんまり書くと怒られるから控えめに。でも彼女とは苦楽を共にし、試験も仲良く一緒に落ち、カフェで呑んだくれては愚痴をぶちまけたものである。

 よく一緒にパリへのレッスンに行ったり、彼女との思い出は、酒とオトコ以外には、列車を乗り継いで共に座った記憶も多いが、ある時向かい合わせで座った男性陣に、どこの国か?と聞かれて、私たちは「ジャポネーゼ」と答えると、

 「彼女が(私が)日本人だということはわかる。だけど君は、タイ人だろう?」

 と言われて、ユキはマジ切れしていた。

 列車で仲良く、作ってきたオニギリを大口を開けて食べ、車内の人々に物珍しげに見られたこともある。ちなみに、向こうの列車の中では、絶対に寝ません。危ないし、人前で寝る、なんてこと、ヨーロッパでは醜態をさらすようなことである。身構えていたって、スリに遭うような世界だ。私は一度、メトロで財布を見事にすられた。まあ、いいとして。

 毎年、夏休みなどに開かれるスタージュ(講習会レッスン)に、よせばいいのに彼女は当時危険だったイスラエルまで参加し、バスに外国人を乗せて、内戦の境目まで連れて行かれちゃったりして、危険な目にも一杯遭っている。ユーゴスラビアの空爆寸前まで、コンクールを受けに行き、日本大使館から連絡を受けて途中で引き返した友人もいた。私は節約の関係で、スタージュは受けに行かなかったけれど、イタリアのコンクールを受けたり、留学後半にはいろんな国を訪問した。そんな訳で、日本という島国の中にいる時よりも、新聞の国際欄は、すぐ隣で起きている出来事という感覚で、危機感を持って読んでいた。

 留学するくらいだから積極的な友人ばかりだったけれど、みんな、多かれ少なかれ、危険な目に遭ってはヒヤリとした思い出を持っている。まあ、命があって良かったけどね。

 ということで、友人たちとの思い出はまた続く。

2017年4月26日 (水)

八 入試まで

 八月下旬にブリュッセルに到着してから、九月中旬の入試までに、少しずつ現地に慣れ、いろんな人たちと出会った。頼りになる先輩や大使館の方々、これから師事する先生たち、そして同級生。一緒に暮らすことになる大家さん一家。

 ブリュッセルは小さい街だったが、私の世界は一気に広がる。初めての外国暮らしなのに、周囲の人々に恵まれてちっとも不安には感じなかった。寂しかったけどね。そうそう、寂しさはあった。何度も帰りたくなり、枕を涙で濡らしたっけ。寂しさは、留学生活四年間ずっと傍にあって、自分は故郷が好きな人なんだなぁ、ということにも気付かされた。それでも四年暮らせば、ブリュッセルは私にとって第二の故郷になったけど。でも、自分は外国人なんだ、という感覚は拭えなかった。

 海外で暮らすと、旅行では見えないものがたくさん見えて来る。まず初めにわかることは、日本の良さである。なんて親切で、きめ細やかな国だったんだろう、と痛感させられる。今まで当たり前だったことが、外側から見ることによって、井戸の中の蛙だったんだと気付く。それから、日本の常識は世界の常識ではないということ。デッカイことではない。些細なことだ。例えばトイレットペーパーの取り付ける向きが逆だったりね。言い出したらキリがないけど、いちいち細かいことにもびっくりさせられるのである。

 話がずれたけど、九月の試験までに私はいろんな方に親切にしていただき、ピアノを借りて試験曲の練習をしながら、パリの先生のところへレッスンに連れて行ってもらったり、現地の先生にご挨拶をしたり、もう入試に受かったかのようなふるまいをしていた。そして例の北京の彼も予定通り遊びに来て、私は二週間近く、素晴らしいバカンスを楽しんだのである。

2017年4月25日 (火)

七 ベルギー到着

 その夏のブリュッセルは素晴らしい天気だった。短い夏の真っ盛りに到着したものだから、てっきり年中そうなんじゃないかと勘違いしてしまう。

 今でも鮮明に覚えているのは、空港に着いて、初めて会う先輩に出迎えられた瞬間である。一目で私は、彼女のことが大好きになった。ピアニスト、アキカさん。奈良先生が紹介してくれた、留学生活の大先輩である。彼女は私を探してくれて、開口一番、

 「ああ、きっとあの子だろうなって思ってたの。え、荷物、それだけ?!」

 と言った。こんなボロい、黒のビニール袋みたいなカバンひとつで留学してきた子は見たことないわ、と、そこまでは言わなかったが、こんなカバンひとつで来た子はいないと彼女は笑った。素敵な笑顔。今でも大好きなピアニストである。出会いって、素晴らしい。

 それから私は車に乗せてもらい、住所を頼りに、あらかじめ日本から予約しておいた日本人経営のアパートメントホテルに連れて行ってもらった。出張のパパなんかが会社からあてがわれて利用するらしいアパートだ。食器や洗濯機や簡単な生活用品が揃ってて、一ヶ月で十二万円くらい。後から知ったんだけど、ブリュッセルの相場だとベラボーに高い値段で、先輩方に、早く出なさいと口々に言われた。運良く、ちょうど結婚してアパートを出るピアニストの先輩がいたので、入試に合格してからそちらへ移り住んだ。

 ほらね、持ち金百万なんて、すぐに消え去るものである。ビンボーだからと宣伝しておいたって、自分のために開いてくれた集まりを断るわけにもいかないし、初めのうちは会食やらですぐにお金はなくなった。話がすぐお金のことになるが、本当に留学時代は貧乏だったので仕方ない。それでも不思議なことに、日本にいてお金がないと非常にストレスがたまるが、ヨーロッパにいると何も感じなかった。勉強したいという目的があったし、娯楽よりも、自然や町並みの美しさの中にいると、心が満たされた。カッコつけてるみたいだけど、本当のことである。

 そういうわけで、私の留学生活は、最初の二週間は高級アパートメントホテル、それから先は、家賃三万五千円の半地下室で四年間、ダンゴムシやネズミたちと一緒に始まったのであった。
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