勉強、試験、レッスン

2017年6月24日 (土)

百三 四年目の選曲

 四年目の試験課題曲に、私はまず、プーランクのコンチェルトを選んだ。

 これは確か、アシスタントに勧められた記憶がある。貴女によく、似合ってるわ。それにこれ、エリザベートコンクールのテーマソングなのよね。オープニングで流れる曲よ。と言われる。実際、これはモーツァルトのコンチェルトよりも簡単であった。(近現代得意な私にとっては。)だけど綺麗な曲なのだが、どうもやってみるとピアノがメインというよりはオケがメインで、ピアニストとしては少々、物足りなく感じる。けれど四年目の選曲としては、コンチェルトよりももっと他に、私の目標としたいものがあったのでヨシとすることにした。

 私は少しずつ、日本でのリサイタルプログラムを意識するようになっていた。だからこの年、私は自分の得意路線で、大きなソナタに取り掛かることに決めている。

 バーバーのソナタ、全楽章。最終楽章のフーガだけは、一年目にチャレンジしていたが、全楽章は初めてである。前章で、メルクス先生が十八番だと言っていた、その曲。これは日本の大学で、先輩であるヨシミちゃんが弾き、その時から大好きな曲となったもので、いつか自分も弾いてみたいと思っていた。私は当時痩せていて、なかなか迫力ある音が出せなかったのが難点であったが、今ならばこの曲を仕上げることができるような気がしていた。今振り返ると、よくぞこの膨大な課題の中で、このソナタを仕上げることができたなあと思う。よっぽど最後の年は、私にはやれるという自信があったのかもしれない。そして後ほどこれを、帰国リサイタルのトリに持ってきている。通すと二十分前後ある、けっこう難解な曲である。

 その他には、バッハのパルティータ一番、ベートーヴェンの悲愴ソナタ、スクリャービンのエチュードop.65-3、ドビュッシーのエチュード、アルペッジョコンポゼを選んだ。お聴きになりたい方は下記からぜひどうぞ。

 私が最初に譜読みに取り掛かったのはベートーヴェンである。一番ラクだったし(と言っても全楽章であるが)、とにかくどれかを早めに仕上げてレッスンに持って行かねばならなかったからだ。その次に練習にかかったのは、バーバーのソナタ。大きい曲なので、少しずつ仕上げていかなくてはならない。順序よく計画を立ててやらないと、とてもじゃないけど間に合わなかった。でもこの年はずいぶんと譜読みも早くなり、自分でも驚いている。

 この秋にはまだ、私には、果たして夏の試験が終わるまでベルギーに残っていられるかどうかわからなかったが、演奏会のひとつでもして、納得できるくらいになるまでは居たい。と書いている。父からの帰れコールの圧力がかなりかかっていたが、私にはまだやりたいことが残っていた。

 ディプロムスーペリウールを卒業するまでには最短で四年、つまりあと二年は残らねばならなかったが、私にとってはこれは重要ではなかった。それよりも、演奏会一本できるくらいのレパートリーを作りたい。という思いが強かったと思う。お金ももう残り少なく、両親からの送金はもちろんない。ギリギリのところで、ただひたすら応援してくれているよっちゃんと共に、できるところまで残ろう、と決めていた。

 そしてその充実した秋は過ぎて行くのである。たくさんの、仲間たちと共に。

2017年6月16日 (金)

九十五 三年目の本番

 会場に着くと、ちょうどキボウちゃんが弾くところであった。少し聴いていたが、上手な彼女でもやっぱりけっこう緊張するんだなあ!と思う。続いてMr.ミタの演奏を舞台袖で聴き、緊張で心臓が速まりつつも、落ち着いてから試験に臨んだ。

 モーツァルトのコンチェルトは、私の出番の少し前のベルギー人の男の子が、同じ一楽章を弾かされていた。私は、彼に続いて二、三楽章を弾く、という按配だった。感情楽章である二楽章は、ピアノのソロから入り、後からオケがついてくる。よって、自分のペースで、テンポ設定ができるのが強みだった。少々ゆっくり過ぎたかもしれないが、三楽章はバッチリ、音楽的に弾けたと思う。

 ショパンのエチュードは、一回壊れかかったが、なんとか立ち直り、最後まで無事に弾ききった。難しいエチュードだった。

 演奏を終えるとジュリーたち(審査員)は控え室に戻りがてら、私の横を通り過ぎ、「良かったよ。」と言う顔をして目配せしてくれた。

 聴いていたしづちゃんたちには、モーツァルト、とても綺麗だった。ミタ君とはまた違って、小さい音なのに不思議と引けを取っていなかったし、よく飛んで来る音だった。と褒めてもらった。ミタ氏は確かベートーヴェンの皇帝を弾いていたと思うが、彼の演奏は素晴らしく、そのテクニックは抜きん出ていたので、私は密かに北斗の拳と呼んでいたのだ。

 家に帰ってからテープを聴いてみたが、壊れたエチュードは心配していたほどではなく、全体的に音楽的にまとまっていたのでホッとした。確か聴きに来てくれたよっちゃんも、満足だったよ!と言ってくれて、私はとにかくも、無事に終わった本番に安堵したのである。

 次の日はユキの本番であった。彼女はとても落ち着いて、音楽的に弾いていた。ちょうどその時、日本から聴きに来ていたユキのお母さんが、彼女の演奏を聴いて感動されていた。昼はみんなでコリアンで食事をする。ユキのお母さんは、彼女をパワーアップさせたような存在感のある方で、彼女のヨーロッパでの成長に大満足して帰って行かれた。そう、私たちは本当に、三年目にして大きく成長し始めていたのである。

 私はまだテンションが上がっているため、次の日もなかなか眠れないので、キボウちゃんや、しづちゃんたちと長電話をする。

 キボウちゃんは、私の次の年から入って来た優秀な学生だったが、カオルちゃん、今回は相当気合入れてたね。と言い、しづちゃんには、モーツァルトね、本当に良くなったよ。カオルちゃん、変わったよ。私、感動したもん。何て言ったらいいかうまく言葉にならないけど、音がすごく自然で、無理なく伸びてたよ。とまた、褒めてもらった。皆、私なんかよりずっと上手いのに、心から励ましてくれて感激したのを覚えている。

 そして私は無事、ディプロムスーペリウールの一年目の試験にパスした。プルミエプリの時とは違い、点数はつかずに、審査員たちのoui,non(イエス,ノー)の数で合否が決まった。私の前に弾いたモーツァルトのコンチェルトの男の子は落ちていた。厳しい。

 私は大喜びで師匠に電話を入れる。Mr.カワソメは自分のことのように喜んでくれて、現代曲しか弾けなかったお前が、モーツァルトを弾くとはなあ。お前、帰ってきたら絶対リサイタルやれよ!と、またまた念を押されたのであった。

 辛く長かった一年間の練習からようやく解放され、私は次の日、猛烈な食あたりと共に、夏休みを迎えるのである。

2017年6月15日 (木)

九十四 本番、一日早まる

 私は試験前日に、本番が一日早まって明日になったことを知らされた。驚きであった。でも日記には、不平不満は一切書いていない。もうヨーロッパってそういうところだし、ハイそうですか。と受け入れるしかないので、慣れっこになっていたと思う。

 前日に私はまた、東北の彼氏に電話をしている。ここまで来ると、もう別れたんだか何なんだか、結局のところ、電話の回数が減ったくらいで、以前と何が変わったのだかわからなくて笑ってしまうが、まあ私たちの中では気持ち的にすっかり整理はついていたので良かったのだろう。

 明日、試験なんだよ。と色々話をしたが、彼はすっかり、私と付き合う前の彼に戻っており、「ヨーロッパいいなあ、もう一度行きたいなあ。知り合いが居てくれるといいよな〜。」とか言っていた。

 午後は銀行へ行ってみると、残金がほとんどゼロになっていてガッカリしたが、とにかくも、来年度のアンスクリプションは提出しておいた。授業料なんて年間登録費一万五千円ほどだったし、もしも途中で帰国することになったとしても、まあ、損はない。

 そしてあくる日の七月一日、私は興奮してよく眠れなかったが、いざ、コンセルヴァトワールへと向かった。

 私の順番は、午後の最後、アルファベットMの、ミタ君の次であった。昼過ぎにアシスタントから電話があり、事前に、モーツァルトのコンチェルト二、三楽章と、ショパンエチュードに決まったと知らされる。きたか、あのエチュードが。コルニル先生には、バラードが当たるかもしれないから練習しておけ、と言われていたが、現在の夫いわく、あのエチュードを持ってきたら必ず当てられるだろうよ、とのことである。それだけ、難曲ではあった。審査員たちは、待ち構えたかのように聴くだろう。

 私はまず、腹ごしらえするために、フラフラとカフェに寄り、むりやりオニオングラタンスープを飲んだ。店のムッシューが私の顔色を見て、どうしたのかと尋ねてくる。私は、これから試験で、ピアノを弾くんだ!と応えると、おお、それならばもし、bien passee(うまく行った)なら、また来なさい!と言われる。学校へ着くと、友人たちに会い、少し落ち着いた。

 そして、緊張の本番はいざ、始まるのである。舞台はいつだって、死刑を宣告されて断頭台の上にあがるような心境であった。私だけではないはず。舞台を体験した者ならば、大きく首を縦に振るに違いない。

2017年6月14日 (水)

九十三 学生同士のリハーサル

 いよいよ、試験三日前。私たち学生らは、希望者だけで集まり、南駅近くの楽器店ホールにてレペティション(リハーサル)を行った。私はこの日、知人の披露宴だったので、二時頃抜け出してホールへと向かった。着いたらもうユキがいて、外でタバコを吹かしていた。

 メンバーは確か、ユキ、私、キボウちゃん、キョーコちゃん、それからMr.ミタだったように思う。他にも何人かいたかもしれない。ユキから最初に弾き始めたが、音もよく伸び、大胆で、とても上手くなっていた、と日記には書いてある。私は皆に、カオルちゃん、上手くなったねェ〜!と言ってもらった。嬉しかったと同時に、そっか〜、私ってそんなに下手くそだったんだなァ〜、なんて苦笑する思いである。他の皆んなは、いつものように素晴らしく上手に弾いていた。キョーコちゃんの、ベートーヴェンのソナタop.101がとても良かった、と記載されている。

 終わってから皆でカフェへ。盛り上がって、九時近くまで、三時間近くも話しに花が咲く。恋愛談、お笑い談。そしてMr.ミタの彼女が発覚する。密かに思いを寄せている子がいたので、期せずして失恋!となってしまった。残念。でも何を隠そう、私もミタ氏のことはタイプだったので、な〜んだ!なんて思ったりするのだが、彼には私のバカさ加減を気に入っていただき、カオルちゃん、今度また飲もう!電話する!と誘われた。本人は全く覚えていないであろうし、私も覚えてなかったけど。ああ、私って何でこういうオンナなんだろう。ほんとに書いていて呆れる始末である。よっちゃんがいるのに。

 帰宅するとオリビエ(大家さん)が、今モーツァルトの二十三番のコンチェルトを練習しているだろう、と話しかけてきた。大好きな曲らしい。私の試験を聴きに行きたいと言ってくれたが、その日はちょうど、ドイツに行くのでダメだと残念そうにしていた。そうそう、余談だけど、私とオリビエたちは、近所の建設工事反対の署名運動をしていた。裏の、鴨のいる池を取り壊して、ビルを建てると言うのだ。けしからん。そこはのどかで素敵な場所で、春になると必ず鴨たちが帰って来るところだったのである。そんなこんなで、私は特に、すっかりオリビエと仲良しになっていた。

 試験二日前には、来年度の学校のアンスクリプション(授業登録)と、学費の紙が届いていた。今年の実技試験もまだこれからだというのに、私はたまげた。う〜む。もっとピアノが上手になりたい。でも、私がもう一年、四年目の延長を決めると言ったら、親は嘆くだろうなあ。まあ、母は別として。

 私の勉強は、一体いつまで続くのだろう。何だか、とてつもないエベレストのふもとに来てしまったようで、私は少し切なくなった。無鉄砲に日本を飛び出した、昔の自分が懐かしくなった。でももうこうなったら、とりあえずの目標である明後日の試験を突破して、それからゆっくり考えるしかない。

 そしていよいよ、実技試験当日がやって来るのである。それも、予定より、1日早まって!

九十二 リハーサル

 リハーサルは、まず初めに、大曲であるコンチェルトから行われた。

 学生たちは張り切って臨んだ。これは、早々に五月上旬に行われたので、まだまだ出来上がりはこれから、というところだ。私は軽めのモーツァルトだが、皆、ラヴェルやラフマニノフなど、難曲にチャレンジしていた。すごいなあ。ラヴェルのコンチェルトは大好きだったので、もしも私が五年目も残っていたら、ぜひやりたい曲ではあった。二楽章の旋律は素敵だったし、フルートが入ってくるところなんてもう、聴くだけで泣けてくる。アンリオ先生もお得意の、憧れの曲であった。

 さて、本番直前のリハは、六月二十五日。一週間前を、切っていた。

 その日は夜七時から始まり、コンセルヴァトワールのホールにて行われる。

 私は最後から二番目に弾いたので、すでに十時近くになっており、体力は限界で、弾き始める前から疲れてフラフラしていた。こりゃあ、うまくは弾けないな。仕方ない。何とか、弾くだけでもいいや。と思いながら舞台にあがり、モーツァルトのコンチェルトから弾き始めた。ああ、あんまりいい出来ではないかもしれないな…とぼんやり思いながら弾き終え、コルニル先生の方をふと見た。

「ブラボー、カオル!」

 と先生は、ステージの私に向かって言った。

 え?今、先生は何て言った?

 私は、キツネにつままれた感じだった。

 が、先生は、パーフェクトだから、そのまま動かすな、わかったか。と一言おっしゃい、そのまま次の学生へと移った。

 聴いてくれていたユキや、アシスタントたちも、「とっても綺麗で、モーツァルト!って感じ。良かったよ!」と言ってくれる。

 そうか…?あんまり、気負わない方がいいのか。私は疲れていたので、完全に力が抜けていたし、それがかえって幸いしたのかもしれない。このホールの響き、音色…何となく、わかったかもしれない。奈良先生にも一度、私にはコンセルヴァトワールのホールの響きは合っているんじゃないか、と言われたことがあるのを思い出した。どうしたら音を遠くまで、綺麗に飛ばすことができるか。研究してみよう。

 そんなことを考えながら、試験日三日前の、学生たちで予約したリハーサルの日も迎えるのである。

2017年6月13日 (火)

九十一 プルミエプリ取得

 和声の試験結果が発表になった。

 中級、モワイアン。確か七十点以上が合格とされたが、私は八十一.五点でプリをとった。嬉しい!これで、やっと全教科合格となり、プルミエプリの証書がもらえることになったのだ。ただしこの証書を授与するまでには、結局一年ほどかかった。さすがはヨーロッパ、遅すぎる。

 まず、実家に電話をかけてみたが、妹しかいなかった。ユリコは喜んでくれたと思う。それから、師匠、Mr.カワソメに報告。先生もとても喜んでくれて、同時に、今年留学するつもりがうまくいかなかった後輩がいるんだと話してくれる。残念でしたね、と言うと、まァ、今までの留学生とはちょっと違うタイプだったからなァ。お前たちみたいに、太々しさと毒々しさもないしな。と言うので、失礼しちゃうねェと応えると、ニヤニヤと笑っておられた。

「お前、日本に帰国したら、絶対にリサイタル開けよ。就職とか、こだわらんでもいいから。自由にやれ。」

と、二十分くらい話して切った。

 次の日、奈良先生とアキカさんに報告。母とも話した。母はとても喜んでくれて、
「やっぱり、残って良かったでしょう!人の言うことに惑わされないで、自分で決めたから、後悔もしなかったでしょう!」
と、胸を張って言っていて、なんだかとても可愛らしかった。

 父からは夜中に電話をもらい、家族からのお祝い寄せ書きファックスを送ってくれる。

 よっちゃんと、その仕事先の仲間からは、合格祝いに握り寿司をいただいた。

 次の和声の授業では、メルクス先生に答え合わせをしてもらった。先生の評価としては、ソプラノ課題四十四点、バス課題四十点、合わせて八十四点ということであった。

 ミスをしやすいポイントはまぬがれているし、あまり人の使わない和音も使っている、と褒められたが、何ヶ所か寂しい和音や、鋭すぎる和音を使ってしまっていて、導音が変移動した点と、五度の和音が突っ込んでしまっていた点を指摘された。残念。今度からは気をつけよう。と思う私。本当に勉強になる。マンツーマンで、こんなにも丁寧に授業を受けることなど、日本ではできなかった。ヨーロッパ万歳である。

 さて、和声はめでたく合格となったが、私の目標は卒業証書だけではなかった。ディプロムスーペリウールのピアノ実技は迫っている。残りあと何日か、というところで、コンチェルトのリハーサル、その他の曲のリハーサルと、別々に会場を貸し切って行われた。そして学生同士で集まってのリハーサルも。

 私たちは、最後の追い込みで真剣勝負であった。

2017年6月12日 (月)

九十 和声中級ソプラノ試験

 六月七日。またもや日曜日に、和声のソプラノ課題、中級の試験が行われた。

 六時に起きて、お弁当にミートボールを作った。眠い。私はヨーロッパでの生活はほぼ、夜型で、毎日昼近くに起きだしていたので(もったいない。)この時間帯がいかに眠かったかお分かりになると思う。今じゃあ、早起きの夫と娘のおかげで、毎日超〜規則正しい生活を送っているけど、学校でのレッスンがある日以外は、本当にフリーな生活をしていたもんである。

 四日前くらいに起きた、ドイツの新幹線の壮絶な事故のことを考えながら、私はコンセルヴァトワールに向かった。(覚えている方も多いかと思う。あれは本当に、衝撃的であった。)

 試験は八時開始。課題を見たら、はじめは複雑そうに見えたけれど、やってみたらそうでもなかった。あまり好きなタイプではなかったし、バス課題の日よりも疲れていたが、四時までねばって、ほぼ自分では完璧に仕上げたつもりで、提出してきた。さあ、何点とれるかな。と思う。

 家に帰ると、電話が鳴りっぱなしだった。母からも電話があった。聞くと、おばあちゃんがもういよいよ、だめだと言う。私は悲しかった。祖母はその後、夏の終わりに亡くなることになるのだが、思えば私の試験が終わるまで待ってくれたのだ。亡くなるその時、夢枕に立ってくれたし、私のことはずっと心配してくれていたのだと思う。母は、私が集中して試験に臨めないと思い、いつも祖母の容体を告げるのは、試験が終わってからにしてくれた。私にとっては、幼い頃から一緒に暮らした、第二の母だ。どうしているか、私もいつも、気にかけていた。

 私は、短かった髪がだいぶ伸び、なるべく美容院へは行かないですむ髪型にしてはいたものの、二十六歳、今、一番女性として華やかな時期を迎えていた。お世辞かもしれないが、久しぶりに会う人には「キレイになったわね〜」と言われたし、その昔、ガリガリで、ベリーショートで真っ黒に日焼けをし、ショットバーの皆んなから「蝉とり少年」などと呼ばれていた頃から比べると、確実に女性らしくなっていた。そんな私を、父は本当に心配し始め、なんとかして今年の夏が終わったら日本に連れ戻そうと、躍起になっていた。母は相変わらず、のんきなものである。

 ちなみに、ベルギーの美容院は最悪である。日本人の髪は多くて、コシがあって、切りにくいのよ、などと文句を言われ(私は多くもないし、細くて癖っ毛だ。)その腕前はかなりザツである。思いっきり、「段が五段ばかり、入ってます。」って髪型になってしまう。コケシか何かのようである。一度、お金を節約するために、「ブローノーマルと、少し安いブローナチュラル、どちらがよいか」と訊かれた時に、じゃあ、ナチュラルで。と応えたら、ザッとカットされた後、髪の毛ガーッと乾かされたまま、ハイ、終了。となって、何がナチュラルだ!これじゃ、ただボサボサに乾かしただけじゃないか、と腹を立てたものである。まあいいとして、私は必ず、歯医者と美容院だけは、一時帰国の時にとっておいた。

 余談が多くなったけれど、とにかく無事、和声の試験は全て終了した。

 あとは四日後の得点発表である。私はドキドキしながら、結果を待った。

2017年6月 9日 (金)

八十七 和声中級バス試験

 六時半起床、七時半のバスでコンセルヴァトワールへ。

 和声、中級モワイアン、バス課題の試験日である。

 この日は日曜だったので空いていて、十分で到着してしまった。コンセルヴァトワールの前には何人か学生が来ていて、ユキも後からやって来た。

 私は一人離れて、中庭を通り、C館へ。窓が開けられてとても気分良く、試験もはかどった。

 今年のバス課題は簡単だった。いや、私が以前よりもレベルアップしていたせいかもしれないが、とにかく、私は余裕で、時間を持て余し、バルトークなどを呑気に弾きながらやっていた。十一時にはもう出来上がっていたが、念のためになんだかんだとねばり、結局二時過ぎまでかけて作った。途中、お弁当を食べていたら、大きな口を開けたその瞬間に見回りの先生が入ってきて、「セ・ボン?(うまいか?)」と笑われたのを覚えている。

 この日は二十キロマラソンの日だったので、帰りはバスがなく、えらく苦労をして遠回りしながら帰宅する。その上帰って来ると家の目の前ではフェスティバルをやっていて、うるさくって昼寝ができなかった。玄関のドアを開けたらちょうど犬の曲芸の広場のど真ん中と化していて、たまげた。

 後日、私はメルクス先生の授業で試験課題について質問をし、知らなかった禁則をおかしてしまったようで、多少しょんぼりしたが、まあそれも勉強だと思って諦める。

 お次は六月のソプラノ課題。これで、今年、晴れてプルミエプリの卒業証書が取れるかが決まるのである。それでも私は特別気負うこともなく、和声に関してはマイペースに勉強を進めていた。

 それよりも、迫ってくるピアノ実技試験の恐怖に、私は日に日に追い詰められてくるのである。

2017年6月 3日 (土)

七十六 三年目の選曲

 ディプロムスーペリウールに進むと、プルミエプリのように試験が二回に分けて行われることはなく、六月の本番一発勝負であった。ではその分、楽になったかと言うと、とんでもない。何てったって、コンチェルトが入ってくるし、エチュードもバッチリ弾かされる。おまけに今年は、コンクールの課題曲も同時に揃えなければならなかったので、大変だった。

 まず、コンチェルトには、モーツァルトのK488を選んだ。二十三番の、イ長調である。大好きな曲。頑張るぞ。それからショパンのバラード三番、バルトークの小品op.14。グラナドスのゴイエスカスより、マハと夜鳴きうぐいす。エチュードは、リストのため息、ショパンのop.10-10、変イ長調(六度のエチュード)である。

 ええと、このたびより、曲がパッと浮かばない方のために、すぐにお聴きできる便利なアイテムyou tubeを載せておこうと思う。演奏家は、私の勝手な好みでピックアップしておりますので、ご承知おきを。ご興味のある方は、クリックして聴いてみて下さいね。

 普通はだいたい、日本でやったことのある曲なんかも入れたりするのだが、チャレンジャーな私は毎年、全曲新曲を選んだ。これは無茶苦茶、大変である。レパートリーを増やしたくて頑張ったが、そこまで優秀でもないくせに、本当によくやっていたと思う。おかげで自信がついた。これだけ厳しい状況で頑張ったのだから、日本に帰ってからの舞台では、以前に比べてかなり余裕が生まれたと思う。人間、苦労はしてみるもんである。

 私は張り切って練習していたが、コルニル先生のところへ初、コンチェルトレッスンで持って行くと、初めは「ビヤン(良いね)」と言って聴いて下さっていたが、そのうち後半になると難しい顔になってきて、最後、カデンツァの部分になると、鼻で笑われた。くそっ。私にとっては、初めてのコンチェルト。慣れないことも多く、難しかった。

 十二月に入ると、初めてアシスタントと一緒に二台ピアノで合わせ始めるが
(コンチェルトの試験では、二台目のピアノを使ってオーケストラパートを弾いてもらう。だから先生方やアシスタントたちは皆、分担して、生徒の人数と曲数分だけオケパートを弾かなければいけない。これは恐ろしく大変な作業だったと思う。)
二台で合わせるともう、とたんに自分の音が聞こえなくなり、うまく弾けなくなってしまった。そうか、コンチェルトって、こういうものか。そして私は帰国後、夫と共にオケと初めての合わせをやることになるが、オケなんてもう更に、二台ピアノとはワケが違い、ここまで精神力を必要とされるのだ、と身にしみてわかることになるわけである。

 私は勉強に夢中になっていた。そして気づいたら、もっとブリュッセルに残りたい、残って勉強を続けたいと思い始めている自分がいた。苦しい遠距離の恋が終わり、私の気持ちはヨーロッパに自然と傾くことができたのである。

2017年6月 2日 (金)

七十四 入試、そして二人暮らし

 九月十八日。十四時から、ディプロムスーペリウールの入学試験は行われた。

 と言っても、実技のみ。日記を読み返して初めて、おお、入試なんてあったのか、と思ったくらいだから、向こうの入試とは本当に儀式程度なものである。卒業資格はそう簡単にもらえないが、入る時は相当下手くそでない限り、基本的に、来る者拒まずであった。ましてや私たちはプルミエプリを取得しているのだから、進学は約束されたようなものである。

 まずコンセルヴァトワールへ行き、受付順に弾く。私は夕方に弾いたが、それまでユキたちとカフェでお茶していた。曲目は、六月の試験で弾いたものの中から、ブラームスの間奏曲と、プーランクのトッカータが当たったが、イマイチ乗り切れず。そりゃそうだ、あんなに日本で遊んじゃった後なんだから。何しろ、気合いが違う。夜、コルニル先生からの電話で、八十三点だったと聞かされた。う〜む。まあ合格したらしいから、いいか。

 何とか儀式は終わり、それから例年によって、今年度のプログラム曲を決め始める。今年は何と言っても、コンチェルトが入ってくる。ディプロムスーペリウールの準備曲は、プルミエプリとは違い、もっと多くの、より大きな曲を用意していかなければならない。加えて、私は師匠の言いつけ通り、今年は国際コンクールを受けようと思って準備を始めた。現代曲が得意なので、二十世紀コンクールを受けようか、色々と悩んだ。結局のところ、アンリオ先生が現代曲には反対されたので、違うコンクールを目指してぼちぼち頑張り始めたところだった。

 和声の授業もまた、今年こそは中級のモワイアン合格めざして、闘志を燃やしていた。メルクス先生とレッスン時間の打ち合わせをし、私は張り切っていた。多少、東北の彼と別れた痛手はあったが、そのおかげで、三年目の私はかなり日本から心が遠ざかり始めていたと思う。そして、私の傷心を癒すかのタイミングで、高校時代の友人が、一ヶ月強の滞在をしに、ブリュッセルの半地下へやって来たのだ。

 彼女のあだ名は、のら。 アフリカから、夏の間の避暑としてベルギーに来てくれた。高校時代、しばし一緒にバレー部で共にした仲間である。(私は一時期、女子バレー部のマネージャーなんかをやっていた。気が利かなくって、全然仕事できなかったけど。)

 何故アフリカからか、と言うと、彼女の旦那さんが、アフリカのボツワナで海外青年協力派遣隊として活動していたのである。夏の暑さは半端じゃないということで、彼女だけはどこか、友人のいるヨーロッパにでも行って来い。と言われて逃避行してきたのだ。彼女が話してくれた、アフリカの話はすさまじかった。ある日、起きると背中にノミがたくさん食い込んでいた話も、その一つ。旦那の髪の毛は私が切るんだヨと言って、その腕前をよっちゃんの頭を使って、披露してくれた。ヨーロッパは暮らしやすく、天国であっただろうと思う。

 のらは大変な勉強家であったので、滞在中、カセットテープ片手に、独学で英語を勉強していた。その他は滞在費の代わりに料理を担当してくれたので、私はとても助かった。何よりも、のらとは生活のリズムも合っていたし、気を使わず、暮らしやすかった。毎晩の話し相手がいることでとても楽しかったし、ユキがヤキモチを焼いたくらいである。

 だから私たちは、よくユキのうちで三人で飲んだ。楽しかったなァ。

 そんなわけで、三年目の秋は、のらとの二人暮らしにより、充実して過ぎてゆくのである。