一時帰国

2017年6月21日 (水)

百 よっちゃん帰国

 帰って来たよっちゃんはまず、やっとこさ、歯医者へ行くことができた。

 彼はブリュッセルでずっと、歯痛に苦しんでいた。普段元気な人がたまに具合が悪くなると、それはそれは大げさな程痛がるので、ちょっと可笑しかったが、可哀想であった。向こうで何軒か紹介された歯医者へ行ってみたが、どこへ行っても「セ・パ・グラーブ(問題ない)」と言われて、埒があかなかったのである。日本の歯医者へ行ったら一発で、「毎日通え」と言われていた。向こうの歯医者と美容院だけは信頼できない。そうハッキリと確信した夏であった。今はどうだかわかんないけど。

 私と彼は下北沢あたりをブラブラしたり、日本を楽しもうとしてショッピングしたりしたが、どうもなかなか二人してよく、馴染めなかった。何故だろう。ブリュッセルではあんなに仲良く息も合うのに、日本で会うと、何だか巨大な街に飲み込まれるかのような感覚で、違和感が拭えなかった。こっちに帰ってきてしまったら、私たちはうまくいかないのかな。と、ふと思ったりもした。暑さにバテたせいだろうか。でもこのカンはその後、結局当たってしまうことになる。その環境と二人の相性、というものはあるのだ。確実に。私たちは結果的に、日本ではうまくやって行くことができなかった。決して仲が悪くなったわけではなかったのに。

 よっちゃんは不意に買い物途中、指輪を買ってあげるよ、と言い出した。指輪?急にどうしたんだろう。そして彼は、もし、オレたちがうまく行かなくなったら、オステンドの海にでも投げて、捨ててくれ!と言う。(オステンドとは、ベルギーにある海沿いの街である。冬のオステンド海岸は本当に寂しかった。)私は思わず笑ったが、そういう寅さん風な物言いをするよっちゃんが好きであった。私はその指輪を、彼の運の強さを込めて大事にすることにした。

 そしてはるばる、うちに挨拶にも来た。父も一応、ちゃんと顔を合わせてくれて、ホッとする。私の方も、彼の実家に遊びに行った。お母様は近所の仲良しおばちゃんを連れて来て、非常に緊張した。後から絶対に色々言われているに決まっている。やだなあ、と思いつつ、その場は終了。後日お兄ちゃん夫婦の家にも誘われ、家族大集合でバーベキューをした。私は歓迎され、少しずつ皆んなと仲良くなっていった。

 よっちゃんは一週間と少しすると、またブリュッセルへ帰って行った。帰るとほどなく、寂しいブリュッセルに耐えきれなくなったのか、カオル早く帰って来いコールがかかってくる。わかるわかる、その気持ち。九月のブリュッセルは日に日に寒くなってきて、本当に寂しいのである。

 私はあと残り二週間ほどの日本を落ち着いて過ごした。おばあちゃんの遺骨と共に教会へ行ったり、実家の膨大な写真を整理したり。母は嬉しそうで、妹は毎日予備校通いで忙しくしていた。幼馴染みと会ったり、仙台の彼氏のライヴを妹と一緒に観に行ったり、東北の彼に連絡を入れることも忘れなかったけど。東北の彼は、新しい彼女(彼氏?)を作っていたのだが、身内の死により帰国した私の電話に、きちんと応対してくれた。私は何だか、彼だけが幸せに着実な人生を歩んでいるように思えて、理不尽な怒りがこみ上げてきたが、これは私のひがみなので蓋をすることにした。

 そして私は九月下旬、四年目のブリュッセルに向けて出発をする。

 ブリュッセルへ再び向かうことは、家族と離れて寂しい半面、とてもワクワクしていた。

 四年目。私にとって、これで最後の留学生活となる年である。四年間の中で最も充実した、幸せな環境の中で勉強に励める年となった。少なくとも、父に呼び戻されて見合いをすることになる日までは。

2017年6月20日 (火)

九十九 葬儀のあと

 おばあちゃんの葬儀を終え、自宅に戻って来た私は、よく母とお喋りをした。

 母は祖母の介護中はずっと悲しみの中にいたが、私が帰って来ると毎度のこと賑やかになるので、ずいぶん気が紛れているように見えた。祖母が亡くなってからは、妹も交えて一緒におばあちゃんの書いた日記を読んだりして、よく笑うようになった。祖母は妹、ユリコのことを「心の優しい、穏やかな子」と書いていたが、私のことはそうは書いておらず、日々相当心配をしているようであった。納得いかん。でもあれだけ心配をかけていたから、ああやって夢に出て来てくれたのかもしれない。私の日記もいつか人に読まれるのだろうか。どうか私を想って泣いてくれ夫よ。そして笑ってくれ、娘よ。まあ、もうすでにこうしてほぼ、公開しちゃってるんだけど。

 三年目の夏の終わり、急遽一時帰国をした私は、心は常にベルギーにあった。日本にうまく馴染めなくなっている自分がいた。だから、少しの間だったが、よっちゃんが帰って来てくれることは嬉しかった。昨年の夏のように恋に荒れ狂い、男どもと遊ぶことなどはなかった。身内を亡くした私に向かって心ないセリフを吐き、密かに縁を切った男友達もいた。ユキはそんなマジメな私を見て、多少残念そうだったけれど、私もたまにはまともになるのである。

 幼い頃から一緒に暮らしていたおばあちゃんの死は、その最期、離れていた私に突き刺さり、家族と離れていることをよりいっそう、考えさせられるようになった。けれどだからと言って、私は勉強をやめようというつもりはなかった。もう少し、もう少し。私はまだ、全然上手くなっていない。まだまだ吸収しなければならないことが、山ほどある。師匠、Mr.カワソメには、お前、コンクール残念だったなあ。と言っていただき、大学でも後輩たちはじめ、奈良先生とお会いして帰ってきたりした。考えてみれば、この時もどこかで夫とすれ違っているのかもしれないと思うと、面白い。

 父はこの時とばかりに、私に見合いの話を進めてきた。とっておきを紹介するから、と言ってうるさい。もううるさいので、適当に返事をしておく。父はそれは嬉しそうに急ピッチで仕事を進め始めた。私はおかまいなしに、両親によっちゃんを紹介する。ムッとする父。そんな、今から思えば漫才のようなことを、私たち親子は繰り広げていた。本当に、娘など、自分の思い通りにはいかないもんである。アーメン。

 留学帰りの後輩の、演奏会を聴きに行ったりもした。確か二年くらいで帰国したヴァイオリニストで、私は彼女の演奏を聴きながら、自分の耳が以前よりずっと肥えていることに気付く。やっぱり、勉強は二年じゃ短い。私はもう少し、勉強してからでないと帰れない。そう感じた。そして帰ったら、頑張ってリサイタルを開こう。私は結婚のことなど頭になく、(いや、そりゃあ、話のネタでは始終盛り上がってはいたが)この先のヨーロッパでの暮らしと、帰国後のぼんやりとした目標について考えていた。

 そんな私に、真剣にアプローチしてくれた彼がいた。

 昨年の夏、実家にフラッと遊びに行った、仙台の彼氏である。

 彼は相当、女性にモテていたに違いないが、帰国していた私に向かって、帰って来たら、一緒に暮らさないか?と言った。散々考えていたけど、ようやく決めた、と言う表情をしていたから、真剣だったと思う。私は迷った。彼とは二十歳の頃、大恋愛をして、別れてからも何度かヨリを戻そうとしたが、お互いタイミングが合わずに、すれ違いばかりだった。そして、今回もそうであった。せっかくの申し出に、その時の私はイエスと言うことができなかった。よっちゃんがいたし、この彼にだけは、私は二股などかけることはできなかった。別に、東北の彼のこともよっちゃんのことも、遊びだったと言う訳ではない。私はいつだって、恋に真剣である。二股だろうが、三股だろうが、巡り合ってしまった恋には真剣勝負である。誰にも理解できないかもしれないけど、適当に付き合うつもりは全くない。全集中型である。いいよいいよ、誰にも理解してもらえなくったって。

 とにかく、私は仙台の彼に、今の状況と自分の気持ちを話して納得してもらった。私が帰国リサイタルをした時には心から応援してもらって、しばらくの間、よく会っていたが、お互いに結婚してからはほとんど顔を合わせていない。今では音楽業界で大活躍していることと思う。このブログも読んで、笑ってくれているかもしれないけど。

 そんな切ない想いも抱えながらいたある日、よっちゃんはベルギーから帰国する。

 私は喜んで、横浜まで迎えに行った。そしてしばし、彼との一時帰国の生活が始まるのである。

2017年6月19日 (月)

九十八 おばあちゃんの死

 八月三十日。おばあちゃんはその日、私の夢枕に立った。

 いつものように、朝っぱらから父の「帰れコール」で目が覚めて、うるさいなあまったくもう。と思い、またウトウトとした時に現れたのである。その時私は何か他の騒々しい夢を見ていたのに、突然その夢は消え、祖母は真っ白な割烹着のような服を着て、五十代くらいの頃に若返り、たくさんの白い服を着た知らない人たちと一緒に、それはそれは嬉しそうな顔をして、私の方をニコニコと見ていた。若い頃の祖母など知らないのに、私には祖母だとハッキリわかった。そして、また電話の音で目が覚める。

 「落ち着いて聞いて。おばあちゃんが、今亡くなったのよ。」

 私はハッとして、まさに今、おばあちゃんがお別れの挨拶に来てくれたことを母に告げる。それから大変だった。バタバタと電話をかけ、よっちゃんに頼んで急遽、現地の旅行会社(日本人経営)に連絡してチケットを探してもらい、パリ経由のANAがすぐに取れたので、飛行機に飛び乗った。成田到着は次の日の十五時だった。そこから直接JRで茨城まで向かう。

 おばあちゃんの通夜には間に合った。きっと祖母は、間に合うように手筈を整えてくれたのだと思う。コンクールには残念ながら出られなくなってしまったけれど、試験は絶対に受けておきたかった。祖母はそれを察してくれたのかもしれない。危篤を繰り返しながら、何とか持ちこたえてくれていた。

 通夜はカトリック式で、厳かに行われた。祖母は敬虔なカトリック信者だったので、賛美歌を歌い、神に召されて天国に昇るであろうことを皆で祈った。祖母は長い闘病生活から解放されて、喜んでいたに違いない。夢に出てきたおばあちゃんは、ものすごく生き生きとした顔だったもの。きっと天国へ行けて、嬉しくて仕方がないんだ。よかったね、おばあちゃん。聞くところによると、母の方にも、昨日キラキラとした光が現れて不思議な思いをしたと言う。これは本当かどうか怪しいけど、とにかく、八十五才でその生涯を閉じた祖母は、八十を過ぎて病院に入るまではとても賢く、しっかりしていて、家族皆で尊敬していた才女であった。

 告別式は私にとって重たいものだった。聖書とお花を入れ、棺が閉じられた時には、逝ってしまったんだなという、諦めに似た、複雑な想いだった。祖母はもう年だったので、あまり大げさに泣くのもな、と思い、我慢していたけれど、まだ若い妹ユリコはショックが隠せないようで、接待などとうていできない様子だった。母は、疲れ切った顔で、それでも後悔のない顔色を浮かべていた。最期は兄嫁たちに喪主を任せていたが、私は、一番介護に大変だったのは母だったことを知っている。

 全て終わって茨城から戻って来たのは夜七時。私は時差ぼけも手伝って、ドッと疲れが出てしまい、幼馴染みたちに連絡をしてから、すぐに眠った。

 そういう具合で、私の予期せずとした帰国は、新学期が始まるまでの九月一杯となった。本当のところは、九月上旬にはイタリアのコンクールを受けて、その後に日本に帰国したら、母校の学祭でピアノを弾く予定だったと思う。私はだからこの年はパリのエミコに役目を交代してもらい、彼女が私の代わりにピアノを弾き、エミコはその時、大学三年だった私の夫に初めて会っている。

 それからはベルギーの友人や先生方への連絡、コンクール先のキャンセルなど、バタバタとした日が続いた。そしてよっちゃんの方も、少し遅れて一時帰国して来た。この秋は、おばあちゃんの死をきっかけに、私は彼の家族にも挨拶することになり、彼との絆が深まってくる年となるのである。

 そして徐々にまわりは勝手に、結婚という二文字を気にかけて動き出していた。

2017年6月 1日 (木)

七十二 三年目のブリュッセルに向けて

 東北の旅から帰ってきた私は、残りあと十日ほどの夏休みを満喫した。

 最後に師匠、Mr.カワソメに会い、
「お前、来年帰ってきたら(実際には、再来年となるのだが)『こうしなきゃならん』なんて考えるなよ。好きなようにやれ。」
とおっしゃっていただく。

 それから、大好きなアキカさんにも会った。彼女は案の定、遅刻していらっしゃったが(ヨーロッパの感覚、そのままである。)帰国当時のままのアキカさんの様子に、私は嬉しくなった。そして東北の彼氏との別れを報告し、やっぱり、遠距離は難しいよねェ〜。なんて笑い飛ばしてもらえる。ついでに彼女の恋愛相談も聞かされちゃったりして、とっても楽しかった。

 幼馴染みのミーちゃんの結婚式もあった。彼女の花嫁姿はとても素敵だった。もともと美人な彼女は、若さも手伝って、とても華やいでいた。私はもう一人のヨシエとそろって祝福し、お次に行くのは誰だ、先に行かれたら、マジで涙だよー!などと言って、笑った。

 もうじきヨーロッパに戻る私は、男女共たくさんの友人たちに別れの挨拶をした。一人、ちょっといい感じになりそうな彼もいたりして、そのシチュエーションを大いに楽しんでいた。どうせ私はまた、ブリュッセルに帰る身。あっちだって、そのつもりでいたに違いない。だけど私の心の奥底には、東北の彼氏と別れた傷がしっかりとついており、ちくしょー、覚えてろよ!くらいな気持ちで、多少やけになっていたと思う。

 最後の日は、愛犬ビビとお別れをして(彼女は神妙な顔をしていた。)母に豪華な食事を作ってもらい、成田の夜の便に向けて出発した。

 成田空港で、私は最後に、東北の彼に電話をかけた。

 「もしもし」と出た瞬間、時間が止まったような気がした。

 「もう、かけないでおこうと思ったんだけどね。今から出発なんだ。」

 と私が言うと、

 「そうか、頑張って来いよ。」

 と一言、想いを込めた様子で彼は言った。

 電話を切ってから、私はこの時初めて、涙が溢れた。彼はいつもいつも夢の中の人だった。大好きな人だった。叶うものなら、一緒になりたかった。本当に、いつになったら私は幸せになれるんだろう。あと一年か。しんどい。でも、頑張るしかない。当時高校生の妹、ユリコにも電話を入れた。お姉ちゃん、寂しいよ〜。タクさん(彼女の友人)も、寂しがってたよ。と言ってくれる。私は妹の友人たちともまた、仲良しであった。

 パリに向かうエールフランスの夜の便は空いていた。そしてブリュッセルには、九月十日、現地時間の八時半に到着する。

 そこにはまた、神妙な顔をしたよっちゃんが出迎えてくれていた。

2017年5月31日 (水)

七十一 さよなら

 私にはゲイの友人がたくさんいる。和声のメルクス先生だってそうだったし、だいたいにおいて、音楽家に同性愛者はとても多いので、慣れている。今でこそ、性同一障害に苦しむ人たちのことが問題になっていたり、トランスジェンダーの人々がいるという認識が高まりつつあるが、私たちにとっては今に始まったことではなかった。彼らはとても気のいい連中である。音楽的に優れている人が多いし、私たちには出せないような繊細な音色を作り上げることができる。オーラが違うと言うのか。それに個性的で面白い人が多い。だから私には、偏見など皆無である。何故偏見があるのかさえ、理解に苦しむ。まあ、さすがにヨーロッパで、女性同士の別れの熱烈なキスを目の前で見た時は、びっくりしたけど。

 だからこの時、彼がカミングアウトしたと思われるセリフを言った時、その衝撃は、別の意味であった。別に彼がゲイであっても、嫌いになることなどはないが、えっ何、じゃあ私は男性の恋人に負けたのか?その恋人は、今近くにいるのか?だとしたら、私は潔く身を引くしかない。自分は、異性にはなれない。それだけの理由である。

 私はもう、彼にぐちぐちと文句を言うのをきっぱりやめた。今思えば、ホモだと言ったら一発退散だろうと思った彼のちょっとした悪ふざけは、ビンゴであった。その甲斐あって、私は綺麗さっぱり意を決して帰ろうとしたので、次の日彼と私は仲直りをし、せっかくだから温泉でも行こうと混浴へ入ったりした。(東北の彼の気に入っていた温泉は、ほとんどが秘境の混浴風呂であった。)これは全く記憶にない。たぶん彼の方も、忘れ去られた記憶だと思う。ただ、私は彼と湯めぐりしている間にも、これからの自分について、前向きに考え始めていた。

 新幹線の切符を買ってもらい、握手をして別れたのは、はっきり覚えている。別れる時に握手なんてするのは、後にも先にも始めてだった。言葉にはしなかったが、これからも頑張れよ、と言う意味合いだったと思う。帰り道、私は涙ひとつ出なかった。ものすごく清々しく、前向きな気持ちだった。そしていろいろ考えた。これから先の留学生活のことを。

 東京に着くとすぐに、私は仙台の元カレと会い、食事をしながら、ご実家の土産話をする。そして幼馴染みの二人が駅まで迎えに来てくれた。嬉しかった。早速、東北の彼、ホモ説を告げると、そりゃあ有力だっ!と非常に盛り上がる。

 私は、彼のことを嫌いになったわけではなかったので、その後、たびたび思い出しては声が聞きたくなったりもするのだが、このホモ事件は絶大で、私の友人及び妹たちの間をトップニュースとして駆け巡った。

 後々、それこそお互いに幸せな結婚をしてから再会した時に、それは真っ赤な嘘と判明して大笑いするのだが、(しかも彼は、そんなことを言ったのかすら、覚えていなかった。きっと本当に、酔っ払っていたんだと思う。私の悪さに気付いていて、こらしめたかったのかもしれない。そして、何故オレたちは別れちゃったんだっけ?とか、すっとぼけたことを言っていた。そこんとこの記憶は、すっかり抜け落ちてしまっているらしい。)

 彼の名誉のために言っておくが、いたってノーマルらしいです。(本人説)だけど今までず〜っと、その疑惑は何十年も続くのである。いや、未だに私の友人たちは、そうと信じて疑わないかもしれないが。

 教訓。かなり身体を張ることにはなるが、別れたい恋人がいる時に、このテの理由で逃げると効果は絶大です。

2017年5月30日 (火)

七十 決定打

 私は、生涯で三回だけ、大恋愛をしたんじゃないかと思っている。二度目以外は二人とも、音楽家。

 一度目は二十歳の頃。この時もそれこそ、それまで付き合っていた彼氏たちを蹴散らしての大恋愛だった。本気で人を好きになるとはこういうことなんだ、と思った。しかし私たちは若く、また大事にされすぎて、私のあっけない浮気から破局。

 二度目はお察しの通り、この東北の彼。四年間にまたがる、大遠距離恋愛の相手である。彼とは別れた後もたびたび会っており、縁がある仲である。

 三度目は何を隠そう、今の夫だ。はっきり言って、大好きだった。(今もだけど)東北の彼と別れてからというもの、私の悪事はすさまじいものとなって行くのだが、そのもつれた人間関係を全て精算して、私は友人の言うところの、真人間に生まれ変わる。まあ、夫だっていろいろあったんだけど。それはいいとして、私がこの時、遊びに行ったのは、一度目の大好きだった彼のご実家である。

 私はまるで親戚の子のように大事にされていた。そして、わざわざ迎えに来て下さったお父様と、おしゃべりに花が咲いた。ビールを飲みながら、お母様も加わり、私の留学生活について、ふんふんと言いながら、感心したように聞き入って下さる。途中、東京にいる彼に電話を入れると、「な、なんでそこにいるんだヨ、お前は〜。」と言って呆れながらも爆笑された。私の母は、今どこにいるの?歯医者の予約はどうしたの?と、慌てていた。(すっかり忘れてた)ああ、歯医者、心残り。

 その日は一泊させてもらい、朝食をいただいた後、弟さんに車で駅まで送ってもらう。その時、彼に
「僕、カオルさんと兄貴は結婚するもんだと思ってました。」
と残念そうに言われたのを覚えている。
私はちょっと切なくなったが、結婚だけが全てじゃないやと思い直し、彼に礼を言って別れた。

 さて、いざ、再び出陣。彼は勤務先に居り、私を見てびっくりしていた。(注、デスクワークではない。私はそこまで図々しくはない。あしからず。)この記憶は今、私の頭の中には全くないが、当時の日記にはそう書かれている。そして私は合鍵を見せ、家で料理でも作って待ってるね。と言う。これは、彼を大変怒らせた。でも、もしも私にまだ気持ちがあったのなら、普通はそこまで怒らないと思う。(B型の基準としては。)その時の彼は顔色もサッと変わり、明らかに激怒していたから、もうその時点で私のことはそこまで好きじゃないんだな、と、私は直感的に察した。

 早めに引き上げてきた彼は、憮然とした顔で、こう言った。早くご飯、作ってよ。お腹すいてるんだから。私は猛烈に腹が立ったが、まあ怒らせてしまったんだから仕方ないと思って黙っていた。せっかく作ったご飯も、喉を通らない。沈黙が流れる。

 今こうして振り返ってみると、たぶん、たぶんですよ。彼は別に、そこまで私のことを嫌いになってたわけじゃあなかった。ただ、面倒臭くなっていたんだと思う。そして合鍵を勝手に作られたという、自分の気に触ることをされて、一時的に爆発しちゃったのだ。ごめん。で、普段から口数が少ないときてるから、それはそれは険悪なムードが漂う。私はつい、別れたいのかと訊く。彼はずるいので、ハッキリは答えない。でも、この時彼は酔った勢いで、決定的なことを言ってしまうのだ。これが、私たちの別れの決定打となった。

 それは、衝撃的なセリフだった。

 「そうだね、別れた方が、いいかもしれないね。だってオレ、ホモだし。気付かなかった?」

2017年5月29日 (月)

六十九 彼との再会

 仙台に着いたのは、朝八時半だった。深夜バスの道中、東北道はガラガラに空いていた。ユリの実家に到着すると、お母さんにとても親切にしてもらい、ヤマハC7のグランドピアノも弾かせてもらう。その日は彼女と仙台の街を楽しみ、次の日、すごーく迷ったけれど、レンタカーを借りて、いざ、二人で彼の居る地まで向かった。

 到着したのは夕方だった。彼の勤務先に行ってみたが、その日は休みであった。まるで探偵のように彼のアパートを探し当て、郵便受けを開けてみると、中からは彼のつけていた香水の匂いがした。キャーキャー騒ぐ二人。若い。しばらく待っていてもいっこうに帰って来る気配がないので、ユリと温泉に行くことにした。東北の露天風呂は最高である。それから定食屋で夕食をとり、夜の十時半、諦めかかった頃に、彼の車が入ってくるのが見えた。サッと隠れる我々。すぐさま、借りた携帯で彼に電話をかける。

 「あ、カオルだーっ。」と言う、笑い声。ヨシヨシ、機嫌がいいぞ。声が遠いね?と言うので、もう、ベルギーに帰っちゃったよっ。と言うと、うそっ、いつ?と驚かれる。と同時に、玄関のチャイムを押す私たち。

 「オイ〜、ふざけんなヨ、なんでそこに居るの?」

と、ドアが開いた。

 彼は、口では冷たいことを言いつつ、とても優しかった。明け方まで三人で飲み明かし、その日は泊まった。すごく幸せな気分だった。会えてよかったね。なんて、ユリに言われて。次の日の朝は、私の好きなものばかり朝食を買ってきてくれて、よく知ってるなァ、なんて感激したものである。そして彼は、仕事へと出かけて行った。

 しかし円満解決したように見えたのは、そこまでであった。そこから私とユリは、彼おすすめの温泉に行き、オヤジたちの入っている混浴風呂に堂々と乗り込み、それからよせばいいのに、彼のアパートの合鍵を作り、置き手紙を残して仙台へ戻った。手紙は多分、もう一度私一人で来てもいいか、嫌だったら電話をしてくれ、という内容だったと思う。彼からのキャンセルの電話は、なかった。そして私は、これから家族でグアムへ行くと言うユリ一家に、お別れを告げた。

 そこで私はもう一度、彼のところへ戻るつもりが、ふと思い立ち、元カレの実家(仙台にあった)に電話を入れてみる。すると繋がり、大歓迎を受けた。今帰って来ているのか、仙台にいるのか、と訊かれ、急遽、遊びに寄ることになる。その元カレは東京にいるっていうのに、何故か家族と仲良しだった私は、ちゃっかり一泊させていただいたりするのだ。こういうところが、私の摩訶不思議なところであった。話を聞くと、我が夫も同じような能力を持っているようだったけれど。

 そして私は元カレのお父様に迎えに来ていただき、仙台めぐりは続くのである。

2017年5月28日 (日)

六十八 苦しい気持ち

 彼氏とは喧嘩していたが、一時帰国中、いろいろと師匠に話を聞いていただいたりしていくうちに、私の気持ちは徐々に、更にもう一年、つまり三年目の勉強に向けて、気持ちが固まってきていた。けれど、それを認めたくない自分もいた。勉強を続けようと思っているのに、感情の波が心の底で悲鳴をあげているかのようだった。

 その証拠に、私は幼馴染みたちと伊豆の海に行った時に、もう一人のフィレンツェ留学組のヨシエと、「ヨーロッパ戻りたくな〜い!」と叫びながら、澄んだ海に飛び込んでいた。彼女もまた、イタリアの地で苦労ばかりしていたようである。現地で彼女は何度も何度も腹痛を起こしていたから、相当なストレスがあったに違いない。もうじき結婚するミーちゃんもまた、違う悩みを抱えていたと思うが、それはそれで置いといて。

 私はもう一年ヨーロッパに残る目的として、どこかの国で国際コンクールを受けることと、コンチェルトをやること、そしてプルミエプリの証書を取ることを考えていた。師匠、Mr.カワソメは、まあコンクールでも受けて来いと、それに重点を置いて提案してくれた。しかし私は帰国中、まったくピアノを弾く気が起こらなかった。それよりも、東北の彼氏に会えない鬱憤を晴らすかのように、パアッと遊ぶこと、しかも男連中と遊ぶことに精を出していた。この夏ほど、オトコと遊んだ時期はなかったくらいに遊びまくった。そして女友達と会っては、恋の相談ばかりしていた。

 誠実な昔の恋人と会う時は、真面目な音楽の相談に乗ってもらったりしたが、新しい恋の芽が出そうな男友達とは、ちょっといい雰囲気に持ち込むなんて朝飯前であったので、彼女と別れたと聞いちゃあ、オー、それなら私が立候補しちゃおうかなァ、なんて、いけしゃあしゃあと言ったりしていた。デートは日替わりメニューで、し放題であった。いくら東北の彼氏と気マズイ雰囲気だったからと言って、ブリュッセルのよっちゃんだって居るのに、どうしようもない女である。最悪だ。そんな私はしばしば国際電話でユキに日本の様子を報告し、面白がった悪友、ユキは、それをネタにする。案の定、よっちゃんから、

「カオル大先生、日本でブイブイ言わせてるみたいですね?」

なんて電話がかかってきちゃったりした。ユキのやつめ。

 でもそんな中、私の後輩である、ユリちゃんから一本の電話が入る。彼女はローマに留学中だったが、同じく日本に一時帰国していて、仙台に実家があった。私の様子を見かねて、一緒に仙台に遊びに来がてら、彼氏のところを尋ねたらどうかと提案してくれたのである。私は迷った。迷いに迷って、うん、行くよ。と返事をした。

 先輩と一緒に、師匠のお墓まいりにも行った。ここに来ると心が落ち着いた。前にも書いた通り、私は先生のお墓の前に来ると、お話しができるような気がするからである。私は先生のことが大好きだった。いつでも私たち学生のことを、親身になって考えてくれた。私の今の苦しい気持ち、これからどうしたらよいのか、一切を打ち明けてきた。

 不思議とその帰り道に、「こうしていこう。」と考えが具体的に浮かんだ。アレ、先生のおかげかな?と思う。でも、やっぱり苦しい気持ちは残っている。くそ、東北のヤローめ。

 そして私は、相変わらず男友達とばかり遊んだ。連日違う男子たちと遊んで、さすがにこれだけガンガン遊んでいると、気はまぎれたが相当に疲れた。そして彼に連絡がとれない日々に慣れ、同時にふと、私は本当に彼のことが好きなんだ。とわかってくる。

 茨城にいる、おばあちゃんのところへも訪ねた。おばあちゃんは、私のことを覚えていてくれたみたいだった。嬉しかった。

 そして、八月下旬。私は仙台の、ユリの実家に泊まりに行く。いざ、東北の彼氏にも会いに。私たちは、決戦の時を迎えるのである。

六十七 二年目の夏

 七月二十七日。私は十六時四十五分発のエールフランスに乗った。成田到着予定は、日本時間の翌日、十四時二十五分。飛行機は珍しく定刻通り出発、パリのトランジットも、定刻通りであった。

 機内は相変わらず、超辛くて、隣はなんだか無口なカップルでつまんないし、足がむくんで眠れず、何度も発狂しそうになった。今度からは絶対に、前方座席のない席を選んでやる。そう決心しながら耐え、成田には予定よりも二十分早い到着となった。

 日本はいきなり蒸し暑い!忘れてた、この感覚。

 新宿経由で帰ったのだが、周りのみんなが平気な顔して歩いてるのが信じられないくらい、暑かった。ずっとヨーロッパに居た身としては、しんどいことこの上ない。暑い…。スーツケースをゴロゴロと押しながら、私は早々にへばった。それに、新宿からのロマンスカーの発券も、大変とまどった。わからないこと、新しいことが多すぎる。日本という国は、ちょっと離れていただけでも大きく変わる。帰って来るたびに私は、浦島太郎状態に陥った。そのてん、ヨーロッパなんて、いつ行ったって、服装の流行りも、街並みもほとんど変わらない。この差は何だろう。

 実家に着いたら早速、愛犬ビビが出迎えてくれた。最初はよくわからなかったみたいだが、そのうち、あっ!という顔になって、ワンワンとしっぽがちぎれるくらいに喜ぶ。彼女は私に似て、非常に勝手で自立心旺盛な性格だったので、歓迎してくれるのはその時のみ。犬なんだから、もう少し素直で忠誠心があってもよかろう、と思ったが、その気ままな性格は本当に可愛くて、特に妹ゆりゆりが溺愛していた。

 日本では、これまた相変わらず時差ボケに苦しめられた。眠くて怠い身体に鞭打ちながら、それでも私は、出迎えてくれる多くの友人たちに会った。

 例の幼馴染みの友人の、結婚式も迫っていたので、私はまず彼女たちと会った。フィレンツェの友人も一時帰国しており、三人で、式の話などで盛り上がる。なのに当の本人は、自分の結婚を「失敗だった!」と言い、私たちは「せっかく帰ってきたのに!」と言って大笑いした。マリッジブルーというものは怖い。私たち三人組の結婚は、結果的に、フィレンツェの彼女が一番最後になっている。まあ、多かれ少なかれ、皆平和にやっている(と思う)から、いいとして。

 それからすぐに私は大学へ行った。お世話になっている師匠たちや、友人たちに会えるからだ。大学へ行くといつも、長居してしまう。皆に挨拶をして、帰宅。

 そしていよいよ、夜中になってから私は、東北にいる彼に電話をかけた。

「あ、居たっ。何で電話くれないのよ〜!」

 と言っても、昨日も今日も遅くて、今だもん。それにこれから飲みに行くんだ。と言う。

 なんだ、疲れ切ってるわりには、飲みに行くのか。わけわからん。散々、誰と行くのかと聞いて、電話を切った。私も誰かと無性に飲みたくなり、バイト先のショットバーに電話を入れる。仲間内の男連中は歓迎してくれて、今から飲みに来い!と誘われ、行ったら行ったで、また散々いじめられ、彼との仲をからかわれた。もう、悔しくなって、帰ってから彼氏の留守電に、
「やっぱり、そっち行くから!文句あったら電話して来い!」
と言って切る。

そういう時だけ早速電話がかかってきて、夜中の三時頃に、喧嘩勃発。

 でも、仲間にいじめられたと知ると、彼は笑って、
「ま、北京にいきなり来たっていう前例もあるしね。来てもらっても困るけど〜、来られちゃったらしょうがないよな。」
などと吐く。

 私はもう、頭にきて、内心、絶対行ってやる。それで正体あばいてやるのだ。なんて、息巻いていた。ここでもしも行くことを思いとどまっていたのなら、私たちは別れなかったかもしれないのに。でも、そんなことは後の祭りである。それに、遅かれ早かれ、いつかは別れたのだろう。そういうことになっているのだ、運命とは。

 というわけで、情熱的なその夏は続く。

2017年5月14日 (日)

四十五 日本の冬

 二度目に帰国する頃には、私もだいぶベルギーの方に馴染み、ブリティッシュエアライン乗り換え、ロンドンから乗って来る日本人の若者の多さと、その流行りの格好にウンザリしたり、実家に帰ってからの部屋の寒さに耐えられなかったりした。

(ベルギーは寒いけど、家の中はどこだって暖房が効いていて暖かいのだ。北海道もそうだけど。だから思い切り身体を暖房充電してから、寒い外に出ることができる。)

 帰国した次の日の朝は六時半に目覚め、部屋中の暖房をつけまくり、夕方から夜九時まで寝てしまって父に起こされたりと、時差ボケしまくりである。電話には、思わず「アロー(Hello)」とフランス語で出てしまいそうになるし。

 夜九時に起きてしまって眠れないので、仕方がないからバイト先のショットバーに行ってお土産を渡し、遅くまで飲んで帰ってきたりしていた。そこから東北の彼のところに電話をかけてもらい、みんなでワイワイ話すも、クリスマスに彼と会うことは出来なかった。一年目の仕事は、徹夜するくらいに忙しかったのである。残念。

 この冬の帰国中、彼と会うことはできなかったのだが、代わりに私はまた多くの友人たちと会って過ごした。今じゃあ考えられないほどの、日替わり友人メニューである。独身時代の、友達ネットワークには感心させられるものがある。高校時代のクラス会にも出席しているし、またもや、横浜国大のロシアで出会った彼らとも飲んでいる。

 でもそれだけではなく、おばあちゃんのお見舞いに茨城まで行ったり(この頃には祖母はかなり状態が悪く、母のもとから離れて、叔父のいる茨城の病院へ移っていた。)それから、大学で理事長にご挨拶したりしている。師匠のレッスンも受けた。

 私の一時帰国は矢のように過ぎた。そして、遅れて帰国したよっちゃんとも、初めて日本でデートしたりした。日本で一緒にいる感覚は不思議であったが、ベルギーに慣れてしまったことでの日本の居心地の悪さをぶつけ合い、共通の思いを抱いていたと思う。その時は。

 二週間とちょっとの冬休み帰国はあっという間に終わり、故郷に別れを告げて、私たちはベルギーへと戻った。半地下の部屋に到着すると、寒いのなんのって、ショファージュをつけてガタガタと震えていた。ユキちゃんに聞くところによると、この年末年始はマイナス十八度くらいになったそうで、今日は暖かい方だと言う。台所のオリーブ油も凍っているし、外のトイレは使えないし、暖房が効くのは、次の日までかかった。

 それでも私はすぐにまたブリュッセルでの生活に馴染み、猫のプーを預けていた友人宅に迎えに行き、三月の実技試験に向けて、相変わらず同じ生活を始めようとしていた。

 突然、東北の彼氏から 「またベルギーに遊びに行くよ。」
と連絡が入るまでは。

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