一時帰国

2017年7月 3日 (月)

百十二 プロポーズ

 私は見合いをしてから一週間ほど日本に滞在し、ヨーロッパへ戻ったんだけど、その一週間はほぼ毎日、彼から連絡をもらい、仕事がある日も早退をして会いに来てくれている。

 最後にプロポーズをされ、「帰って来たら、指輪買いに行こう。」と言われたのだが、私は咄嗟に「え、何の指輪かなぁ」などと言い、はぐらかしてしまっている。

 でも、嬉しかった。そんなにはっきりと、プロポーズなんてしてもらったのはその時が初めてだったと思う。たぶん。そうじゃなかったら、してくれてた皆様、ゴメンなさい。(鈍感な女。)その後私は自分の気持ちを正直に話し(よっちゃんのことは言ってないけど)、ゆっくり考えさせて欲しい、みたいなことを言ったかもしれない。

 冷静に考えると、オイ、そこのお前、もっかい二股かけるつもりか?悪いことは言わないからやめとけ。キミはこれから、またもや色々な男性たちが出てきてややこしいことになるのだよ。と、言いたいところである。が、その時は、好きな気持ちを抱いてしまった相手に、断ることなどできなかった。嫌いなら、話は早かったのに。どうして気の合う相手と出会ってしまったのだろう。私の気持ちは本気で揺れていた。いや、もしかしたら、私は二つの国の間で揺れていたのかもしれない。ベルギーでなら、よっちゃんとの生活は確実にうまくいっていた。でも、日本に帰って来たら?私は、自分自身も大きく変わってしまうであろうことを予感していた。経験してみないとわからないけれど、本当に、向こうでの自分と母国での自分は、違うのである。言い訳じゃないけど。

 出発の前日、私はまた、友人一同に別れの挨拶をした。日記によると、仙台の彼氏や、お見合いの君に、「行くなよぉ」みたいなことを言われていたらしい。今まで全然気づかなかったけど、仙台の彼、ずっと私のことを見守っていてくれたように思う。それに気づかないなんて、私って何て鈍感な女なんだ。

 幼馴染みの二人は、たまたまこの期間に私のお見合いの君と会う機会があって、二人とももれなく、彼をイチオシしていた。こいつらが褒めるなんて珍しい。結婚するなら絶対、彼!みたいなことを言っている。まあ、そりゃあね。将来のビジョンが見えるし、安定は絵に描いたように約束されてるし。わからないこともない。

 そして出発当日。月曜日であったが、お見合いの君は、バリッとスーツでお出迎え。

 成田には朝九時半過ぎ頃に着いたが、あっと言う間に十二時になってしまう。

 最初ははしゃいでいた私も、やはり見送られるのは好きではない。うちを出る時も、ビビがウォーンと鳴いてくれたっけ…。

 飛行機は、一時間ほどのディレイで飛んだ。彼はサベナが飛び立つまでずっと、見ていてくれたらしい。信じられない。うちの夫なら即、お帰りになられるハズである。

 到着はブリュッセル時間の夕方五時。ちゃあんと、空港までよっちゃんは迎えに来てくれていて、私は彼の顔を見るとホッとした。

 久々のブリュッセルは、嬉しかった。そして悪友一同は、私の帰りを、いや、土産話を、待ち構えたかのように楽しみに待っていた。またもや私の複雑な生活が始まろうとしていた。でも、時は三月。ここからは恒例の、試験に向けての苦渋の日々も、始まろうとしていたのである。

2017年7月 2日 (日)

百十一 お見合い

 私の風邪は、微熱も完治し、すっかり良くなった。

 診てくれていた内科のおじいちゃん先生は、「もう大丈夫だな。外国でもどこでも行っちまえ!」と無罪放免にしてくれる。この先生は大変怖いガンコじじいだったが、見立ては評判が良く、今でも娘がお世話になっている医師である。

 そして私の体調が良くなったところへ、父は待ってましたとばかりに見合い写真を差し出してきた。いい人が見つかったようである。私は気が進まなかったものの、半分は、妹ユリコと一緒に面白がっていた。恋愛一直線の人生で一度くらい、見合いなんてものをしてみるのも悪くない。話のネタになる。ユリコは、「お姉ちゃん、可愛く撮ってあげるからね!」と言って、本当に、最高に爽やかな写真を一枚、撮ってくれた。父は大喜びで、でかしたユリコ。と笑い、私に、履歴書みたいなのを書けと言うので、思い切りふざけて、趣味は料理。とか心にもないことを書いて渡した。

 その日が来るまで私は、幼馴染みたちと遊んだり、ショットバーへ行ったりして過ごした。東北の彼が今どうしているか知りたかったので、みんなで実家に電話をかけると、なんと引越しをしていた。今、青森らしい。たぶん彼の方もここで、結婚相手が見つかり、互いに別々の人生を歩んで行くことになるのだが、私たちは面白いことに、ほぼ同時期に結婚をしている。私もそろそろ三十まであと残り何年かとなり、確実に夫との出会いに近づいて行く頃であった。

 見合いの日は、十時十五分に横浜にて、紹介役の方と三人で待ち合わせをした。どうやら、ユリコの撮った、私のとびきり可愛い写真を見て、気に入ってくれたらしい。こりゃあ、とんびが鷹を生んだなあ!とか、紹介役の方に、父は言われたようだ。私は多少緊張して、横浜までの電車の中、貧血で倒れるかと思った。そして、私に会おうなんて思う度胸のあるヤツは、一体どこのどいつだ。顔を見てやろう。なんて、ベルバラのオスカルよろしく、息巻いていた。待ち合わせ場所に着いたらもう二人は来ていたので、私はまず、自分から名乗りを上げて挨拶をした。見合いの君は、大慌てをして、続いて自分の名前を言って会釈した。

 後から聞いた話によると、これは大変、相手を動揺させてしまったらしい。女性の方からさっそうと、しかもフルネームでシャキッと挨拶されるとは、このオンナ、ただものではない。と思うんだって。これから見合いをする女の子、よく覚えておいてね。私しゃそんなことはどうでもいいことだと思うんだけど、よほどインパクトがあったようで、最後までこれについては言われた。面白い。私の方だって、彼の第一印象は爽やかで、写真とは別人だな、合格合格!と感じていたのだが。(その写真はかなりひどいものだったので。)

 そごうのカフェでお茶をしたが、緊張の糸もほぐれたところでお決まりの、
「じゃあ、あとは二人で。」
という展開。おお、見合いって、本当にそうなんだ!と、軽く感動する私。
彼とはすでに打ち解け始めていたので、話がはずんだ後、車をとってきて、ドライブでもしようと自然に事が運んだ。

 見合いの君は私よりもかなり年上で、当時三十五才くらいだったと思う。とても誠実そうな、気のいい人であった。しかもそれだけではなく、私と同じB型の、ちょっと風変わりなところもある面白い人だった。どうりで同じ種類の匂いがしたワケである。私たちは初対面にしてはすっかり気が合い、意気投合してしまった。へえ、見合いって言っても、こういうことってあるんだなァ。なんて思ったりしていた。全然気を使わなくても済んだし、彼の方は私の話を始終笑って、楽しそうに聞いてくれていた。私は向こうでの生活や、勉強のことを面白おかしく話した。そして正直に、実は私、真剣に結婚相手を探そうと思って見合いしたんじゃないんです。と打ち明けた。彼は、納得して聞いてくれた。何でも素直に話せると思えた相手だった。よっちゃんのことだけは、抜きにして。

 彼は、とてもいいヤツだったのだけれど、B型特有の、余計な一言も忘れなかった。私は同じタイプの人間なので全然許せちゃったが、例えば海辺の散歩から戻った時に、

「大丈夫でしたか?病み上がりなんだよね?ごめんね。でもまあ、風邪ひくの、オレじゃないし!」

とか

「帰り、遅くなっちゃったね。ご両親心配させちゃったかなあ。ごめんね。ま、印象悪くなったら、オレも損だし!」

とか、おっしゃったりもした。

 冗談のつもりだったんだろうけど、私は密かに違う意味で、心の中で爆笑していた。面白いなあ、この人。よっちゃんとは全然違うわ。彼ならば絶対に言わないようなことを、平気で言う。結婚するなら、どんな人がいいんだろう。いろんな人がいるけれど、私には一体、誰が合うのだろう。だいたい、結婚って何だろう。私って、結婚したいの?いや、まだまだ勉強がしたい。でも、こんな彼と一緒になったら、経済的には安定するんだろうな。それに、楽しい。よっちゃんとはまた全然違って、笑いのツボが一緒だったりするみたいだ。どうしよう。こんなはずではなかった。やっぱり気なんて合わなかったよ〜。破談にして!と、父に言うつもりだったのに。

 私の心は揺れ、とりあえずは無事、見合い終了となった。

 結論を言えば、私にとって結婚とは、何の計算も、打算も、心の迷いもなく、ただただ、直感でビビッと来て、気が付いたら式を挙げていた。というようなものであった。そんなもんである。人生に、目標も計画もない。それが一番である。心の叫びを大切にするべし。

 さてまあ結果オーライなのはいいとして、困ったのは、見合いのその後である。何故だか、見合いの君のことが、心から離れなくなった。

 まったく、気が多い女とは私のことである。

2017年7月 1日 (土)

百十 私が帰国を決めた理由

 二月十一日。一時帰国する日、私は朝イチでコルニル先生のレッスンを受けた。

 この日はコンチェルトの二、三楽章。これで、一通りの試験曲目がとりあえずレッスン終了してホッとする。ユキが久びさに私のレッスンを聴いていて、「カ〜オルちゃん、弾き方変わったねぇ〜!」なんて言っていた。

 先生に、ボン・ボヤージュ!(よい旅を)と言われて、速攻で帰宅。よっちゃんに、バレンタインのお花を買って、プーのトイレを掃除して、コンセルヴァトワールに電話をかけ、ディプロム(卒業証書)がまだ出来上がっていないことを確認してから、大家に挨拶をして家を飛び出した。

 今回の帰国は、サベナの旅。新しい機内は快適であった。満席だったので窮屈だったが、直航便はやっぱり楽である。私は次の日の午前十一時に、成田に到着した。

 着いたら、成田エクスプレスの出発時刻まで四十五分もあったので、判断をミスった私はJR快速に乗ってしまった。そっちの方が早いかと思ったら、これがローカル過ぎて二時間もかかってしまう。辛すぎて、無になっていた私。どうやって実家まで帰ったか、フラフラしていてよく覚えていない。幼なじみのヨシエに、駅まで迎えに来てもらったが、とりあえず即、寝た。愛犬のビビはいつもながらに耳を垂れて、ウルウルと感動して出迎えてくれた。

 冬の日本は、暖かくて幸せだ!それに家族はVIP待遇してくれるし、お風呂はあるし、お米は美味しいし。(向こうでは、カリフォルニア米を食べていたと思う。)でも、そんな幸せ満喫もつかの間、私は風邪をひいてしまった。喉が痛くなり、熱を出す。あ〜、こんなはずじゃなかったのに。一週間経っても一向に微熱が下がらず、病院で、おかしいから耳鼻科へ行くようにと言われる。ヨーロッパじゃ、こんなに丁寧に診てもらえないなと思い、感動する私。やはり、私は風邪から鼻に細菌が入ってしまったようで、抗生剤を飲むことになった。

 何だか、風邪をひくために日本に戻ってきたような感じになってしまったので、もったいないからもう少し延長してくれば。とよっちゃんにも言われ、少し余計にチケット代を払ってそうすることにした。その甲斐あって、私はだいぶ回復し、元気になってから、日本の先生方にも連絡を入れる。大学にも行き、毎度のこと、懐かしい顔ぶれに挨拶をしてきた。

 そこで私は、自然と、今年の夏に勉強を終えて、帰国することについて心が決まるのである。

 大学で、お世話になっていたある方と学食で喋っていた時に、ふとしたセリフに大きな疑問を感じた。私が帰国後の仕事探しについて話していた時、彼は私にこう言ったのだ。

 「カオルちゃん、せっかくベルギーにいるんだから、帰って来てから音大附属の音楽教室なんかで働くなんて、もったいないよ。大学の講師とかなら別だけど。」

 と、好意で言ってくれた言葉に、私は違和感を覚えた。

 確かに、附属の音楽教室へは、ある程度優秀に大学を卒業した者ならば、そのまま面接を受けて採用されることが多かった。せっかく海外に留学したのに、卒業生たちと同じ道よりも、大学の講師を受けろ。と言う気持ちはわかる。でも、「音楽教室でなんか。」というレベルならば、そんなところで教えている先生も生徒も、そんなものなのか。だから日本の文化は、良くならないのである。大学の講師は良くて、その附属の教室はダメ?そんなの、ヨーロッパじゃ考えられないことである。パン屋の売り娘だって、あんなにタカビーに、誇りを持って働いていられるのだ、向こうでは…。日本は一体、何なのだろう。

 私は日本を外から見て、この国の長所も短所も共に垣間見ることができた。そしてまた、ヨーロッパの長所短所も感じ取ることができた。プライドばかり大きくなって帰って来ることはしたくない。もっと、ポジティブな方向で、人々に音楽を伝えて行きたい。

 そう思ったら、あと残り少ないかもしれない欧州での生活を頑張ろうという気持ちと共に、日本での活動の目的がはっきりしてきた。今日、大学へ行ってみてよかった。その時私は、使命感に燃えていたと思う。

 勉強は、どこででも続けられる。問題は、どこで踏ん切りをつけるかだ。音楽に終わりはないので、もう少しもう少しと思い続けるとキリがない。お金にも限りがあり、いつまでも学生でいられないのなら、今までの恩返しをするべく、後進の指導にも尽くすべきである。その時の私は、そこまでハッキリとは思わないまでも、漠然と、彼の一言により感じることができた。

 今、日記を読み返してみてわかった。これが、私がそろそろ引き上げようと思った、大きな決定打である。その時はまだ、迷いもあったかもしれないが、私は確実に、このことを思って帰国して来たのだ。あ〜、良かった、男のために帰って来たんじゃなくって。もしかしたら、そうだったんじゃないかと思って、ハラハラしていたところであった。行きは北京のカレにつられたのであって、結果オーライだったとしても、帰りまで男のためだったらシャレにならない。私は、正々堂々と、正当な使命感により、帰国をすることになったのである。よしよし。

 そしてそんな志し高き中、私はついに見合いをさせられた。

2017年6月21日 (水)

百 よっちゃん帰国

 帰って来たよっちゃんはまず、やっとこさ、歯医者へ行くことができた。

 彼はブリュッセルでずっと、歯痛に苦しんでいた。普段元気な人がたまに具合が悪くなると、それはそれは大げさな程痛がるので、ちょっと可笑しかったが、可哀想であった。向こうで何軒か紹介された歯医者へ行ってみたが、どこへ行っても「セ・パ・グラーブ(問題ない)」と言われて、埒があかなかったのである。日本の歯医者へ行ったら一発で、「毎日通え」と言われていた。向こうの歯医者と美容院だけは信頼できない。そうハッキリと確信した夏であった。今はどうだかわかんないけど。

 私と彼は下北沢あたりをブラブラしたり、日本を楽しもうとしてショッピングしたりしたが、どうもなかなか二人してよく、馴染めなかった。何故だろう。ブリュッセルではあんなに仲良く息も合うのに、日本で会うと、何だか巨大な街に飲み込まれるかのような感覚で、違和感が拭えなかった。こっちに帰ってきてしまったら、私たちはうまくいかないのかな。と、ふと思ったりもした。暑さにバテたせいだろうか。でもこのカンはその後、結局当たってしまうことになる。その環境と二人の相性、というものはあるのだ。確実に。私たちは結果的に、日本ではうまくやって行くことができなかった。決して仲が悪くなったわけではなかったのに。

 よっちゃんは不意に買い物途中、指輪を買ってあげるよ、と言い出した。指輪?急にどうしたんだろう。そして彼は、もし、オレたちがうまく行かなくなったら、オステンドの海にでも投げて、捨ててくれ!と言う。(オステンドとは、ベルギーにある海沿いの街である。冬のオステンド海岸は本当に寂しかった。)私は思わず笑ったが、そういう寅さん風な物言いをするよっちゃんが好きであった。私はその指輪を、彼の運の強さを込めて大事にすることにした。

 そしてはるばる、うちに挨拶にも来た。父も一応、ちゃんと顔を合わせてくれて、ホッとする。私の方も、彼の実家に遊びに行った。お母様は近所の仲良しおばちゃんを連れて来て、非常に緊張した。後から絶対に色々言われているに決まっている。やだなあ、と思いつつ、その場は終了。後日お兄ちゃん夫婦の家にも誘われ、家族大集合でバーベキューをした。私は歓迎され、少しずつ皆んなと仲良くなっていった。

 よっちゃんは一週間と少しすると、またブリュッセルへ帰って行った。帰るとほどなく、寂しいブリュッセルに耐えきれなくなったのか、カオル早く帰って来いコールがかかってくる。わかるわかる、その気持ち。九月のブリュッセルは日に日に寒くなってきて、本当に寂しいのである。

 私はあと残り二週間ほどの日本を落ち着いて過ごした。おばあちゃんの遺骨と共に教会へ行ったり、実家の膨大な写真を整理したり。母は嬉しそうで、妹は毎日予備校通いで忙しくしていた。幼馴染みと会ったり、仙台の彼氏のライヴを妹と一緒に観に行ったり、東北の彼に連絡を入れることも忘れなかったけど。東北の彼は、新しい彼女(彼氏?)を作っていたのだが、身内の死により帰国した私の電話に、きちんと応対してくれた。私は何だか、彼だけが幸せに着実な人生を歩んでいるように思えて、理不尽な怒りがこみ上げてきたが、これは私のひがみなので蓋をすることにした。

 そして私は九月下旬、四年目のブリュッセルに向けて出発をする。

 ブリュッセルへ再び向かうことは、家族と離れて寂しい半面、とてもワクワクしていた。

 四年目。私にとって、これで最後の留学生活となる年である。四年間の中で最も充実した、幸せな環境の中で勉強に励める年となった。少なくとも、父に呼び戻されて見合いをすることになる日までは。

2017年6月20日 (火)

九十九 葬儀のあと

 おばあちゃんの葬儀を終え、自宅に戻って来た私は、よく母とお喋りをした。

 母は祖母の介護中はずっと悲しみの中にいたが、私が帰って来ると毎度のこと賑やかになるので、ずいぶん気が紛れているように見えた。祖母が亡くなってからは、妹も交えて一緒におばあちゃんの書いた日記を読んだりして、よく笑うようになった。祖母は妹、ユリコのことを「心の優しい、穏やかな子」と書いていたが、私のことはそうは書いておらず、日々相当心配をしているようであった。納得いかん。でもあれだけ心配をかけていたから、ああやって夢に出て来てくれたのかもしれない。私の日記もいつか人に読まれるのだろうか。どうか私を想って泣いてくれ夫よ。そして笑ってくれ、娘よ。まあ、もうすでにこうしてほぼ、公開しちゃってるんだけど。

 三年目の夏の終わり、急遽一時帰国をした私は、心は常にベルギーにあった。日本にうまく馴染めなくなっている自分がいた。だから、少しの間だったが、よっちゃんが帰って来てくれることは嬉しかった。昨年の夏のように恋に荒れ狂い、男どもと遊ぶことなどはなかった。身内を亡くした私に向かって心ないセリフを吐き、密かに縁を切った男友達もいた。ユキはそんなマジメな私を見て、多少残念そうだったけれど、私もたまにはまともになるのである。

 幼い頃から一緒に暮らしていたおばあちゃんの死は、その最期、離れていた私に突き刺さり、家族と離れていることをよりいっそう、考えさせられるようになった。けれどだからと言って、私は勉強をやめようというつもりはなかった。もう少し、もう少し。私はまだ、全然上手くなっていない。まだまだ吸収しなければならないことが、山ほどある。師匠、Mr.カワソメには、お前、コンクール残念だったなあ。と言っていただき、大学でも後輩たちはじめ、奈良先生とお会いして帰ってきたりした。考えてみれば、この時もどこかで夫とすれ違っているのかもしれないと思うと、面白い。

 父はこの時とばかりに、私に見合いの話を進めてきた。とっておきを紹介するから、と言ってうるさい。もううるさいので、適当に返事をしておく。父はそれは嬉しそうに急ピッチで仕事を進め始めた。私はおかまいなしに、両親によっちゃんを紹介する。ムッとする父。そんな、今から思えば漫才のようなことを、私たち親子は繰り広げていた。本当に、娘など、自分の思い通りにはいかないもんである。アーメン。

 留学帰りの後輩の、演奏会を聴きに行ったりもした。確か二年くらいで帰国したヴァイオリニストで、私は彼女の演奏を聴きながら、自分の耳が以前よりずっと肥えていることに気付く。やっぱり、勉強は二年じゃ短い。私はもう少し、勉強してからでないと帰れない。そう感じた。そして帰ったら、頑張ってリサイタルを開こう。私は結婚のことなど頭になく、(いや、そりゃあ、話のネタでは始終盛り上がってはいたが)この先のヨーロッパでの暮らしと、帰国後のぼんやりとした目標について考えていた。

 そんな私に、真剣にアプローチしてくれた彼がいた。

 昨年の夏、実家にフラッと遊びに行った、仙台の彼氏である。

 彼は相当、女性にモテていたに違いないが、帰国していた私に向かって、帰って来たら、一緒に暮らさないか?と言った。散々考えていたけど、ようやく決めた、と言う表情をしていたから、真剣だったと思う。私は迷った。彼とは二十歳の頃、大恋愛をして、別れてからも何度かヨリを戻そうとしたが、お互いタイミングが合わずに、すれ違いばかりだった。そして、今回もそうであった。せっかくの申し出に、その時の私はイエスと言うことができなかった。よっちゃんがいたし、この彼にだけは、私は二股などかけることはできなかった。別に、東北の彼のこともよっちゃんのことも、遊びだったと言う訳ではない。私はいつだって、恋に真剣である。二股だろうが、三股だろうが、巡り合ってしまった恋には真剣勝負である。誰にも理解できないかもしれないけど、適当に付き合うつもりは全くない。全集中型である。いいよいいよ、誰にも理解してもらえなくったって。

 とにかく、私は仙台の彼に、今の状況と自分の気持ちを話して納得してもらった。私が帰国リサイタルをした時には心から応援してもらって、しばらくの間、よく会っていたが、お互いに結婚してからはほとんど顔を合わせていない。今では音楽業界で大活躍していることと思う。このブログも読んで、笑ってくれているかもしれないけど。

 そんな切ない想いも抱えながらいたある日、よっちゃんはベルギーから帰国する。

 私は喜んで、横浜まで迎えに行った。そしてしばし、彼との一時帰国の生活が始まるのである。

2017年6月19日 (月)

九十八 おばあちゃんの死

 八月三十日。おばあちゃんはその日、私の夢枕に立った。

 いつものように、朝っぱらから父の「帰れコール」で目が覚めて、うるさいなあまったくもう。と思い、またウトウトとした時に現れたのである。その時私は何か他の騒々しい夢を見ていたのに、突然その夢は消え、祖母は真っ白な割烹着のような服を着て、五十代くらいの頃に若返り、たくさんの白い服を着た知らない人たちと一緒に、それはそれは嬉しそうな顔をして、私の方をニコニコと見ていた。若い頃の祖母など知らないのに、私には祖母だとハッキリわかった。そして、また電話の音で目が覚める。

 「落ち着いて聞いて。おばあちゃんが、今亡くなったのよ。」

 私はハッとして、まさに今、おばあちゃんがお別れの挨拶に来てくれたことを母に告げる。それから大変だった。バタバタと電話をかけ、よっちゃんに頼んで急遽、現地の旅行会社(日本人経営)に連絡してチケットを探してもらい、パリ経由のANAがすぐに取れたので、飛行機に飛び乗った。成田到着は次の日の十五時だった。そこから直接JRで茨城まで向かう。

 おばあちゃんの通夜には間に合った。きっと祖母は、間に合うように手筈を整えてくれたのだと思う。コンクールには残念ながら出られなくなってしまったけれど、試験は絶対に受けておきたかった。祖母はそれを察してくれたのかもしれない。危篤を繰り返しながら、何とか持ちこたえてくれていた。

 通夜はカトリック式で、厳かに行われた。祖母は敬虔なカトリック信者だったので、賛美歌を歌い、神に召されて天国に昇るであろうことを皆で祈った。祖母は長い闘病生活から解放されて、喜んでいたに違いない。夢に出てきたおばあちゃんは、ものすごく生き生きとした顔だったもの。きっと天国へ行けて、嬉しくて仕方がないんだ。よかったね、おばあちゃん。聞くところによると、母の方にも、昨日キラキラとした光が現れて不思議な思いをしたと言う。これは本当かどうか怪しいけど、とにかく、八十五才でその生涯を閉じた祖母は、八十を過ぎて病院に入るまではとても賢く、しっかりしていて、家族皆で尊敬していた才女であった。

 告別式は私にとって重たいものだった。聖書とお花を入れ、棺が閉じられた時には、逝ってしまったんだなという、諦めに似た、複雑な想いだった。祖母はもう年だったので、あまり大げさに泣くのもな、と思い、我慢していたけれど、まだ若い妹ユリコはショックが隠せないようで、接待などとうていできない様子だった。母は、疲れ切った顔で、それでも後悔のない顔色を浮かべていた。最期は兄嫁たちに喪主を任せていたが、私は、一番介護に大変だったのは母だったことを知っている。

 全て終わって茨城から戻って来たのは夜七時。私は時差ぼけも手伝って、ドッと疲れが出てしまい、幼馴染みたちに連絡をしてから、すぐに眠った。

 そういう具合で、私の予期せずとした帰国は、新学期が始まるまでの九月一杯となった。本当のところは、九月上旬にはイタリアのコンクールを受けて、その後に日本に帰国したら、母校の学祭でピアノを弾く予定だったと思う。私はだからこの年はパリのエミコに役目を交代してもらい、彼女が私の代わりにピアノを弾き、エミコはその時、大学三年だった私の夫に初めて会っている。

 それからはベルギーの友人や先生方への連絡、コンクール先のキャンセルなど、バタバタとした日が続いた。そしてよっちゃんの方も、少し遅れて一時帰国して来た。この秋は、おばあちゃんの死をきっかけに、私は彼の家族にも挨拶することになり、彼との絆が深まってくる年となるのである。

 そして徐々にまわりは勝手に、結婚という二文字を気にかけて動き出していた。

2017年6月 1日 (木)

七十二 三年目のブリュッセルに向けて

 東北の旅から帰ってきた私は、残りあと十日ほどの夏休みを満喫した。

 最後に師匠、Mr.カワソメに会い、
「お前、来年帰ってきたら(実際には、再来年となるのだが)『こうしなきゃならん』なんて考えるなよ。好きなようにやれ。」
とおっしゃっていただく。

 それから、大好きなアキカさんにも会った。彼女は案の定、遅刻していらっしゃったが(ヨーロッパの感覚、そのままである。)帰国当時のままのアキカさんの様子に、私は嬉しくなった。そして東北の彼氏との別れを報告し、やっぱり、遠距離は難しいよねェ〜。なんて笑い飛ばしてもらえる。ついでに彼女の恋愛相談も聞かされちゃったりして、とっても楽しかった。

 幼馴染みのミーちゃんの結婚式もあった。彼女の花嫁姿はとても素敵だった。もともと美人な彼女は、若さも手伝って、とても華やいでいた。私はもう一人のヨシエとそろって祝福し、お次に行くのは誰だ、先に行かれたら、マジで涙だよー!などと言って、笑った。

 もうじきヨーロッパに戻る私は、男女共たくさんの友人たちに別れの挨拶をした。一人、ちょっといい感じになりそうな彼もいたりして、そのシチュエーションを大いに楽しんでいた。どうせ私はまた、ブリュッセルに帰る身。あっちだって、そのつもりでいたに違いない。だけど私の心の奥底には、東北の彼氏と別れた傷がしっかりとついており、ちくしょー、覚えてろよ!くらいな気持ちで、多少やけになっていたと思う。

 最後の日は、愛犬ビビとお別れをして(彼女は神妙な顔をしていた。)母に豪華な食事を作ってもらい、成田の夜の便に向けて出発した。

 成田空港で、私は最後に、東北の彼に電話をかけた。

 「もしもし」と出た瞬間、時間が止まったような気がした。

 「もう、かけないでおこうと思ったんだけどね。今から出発なんだ。」

 と私が言うと、

 「そうか、頑張って来いよ。」

 と一言、想いを込めた様子で彼は言った。

 電話を切ってから、私はこの時初めて、涙が溢れた。彼はいつもいつも夢の中の人だった。大好きな人だった。叶うものなら、一緒になりたかった。本当に、いつになったら私は幸せになれるんだろう。あと一年か。しんどい。でも、頑張るしかない。当時高校生の妹、ユリコにも電話を入れた。お姉ちゃん、寂しいよ〜。タクさん(彼女の友人)も、寂しがってたよ。と言ってくれる。私は妹の友人たちともまた、仲良しであった。

 パリに向かうエールフランスの夜の便は空いていた。そしてブリュッセルには、九月十日、現地時間の八時半に到着する。

 そこにはまた、神妙な顔をしたよっちゃんが出迎えてくれていた。

2017年5月31日 (水)

七十一 さよなら

 私にはゲイの友人がたくさんいる。和声のメルクス先生だってそうだったし、だいたいにおいて、音楽家に同性愛者はとても多いので、慣れている。今でこそ、性同一障害に苦しむ人たちのことが問題になっていたり、トランスジェンダーの人々がいるという認識が高まりつつあるが、私たちにとっては今に始まったことではなかった。彼らはとても気のいい連中である。音楽的に優れている人が多いし、私たちには出せないような繊細な音色を作り上げることができる。オーラが違うと言うのか。それに個性的で面白い人が多い。だから私には、偏見など皆無である。何故偏見があるのかさえ、理解に苦しむ。まあ、さすがにヨーロッパで、女性同士の別れの熱烈なキスを目の前で見た時は、びっくりしたけど。

 だからこの時、彼がカミングアウトしたと思われるセリフを言った時、その衝撃は、別の意味であった。別に彼がゲイであっても、嫌いになることなどはないが、えっ何、じゃあ私は男性の恋人に負けたのか?その恋人は、今近くにいるのか?だとしたら、私は潔く身を引くしかない。自分は、異性にはなれない。それだけの理由である。

 私はもう、彼にぐちぐちと文句を言うのをきっぱりやめた。今思えば、ホモだと言ったら一発退散だろうと思った彼のちょっとした悪ふざけは、ビンゴであった。その甲斐あって、私は綺麗さっぱり意を決して帰ろうとしたので、次の日彼と私は仲直りをし、せっかくだから温泉でも行こうと混浴へ入ったりした。(東北の彼の気に入っていた温泉は、ほとんどが秘境の混浴風呂であった。)これは全く記憶にない。たぶん彼の方も、忘れ去られた記憶だと思う。ただ、私は彼と湯めぐりしている間にも、これからの自分について、前向きに考え始めていた。

 新幹線の切符を買ってもらい、握手をして別れたのは、はっきり覚えている。別れる時に握手なんてするのは、後にも先にも始めてだった。言葉にはしなかったが、これからも頑張れよ、と言う意味合いだったと思う。帰り道、私は涙ひとつ出なかった。ものすごく清々しく、前向きな気持ちだった。そしていろいろ考えた。これから先の留学生活のことを。

 東京に着くとすぐに、私は仙台の元カレと会い、食事をしながら、ご実家の土産話をする。そして幼馴染みの二人が駅まで迎えに来てくれた。嬉しかった。早速、東北の彼、ホモ説を告げると、そりゃあ有力だっ!と非常に盛り上がる。

 私は、彼のことを嫌いになったわけではなかったので、その後、たびたび思い出しては声が聞きたくなったりもするのだが、このホモ事件は絶大で、私の友人及び妹たちの間をトップニュースとして駆け巡った。

 後々、それこそお互いに幸せな結婚をしてから再会した時に、それは真っ赤な嘘と判明して大笑いするのだが、(しかも彼は、そんなことを言ったのかすら、覚えていなかった。きっと本当に、酔っ払っていたんだと思う。私の悪さに気付いていて、こらしめたかったのかもしれない。そして、何故オレたちは別れちゃったんだっけ?とか、すっとぼけたことを言っていた。そこんとこの記憶は、すっかり抜け落ちてしまっているらしい。)

 彼の名誉のために言っておくが、いたってノーマルらしいです。(本人説)だけど今までず〜っと、その疑惑は何十年も続くのである。いや、未だに私の友人たちは、そうと信じて疑わないかもしれないが。

 教訓。かなり身体を張ることにはなるが、別れたい恋人がいる時に、このテの理由で逃げると効果は絶大です。

2017年5月30日 (火)

七十 決定打

 私は、生涯で三回だけ、大恋愛をしたんじゃないかと思っている。二度目以外は二人とも、音楽家。

 一度目は二十歳の頃。この時もそれこそ、それまで付き合っていた彼氏たちを蹴散らしての大恋愛だった。本気で人を好きになるとはこういうことなんだ、と思った。しかし私たちは若く、また大事にされすぎて、私のあっけない浮気から破局。

 二度目はお察しの通り、この東北の彼。四年間にまたがる、大遠距離恋愛の相手である。彼とは別れた後もたびたび会っており、縁がある仲である。

 三度目は何を隠そう、今の夫だ。はっきり言って、大好きだった。(今もだけど)東北の彼と別れてからというもの、私の悪事はすさまじいものとなって行くのだが、そのもつれた人間関係を全て精算して、私は友人の言うところの、真人間に生まれ変わる。まあ、夫だっていろいろあったんだけど。それはいいとして、私がこの時、遊びに行ったのは、一度目の大好きだった彼のご実家である。

 私はまるで親戚の子のように大事にされていた。そして、わざわざ迎えに来て下さったお父様と、おしゃべりに花が咲いた。ビールを飲みながら、お母様も加わり、私の留学生活について、ふんふんと言いながら、感心したように聞き入って下さる。途中、東京にいる彼に電話を入れると、「な、なんでそこにいるんだヨ、お前は〜。」と言って呆れながらも爆笑された。私の母は、今どこにいるの?歯医者の予約はどうしたの?と、慌てていた。(すっかり忘れてた)ああ、歯医者、心残り。

 その日は一泊させてもらい、朝食をいただいた後、弟さんに車で駅まで送ってもらう。その時、彼に
「僕、カオルさんと兄貴は結婚するもんだと思ってました。」
と残念そうに言われたのを覚えている。
私はちょっと切なくなったが、結婚だけが全てじゃないやと思い直し、彼に礼を言って別れた。

 さて、いざ、再び出陣。彼は勤務先に居り、私を見てびっくりしていた。(注、デスクワークではない。私はそこまで図々しくはない。あしからず。)この記憶は今、私の頭の中には全くないが、当時の日記にはそう書かれている。そして私は合鍵を見せ、家で料理でも作って待ってるね。と言う。これは、彼を大変怒らせた。でも、もしも私にまだ気持ちがあったのなら、普通はそこまで怒らないと思う。(B型の基準としては。)その時の彼は顔色もサッと変わり、明らかに激怒していたから、もうその時点で私のことはそこまで好きじゃないんだな、と、私は直感的に察した。

 早めに引き上げてきた彼は、憮然とした顔で、こう言った。早くご飯、作ってよ。お腹すいてるんだから。私は猛烈に腹が立ったが、まあ怒らせてしまったんだから仕方ないと思って黙っていた。せっかく作ったご飯も、喉を通らない。沈黙が流れる。

 今こうして振り返ってみると、たぶん、たぶんですよ。彼は別に、そこまで私のことを嫌いになってたわけじゃあなかった。ただ、面倒臭くなっていたんだと思う。そして合鍵を勝手に作られたという、自分の気に触ることをされて、一時的に爆発しちゃったのだ。ごめん。で、普段から口数が少ないときてるから、それはそれは険悪なムードが漂う。私はつい、別れたいのかと訊く。彼はずるいので、ハッキリは答えない。でも、この時彼は酔った勢いで、決定的なことを言ってしまうのだ。これが、私たちの別れの決定打となった。

 それは、衝撃的なセリフだった。

 「そうだね、別れた方が、いいかもしれないね。だってオレ、ホモだし。気付かなかった?」

2017年5月29日 (月)

六十九 彼との再会

 仙台に着いたのは、朝八時半だった。深夜バスの道中、東北道はガラガラに空いていた。ユリの実家に到着すると、お母さんにとても親切にしてもらい、ヤマハC7のグランドピアノも弾かせてもらう。その日は彼女と仙台の街を楽しみ、次の日、すごーく迷ったけれど、レンタカーを借りて、いざ、二人で彼の居る地まで向かった。

 到着したのは夕方だった。彼の勤務先に行ってみたが、その日は休みであった。まるで探偵のように彼のアパートを探し当て、郵便受けを開けてみると、中からは彼のつけていた香水の匂いがした。キャーキャー騒ぐ二人。若い。しばらく待っていてもいっこうに帰って来る気配がないので、ユリと温泉に行くことにした。東北の露天風呂は最高である。それから定食屋で夕食をとり、夜の十時半、諦めかかった頃に、彼の車が入ってくるのが見えた。サッと隠れる我々。すぐさま、借りた携帯で彼に電話をかける。

 「あ、カオルだーっ。」と言う、笑い声。ヨシヨシ、機嫌がいいぞ。声が遠いね?と言うので、もう、ベルギーに帰っちゃったよっ。と言うと、うそっ、いつ?と驚かれる。と同時に、玄関のチャイムを押す私たち。

 「オイ〜、ふざけんなヨ、なんでそこに居るの?」

と、ドアが開いた。

 彼は、口では冷たいことを言いつつ、とても優しかった。明け方まで三人で飲み明かし、その日は泊まった。すごく幸せな気分だった。会えてよかったね。なんて、ユリに言われて。次の日の朝は、私の好きなものばかり朝食を買ってきてくれて、よく知ってるなァ、なんて感激したものである。そして彼は、仕事へと出かけて行った。

 しかし円満解決したように見えたのは、そこまでであった。そこから私とユリは、彼おすすめの温泉に行き、オヤジたちの入っている混浴風呂に堂々と乗り込み、それからよせばいいのに、彼のアパートの合鍵を作り、置き手紙を残して仙台へ戻った。手紙は多分、もう一度私一人で来てもいいか、嫌だったら電話をしてくれ、という内容だったと思う。彼からのキャンセルの電話は、なかった。そして私は、これから家族でグアムへ行くと言うユリ一家に、お別れを告げた。

 そこで私はもう一度、彼のところへ戻るつもりが、ふと思い立ち、元カレの実家(仙台にあった)に電話を入れてみる。すると繋がり、大歓迎を受けた。今帰って来ているのか、仙台にいるのか、と訊かれ、急遽、遊びに寄ることになる。その元カレは東京にいるっていうのに、何故か家族と仲良しだった私は、ちゃっかり一泊させていただいたりするのだ。こういうところが、私の摩訶不思議なところであった。話を聞くと、我が夫も同じような能力を持っているようだったけれど。

 そして私は元カレのお父様に迎えに来ていただき、仙台めぐりは続くのである。
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