留学生活

2017年6月23日 (金)

百二 始業

 ブリュッセルに戻ってきて四日後の、十月二日。コンセルヴァトワールで、セレモニーが開かれた。こんなの、毎年あったっけ?忘れたが、この年に初めて、私はこのセレモニーに出席した。いくつもの演奏と、先生方の紹介に、授賞式もあった。はじめは退屈だったが、最後のジャズ演奏や、テアトルの人々のパフォーマンスは最高だった。拍手喝采である。テレビの取材も来ていたようで、なかなかコンセルヴァトワールもやるな。と思った。そう、ブリュッセルではジャズも盛んで、確か毎年夏になると、グランプラスでジャズフェスティバルが開かれていたと思う。

 四年目に入ると、たくさんの後輩たちも入ってきて、友人関係は広がった。私とユキは相変わらず仲は良かったが、お互いに別々の友人も増えてくる。

 まだ全然フランス語がわからない後輩のために、レッスンでの通訳も任されたりした。ところがこの通訳というものは、言葉がわかればできるというものじゃない、ということを思い知らされる。何故なら、私たちはフランス語をフランス語として理解しているため、それを日本語に変換する、ということが、咄嗟にできないのである。ええと、ホラ、あれだよ、あれ。あれだってば!…なんてことになっちゃって、全然役に立たなかった。通訳者って、すごいのである。

 和声の授業は上級の、スーペリウールまで進んだ。今年からは、メルクス先生のレッスンも一時間もらえるようになる。課題がはかどって早く終わった日にはお喋りに花が咲き、先生がエリザベートコンクールにも出場されていたこと、私が四年目に弾くことになる、バーバーのソナタも先生の十八番だと言うことを知り、嬉しくなった。校舎の一階で無料楽譜コーナーが設置された日には、先生と一緒に楽譜を漁った。ラフマニノフのエチュードの楽譜なんかをゲットして、喜んで帰ってきたのを覚えている。

 一年間、和声を違う先生に教わり、ちっとも理解できなかったと言う後輩のトッコにメルクス先生を紹介してやり、彼女は大変喜んでいた。私は彼に最初から教わることができて、本当にラッキーだった。スーペリウールは難しかったけれど、先生と一緒ならできそうな気がした。今、メルちゃんはどうしているのだろう。懐かしい。

 先生といえば、フランス語を教わっていたマダム・バージバンは、その年、五十を過ぎてから再婚した。彼女は幸せ一杯で、散々、彼との馴れ初めを話してくれた。ヨーロピアンたちの熟年離婚、再婚などよくあることで、それも大恋愛が多いものだから、う〜む、上には上がいるな、と思ったものである。後々、私の大家さんたちも離婚することになり、彼らはお互い、新しい伴侶と暮らしている。理由は、「僕たちの間はもう色あせた」からである。

 子育てにおいても、子ども中心の日本とは全く違い、あくまでも夫婦がまずあって、子どもは子どもとして、例えばデートにも置いていかれたりする。小さなエヴァはよく、「今日はパパとママは映画に行くからお留守番なのよ」と言ったり、「もう子どもは寝る時間だから」と言いながら、ウインクして見せた。この考え方は私の子育てにおいて、大きく影響を及ぼしている。

 話がずれちゃったけど、私が大家さん一家とずいぶん仲良しになったのも、この四年目であった。私は彼らにも支えられながら、思う存分ピアノの練習に励んでいた。

 そして私は、四年目のレパートリーを、今までの数倍速でずいぶんと早く仕上げられるようになっていたのである。

2017年6月22日 (木)

百一 四年目の留学生活

 百話を越えたところでちょうど四年目。私の留学生活最後の年の、始まりである。何だか偶然とはいえ、キリのいい数字も感慨深い。ここから先が私の、想い出の四年間、完結編となる。

  この最後の一年間は、今日記を読み返しても大変充実していた年であり、たくさんの後輩たちに囲まれて、先輩として今までの恩を少しずつ返していた年でもある。ピアノの楽曲に対する理解も、曲作りもだいぶ早くなり、和声も上級に進み、フランス語会話の方もかなり上達していた。コンクールの準備をする余裕もあり、私はリベンジに燃えていたと思う。

 そして同時に、この最後の一年間は、日本でのスタートを切る最初の準備期間でもあった。私はこの年、とても充実していたが、後半、状況は少しずつ変わって行き、確実に日本へ帰国させるための運命の手招きがあったと思う。もしかしたら、この先生まれることになるであろう、現在十歳の娘がそうさせたのかもしれない。私をこのタイミングで日本に帰国させたのは、雲の上からずっと見ていた彼女であった、と考えると面白い。

 今までずっと、この最後の年の日記だけは読み返すことがなく、封印していた。別にあえてそうしていた訳ではないのだが、私は今を生きる女なので、過去にはあまり興味はなく、基本的に読まなかった。でも今そのページを開いてみると、何度も言うけどものすごく充実した日々だったのがわかる。それなのに何故、私は日本へ帰る決心をつけたのだろう。昔のことすぎて、わからない。まだ今のところ、冬までしか読んでいないから、その理由は謎である。この記事を書くと同時に読み進めてみたいと思う。四年間の自分の心境の移り変わりが客観的にわかって、そうだったのか、と納得できるはずある。

 私は1998年9月28日、父と妹のユリコに横浜まで見送ってもらい、成田まで向かった。妹は改札で、ずっと手を振ってくれていた。ANAはエンジントラブルのため二時間のディレイ。でもまあ、トラブルに気付いてくれて良かった。私は何度も乗るハメになっているが、飛行機なんて大っ嫌いである。できるならば、乗りたくない。怖いし、揺れるたびにドキドキする。でも私は悲しいかな、飛行機とはとても縁がある身だ。今でも夫の実家は札幌だし、乗らずにはいられない。できれば、新幹線で行きたいところだけど。早く開通してくれ、と願う。

 私は空港で、母と、それから仙台の彼に電話を入れて別れを告げた。パリからのエールフランスは、これがまた小型機でものすごく揺れて怖かった。ザベンテム空港ではまたよっちゃんが出迎えてくれて、半地下室に着くとホッとする。もう、ブリュッセルの街は私の第二の故郷となっていた。猫のプーは一瞬私を忘れていて、逃げていた。猫とは薄情なものである。

 そんな訳で、私の四年目の留学生活は、スタートをする。

 最初こそ日本が恋しくなり、つい涙ぐんだりもしていたが、最後となるこの一年間のスタートは、最強のパートナーよっちゃんもいて、私は幸せ一杯であった。

2017年6月18日 (日)

九十七 夫の名前

 日本に帰らないと決めた夏は、黙々とピアノをさらいながら、同じくブリュッセルに居た、居残り組の友人たちと楽しく過ごしていた。

 まず私たちは、試験の打ち上げと称して、呑んだくれた。約束通り、ミタ君は電話をくれたし、ユキと三人でカフェに行ったり、ビリヤードをして夜中まで遊び惚けた。当然よっちゃんは怒ったのかと思いきや、疲れて寝ていたので助かった。教会で開かれたレクイエムのコンサートにも行ったし、よっちゃんの友人の、リサさんのお家にお呼ばれに行ったりもした。リサさんの彼は料理人だったので、その日はこれでもかというくらいの豪華な食事が出て、病み上がりの私には少々ヘビーだったが、美味しさのあまりに食べ過ぎて、次の日苦しんだ想い出がある。彼女のお家にはその後、たびたびお邪魔しているが、いつもいつも美味しい手料理でもてなしてくれて、私もいつかこんな風にパーティーを開いてみたいな、と思ったりしていた。こういう想い出が、今の我が家のパーティー好きにつながっているのかもしれない、と思う。

 よっちゃんのお父さんが、お兄さんに付き添われて、日本から遊びに来たりもした。いろんなところへ案内差し上げたが、お父さんは大変喜ばれて、そして、私たちのことをとても心配してくれた。いいお父様であった。お兄さんともとても仲良しになった。こんな半地下の暗い部屋で可哀想に思ったのか、大きな花束をプレゼントしていただいた。最後には、部屋に置手紙がしてあり、涙が出てしまった。同時に、母からの手紙も届いていた。これにもまた、泣けてしまう私。早く日本へ帰って顔を見せてあげたいし、早く結婚でもしてホッとさせてあげたいと、こういう時は都合よく思ってしまう。でも母は、私が残ってコンクールを受けることにも、勉強に対しても、非常に好意的であった。いつも応援してくれていたように思う。もしも私が、一生ヨーロッパで過ごすと言ったら、どうだかはわからなかったけど。

 一方で父は、ついに気持ちを爆発させる。秋に帰って来ないつもりか?調子に乗って!と、電話をかけてくる。こちらとしては、昔っから親の言うことなんか聞いたことがない悪ガキなので、そんなの余裕でスルーなんだけど、コンクールを控えている身としては、耳栓したい思いだった。コンクール先からは招待状が届き、曲も整い、私はイタリアに乗り込む気満々で、調子を整えていた。

 師匠Mr.カワソメにもよく相談に乗ってもらい、私の演奏録音テープを送って感想を聞いたりしていた。こんなんで、日本でリサイタルなんて開けるかな?少しは演奏、マシになったかな?と尋ねると、お前、マシになったどころか、大きな進歩だよ。もっと固めて、レパートリーを大きくすれば大丈夫。ぜひ、やれよ。と言っていただく。

 この時、私は初めて師匠から、夫の名前を聞かされた。

 オレな、今、大学で、ピアノ愛好サークルってやつの、顧問してんだよ。そこの部長がなかなか頼りになるヤツだから、お前、ちょっと世話になって、今年の秋に帰って来たら学祭で弾かせてもらえよ。と言うのだ。

 なんだ、ピアノ愛好サークルって。と、私は笑った。でもこれが、私と夫の出会いとなるのだった。運命とはわからない。結果的には、その秋には私と夫は出会わず、来年の話となるのだけれど。

 という訳で、ベルギーの短い夏が終わってしまう前に、私たちは大いにその開放的な暑さを楽しんでいた。部屋の模様替えもしたし、庭にテーブルを出して食事をしたり、パリから後輩のエミコが遊びに来て、グランプラスの花の絨毯を観に出かけたりした。これは素晴らしい眺めで、二年に一度開かれる、広場一面に花びらが敷き詰められる美しいフラワーカーペットのお祭りである。

 そして、八月も半ばを過ぎると、ブリュッセルは急に涼しくなり、夏の終わりを告げる。寂しいもんだな、もっと夏が続けばいいのに。なんて思いながら、私は夏休み気分もしまいこみ、来月のコンクールに向けて本腰を入れようと、ピアノに取り組み始めた。

 でもそれは急遽、一本の電話で変わった。

 おばあちゃんの急変が知らされ、私は日本へ帰国することになるのである。
 

2017年6月17日 (土)

九十六 夏休みの訪れ

 夏休みの訪れと共に、私は猛烈に腹を下した。

 食あたりである。おそらく、ユキたちと二日前に食べたレバ刺しにあたったと思われる。身体中痛むし、熱で怠いし、辛すぎて、よっちゃんに病院まで連れて行ってもらった。その日は一日苦しんだが、次の日には何とか復活をした。ユキに訊いてみたが、彼女は何ともないと言う。きっと、一緒に飲んだ酒の量がハンパなかったので、消毒しちゃったんだろうと笑っていた。う〜ん、私ももっと飲めば良かった。ちょっと後悔。(ホントか?)

 まだ体力はなかったが、ヨロヨロと起き上がってコルニル先生に電話を入れる。この夏は日本に帰らず、イタリアのコンクールを受ける予定だった。今までのレパートリーを使って、選曲のアドバイスをしてもらう。

 先生は張り切ってプログラムを決めてくれた。一次でラフマニノフとバルトークをやれと言う。私はちょっと迷い、アキカさんにも電話をしてみた。彼女は、カオルちゃん、もっと綺麗な曲を入れた方がいいんじゃないか、と言う。私もそう思った。どうしようかなあ、なんて思っていたらふと、東北の彼にまだ試験結果を報告していなかったことを思い出し、彼にも電話を入れてみる。すると。

 彼は、珍しく話しにくそうにしている。つい先日の電話では、あんなに楽しそうにヨーロッパ行きたいな、なんて言っていたのに。どうしたの?と訊くと、う〜ん、もう電話、しない方がいいかもしれない。と言う。どうやら、彼女(彼氏?)か誰かが居たらしい。なーんだ。私はガッカリして、電話を切った。どうして男と女の間には、友情が成り立つのが難しいんだろう。せっかく親しくなった人たちと離れなければならないなんて、寂しいな。と、日記には書いてある。まあ、でも仕方ないか。そして私は、サッサと気持ちを切り替えて、四年目のコンセルヴァトワールの試験選曲についても、アシスタントと相談を始めるのであった。

 そう、私は、四年目も引き続きブリュッセルに残る気満々であった。でもそれはまだ確かな予定ではなかったかもしれない。父は反対していたであろうし、相棒よっちゃんは、残りたい気持ちはあったが、そろそろ仕事に見切りをつけたいと思う気持ちもまた、あったと思う。私自身もまた、日本に帰りたいという気持ちもあり、でも勉強のことを考えると、もう一曲新しいコンチェルトをやってみたいと思ったり。皆の気持ちは、それぞれに揺れていた。そして私は、とりあえず、目先のコンクールのことだけを考えるようにしていた。

 そんな訳で、この夏は初めてブリュッセルに残って、ピアノの練習に費やそうと思っていたのである。あの電話が入るまでは。

2017年6月11日 (日)

八十九 ツィメルマンのコンサート

 六月二日。この日はツィメルマンのコンサートだった。確か、一度アニュレ(キャンセル)で演奏会が潰れていたから、私はこの日を楽しみにしていた。ヨーロッパにいる利点は、こうした大物たちの演奏会を頻繁に、しかも安い学生チケットで聴けることである。日中は和声の授業に出かけ、メルクス先生に、五日後の最後の試験を頑張って来い!と励まされた。本当に、いい先生であった。

 演奏会場に着くと、コルニル先生も来ていて、学生たちが、彼女の演奏会の宣伝をしていた。だから会場は、もしかしたらコンセルヴァトワールだったかもしれない。よくは覚えていないのだが、ツィメルマンのその夜のプログラムは、ベートーヴェンの悲愴ソナタ、ワルトシュタイン、ショパンのバラード第三番、ショパンのソナタ第三番であった。

 私はこの時、彼の生演奏を初めて聴いたと思うが、その素晴らしい演奏に感動してしまった。一様にして言えることであるが、ライヴというものはやっぱり違う。たとえ、CDで聴く限りではあまり好きでないピアニストだったとしても、生演奏を聴くと、その一流ぶりが伝わってくるのである。ツィメルマンは、特に感情楽章が素晴らしかった。ゆっくりと、音色豊かに、情緒たっぷりに歌わせる。もう、ステキ!の一言である。ベートーヴェンが大好きになってしまった。私もあんな風に弾いてみたい。音楽って素晴らしい。そして、バラードなんてもう、前座として弾き飛ばされてしまった。私はあんなに苦労して練習しているのに。その歌い方もとても参考になったし、そうか、そういうことか、と納得しきりであった。レセプションでは学生同士が盛り上がり、口々に感想を言い合っていた。

 次の日、盛り上がった我々は、仲間同士で試験のレペティション(リハーサル)をやろうと、南駅近くの楽器店ホールを予約しに走った。メンバーも速攻で決まる。

 そして翌々日、コルニル先生のレッスンがあり、恐る恐るバラードをみてもらった。始めだけ聴いてもらうつもりだったが、結局最後まで弾かされ、弾き終えた後、先生はキラキラとした目で
「beaucoup beaucoup mieux maintenant!! beaucoup change toi!! tu a ecute Zimerman?(とても良くなったぞ!ずいぶん変わったわねカオル。ツィメルマンを聴いたのか?)」
と言われる。

 私は嬉しくて、天にも昇る心地だった。やっとだ…。やっと、少しわかったような気がする。そうなんだ、音色なんだ。もっと深く、もっと色を作らなきゃ。そして、音楽を大きく。

 余談だけど、ショパン、ロマン派時代の「バラード」とは、今で言うゆったり調の切ない系音楽ではなくて、「物語詩」という意味合いを持つ。ソナタなどの形式にとらわれず、自由に作曲された、ロマン派独特な作品である。
 ショパンのエチュードも、「どうしてカオルは弾けないのかわかるか?速すぎるからだ。trop ff(強すぎる)からだ。もっと、カルム(静か)に、音楽的に。」と指導され、アシスタントに変えさせられそうになったもう一つのエチュードの方にするかどうか、お前の好きにしなさい、と言われて帰ってきた。

 こうなったら、意地でも変えたくない。このまま、失敗してもいいから、挑戦してきたショパンのエチュードで行こう。

 何か一つのことを頑張っていると、何度も何度も壁にぶつかるが、乗り越えた時はとても嬉しい。これは、自分の決めた道を突き進んだ人にしかわからない気持ちだ。私はいつも、オリンピックのフィギュアスケートと、ピアノを重ね合わせる。何百回、何千回と練習を重ねても、本番は一回だけなのだ。あんなに練習したのに決まらなかったスピン、どれだけ悔しいだろう。決して消しゴムでは消せない本番。舞台は水ものである。そこまで持っていくための、精神力。そして見ている観客は、一緒に感動したいがために、好き勝手なことを言う。だが本番とは、やってみた人にしか、わからない。

 苦しい気持ちを抱え、残り一ヶ月を切った六月七日。お次は和声のソプラノ課題の試験がやって来るのである。

 ああ、しんどい。書いていても、しんどいこと、この上ない。ほんっと。

2017年6月10日 (土)

八十八 スランプ

 五月も下旬になった頃、私はエチュードの壁にぶつかっていた。

 せっかく今まで苦労して練習を積み重ねてきたショパンのエチュードがうまくいかず、機嫌の悪いアシスタントにとうとう、曲を変更してはどうかと言われたのである。他のエチュードも引っ張り出してみたが、乗り気にならない。完全にスランプだった。試験が近づくと、どうしてこう精神的にも低迷するのか。毎日、うまく眠れず、不安定になっていた。私はつい、東北の彼の電話番号を回す。

 彼は疲れて寝ていた。が、別れた女には気を使い、起きて喋ってくれた。いつ帰ってくんだよ?と訊かれたり、カオルはピアノ、いつも失敗するか成功するか、どっちかなんだから、思い切りやんなさいよ。なんて言われた。私はまだ、彼のことを好きなんだなと思う。会いたい。完全に、現実逃避である。

 仙台の彼からも手紙をもらったり、私は試験前になると日本とよく交信をしていた。一緒に師匠のお墓まいりに行った、先輩のヨシミちゃんも、いつ帰ってくんの〜と電話をくれて、来月三人目が生まれるんだよと教えてくれた。彼女は何を隠そう、私に、留学先をベルギーにすれば?と提案してくれた、進路のインスピレーションの恩人である。ヨシミちゃんは、ベルギーが自分の行くはずだった留学先の一つだったのに、潔く男に走り、今では三人目までしっかりと子育てを終えた後、これまた潔く旦那と別れて新しい音楽人生へと方向転換した、味わい深いピアニストである。ああ、たくさんの友人がいる懐かしい日本。逃げ出して、帰りたいのは山々であった。世紀末をどこで過ごそうかと、真剣に悩んだりもしていた。

 うまいこと弾けないリストのため息も、東北の彼氏を想いながら弾いてみた。するとけっこううまく弾けたりする。お、ヤツもなかなか、いい役目してくれるじゃないか。いいセンいけそうだぞ。失恋もしてみるもんだな。なんて思いながら。

 大好きなアキカさんにも電話を入れてみた。彼女は、カオルちゃん、若いうちは、好きにやって大丈夫よ。と励ましてくれる。一足先に帰国した彼女は、日本での仕事もうまくいっているようだった。私は一体この先どうなるんだろう。とぼんやり思った。日本で着実に人脈を広げて行っている人たちが、羨ましかった。私はまだまだ、勉強の途中。宙ぶらりんで、不安で、寂しくてたまらなかった。こういう気持ちになるのはいつだって、試験前である。

 そんな、試験も一ヶ月前に迫った六月上旬、私はある演奏会へ行く。ツィメルマンがやって来たのだ。しかも、プログラムには私の試験曲、ショパンのバラード三番が入っていた。これが、その後私の気持ちと演奏を大きく変えることになる。

 私はワクワクして、コンサート会場へ向かった。

2017年6月 9日 (金)

八十六 五月の私

 五月のブリュッセルは、真夏のような爽やかな日と、冬に戻ったかのような寒さが交互に訪れた。

 ベルギーには、冷房がない。だからたまの暑さが来ると、蒸し風呂になる。特に地上を走るトラムやバスは開閉窓がほとんどなく、厳しかった。けれど私の住む半地下は常に天然のエアコンが効いていて、いつでも涼しかった。でも、三年目ともなると、私はどうしても外の風が恋しくなり、台所のドアに網を張ることを思いつく。BRICO(ホームセンターみたいなところ)で千円ほどの網を調達してきて、虫が入ってこないようにピンで留めただけの網戸だったが、私は大満足だった。どうしてもっと早く思いつかなかったんだろう。猫のプーは、庭に出てみたくて興奮していた。何故なら、庭にはウサギのダゴベルたちが跳ね回っていたからである。プーは小心者だったので、頭を低くお尻を振っているだけで、飛びかかろうとはしなかった。たまに大冒険をして、四、五歩庭に出てみては、私に怒られて逃げ帰って来た。可愛いやつである。

 真夏日の中、パリのレッスンにも通った。アンリオ先生は、試験間近の曲を聴いて下さり、例の、リストため息のレッスンもこの時の話である。後輩のエミコも大歓迎してくれて、まるで南仏のような風通しの良い部屋で一泊をさせてもらった。ただし、窓を閉め切って練習をしなければならない時は地獄だそうである。

 フランス語は、バージバン先生に習い始めたこともあり、もともとお喋りな私は、輪をかけて楽しくなってきていた。和声の授業でよく会う女の子とも、もちろんメルクス先生とも、日本語で会話している時よりもずっと面白かった。自分が全然違うニュアンスの人間になれるからだ。あちらの言葉で話していると、自然と表情もしぐさも大きくなれるし、大人しい日本語よりもずっといい。イエスノーがはっきり言えることも気分が良かった。長らく行っていないが、もう一度ヨーロッパに行ったら、またその気分が味わえるだろうと楽しみである。

 ピアノは、七月の本番に向けて、この頃は称して「ヤバイものシリーズ」の練習に取り掛かっていた。バルトークなど、またもやレッスンにて「trop vite!(速すぎる)」と叱られ、メトロノーム地獄となり、鼻で笑われ散々であった。エチュードも何度弾いてもうまくいかないところが出てきて、苦戦していた。

 だけどそんな日々の中、私は夢を見る。

 夜空に浮かぶ、満天の星を見上げながら、暗い海にキラキラと光り輝いている夢。

 とても印象的で、これは希望が叶う暗示なんだ。だから誰にも言わないでおこうと思った。

 そして五月十七日。この一年間かけて頑張ってきた、和声の中級モワイアンの試験日がやって来るのである。

2017年6月 8日 (木)

八十五 四月の私

 四月に入ってすぐ、友人ユキのコンサートがあった。

 プログラムは覚えていないが、多分、試験の曲と自分のレパートリーとを揃えて弾いたのではないかと思う。彼女はこの年、ベートーヴェンの三番のコンチェルトと、バッハのパルティータ二番、ラヴェルの水の戯れ、プーランクの小品、ショパンエチュード10-5、ラフマニノフのエチュードop.35-7を選曲している。

 ユキは音楽性豊かに弾き、私は友人として大いに満足した夜だった。ライバルではあっても、私たちは共に応援し合い、時には嫉妬もしながら、それでも友が良い結果を出すことが嬉しかった。自分も頑張ろう!という気持ちになれるし、これからの励みになる。そして我々は、終わってから皆でクスクス屋で打ち上げをした。

 パリの友人、エミコも、スペインのコンクール先から電話をかけてきて、三十番でディプロムをもらった!などと速報を送ってくれた。その時はスペインのコンクールが人気で、ユキも勢いよくそのまま現地へ飛び、六名の中に残って一次予選を突破したり、後にエリザベートコンクールに出場するMr.ミタなんかもスペインで二位を受賞したりして、私たちは沸いていた。

 私は九月に、イタリアのバルセシアコンクールを受けようかということになり、とりあえずの目標が決まって意気揚々としていた。もう落ち込んではいられず、とにかく練習するのみ。ショパンのエチュードは難しかったが、ようやくこの頃から手に付き始め、慣れると麻酔をかけたように手が動く、と日記に記載している。

 コンチェルトは四月下旬になって初めて、コルニル先生と合わせた。あれだけ叱られていた曲だったが、この日は「bien!(なかなか良い)」と褒められ、大喜びで帰宅している。

 それからフランス語のレッスンも始めた。マダム・バージバンとの出会いである。始めはよっちゃんが紹介を受けて習っていた先生だったのだが、彼の方はすぐに挫折してしまったため、それならば私がと、ブリュッセル三年目にしてもう一度、きちんとフランス語を習い始めたのである。

 彼女のレッスンはとても教え方がうまく、楽しかった。毎日、日記をフランス語でつけることを宿題に出され、私は嬉しくて、書きに書いた。おかげで、メキメキと上達をし、日本語の日記にもフランス語が増えているのはこの頃である。和声の勉強の方も乗っていて、夜中はだいたい、ピアノの上で寝ているプーと共に、作曲に没頭していた。

 そうそう、余談であるが、相棒よっちゃんは、長いことブリュッセルに住んでいて、最後までフランス語がうまく喋れなかった。代わりに何故か、スペイン語が喋れるようになったりしていた。しかし喋れないが、ヒヤリングはずば抜けていて、一度お店で電子レンジの説明なんかを受けている時に、私はさっぱりわからなかった箇所を、よっちゃんは「だからね、ここが解凍ボタンで、ここを押すとこうこう、こうなるって言ってるんだよ。」なんて、パーフェクトに理解できていて、感心したものである。

 そして彼の方の生活も変わり、来年に向けて生活費を削減するために、アパートを引き上げてわざわざ私の暗い半地下に引っ越してきてくれた。来年は一緒に、なんとか生活しながらやっていこうと決めたのである。お互いに将来の約束をしたわけではなかったが、彼の方も私の勉強を応援してくれていた。感謝しきりである。

 私は徐々に、ブリュッセルに根付いて行った。ここでずっと暮らして行こうと思えばできる環境が整いつつあったのである。そんな私に感づいて焦り始めた父は、私の写真を社内にばら撒き、勝手に見合い相手を探し始める。一方、祖母の介護に必死な母は、私のことなど二の次であった。おばあちゃんは日に日に悪くなり、肺炎を起こしては意識不明になったり、もうだいぶまわりの人間のこともわからなくなっているようであった。

 四月、日本は桜が満開。私はもう、長いこと見ていない。妹、ユリコは彼氏とうまくやっているようだった。みんなに会いたかった。ここでの生活はまわり始めたが、私の心は常に、故郷にあったのである。

2017年6月 7日 (水)

八十四 アットホームな発表会

 三月に、私は初めて自分だけの主催で、門下生たちのミニ発表会を行った。生徒さんの御宅(豪邸)をお借りして、アットホームなパーティーを開いたのである。

 夕方四時からスタート。ちょっとした思いつきで、私はゲームもやることにする。近くのお店でケーキを調達してから出かけた。

 人数が少ないので、ソロと連弾を両方。みんなおめかしをして、よく頑張って弾いていて嬉しかった。最後に私からの、サプライズゲーム。

 内容はこうだ。生徒たちと親御さんが組になり、私が、有名どころの曲をメドレーで弾く。その曲が何回入れ替わったか、そしてそれは何の曲だったか、作曲家は誰かを当てるゲーム。これは盛り上がった。子どもたちは、知っている曲かどうか、だけでオッケー。 全て、得点はお母さんたちにかかっております!と言うと、え〜っ、そんなの聞いてないよぉ〜!と、はじめは皆、焦っていたが、いざ、始まってみるとあちこちで「あ、切り替わった!」「ベートーヴェン!」とか、子どもたちもひそひそとやっている。まずはショパンの幻想即興曲から、ジャーン!と弾き始めたが、みんなの回答の面白かったこと。ピアノが弾けるお母さんでさえ、「幻想即興曲、シューベルト!」「別れの歌っ。ベートーヴェン!」とか、もうめちゃくちゃで、皆、大笑いをした。

 思えばこれが、私の現在の発表会企画に繋がっているのかもしれない。こんな機会にでも、皆んなに楽しみながら曲を覚えてもらえて嬉しかった。

 最後にレセプションにて、お菓子にケーキ。皆んな、とっても楽しかったと言っていた。一人、ちょっと気難しい親御さんがいらっしゃったのだが、彼女も大変満足だった様子で、私はホッとした。いろんなタイプのママがいたが、私はだいたい、誰とでもうまく付き合っていた。とにかく発表会は大成功。私はこの頃から、生徒たちにピアノを教えることが好きだった。自分の勉強はもちろん第一だったが、子どもたちにピアノが好きになってもらいたいという想いは強かったと思う。

 この時期はまた、演奏会ブームでもあった。コンセルヴァトワールの学生たちがこぞって、大使館を借りてリサイタルを開いていた。翌日には友人キボウちゃんのコンサートがあり、夜八時から出かける。コルニル先生もいらっしゃっていて、終わってから先生は、ピアノと、音響が悪い!としかめっ面をしながら、壇上で仁王立ちしていた。(実際、本当にそうだった。)そしてレセプションにて、先生は有無を言わせず、次はユキがコンサートをやれ、と言って、その場で日程を四月に決めさせられていた。女王君臨。ものすごい迫力である。

 私は皆の演奏会を聴きながら、一人落ち込んでいた。私はちっとも曲がはかどっていなかった。みんな、すごいなあ。本当に優秀だ。それに比べて、私なんて。取り残されたような焦燥感に襲われた。そんな気持ちでいるところに、突然よっちゃんが、

 「そういえばオレ、こないだ夢を見たよ。カオルちゃんの先生が、『僕はもうついていてやれないから、君によろしく頼むぞ』って言ってたよ。」

 と、嘘だかほんとだか、調子のいいいつもの感じで、カルチェラタンで夕食をとりながら口にした。私が帰国するたびに、よくお墓で会話をする師匠のことである。う〜ん、本当か?だとしたら、嬉しい。私は思わず、涙が出た。先生、応援していて下さい。と心の中で祈った。

 六月の試験まであと三ヶ月くらいの中途半端なこの時期は、このようにして過ぎて行った。この夏が終わってから先のことも決まらず、試験の曲もまだ仕上がらず、私は宙ぶらりんな気持ちで、気だけが焦っていた。

 それが四月に入ると、ようやく現実を直視するようになってゆく。

 中だるみ状態から、再び猛烈にやる気を出し始め、我々は迫り来る本番に向けてスタートを切るのである。

八十三 春になるまで

 三年目の冬は、色々なことを悩みながらも、ユキたちと集まっちゃあ、仲良く肉じゃがだの、シチューだのを作り、愚痴を言いながら笑い飛ばして過ごしていた。

 そして私たちは共に国際コンクールを探しあぐねていた。良さそうなコンクールのパンフレットを見つけては、年齢制限二十五才以下にひっかかって舌打ちする私。隣にいたユキ(まだ、夏が来るまでは二十五)がすかさず私の手からパンフをひったくって、「いっただき〜!」なんて言って、笑っていた。受けたいと思っていたスペインのコンクールは、日程的に、コンセルヴァトワールの試験シーズンから考えてかなり厳しかったのだが、急遽、九月に延期されたりして(ほんと、いいかげんである)ホッと胸をなで下ろしたりした。

 頼んでいた録音が、出来上がったりもした。恐る恐る聴いてみたが、なかなか良く録れていた。少しピッチが高く入っていたが、まあまあ、曲として形になっている。悪くないかもしれない。嬉しくなって、私は実家や、日本にいる友人たちにダビングをして送った。だけどよっちゃんだけは、もっとパーフェクトな出来を狙った方がいいから、録り直せ!と言ってきた。いやいや、そんな簡単なもんではない。こういうところで、音楽家ではない彼との食い違いはよく起きた。いちいち討論となって、お互いに面倒である。まあ、音楽家同士ならそれなりに違ったケンカも起こるんだろうけどね。でも私にはやっぱり、同じケンカをするなら、音楽家同士のケンカの方が良かったんだろうと思う。

 和声の授業でも、ずいぶん綺麗に曲を作れるようになってきていた。ピアノレッスンの方も、年が変わり、いよいよ先生方の目が厳しくなって、私はレッスンに行くたび、緊張に胸をドキドキさせていた。まだストレスはさほどなかったが、東北の彼氏がヨリを戻そうと言ってくる夢なんかを見ていたりしたから、そろそろプレッシャーもかかってきていたのかもしれない。

 そしてお金も足りなくなってきていた。父が送金してくれた分と、私の稼ぎを合わせて、だいたい夏までの間は足りるように計算していたはずなのだが、生徒たちが帰国して人数が減ってきたりして、予想外の展開になっていた。

 一方で、運の強いよっちゃんは、以前から転職したかった現地の会社からお声がかかったりして、順風満帆だった。私たちは、今後どうしたらいいか、何度も何度も話し合い、来年も一緒に残って暮らしながらやって行こうか、相談しあっていた。

 私の恋愛はすっかり落ち着いていたところだったので、代わりにまわりの友人たちの相談に乗ったりしていた。全く、自分のことはわからないが、人のことはよく見えるものである。ユキにしたって、私にはああだこうだと偉そうなことを言ってくれたが、自分のことになるとよく、七転八倒して大騒ぎしていた。そんな愉快な友人たちに囲まれて、静かな冬は過ぎて行った。

 三月に入ると、少しずつ気候も良くなり、私はパリのレッスンにも通い出す。

 妹は浪人が決まり、春の訪れと共に、状況はゆっくりと変化してゆくのであった。