留学生活

2017年7月18日 (火)

百二十七 最終回 帰国

 一九九九年、十月十七日、日曜日。

 出発の日は珍しく晴れて、そしてとても寒い日となった。

 朝九時半に、私たちはオリビエとエヴァと、それにエヴァの友達のアリアンとで、朝食を共にする。みんなで一曲ずつ、クラビノーバを弾きあったりして、賑やかに過ごした。それから半地下に戻って、最終準備を始める。エヴァもうさぎを連れて遊びに来たりした。

 猫のプーは、異変を感じて縮こまっていた。当時は飛行機に乗せるのに、猫の検疫はなかったので、問題は、長時間の移動にプーが参ってしまわないかということと、彼の体重がオーバーなことだけだった。病院からは睡眠薬のようなものをもらっていたのだが、それを飲ませるかどうかはとても迷った。お昼近くになって、私たちはようやく決断し、一粒口にポンと放り込む。プーはむしゃむしゃと飲み込んでしまい、あっけなくすぐにトロンとし始めた。

 十二時前に、家を出発。オリビエたちと空港へ向かった。最後にドアを閉める時、胸の奥がキュッと痛くなった。エヴァは進んで、プーの入ったカゴを膝に抱え、オリビエは「サヨナラ、ベルジック!(ベルギーのこと)」と言った。

 二十分ほどで空港には着き、エヴァたちとは駐車場でお別れだった。

 私たちは、抱き合ってさよならを言った。私は急に涙が止まらなくなった。さよなら、大好きだった人たち。エヴァも一生懸命、涙をこらえていた。日本に帰ったらもう、毎日一緒に暮らしていたこの人たちとは、長い間、会えなくなる。私はとても悲しかった。想い出が一杯詰まった、四年間のヨーロッパ生活は、おしまいになったのだ。どうして信じられるだろう。と同時に、私は、最後に心に残るのは、ベルギーでの勉強のことではなく、人との繋がりであることを知った。お世話になったコルニル先生たちや、一緒に暮らしていたエヴァたち。愛情。それは、私にとってかけがえのない、大切なものだったのだ。

 いつまでも泣いているわけにはいかないので、私たちはもう一度ハグをして、別れた。そして空港へ着くと、急にプーが正気を失い、半狂乱状態に陥った。私もよっちゃんも、一気に「お別れ」ムードを失い、プーに薬を飲ませたことを後悔する。しかしそれは後からわかったことだが、一時的な発作だったらしく、それからしばらくしてプーはとても静かになった。動物にとっても長距離の移動は大変なストレスである。私たちは心配でたまらなくなり、せっかく、ユキとトッコが見送りに来てくれたのに、ほとんど時間がなく、お茶もできずにゲートでバタバタとお別れ、となってしまった。

 引き上げ時の荷物は、ハンパなかった。その上、デブ猫のプーがいるときている。プーの機内料金は、その体重によって加算されることになっていたので、一体いくら取られるかとハラハラしていたのだが、たまたま係の兄ちゃんが気のいい奴で、カゴごと乗せられた体重計は明らかに八キロ近く指していたのだが、なんと「四キロ」にしてくれた。仰天である。そして私たちは、満席のルフトハンザに乗り込んだ。

 ほとんど定刻通りで飛んだが、フランクフルトに着いてから、またえらいことに、私のバッゲージが外に出るはめになってしまい、乗り継ぎが一時間しかないのに、もう一度、荷物チェックを通らなければならなくなった。ドイツの女の係員は不親切だし、行列の中国人は嫌な奴だったし、もう散々だった。何とか成田行きのチェックインの最終時刻に間に合い、汗だくになりながら、またもや満席の中に乗り込み、ホッと一息。

 その頃にはプーも落ち着いていて、「プー」と呼ぶと、か細い声で、ニャ〜、と鳴いていた。どうやら、薬が効いて、朦朧としているらしい。隣の兄さんがいい人で、プーをこっそり膝抱っこできたりして、本当に助かった。プーは水も飲まず、おしっこもせず、十二時間をひたすら耐えていた。成田到着二時間前くらいでようやく彼は正気に戻り、名前を呼ぶと元気に返事をするようになっていた。

 そんな具合で、私たちはフライト中、猫のことばかり気がかりで、気疲れグッタリであった。とてもじゃないけど、あれこれ想いを巡らせているヒマなどなかったのである。

 無事、成田に到着したその時は、ああ、日本だ。本当に、帰って来たんだ。という嬉しさと、ガッカリした思いが、入り混じっているような感じであった。まだ、夢を見ているようだった。ともかく、私は帰って来たのだ。一時帰国のヴァカンス気分の時とは、全く違う気持ち。

 日本。これから、何が起こるんだろう。私は、どうすればいいんだろう。

 全く一からのスタートを切ることになる自分は、真っさらな白紙を目の前にしたような気分で、未来に向かってたたずんでいた。

 お金もなく、仕事もない。あるのは、自由な時間と、可能性だけである。

 そうだった。帰って来た直後のあの頃は、本当に時間が山のようにあった。生活が軌道に乗り、仕事も忙しくなってからでは、とうていやることのできないことが、何でも好きにできた。懐かしい、貴重なあの時間。

 私は自由と、たくさんの友達に囲まれていた。そして出会い。ベルギーでお別れした分だけの、新しい出会いが待っていた。同時期に留学していたであろう、今現在の音楽仲間たちにも、次々と出会った。あの時、もしかしたらあのパリの街角で、ヨーロッパの石畳みを歩いているあの時に、私たちはすれ違っていたかもしれないと思うと、面白い。

 そして、日本での、ベルギー時代の友人や、先輩方との再会。私は、彼らの活躍に、たくさんの勇気ときっかけをもらった。

 その後訪れる、夫との出会い。リサイタル。そして巡り会う、可愛い生徒たち。

 これから先の話は、この続編として、ぼちぼち書き進めてみたいと思う。ハッキリ言って、留学時代と同じだけの、いや、それ以上のエネルギーを必要とした、日本でのスタートだった。留学から帰って来た者たちならば、皆、同じような思いをしているに違いない、もう一度すごろくの振り出しに戻るような気持ち。

 一九九九年、秋。年が明けて二十八を迎えるのを目前とした、二十七才の私であった。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 〜完〜

 七月二十四日 月曜日、続編スタートですnotes

2017年7月17日 (月)

百二十六 帰り支度

 ギリシャの陽気な太陽の下で、すっかりブリュッセルへの未練を断ち切れた私は、着々と帰り支度を始めていた。母からの電話でも、最後の最後まで、コンセルヴァトワールを中退することについて気にかけてもらったが、そんなことはもう念頭にはなかった。

 いいのだ。私は日本で頑張るのだ。なんだか、試験曲ばかりに追われる生活にも、疲れてしまった。この先もう二年、暗いブリュッセルで踏ん張って持ち曲を増やすよりも、新しいことにチャレンジしてみたい。リサイタルもやりたいし、もっと色々なコンクールにも出てみたい。私はそんな風に思っていた。

 帰って来ると、生徒の親御さんたちや、ユキたち友人一同から、送別会を開いてもらった。生徒たちとは、アンティーク調の、お洒落で美味しいイタリアンへ。ユキたちとは、仲間内でよく行ったカフェで、Mr.ミタ、ヤザワ選手、さとこっち、シホちゃん、キョーコちゃん、トッコとその彼、アキエちゃん、リョーコちゃんら、たくさんの友人たちが集まってくれる。来られなかったキボウちゃんとは後日、個人的にお別れ会を開いた。ユキとトッコは出発の日、見送りに来てくれると言ってくれて、嬉しかった。この時にもらった、クリスマスの可愛い飾りを今でも大切にしている。大事な想い出である。

 オリビエたちと最後にボーリングに行ったりもした。エヴァとよっちゃんは相変わらず、道を歩く時も腕を組んだりして、仲良しであった。彼らと離れるのは寂しい。電話会社のベルガコムと、私は最後まで反りが合わなくて、間違って三日前に電話を切られてしまったので、オリビエに電話を借り、国際電話でいろいろなやりとりもさせてもらった。エヴァには私の持ち物をたくさんあげたが、お礼にと言って、彼女は花束をプレゼントしてくれた。まだ十歳にもならない子どもが、何という大人っぽいことをするのだろう。私はきっと、彼女のママのベンチュラが気を利かせたのだろうと思って、「ママにもありがとうと言ってね。」と言ったら、「c'est pas Ventura, c'est moi !!(ベンチュラじゃないわ、私からよ!)」と言い返されて、びっくりしたと同時に、感動したものである。

 フランス語を教わっていたバージバン先生には、最後のレッスンにて、今度ベルギーに来る時はうちに泊まりなさい、と言っていただいた。何年か経って私は、夫と一緒に先生のところへ訪れている。そして先生は、フランス語でさようなら、「au revoir(オールボワール)」とは、再び会いましょう、と言う意味でしょう。と言って、ウインクしてくれた。嬉しかった。私たちは笑って、再会を楽しみにお別れをした。

 和声のメルクス先生にも挨拶しに行った。他の学生もちょうどいない時で、ゆっくりお話しできて良かった。住所交換をし、「東京に行くことがあったら電話をするぞ。アキカによろしく。」と言われる。それ以来、先生がどうしていらっしゃるかがわからなくて気になっている。今もなお、現役で、パリのマレ地区あたりをブラブラしていらっしゃるのだろうか。大好きな優しい先生であった。ぜひ一度、お会いしたいなと思っている。

 アシスタントと、コルニル先生には、その翌々日にご挨拶に行った。またベルギーに来たらレッスンをお願いします。と言ったら、もちろんだとおっしゃって下さり、色々な話をする。コルニル先生は私が勉強を続けたい気持ちをわかってくれていて、日本でもプロフェッサーがいるのか、尋ねてくれた。先生のところへは、帰国後も実はこれまた、夫を連れて一緒にレッスンに伺っている。いつも優しく、時には厳しく、帰国後も、リサイタルやコンクールなどのプログラム相談に乗っていただき、温かく親切な方だった。この先生がいらっしゃらなかったら、私の楽曲に対する分析力はつかず、感性のみに頼っていたかもしれない。毎回、ダメ出しされて厳しいレッスンだったけれど、本当にためになったと思う。merci beaucoup.ありがとうございました。

 そして借りていた半地下のピアノは、出発二日前に旅立って行った。

 ピアノを出すには大きなトラックが家の前に停められなければならないので、私はコミューン(役所)か警察かで手続きを取り、お金を払って、1日中、うちの目の前に看板を立ててもらい、他の車が停めてはいけないようにしなければならなかった。ヨーロッパでは道路に縦列駐車するシステムになっているのだが、これがベルギー人たちの守らないこと、守らないこと。ひどかった。仕方がないので、私たちは外に出て、追い払い作業をしなければならなかった。停めちゃダメだと言っても、彼らは平気で「2 minutes !(二分だけ!)」とか言って、いなくなる。で、実際、二分どころかずうっと戻って来ない。中には、「一体何に使うのよ?」と逆ギレする奴もいた。信じられませんね全く。そしてついに私は、一台の黄色い車をレッカー移動した。可哀想だったが、仕方ない。三時間も堂々と停める方が悪いのだ。

 四年間お世話になったピアノは、やっと夕方になって業者がやって来て、トラックに積み込まれ、ドナドナとなった。荷馬車が揺れる〜。の、アレである。ちょっぴり寂しかった。ピアノがなくなって一番びっくりしたのは、猫のプーすけであった。ピアノの上で寝るのが好きだった彼は、しばらく戸棚の中でいじけていた。

 そして、出発前夜。

 片付けがひと段落して、少し一休みした後、私はオリビエ一家とお別れをした。

 セルジュとベンチュラの二人は、明日の朝、出かけてしまって挨拶ができないからである。

 オリビエは、明日の朝食を一緒にとろう、と言ってくれて、エヴァときたら、まだ明日があるというのに、早まって涙目になり、「カオル、さよなら。」と言って、皆に大笑いされていた。でも、私も涙が出そうになってしまった。

 カオルは、何で帰っちゃうんだー!と言うエヴァ。本当だね、私はどうして帰ってしまうんだろう。寂しいよ。よっちゃんとも、しばらくは別々の家で暮らすことになる。日本に帰ったら、私たちはどうなるんだろう。そんなことは、誰にもわからなかった。知っていたのは、その時空の上から見ていた私の娘、なっちんのみである。

 明日は、四年間住んだベルギーのこの部屋とも、いよいよお別れの日。想い出の詰まった半地下の、薄暗い部屋のベッドに横たわりながら、私は静かに目を閉じた。

(次回、最終回です。)

2017年7月15日 (土)

百二十四 アンリオ先生の贈る言葉

 九月下旬になって、私はアンリオ先生にご挨拶するために、パリに向かった。

 友人エミコは快く泊めてくれて、私たちは二ヶ月ぶりの再会を祝った。行くたびに閉まっていて、なかなか見られなかったオペラ座、ガルニエもこの日は開いていて、憧れのシャガールの天井を見ることができて、感激であった。

 アンリオ先生の御宅には、翌日の朝に出て、郊外のサンラザールにはお昼前に着いた。先生とは、一時間くらいお話ができた。色々なことを話せて、本当に嬉しかった。一番嬉しかったのは、先生からの「贈る言葉」として、

 「日本に帰ったら、カオルのことを良く知っているアキカや、コースケ(奈良先生のこと)に習え。他の先生には変えるでないぞ。」

 と言ってもらったことである。

 実は、あのコンクール以来、会場で審査員の言った言葉が離れず、私は少々悩んでいたのだ。私のところへいらっしゃい。きっと、もっと良くなるはずよ。そう言っていた、あの冷たく傲慢そうな先生の一言。私は、このままではダメなのかと思っていた。でも、アンリオ先生はそんな私の気持ちを見透かして、はっきり助言をしてくれた。お前は、このままでいい。まわりにはとても良いピアニストが、コンセイユ(アドバイス)してくれる先輩が、いるじゃないか。と言われたようで、ホッとした。

 嬉しくて、帰ってからエミコにそれを伝えると、心から喜んでくれた。でもそれが、アンリオ先生からの最後の言葉となってしまった。本当に、お会いしに行って良かった。先生は私が帰国してしばらくすると亡くなり、もう二度と彼女の言葉を聞くことはできなくなってしまったからである。

 私はこの後、いろんな友達に送別会を開いてもらったり、先生方にも挨拶をしたりと、忙しい日々を送ることになるが、その前に生徒たちの発表会を開いた。大きな教会で、合同発表会を行ったので、人数は多く、華やかな会となった。私は帰国後、生徒の何人かを友人のミタ氏に引き継いでもらったので、彼はこの会に顔を出してくれて、生徒の親御さんたちにきちんと挨拶をすることができた。ありがとう、ミタ君。彼は生徒たちからも大人気であったため、私から引き継ぎの話が出た時は、皆喜んでくれた。

 そしてその翌々日。私とよっちゃんは、ヨーロッパ生活最後の思い出作りとして、彼念願の、ギリシャサントリーニ島の旅へと出かけることになるのである。

2017年7月14日 (金)

百二十三 彼からの電話、そしてオリビエたち

 ブリュッセルに戻って来た次の日の朝は、実家にファックスを入れ、みんなに残念だったなあと言ってもらえる。でも私は、やることが多すぎて悲しんでいるヒマもなかった。

 バタバタとやるべきことを片付けていると、電話が鳴った。驚いたことに、東北の彼が、一度よっちゃんが出たのにもかかわらず、もう一度私に電話をくれたのである。

 私たちは、一時間ほど話をした。こんなにゆっくり話すのは久しぶりだった。はじめはよっちゃんがそばにいた、ということもあり、お互いに多少ギクシャクしたが、そのうちに打ち解けて、色々なことを喋った。これは、本当に嬉しかった。彼の方も、「カオルとこうしてまた、こんな風に話すことができて幸せだと思う。」と言っていた。今までのことが全て、水に流れて行くような気がした。

 多分、私の気持ちは帰国に向かっていて、目先のコンクールも終え、やるべきことをやった後だったから、自分の気持ちもスッキリと整頓されていて、彼とも素直な気持ちで向かい合えたのかもしれない。恋愛は幾度となく、してきたけれど、彼がまさに付き合っている最中に私に向かって言った、「ボクはカオルにとって、別れてもずっと心に残るような存在でいられたら幸せだと思う。」というセリフが、結局その通りとなってしまった。彼ほど、いつも何かしら気にかかり、そういえば今ヤツはどうしているのだ、と思わせられる相手はいないかもしれない。まんまと思惑通りとなったのが、多少、負けた感があって悔しいが、まあいい。それだけ魅力的な人物と出会えた私は、幸せである。

 電話を切ってからも、よっちゃんは怒っていなかった。そして、私は二階にいるオリビエたちと、今度開くパーティーの打ち合わせをした。九月二十五日にしようということになる。

 それからは、生徒たちの引き継ぎ、いろいろな手続きと解約、やるべきことは山のように積み重なっていて、それらを一つずつ順番に片付けていった。四年も暮らすと、意外と最後は大変である。住んでいた半地下の部屋には、新しい音楽家が何人も見に来たが、結局、誰も入らないまま、私は帰国することになった。代々、演奏家たちが住んでいた一室だったけれど、私の四年間が一番長く、そして一番最後となり、一番仲良しになれたとオリビエは言っている。何年か後に、久しぶりに訪れた時は、シメヌ(エヴァの異父姉)が住んでいた。そして現在はきっともう、あのアパートには誰か全く別の家族が住んでいるのだろう。オリビエとベンチュラは離婚をしたはずだから。でも、きっとまだ仲良しのはずだ。そろそろもう一度、ヨーロッパに遊びに行ってみたい。今度は娘を連れて。

 約束の日となり、私たちは、オリビエ一家と最後のパーティーをした。私とよっちゃんがおもてなしをする、日本食パーティーである。半地下だと狭いので、上のリビングで、巻き寿司やら、いなり、焼き鳥、お好み焼き、お味噌汁、抹茶アイスと、純和食オンパレードであったが、皆、まあよく食べてくれた。特に焼き鳥とお好み焼きはヒットであった。

 エヴァとセルジュがいつか日本に来る約束や、メールアドレスをもらったり、私たちは最後の楽しい時を過ごした。そして同時に、何故ベルギーを離れることになるのか、寂しくてたまらなくなってしまった。この時はさすがのよっちゃんも寂しがっていたように思う。四年間の、彼に至っては五年間の、ブリュッセルでの生活は、長かった。

 そして私は、たくさんの友達や、先生方との、最後の挨拶をすることになるのである。

2017年7月10日 (月)

百十九 ブリュッセル最後の夏

 試験が終わってからの夏は、コンクールのための練習や、イタリアの会場へ行くまでの手配、それからその合間に、帰国するための荷造りをしながら忙しく過ぎて行った。

 会場は何と言っても、いい加減なイタリアだ。ミラノから汽車で乗り継いだ小さな町なので、時刻通りに行かれるかどうか、慎重に検討しなければならなかった。ブリュッセルから事前に調べようと思って駅に行って尋ねても、ここじゃあ時刻表はわからないと言われ、他の窓口へ行ってみたらアッサリ調べられたりと、非常にいい加減である。海外では、一度ダメと言われても必ず食い下がってみることだ。聞き分けのいい日本人はだいたい諦めてしまうが、そんなことをやっていたらあちらでは暮らせない。なんなら、母国語でケンカを売ってもいい。昨日と今日とで言っていることも違ったりするので、要注意である。

 七月は平和に何事もなく過ぎた。ノストラダムスの大予言に、七の月に世界が滅亡するなんて書いてあったから小さい頃からビクビクしてたけど、な〜んもなかった。私たちは最後に、ブリュッセルの王宮で行われたパレードを見たり、宮殿の中に入れてもらったりした。もっと質素なのかと思いきや、さすがは王宮。シャンデリアの舞踏会用大広間などは見事で、素晴らしく美しかった。

 八月になると、よっちゃんの友人である、お菓子づくりの職人さんが開いたホームパーティーに招待される。よっちゃんは顔が広かった。そして友人のリサさんたちも一緒だった。素敵なアパルトマンの八階で、風通しも見晴らしも抜群な豪邸。いい夜だった。絶対住むぞ、こんな家!と、日記には書いてある。

 それから忘れてはならない、二十世紀最後の皆既日食もあった。

 八月十一日正午、もともと暗いブリュッセルが、真っ暗になった。パリのエミコが興奮して電話をかけてくる。これは、三時間くらい続いた日食で、皆既最大時間は、ルーマニアの二分二十三秒であった。ユキはちょうどイスラエルへ行っていたと思う。

 日食は、カナダの東の海で、日の出と共に始まり、インドを通過して、日没と共にベンガル湾で終わった。大昔の人が見たらきっと、何かのたたりだと思うに違いない。ふと、ノストラダムスの予言ってコレだったんじゃないの?と思った私。非常に感動して日本に電話をしたのだが、母に三分で切られたと、怒っている。本当に美しい日食だった。そして八月も半ばを過ぎると、短い夏も終わり、私の荷造りも終わっている。

 日通の船便は日本到着まで二ヶ月ほどかかるので、私はもう必要のなさそうなものは全て送ってしまうことにした。部屋はすっかりガランと寂しくなった。全てが終わりの儀式へと向かってゆく。学校にも届けを出し、コルニル先生にも最後のレッスンを受けてきている。よっちゃんは仕事納めで、送別会を開いてもらった。ちょうど、リサさんたちも一緒のお別れ会となったので、賑やかな会となった。

 私は帰国後のリサイタルも、二〇〇〇年の春と決め、ブリュッセルを去る寂しさの中にも、未来へと向かって動き出していた。

 そうだ。自分は今、四年間の下積みの勉強を終えて、自由の中に飛び出さねばならないのだ。コンクールに向けて、自信を持つのだ。

 七、八月のブリュッセル最後の夏は、あっという間に過ぎた。

 そして九月。ヴィオッティ、バルセシア国際コンクールの日は近づいて来るのである。
 

2017年7月 8日 (土)

百十七 母からの手紙

 本番前のリハーサルが続き、追い詰められモード全開だった時に、母からの一通のファックスが届いた。

 カオルちゃんの、寂しい気持ち、察します。

 ベルギーでの生活に馴れ、たくさんの培った想い出や、又、これで勉強を終えてよいものかどうかと迷いが一気に押し寄せ、悲しくなるのは当然だと思います。

 人生には、どちらにするか選択をしなくてはいけない時が幾度もあり、どちらを選んでもそれなりの苦労も楽しみもありで、先が見えないだけに難しい問題です。

 きっと、コンクールの終了後、カオルなりの心の決着が出来るのではと思いますが、どちらを選んでもカオルは体当たりして、一時的に沈んでも立ち直りが早いからエライ!とお父さんが褒めていました。

 と、ここで日記の文章は終わっているが、私は母からの励ましの手紙に胸が熱くなった。

 やはりこれでもうベルギーを終えよう。先生たちにも、一緒にここまで勉強できて幸せだった、またベルギーに来た時、よろしくお願いしますと伝えよう。と思う私。

 そして気持ちを切り替えて、試験まであと一週間、全力を尽くすことを誓う。

 和声のメルクス先生にも、この秋に帰国するかもしれないと告げる。

 先生はとても悲しいと言ってくれて、この夏はブラジルに行くんだと教えてくれた。

 結局、上級の試験は私は受けなかったような気がする。全然覚えていないんだけど、日記には書いていないので、多分、授業だけを受けていて、まだ自信がなかったのでその年はトライしなかったようだ。先生とはその日が別れの日になるのかもしれないと、胸が一杯になってしまったが、もう一度、帰国する直前にお会いすることができて、今はどうなさっているのかがわからない。お元気でいらっしゃることを祈る。

 試験直前のリハーサルでは、ユキがショスタコーヴィチのコンチェルトの合わせに四苦八苦していた。アシスタントではなく、コルニル先生が直接、オケパートを引き受けていらっしゃったが、とても難しいので、二人してなかなか息が合わず、イライラしながらやっていたのを覚えている。

 私は何とか今年は曲も出来上がっていたのだが、ピアノが思うように鳴らずに困っていた。ちょっとパンチが足りない。つくづく、本番って大変だと痛感である。でも、本番まで腕を痛めないように、カルムに(静かに)練習しておくように、と忠告を受けて帰ってきた。

 最後の試験前。頭の中は、もうピアノ一色である。

 思うに、この四年間で、試験前のさらい方は一番の出来であった。

 そのため幾分、精神的余裕はあったが、前日などもうやっぱり、心ここに在らずとなる。ユキやキボウちゃんからも電話が入り、皆同じ心境だと知る。一日早く試験が終わったトッコちゃんの話によると、何やら今年はえらく長いこと弾かされたらしい。

 明日はどの曲が当たるだろう。コンチェルトは弾かされるとしても、バーバーが当たったらどうしよう。恐ろしい。

 私はかろうじて気分転換に生徒にピアノを教えに行き、「今年の夏はギリシャへクルージングしたい!」といきなり言い出すよっちゃんを尻目に、一人、明日の試験へのプレッシャーに耐えていた。

 そして、私の、ベルギー留学生活最後の試験はやって来るのである。

2017年7月 7日 (金)

百十六 エリザベートコンクール二次

 五月十三日、エリザベートコンクール、二次を聴きに行く。

 三時からの部で、私は日本人男性と、イスラエル人男性の演奏をそれぞれ一時間ずつ聴いてきた。アンポゼ(ベルギー人作曲家の曲)二題と、二人ともショパンを当てられていたが、つくづくショパンのフレーズは美しいと感動してしまった。何を今さら、なんだけど。思わず帰ってからバリバリ練習してしまう。

 私は本当に、四年間ヨーロッパで勉強できて、多くのことを学べて幸せだった。自分の中で、音楽とは何か、確固としたものが定着しつつあるのをはっきりと感じていた。

 それから、美しい音色の出し方、フォルテを出す瞬間の力の抜き方など、エリザベートを見ていると、それだけで、自分の技として盗むことができた。

 しかし友人のユキはスランプだったらしく、私に泣いて電話をかけてきている。大丈夫か?と、心配している私。

 これらは全て、日記に書かれていることである。詳しいことまでは忘れたが、日記とは本当に、財産である。その時のことが鮮明に蘇ってきて、ああ、そうだったと懐かしい。最近は昔に比べて、書く内容も年々、日々の忙しさにかまけて雑になり、薄れてきたんだけど、頑張ってちゃんと書くようにしよう。それでも、若さ溢れる感受性には全然負けるんだから。

 本番と言えば、六月に入り、私たちはペライアのコンサートも聴きに行っている。

 私は本当にラッキーガールだったらしく、今回も、私のプログラムであるバッハのパルティータ一番が含まれていて、大喜びで出かけた。

 すごく癖のある演奏だったが、パリッとした弾きっぷりで、私もユキも非常に感動して帰ってきた。バッハは、タメが上手くてとても勉強になった。と書いてある。自分たちも早く、ちゃんとした舞台でコンサートをやってみたい。試験とは違う、自分の個性を発揮できる舞台だ。ユキと私は、そう話しながらお茶をした。

 本番数日前には、友人ヤザワ君のコンサートもあった。我ら学生一同はまた、久々にに集会を開いたかのような集結ぶりで、楽しかった。彼の演奏はとても緻密で、頭の良い人だと感じさせられる。その人柄も知っているのでますます好感の持てるものであった。私たちは中華を食べに行き、Mr.ミタに、またもや「カオルちゃんは、付き合ったら怖い女だ」と言われて大笑いをしていた。何故だ。私って、しつこいのか?ミタ氏よ。

 私はこの時期、試験の練習の合間に少しずつ、日本への帰国準備も始めていた。

 時期は十月。試験が終わって、イタリアのコンクールを受けてから帰国する計画を立てた。荷物整理で、持ち物を売り始めたり、エヴァにドレスをあげたりしている。でも一方で、帰国したらもう、コルニル先生たちのレッスンは受けられないんだな、という不安と寂しさも抱いていた。ユキやオリビエはとても寂しがり、心は揺れる。オリビエからは、「もう、カオルの笑い声も、ピアノの音も聞こえなくなるのか。」と言われた。

 こうなってくると、人の気持ちとは、去ろうとしているところに執着するものである。

 私は一時、見合いの君に傾いていた気持ちも、多少冷め始めていた。言ってみれば、日本に対する執着が薄れて行ったのである。

 でも私は迷いながらも不思議と、今年は何故か着々と、帰国の準備を進め始めていた。きっと、その時が来ていたのだ。最後の最後まで、私の気持ちは揺れるが、最終的には迷いはなく、決然と帰国している。きっと、本当に、その時がやって来ていたのだと思う。

 人生とは、不思議なものである。あの二十七才の秋、帰国を決めていなかったら、今の私はいなかったかもしれない。あの秋に帰ってすぐに私は夫と出会い、二年の時を経て再会し、あっという間に状況は変わって結婚することになった。

 生きることに希望は必要だが、目標は無理に決めることはない。だって、そんなものなかなか決められないし、決めたとしても流れなんてすぐ変わっちゃうし。ただただ前を向いて楽しく走ってりゃ、幸運の女神なんていつだって微笑んでくれるものである。私はそう思う。辛い時だって、前を向いた者の勝ちである。けっこう難しい時もあるけど。いつだって、そうやって生きてゆきたい。

 そんな訳で、私は帰国を決めた。もちろん、何度も言うが、気持ちは常に揺れていた。

 そして試験は迫り、目前に控えた時、母からの一通のファックスが届くのである。
 

2017年7月 6日 (木)

百十五 エリザベートコンクール一次

 ヨーロッパでは本当にあちこちで、国際音楽コンクールが開かれている。

 エリザベート王妃国際音楽コンクールは、その中でも、ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールと並んで、世界三大音楽コンクールの一つとされる、非常に権威のあるコンクールである。私がレッスン帰りに廊下を歩いていると、テレビ局の取材が来ていたりして、なんだか賑やかなことになっていた。ああ本当にこの学校が舞台となるんだな、すごいなあ。なんて感じていた。

 そんな中、忘れてはならないのが、当時のユーゴスラビア問題である。

 ベオグラードにはこの時期、友人のエミコがパリから国際コンクールを受けに行っていたのだが、ちょうどNATOによる空爆が始まる直前であり、彼女は日本大使館から引き上げ命令を受けて、コンクールの途中でパリに戻って来ている。私は彼女を非常に心配していた。新聞の国際欄にはユーゴ問題について書かれていて、毎日のように目を通していた。日本の両親に電話をしても、お見合いの君と話していても、そんなことはどこ吹く風。この緊迫感の違いは何だろう、と感じた。ユーゴの記事、読んでないの?え、読んでない?!なんて、私は飽きれつつ、偉そうに叱り飛ばしたりしていた。

 日本は、遠い。外国の出来事など、海を挟んだ遠い異国の物語である。北海道にいる時でさえ、本州の出来事が遠く感じるから、なおさらであると思う。

 しかしお隣の、大陸続きのベルギーに居る私たちにとっては、いつ隣で空爆が起きてもおかしくないような危機感があった。今でこそ、テロで騒がれていたりするが、欧州ではテロも日常的なものだったため、私は飲みかけの缶ジュースを持っていたためにバスに乗せてもらえなかったりすることが、よくあった。

 ベオグラードでは放送局なども爆破され、罪のない若者たちが、次々に死んでいった。この年、ノストラダムスの予言もあったように、私たちは皆、明日こそついに決定的なことが始まるのではないかと噂をしあっていた。友人のエミコは途中で危機一髪、最後の邦人として帰って来たが、置いてきた異国の友人たちのことを大変心配していた。あの人たちも、無事、空爆が始まる前に逃げられただろうか。そんなことをよく、口にしていた。

 さて、長くなってしまったが、そんな世界情勢の中、エリザベートが開かれたのである。

 私たちは、一次予選に出場する、ミタ君のことを応援しに出かけた。

 コンセルヴァトワールの学生たちは、チケットを買わなくても聴講を許されたので、混んでいない日にはすんなりと入場することができた。素晴らしいシステムである。音楽学生たちは進んで勉強をしに来なさい。というところであろう。学生証を見せればパスなのだが、どさくさに紛れて、よっちゃんも侵入可能なこともけっこうあった。いい加減である。

 そして、いよいよミタ氏の出馬。

 いや〜、勉強になった。今年まで残れて、本当に良かった。とにかく、あの会場の張りつめるような緊張感の中、出場するだけでもう尊敬である。

 前回は四年前だから、ちょうど私がブリュッセルに留学する直前に開かれていて(毎年、ピアノ、声楽、ヴァイオリン、作曲と順に開催されているので、各部門とも、四年ごとにまわってくるのである。)その時は、我らがアキカさんが出場し、一次予選を突破して、セミファイナリストまで残っているので、日本では奈良先生がかなり盛り上がっていたのを覚えている。大変大きなコンクールなので、一次を通過すること自体が難しいのだ。本当に。

 しかし皆、弾く、弾く。同じピアノとは思えないほど、音色も違っていて面白かった。

 私は確か、ウクライナ出身の、クマぞう君が弾いたメフィストワルツが気に入っていたが(勝手に名前をつけた)、ユキたちは、キライ!と言っていたから、音楽とは賛否両論で難しい。コンクールに落ちる人だって、いいところはたくさんあるのだと知った。コンクールとは何だろう、という気持ちになる。

 Mr.ミタは、図体のでかいロシア人たちに比べると、華奢で小柄な日本人というイメージであったけれど、その腕前をガッツリと披露してくれた。一次に通ればいいな。私は、祈るような思いだった。

 翌日には予選通過者の二十四名の発表となり、残念ながら彼はその中には入らなかった。素晴らしい多くの演奏者たちも落とされていた。何が基準になったのか。

 けれど母とはエリザベートの話で盛り上がり、
「良かったわね、聴けて良かったわね。勉強になるでしょう。」
と、またもや、胸を張って誇らしげに言う母に、私は笑いながら、本当に幸せだと感じていた。

 この後、私は二次予選を聴きに行くのであるが、自分の弾いたことのある舞台で、あのピアノで、このコンクールに聴衆としてでも参加できたことは、四年間残ったうちの意義あることだったと思う。

 話は二次へと続きます。

2017年7月 4日 (火)

百十三 ユリコとぶんちゃん

 ブリュッセルに戻ってきてから、私はモーレツにピアノをさらった。

 久々に静かな環境で、暗譜に燃える。早く仕上げなくてはいけない。それなのに、友人たちは代わる代わる、電話をしてきてくれた。ユキとは直接会って、日本での一部始終を話したが、案の定の大爆笑で、散々からかわれた。私は悪友たちに囲まれて、幸せである。

 そして私は髪を切った。バッサリのボブ。この時はもう、日本人がやっている美容院を見つけていて、私はもっぱら、そこでしか切ってもらわなかった。よっちゃんもオリビエたちも、今までで一番似合っていると言って褒めてくれた。今はずっとショートカットにしているが、当時はロングとショートを繰り返していたように思う。何しろ、お金がなかったので、ショートを保てなかった。というのが理由だろうけれど。

 お見合いの君とは、電話の日を決めて、かけてもらっていたらしい。結構頻繁に電話をもらっているので、電話代はきっとすごいことになっていたに違いない。一度私が心配して、何らかの提案をしているが、君は一切、心配しなくていい。その気持ちだけを受け取っておくよ。みたいなことを言われ、貧乏学生としては、社会人の心意気に感動してしまっている。一週間しか会わなかった代わりに私たちは、電話で本当によく喋った。でも、私が試験でイライラしてくると、何も話題がない相手にイラついて八つ当たりしているから、ホントに勝手な女である。

 さて、三月半ばになると、妹ユリコとその彼氏(現在の夫)、ぶんちゃんがやって来た。

 彼らは一浪し、今年の大学受験を終えて、初めて二人で姉のところに訪れたのである。どんなに接待に疲れるだろうな…と覚悟していたけれど、実際はそんなこともなかった。海外に慣れない両親と違って、若い二人は飄々としていたし、また幼馴染みのような日本っ子でもなかったため、とても楽だったので驚いた。思うに、この辺りから、二人の海外放浪癖は素質十分だったのかもしれない。彼らはこの後、学生時代に思いっきり、お互いに別々の一人旅で、バックパッカーとして世界中を歩き回ることになる。

 途中、ぶんちゃんの大学合格の知らせが入った。

 お母様より国際電話をいただき、獣医になるための、北海道の大学に受かったと報告があったのである。

 ユリコは残念ながら、二浪が決定した。呆然とする彼女。可哀想に、まだ十九才で、神奈川と北海道とで遠距離恋愛をすることになろうとは、すでに遠距離で破局している姉としては、同情した。

 しかし、最初こそガッカリしていた妹たちであったが、結局、結婚後においても遠距離別居婚をずっと続けていたわけであるから、人生とは面白い。もうすっかり離れていることに慣れてしまったのか、それでも二人は超がつくほどの仲良しを保っている。結婚なんて、決まった形などない。今となっては、そう思う。いや、当時も思ってたかもしれないけど。

 二人はブリュッセルに十日ほど居てパリに移り、友人のエミコに少々お世話になって、無事日本に戻った。楽しいひと時であった。ピアノはその間、ほとんど弾けなかったけれど。

 そして、あっという間に三月も終わり。まずい、四月がやって来る。

 ここから私は、怒涛のレッスンに揉まれる日々を送ることになる。

2017年6月30日 (金)

百九 演奏会と、仲間たち

 年が明けると、いつも私たちはパリの公開レッスンへと出かける。

 その年もお決まりのように、私はパリのエミコのうちに一泊して、彼女の愛のこもったオニギリを持たせてもらい、ルーブシエンヌの公会堂に向かった。

 私はトップバッターに、バッハとベートーヴェンを弾いたが、アンリオ先生には、

「il fout beaucoup travailler ! on a encore de temps !」
(もっと練習しろ!まだ時間はある!)

と、一喝される。そりゃそうだ。まだ、全然形になってないもの。バッハはそのテンポ設定とピアニッシモについて、ベートーヴェンは、悲愴ソナタ、trop jentil. 優しすぎる。とアドバイスいただく。コルニル先生の言っていることとはまた、全然違うけれど、いつも先生の音楽的な指摘には頭が下がる思いであった。

 そんな中で、他の仲間たちは皆、先生に、tres bien(トレ・ビアン。大変良い)と褒められていた。キボウちゃんのダンテは素晴らしかったし(リストね。)演奏会の近いキョーコちゃんも、もう曲はすっかり出来上がっていた。私だけがダメ出しを食らって、しょんぼりと帰って来たように思う。友人のエミコはそんな私を毎度、励ましてくれて、夕飯にパスタを作ってくれた。彼女のパスタは、絶品であった。ありがとう、エミコ。

 キョーコちゃんのミニリサイタルは、二月に入ってすぐに開かれたが、私はメトロの行き先をうっかり間違えてしまい、しょっぱなバッハのシャコンヌを聴き逃した。大好きな曲だったのに、残念である。彼女の演奏は素晴らしかったのだが、聴いているうちに、なんだか自分まで本番を想像してしまい、緊張の汗が出る。いろんなメンバーたちが集まっていて、楽しかった。演奏会とは、音楽仲間が集結する場でもあるから、いいもんである。今年から入って来たであろう、背の小さくて可愛らしいアコちゃんは、

「カオルちゃん、私の彼がね、カオルちゃんって言う、すごく感じの良い子がいるよって、教えてくれたのよ。今だから打ち明けるけど。」

と言ってくれたりして、何だか嬉しかった。アコちゃんの彼氏とは、一足先にブリュッセルに留学して来た秀才で、ずっと、彼女の渡欧を心待ちにしていたヤザワ氏である。私は彼と仲が良く、学校で会えばとても親切にしてもらっていた。ヤザワ選手、私のことを彼女に褒めるなんて、いい奴じゃねーか。なんて、日記に書いてあった。彼女たちはめでたく結婚し、日本でもご夫妻でよく、リサイタルを開かれている。

 二月九日には、ウゴルフスキーのコンサートがあった。会場がどこだったかは覚えていないが、さすがに学生たちはほとんど集まっており、Mr.ミタは、可愛いスペイン人の彼女とベッタリであった。(この二人も、結婚して可愛いお子さんが生まれていると思う。たぶん。)

 ウゴルフスキーはロシアのピアニストで、確かドイツに亡命して来ていたんだけど、彼の演奏はさすが、個性的でとても面白かった。ムソルグスキーの展覧会の絵などは、ちょっとやりすぎと言うか、本当に独特なものだったが、スクリャービンは最高だった。だけど五番のソナタは、危なっかしくって、聴いていられなかった。でも、人気があるのはわかるような気がする。

 演奏会が終わって、珍しく雪降るブリュッセルの街を歩きながら、私はユキと一緒にカフェに寄りながら帰った。辺り一面真っ白に輝く、静かな夜のサブロン広場はとっても美しかった。私たちは冷たい、澄んだ空気を吸い込みながら、綺麗!すごく綺麗!と言って、はしゃいだ。この光景を、私は一生忘れない。と日記に書いてあるのに、読み返すまではすっかり忘れていた。読んだらあの時の光景が脳裏にパアッと蘇ってきて、なんだかとても嬉しくなった。帰ってから、猫のプーに雪を踏ませてやったら、速攻で逃げ帰っていて、可愛かった。

 私は、二月のその時を、そのように、仲間たちの演奏を聴きながら過ごしていた。

 そしてとうとう、痺れを切らした父のために、日本へ一時帰国する。この時まで私は、本当に幸せに過ごしていた。まあ、その後だって、幸せには変わりないんだけど。

 とにかく、またもや私の恋愛ドタバタ劇は、始まろうとしていたのである。

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