ピアニストMama♪ 留学白書

2017年3月24日 (金)

まえがき

 ずーっと書こう書こうと思っていたんだけど、早いものでもう帰国してから十八年も経ってしまった。十八年!驚きですよ。だってまだ私は高校時代すら、つい最近だと思っていたんだから(本気です)。でも十八年も経てば、そろそろ色んなことを暴露しても許されるんじゃあないかと思っている。音大出て留学して、生徒たちを教えててピアニスト。とか言ったら、もうさぞかし良いとこ出のお嬢様だったんではないか?でもまてよ、お嬢様の匂いはどう見てもなさそうだぞ、おかしいな?と思っている生徒たちのために、私のカッコつけじゃない経歴でもぼちぼち書いてみるかな、と思います。果たしてどんな生活をしてきたのか。興味のある方はどうぞご一読下さい。興味のない方も、時間のある時に暇つぶしに読んでみていただけたら、ある一つのことを続けてゆくということに定まった道などない、というオリジナリティーが判明するかと思います。それでは。

2017年4月24日 (月)

一 留学を決めたワケ

 だいたいにおいて、私が留学を志したのは正統な理由からではなかった。今でこそエラソーな肩書きを書いているが、そもそもその時付き合ってたカレが留学をするから私もする、という邪道な理由からである。その彼は音楽家ではなく、中国語に興味を持ち、北京大学に語学留学して中国語をペラペラになるという目的だった。実際、彼はとても頭が良かったので、本当にペラペラになって帰国しており、現在も広州、香港で仕事をしながら頑張っている同志である。

 そんなこんなで当時の私は、どうせ遠距離恋愛するなら日本ではなく、自分もその間の時間を有効利用して大陸の果てまで行っちゃおう!という魂胆であった。今思えば、留学なんて気軽でも娯楽でも何でもなく、背中に苦労しょって歩くようなもんだから、そのくらいの原動力は必要不可欠なものだったんじゃないかと思う(ほんとか?)

 そういう意味では、彼にはとても感謝している。あの時、あの彼と付き合っていなかったら、もしかしたら今の私はいないかもしれないのである。人生わからないもんである。音楽家は恋愛をしろ、とよく言われるが、まさにそれ。昔の日記を読み返してみたら、恋愛日誌かと思われるほどの読み応えっぷりである。前置きが長くなったけど、そういうわけで私の留学生活が始まった。いや始まったと言いたいとこだけど、正確に言うと、始めるまでにまず、お金がなかった。

二 どの国へ

 留学したい。

 そう思っても、卒業と同時にすぐに行けるものではない。大学の掲示板に張り出される就職募集一覧のように、「留学生募集」などと募ってあるものは一枚もない。

 さあ、どうするか。

 私はどうしても卒業年のうちに渡欧したかった。何故かって、前に述べた邪道な考えがあるからである。少しも時間を無駄にしたくない。すぐにでもどこかへ飛び立ちたい。

 お金。それならば、どうにでもなる。いや、ならないかもしれないが、金は天下のまわりものと言うし、工面することはできるかもしれない。だけどいくら、留学したいと騒いでみたって、一体何処へ、誰のツテで行けばよいのか。それが問題だった。

 在学中に何度かレッスンを受けた、海外の先生たち。まず思いつくのは、在学中に行ったイタリアであったが、タイミングの悪いことに今は受け入れがないと言う。親が大反対の私としては、条件もまず、学費がかからないことが前提である。私の師匠が留学していたポーランドも、当時と違って外国人からは学費を年間百万くらい取るようになってしまっていた。国立なんだけど、どうして外国人にまで税金を払わなければいけないのか、ということなんらしい。納得である。どうしようかなァ。とブツブツ悩んでいたところへ、私の先輩のヨシミちゃんがこう言った。

「ベルギーにすれば?ワッフル美味しそうだし。」

 そうか、ベルギー!ピーン、と来る。
 早速、師匠に報告。

「おー、ベルギーかァ。ちょうどヨーロッパの中心部で、いいかもしれねぇな。ベルギーって言ったら、奈良さんが王立のコンセルヴァトワールから帰ってきてたな。ちょっと、世話になってみるか…。」

 どうですこの単純な理由。
 それで私の渡欧先は、インスピレーションのみであっけなく決まったのである。

 そして、帰国して間もない、大学で教えていらっしゃったピアニストの奈良先生に深々と頭を下げ、ベルギー王立ブリュッセル音楽院について話を聞き、入試の八月に向けて現地にファックスを送り、読めないフランス語の入試要項を受け取り、膨大な入試曲の譜読みと学科の試験準備と同時に、私は資金を貯めるべく、バイトをガンガンに入れ始めるのであった。

三 資金繰り

 私は音大に入った頃から、生徒にもピアノを少しずつ教え始めていた。まだ学生なので、授業と練習の合間に出張レッスンしたり。でも四年生の頃にはそこそこ生徒も増えていたので、自宅でも夕方レッスンしていたような気がする。しかしそれだけでは留学資金など、とうてい貯められそうにはなかったので、

(私は四年生の後、もう一年専攻科へ進んだのだが、両親はそこんとこの学費は出してくれない約束だったので滞納しながら自分で出していた。で、更にマイマネーでイタリア研修の費用と(半分は母が出してくれたような記憶がある。都合のいいことは忘れてしまう)例の北京の彼とヨリを戻すべく中国に追いかけてった費用をいっぺんに使ったので、もう持ち金が尽きていたのである)

 そんな訳で、今までのバイト先である楽しかったショットバーを辞め、仕方がないので、もっと時給の良いクラブで働くことにした。

 その頃、音大生たちがよく、ピアノを弾いたりして小遣い稼ぎをしていたナイトクラブ。時給千五百円につられ、私もちょっくらそこで弾いてみようと思いつき、面接へ行く。しかし都合よく毎日入れるほどの枠はなかった。ガックシ。

 クラブのママに事情を話し、どうにかして夏までに百万は貯めたいと相談する。
ママはなかなか話のわかる人であった。

「そうかい。それじゃあさ、貴女たぶん全然向いてないと思うんだけど、お金を貯めたいんだったら、社会勉強だと思ってホステスでもやってみるかい?」

 二つ返事でオッケーする私。この話、今までオフレコにしていてあんまり人には話してないんだけど、話すともれなく全員に大笑いされる。自分でも思うし、やってみても思ったけど、向いてないんである、ホステスなんて。

 いいですか、ホステスさんをバカにしているわけではありません。むしろ尊敬しています。どんな客とも楽しく話せて、社会情勢を知り、どんな話題にも対応できて、サッと気を利かせることのできる女性。わたしにゃ〜ムリである。タバコの火はつけられないわ、わかんない話には苦笑いするしかないわで、ただそこに居るだけの役立たずである。

 そのうち、夕方のレッスンが終わってから毎日三ヶ月間ビッシリ夜中まで働いて、日中はひたすら試験曲をさらい、留学の事務手続きに大使館まで走っていたら身体を壊して欠勤が続き、見事クビになった。いよいよピアノの練習が追いつかなくなってきた頃だったので、潮時だったのかもしれない。目標額の百万には至らなかったけど、まあ何とか貯まってきていたのでヨシとすることにした。

 そんなこんなで、カネがないところに、申請していた大学の留学基金もいただけることになり、半年だか一年だか、全職員に配られてしまう留学レポートとかいうのを書くことを条件に二十五万を手にして、いよいよ入試までのラストスパートに入る時期を迎えるのであった。

2017年4月25日 (火)

四 渡欧準備

 バイトを辞めた後は、それはもうピアノの練習がはかどった。と言っても、他にもやることは山積みで、相変わらずギリギリまでピアノも教えながらフランス語を習い、ベルギー大使館を往復し、面倒な手続きを進めていった。

(これがもう、サッパリ覚えてないんだが大変なこと、この上なかった。企業の赴任ならば全部会社がやってくれるんだろうけど、個人学生の留学なんて誰も、助言すらしてくれない。唯一、経験者である師匠のアドバイスだけが救いであった。)

 あとは学科試験の準備である。ベルギーのコンセルヴァトワール(王立音楽院)は、何しろ王立なので学費がほとんどタダに近いのが助かったが、(年間、円換算で一万五千円くらいだった)実技以外にも音楽史やソルフェージュ、和声学、あらゆる学科を、フランス語で受けなければならなかった。いやいや、そんなの、イヤというほど大学で習ったものばかり。しかもフランス語でなんか、カンベンしてほしいところである。ウワサによると、入試の時にソルフェージュなどの試験もあって、ある点数以上をとれば単位免除となるらしかったので、わずかな望みにかけ、もうどうにでもなれ、とサジを投げた。

 とにかく、八月までにはなんとか試験曲と手続き書類一式を揃え、フランス語はほとんどわからぬまま、現地の先輩たちに連絡を取りつつ、荷物は入試に合格したら送ってねと両親に言い残して、カバンひとつに片道切符で日本を発った。当時は今ほど国際便のチケットは安くなくて、ロシア経由のアエロフロート、片道でも十万もした。しかもロシアで一泊。その時はちょうどロシアが崩壊していた時で、空港には拳銃かまえた警備隊が居たりしておっかなかったのを覚えている。ああ、こうして書いていくと、忘れかけていた些細なことが思い出されてボケ防止にもいいもんである。

 お次は、独りでおっかないロシアのホテルに泊まり、そこでの出会いから始まるブリュッセル到着までについて書こうと思う。

五 ブリュッセルへ

 私がこのブログを書こうと思った理由のひとつに、二十才の時から毎日日記をつけていた、ということが挙げられるんだけど、久しぶりに棚の奥から出してきて読み返してみるともう、当時の文章に胸が詰まってくるものがある。胸焼けしてるんじゃありません。若々しく、何事にも感動していてみずみずしいのだ、その一つひとつの文章が。

 今だって、年の割には前向き前進型だし、感受性は失ってない自負があるんだけれど、若さには勝てない。っていうか、昔の、あの頃の、いちいち何かにつけて浮かれ、また沈んだりした感情の波。こういうのって、今読み返しても楽しいもんだな〜と思う。留学という新しい世界に向かって突き進んでいる躍動感というのか。今は、そうして得たもので生徒たちを育てたり、恩返ししているつもりなんだけど、当時はまさに「自分のことで一杯一杯、未来へ向かって一直線」な時期であった。懐かしい。

 旅立ったその日の朝。順調だったかと言えばそうでもなく、アエロフロートが遅れてエアコンのきかない機内に閉じ込められたり、ロシアに着いてから見通しのつかない中、四時間も空港で待たされたりと、疲労しすぎて一人、また一人と空港の床に寝そべり出す有様だった。そこで、同い年くらいの日本人カップルに出会う。これからイスタンブールへ旅行だと言う。彼らは意外にも地元が近所なことが判明し、私が一人で留学するところだと言うと非常に感動して親切にしてくれた。彼氏の方は横浜国大の学生さんで、その後、一時帰国の際もたびたび飲むことになる。(女の子とはすぐ別れてしまったのだ)出会いとは、どこに転がっているかわからないものである。

 ようやくバスが到着して、ほぼ難民キャンプ状態になっていた我々は救われる思いで乗車した。安いチケットにはこういうワケがあるんだ。と思いつつ、着いたホテルを見てまた仰天。幽霊でも出そうな一室に通され、めちゃめちゃ後悔する私。あ〜、せめて一人じゃなかったら!もう、ロシア見物してる体力もないので、ろくに食べずにさっさと寝てしまった。

 無事、オバケも出ずに朝を迎えてようやくブリュッセル行きの便に乗り換える。ロシアからベルギーへの機内はとてもワクワクした。だって、もうじき夏休みで北京からやって来るカレシに会えるのである。(邪道)ご褒美でもなければやってらんないのである。そんなことで、私の二十代、恋愛の舞台も世界を股にかけた、波乱万丈な日々の幕開けとなった。

六【一年目】 ベルギー到着

 その夏のブリュッセルは素晴らしい天気だった。短い夏の真っ盛りに到着したものだから、てっきり年中そうなんじゃないかと勘違いしてしまう。

 今でも鮮明に覚えているのは、空港に着いて、初めて会う先輩に出迎えられた瞬間である。一目で私は、彼女のことが大好きになった。ピアニスト、アキカさん。奈良先生が紹介してくれた、留学生活の大先輩である。彼女は私を探してくれて、開口一番、

「ああ、きっとあの子だろうなって思ってたの。え、荷物、それだけ?!」

 と言った。

 こんなボロい、黒のビニール袋みたいなカバンひとつで留学してきた子は見たことないわ、と、そこまでは言わなかったが、こんなカバンひとつで来た子はいないと彼女は笑った。素敵な笑顔。今でも大好きなピアニストである。出会いって、素晴らしい。

 それから私は車に乗せてもらい、住所を頼りに、あらかじめ日本から予約しておいた日本人経営のアパートメントホテルに連れて行ってもらった。出張のパパなんかが会社からあてがわれて利用するらしいアパルトマンだ。食器や洗濯機や簡単な生活用品が揃ってて、一ヶ月で十二万円くらい。後から知ったんだけど、ブリュッセルの相場だとベラボーに高い値段で、先輩方に、早く出なさいと口々に言われた。運良く、ちょうど結婚して部屋を出るピアニストの先輩がいたので、入試に合格してからそちらへ移り住んだ。

 ほらね、持ち金百万なんて、すぐに消え去るものである。ビンボーだからと宣伝しておいたって、自分のために開いてくれた集まりを断るわけにもいかないし、初めのうちは会食やらですぐにお金はなくなった。話がすぐお金のことになるが、本当に留学時代は貧乏だったので仕方ない。それでも不思議なことに、日本にいてお金がないと非常にストレスがたまるが、ヨーロッパにいると何も感じなかった。勉強したいという目的があったし、娯楽よりも、自然や町並みの美しさの中にいると、心が満たされた。カッコつけてるみたいだけど、本当のことである。

 そういうわけで、私の留学生活は、最初の二週間は高級アパートメントホテル、それから先は、家賃三万五千円の半地下室で四年間、ダンゴムシやネズミたちと一緒に始まったのであった。

2017年4月26日 (水)

七 入試まで

 八月下旬にブリュッセルに到着してから、九月中旬の入試までに、少しずつ現地に慣れ、いろんな人たちと出会った。頼りになる先輩や大使館の方々、これから師事する先生たち、そして同級生。一緒に暮らすことになる大家さん一家。

 ブリュッセルは小さい街だったが、私の世界は一気に広がる。初めての外国暮らしなのに、周囲の人々に恵まれてちっとも不安には感じなかった。寂しかったけれど。そうそう、寂しさはあった。何度も帰りたくなり、枕を涙で濡らしたっけ。寂しさは、留学生活四年間ずっと傍にあって、自分は故郷が好きな人なんだなぁ、ということにも気付かされた。それでも四年暮らせば、ブリュッセルは私にとって第二の故郷になったけど。でも、自分は外国人なんだ、という感覚は拭えなかった。

 海外で暮らすと、旅行では見えないものがたくさん見えて来る。まず初めにわかることは、日本の良さである。なんて親切で、きめ細やかな国だったんだろう、と痛感させられる。今まで当たり前だったことが、外側から見ることによって、井戸の中の蛙だったんだと気付く。それから、日本の常識は世界の常識ではないということ。デッカイことではない。些細なことだ。例えばトイレットペーパーの取り付ける向きが逆だったり。言い出したらキリがないけど、いちいち細かいことにもびっくりさせられるのである。

 話がずれたけど、九月の試験までに私はいろんな方に親切にしていただき、ピアノを借りて試験曲の練習をしながら、パリの先生のところへレッスンに連れて行ってもらったり、現地の先生にご挨拶をしたり、もう入試に受かったかのようなふるまいをしていた。そして例の北京の彼も予定通り遊びに来て、私は二週間近く、素晴らしいヴァカンスを楽しんだのである。

八 北京の彼

 その彼は、イギリスからチャリンコに乗ってやって来た。

 何故イギリスかと言うと、北京大学の夏休みの間、彼は帰国したイギリスのルームメイトの家に遊びに行っていたからである。そこで彼は適当な自転車を調達し、イギリス中を走り回り、その後、チャリを列車に積みドーバー海峡を越えてオランダに入り、そこからベルギーまで走り、私のアパルトマンの目の前までやって来たのである。もちろん、彼自身楽しむためと、私をビックリさせる目的で。

 ところが計画は完璧には行かなかった。そこで待っていて、と言われた私が、そんなこと聞いちゃいなくて、駅まで迎えに行っちゃったからである。だって自転車でイギリスから来るなんて聞いてない。てっきりユーロスターで到着するもんだとばかり思っていたから(普通は思う)私の心は南駅に走っていた。

 なかなか来ないもんで、おかしいなと思いながら戻った時は、大変な騒動になっていた。よくは覚えていないけど、玄関ベルを押しても私が出ないことを心配した彼が、先輩アキカさんを呼び、アキカさんはアパルトマンの大家を呼び、鍵を開けてもらって、みんなで家宅捜索をしていた模様。

「彼女、身体が弱くてよく倒れるんです。中で倒れてるのかも」
 と言って心配していた彼らの目の前に、戻ってきた私が到着。

 今思えば漫才のような話だけど、あの時は彼にめちゃくちゃ怒られた。ここに居て、って言ったでしょう!って。そりゃないよ。国際電話でサラッと言われたことなんて覚えてないし、だいたいそっちが悪いのだ、チャリンコでなんか来るから。

 って、のっけからそんな出だしで登場した彼を、仲間内が面白がらないはずがない。たった二週間のブリュッセル滞在だったが、かなりのインパクトと共にその存在感を残してゆき、二度目に訪問する時まで、私の留学生活を常に大陸の東の果てから応援してくれていた人であった。

 彼はその後二年ほどで日本に帰国したが、結局、私は彼につられて帰国することはなかった。帰れば彼は居る。でもその時の私は、悩みまくった末に現地での勉強をとった。こうやって書くとまたまたカッコつけてるみたいだが、私という人間は恋多き女でありながら、ただそれだけでは満足できない欲深い女なのである。(我が師匠説)

 彼とはこの間久しぶりに友人の葬儀で再会した。全く変わらない風貌で、懐かしい話で盛り上がってきたけれど、その後私は、彼も知らないようなたくさんの出会いに支えられながら、お金を工面しつつ、一年間だけと思っていたエンドレスな留学生活は続いて行ったのである。

九 お金はすぐになくなった

 貯めてきた百万弱のお金は、秋には底を尽きた。

 こんなハズではなかった。このお金で、節約して一年間は暮らそうと思っていたし、実際「貧乏なんです!」と宣伝しまくって、現地での小遣い、いや、生活費稼ぎのために生徒募集したり、先輩方から引き継いだりして頑張ってはいたが、レッスン代もかかるし、フランス語教室には通わなければいけないし、何しろ最初は軌道に乗るまでお金が飛ぶようになくなった。

 勇気を出して、親に頭をさげるべく、ファックスを送った。当時はメールなどない。全て、電話か手紙でのやり取り。安いアメリカ回線の世話になった。

 反対していた父が、見かねてまとまったお金を送金してくれた。これで一年間暮らせと言われる。感謝。って言っても、きっちり卒業後、返済させられたけど。でも何とかこれで卒業してみせよう、最大で四年かかる「プルミエプリ」いわゆる大学卒の資格のようなものを、飛び級できれば最速一年で終えられるのだ。頑張らなきゃ、と思った。(結果は、一回落第して、二年かかってるんだけど)

 そう、欧州の大学は、卒業が厳しい。そう簡単には出さないぞ、ってことである。かなりの成績を見せなければサクッと落とされるのだ。いや〜、見せつけられましたね、その大変さを。そして、留学生らの優秀さを!世界は広い。日本の大学で勉強したことよりももっと楽しかったし、私は夢中になった。

 もっとも、私はあんまり切羽詰まった様子を見せなかったので、まわりの友人からは「もっと頑張ればいいのに」と言われたりしていたのだが、毎日、暗い半地下の部屋で猫と一緒に生活し、朝から晩までピアノを弾いていた。ああ、懐かしいあの時代!自分の勉強のために、時間をフルに使えたあの頃。あの時の私に言ってあげたい、こんな時間はもう二度と来ないよと。空いた時間は日本の友人や彼氏に手紙を書き、コンビニなんてないから昼ごはんにおにぎり作り置きして、練習に疲れたらパクパク口に放り込んではまた弾く。和声学の宿題に追われ、日本のそれとは違う、決まりよりも音楽重視の授業に感心していた。遊ぶお金はなかったが、充実していた青春時代。もう一回やりたいかって言われたらもうやんないけど、それでもあの苦しかった日々が、今に繋がっているのだと思う。

 留学とは、全然楽しいもんじゃないです。まさに修行。ストイックな毎日の中で、適当に娯楽も入れなきゃやってらんない。留学してきた人に、「楽しかった?」と訊いてみて、「楽しかった」と答える人の留学は信頼できない。そう思っている、私です。

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