ピアニストMama♪ 続・留学白書

2017年9月 1日 (金)

あとがき

 ピアニストMama留学白書、そしてその続編と共に、私の拙い文章を、これまでご一読下さった皆様、応援していただきました皆様、本当にどうもありがとうございました。

 自分の、ベルギー留学生活四年間については、以前からずっとまとめてみたいと思っておりましたが、今長い年月を経てようやく書き上げることができました。実は昔、一度だけ執筆にかかったことがあるのですが、仕事や子育てなどの日々の忙しさにかまけて挫折してから、その想いだけをずっと持ち続けながら、現在に至りました。

 生活も徐々に落ち着き、可愛い娘や生徒たちに囲まれる今、そうだ、そろそろ書いてみようかな。とある日突然思い立ち、初めは、まずは生徒だけに楽しんでもらおうかと思っていたのですが、もしかしたら、日々私が気楽に書いているブログのように進めて行った方が続けられるのではなかろうかと、立ち上げたのがきっかけです。思わぬところで反響があり、たくさんの友人たちから応援を受け、その声を支えに、毎日書き続けることができました。本当に感謝感激です。

 私はそのうち神様に叱られるんじゃないかと思うほど、自分の思うままに自由奔放に生きて参りましたが、どうせなら現世にいる間に、その悪事も含めて告白してしまおうと、できるだけノンフィクションに綴ったつもりです。たくさんの方々に迷惑をかけながら生き散らかして来ましたが、自分の気持ちに正直に、信じた道を思うままに駆け抜けて来た今、私には、これまた自由で可愛い娘と、素敵な夫、そしてたくさんの個性的で愉快な友人たちに囲まれて、おかげさまで幸せに暮らしております。

 途中、いろいろなことがありました。留学生活を送っている間からずっと、不調の原因だった子宮を摘出することになって、弟妹が産めなくなり、娘なっちんにガッカリさせてしまったこと。乳癌疑惑になって手術し、放射線治療直前まで行ったこと。夫と、これまでの十数年間は楽しかったと振り返られたことなど。まあ、それなりに悩んだ時もありましたが、私は常にまわりの温かい愛情に支えられ、いつも前向きな気持ちでいられることに変わりはありません。

 人生とは、いつ何が起こるかわからない。

 もしかしたら、明日はないかもしれない。

 限りある人生の中で、与えられた生を一生懸命に生き、自分が体験した様々なことを、これから育ってゆく子どもたちの心の中に何かを残してあげられたら。音楽という素晴らしい人類の財産であり、世界共通語であるものを通じて、私が経験してきたことが少しでも、子どもたちの役に立つことができたら。私は、自分がこの世に生きていた証を受け渡して、閻魔様の裁きを受けることができれば幸いに思います。

 私の帰国後の話はここで終わりといたしましたが、その後の私たちの話については、娘が二歳の頃より、日々のブログに綴っております。こちらは多分、私がもうろくして書けなくなるその瞬間まで続けて行くつもりでおりますので、どうぞお時間の許す限り、ご一緒にお楽しみいただければ幸いに思います。

 ピアニストMama♪ http://natsukaka.cocolog-nifty.com/blog/

 最後に、この記を書くにあたって、天国で応援して下さったであろう、私の亡き恩師てっちゃんと、アンリオ先生、私を常に心配してくれていたおばあちゃんと、愛犬ビビと猫のプーすけに。厚く御礼申し上げます。

 たくさんの皆様の、輝かしい未来に。ご健勝とご多幸を心より祈って。

 
 二〇一七年 九月      宮地 薫

 

2017年8月30日 (水)

続編三十 その後の私たち

 よっちゃんと別れた私は、自分でも帰り道のよくわからぬまま、帰宅した。

 帰って来た私が、玄関を開けてくれた妹に一言、よっちゃんと別れて来た。と言うと、彼女は仰天して絶句していた。そして私は迷ったが、いつかは言わなくてはいけないことだと、メールにてコヤマ君にそのことを告げると、彼もまたびっくりして固まっていた。

 ともかく、私たちは、別れた。六年間も一緒にいた、ブリュッセルでの想い出を共にしたよっちゃんと、私は別れたのだ。これは正しいことだったのか。グルグルと想いは巡った。だいたいにおいて、私は生まれてこのかた、ここまで潔く、誰かと別れたのは初めてのことだった。そしてまた、こんなにも気持ち良く、幸せになれと一言だけ言い残して去った恋人も、初めてであった。その一言に込められた想いは強く、私の心に響いた。

 だから私たちは今でも、仲の良い友人である。もう十年ほど会ってはいないが、この記録を書いていることも知らせてあるし、お互いの近況はだいたい、フェイスブックで知っている。私と夫が結婚した後に一度、二人で我が家に招いて、結婚祝いを持って遊びに来てくれたこともあるし、猫のプーすけの最期は子育ての大変な時期と重なったこともあり、彼に看取ってもらった。私と彼は、一緒にはならなかったけれど、私にとって大事な人であることには変わりはない。彼の幸せを、心から願っている。

 よっちゃんと別れた次の日の朝、その目覚めは最悪だったけれど、コヤマ君にのっけから誘われて会うことになった。彼の顔を見るまではどんよりとした気持ちを引きずっていたが、会った瞬間にそれはパッと晴れて、ああ、これで良かったんだな。と思った。

  このあと、コヤマ君の私への態度は明らかに変わった。私は、もしかしたら、ますます自分から遠ざかってしまうかもしれないな、と覚悟もしていたのだけれど、彼はその逆で、私に歩み寄って来てくれた。その時の私には、それがどうしてだかわからなかったのだけれど、夫と十五年以上付き合った今の私にはわかる。あれだけフラフラしていた私のような者が、意を決して彼と別れたことに対して、度肝を抜かれたか、慈悲のような心になったか、あっぱれだと感心したか、どちらかだったんじゃないかなと思う。いや、どれもだったかもしれないけど。我々はちょっと変わった音楽人間であるので、普通はこうだろうと言う感覚ではなかったことだけは確かである。一緒にして欲しくないかもしれないけど。

 十二月に入って、私は珈琲屋でソプラノのユミちゃんと演奏会をし、彼の方も別に演奏会をこなし、クリスマスと大晦日を一緒に過ごした。それは私にとって、今までの年越しの中で、一番素敵な時間となった。私たちには全然お金はなかったけれど、最高に楽しくて幸せな時だった。

 二〇〇二年の元旦は、彼は札幌へと里帰りをし、私は空港での送り迎えをする。実家に帰る彼は、とても嬉しそうだった。

 年明けにすぐ、コヤマ君は私の勧めと珈琲屋のオーナーの援助により、車の免許を取り、私はお金を工面するために、レッスンのない午前中に毎日、弁当屋で働くことにした。

 そして一月の誕生日、私は三十になり、初めて自分の車を買う。

 彼が勤めていた珈琲屋は、三月で閉店することが決まり、彼は別の珈琲屋に移動となり、同時に夜のファミレスでも働くことになった。

 一緒に住もう。そして二人で音楽も、生活も、頑張って行こう。そのために私たちは、必死で働いた。私たちはお金の有無よりも、若さと、お互いの可能性にかけた。結婚て、愛よりもお金よぉ。と言うお金持ちの友人もいたが、私はその彼女らしい断言っぷりが可笑しくて笑ったと同時に、愛に冷めると破局するであろう自分のサガを自覚して、自らの選択を貫いた。

 その間、私たちを心配した母は、四六時中反対をしていた。父はあんまり何も言わなかったように思う。留学していた時とは、まるで正反対である。私は親の反対には当然、辛い思いもしたが、これはしめたものだと内心思った。何故なら私の場合、いつも周りの反対が強ければ強い程、結果的に間違っていないことが多いからである。これは将来絶対幸せになれると思った。自分の選択は信じるべし。私の貧乏留学時代を知るユキには、またカオルちゃんは一から苦労する気か〜と言って笑い飛ばされたし、パリのえみこは驚いたし、師匠、Mr.カワソメも仰天していた。あいつって、いっつも、何事に対しても一生懸命なんだよなァ。と、笑いながら友人に話していたという師匠。

 それでも私たちは、良き音楽仲間たちに支えられ、四月にはピアノ付きで八万というアパートも見つかり、一緒に暮らし始める。私としては結婚にこだわる気持ちは少なかったが、彼の方がきちんとしようと言って、プロポーズをしてくれた。本当に全くお金がなくて、ほぼマイナスからのスタートではあったけれど、私たちは幸せだった。と、いうよりも、必死だった。お金を稼ぎながら、演奏活動もし、まさに昔の貧乏音楽家と言った感じ。ちゃんと就職したら結婚しよう、っていう、古い何かの小説みたいだ。

 そのうちに私には生徒が集まり始め、彼の方も学校の音楽採用が決まり、お互いに苦労したバイトを辞め、本業に専念する生活を送り始めるようになる。

 二〇〇三年、十月。私たちはお互いの両親に挨拶をし、式を挙げた。母は数週間前まで、式には出ないと怒っていたが、結局出席してくれた。ユリコには、嬉しいと言っていたようなので、母親の心情というものは複雑である。

 私たちはこの時も自分たちの身分相応として、山手の教会で式だけを挙げ、友人たちには散歩がてらに寄ってもらうスタイルで、その後簡単なパーティーを開いている。

 これからこの人とは長くてもあと五十年くらいしか一緒にいられないんだなぁ。短いなぁ。としみじみ思ったのを覚えている。新婚旅行には、彼の希望で飛騨高山と能登半島に行ったが、入籍したとたん、何だか今まで知らなかった別世界の扉がぱあっと開いた感じがして、ああ、結婚ってこんなものか。してみて良かったな。と、思った。

 それから十四年。その間、いろいろなことがあったが、私たちは今、幸せに暮らしている。よき音楽同志であり、よきパートナーである夫とは、笑いも絶えず、未だにほとんどケンカをしない。家族にはなったが、おかげさまでずっと、私の恋愛感情もほのぼのと続いている。そんなもの必要ないと言う人もいるだろうが、自分にとってはこれがないと関係が維持できない。私など絶対にまともな結婚はしないだろうと、友人エミコは内心密かに思っていたらしいが、人生とはわからないものである。

 そして、無事に雲の上から降りてきた、私たちの娘、なっちんは、もう少し大きくなったら読ませてもらえるこの話を楽しみに待っている。太陽の国で暮らしていたらしい彼女は、私たちを無事にくっつける任務を果たしてからすぐに、雲の上で見ていた一部始終を忘れてしまったらしい。彼女は私と夫のコンチェルトの演奏会が終わったその後、私がお腹を手術して環境を整えたとたん、待ったなしで空から降りてきた。きっと、ずうっと待たされていた彼女は、もう一刻も早く生まれて来たい一心で待ちきれなかったのだろう。

 愛する娘、なっちんに、この話を捧げる。そしてこんな自由気ままな私に愛想を尽かさず、見守ってくれた全ての友人たちへ。そして始終心配をしてくれた、愛する両親たちへ。

 
 私たちは今もなお、未来へ向かって歩み続けている。

 
 ピアニストMama♪ 留学白書 続編 〜おわり〜

2017年8月29日 (火)

続編二十九 よっちゃんとの別れ

 その日。

 私はよっちゃんに誘われて、埠頭のマンションを見に行った。

 そこはまずまずのところだったが、部屋の印象はほとんど、覚えていない。がらんとしていて、殺風景で、外の景色だけは綺麗だったような気がする。いや、わからない。私の気持ちが、その時の想いをそうさせているのかもしれない。

 それよりも私は、二人でその部屋に入り、よっちゃんの背中をぼんやりと見つめながら、何故急に彼がそんなことを言い出したのかと考えていた。私はずっと、心ここにあらずの、上の空だった。

 今日、私は、決断することになる。そう感じた。これからコヤマ君と生きて行きたいのか、それとも今私の目の前にいる、ブリュッセルで懐かしい生活を共にした、よっちゃんと生きて行くのか。

 その日最初によっちゃんと顔を合わせた時は、私はとてもホッとして、温かい気持ちになれた。でも、埠頭のマンションを見ているうち、辛い気持ちがわあっと込み上げてきて、もう、自分の気持ちは隠せないと思った。いや、自分の気持ちを確信したのだ。今更ながらに、もやもやと引きずっていた雲がパッと晴れ、同時に稲妻に打たれたかのように、私の心は決心に奮い立った。

 NHKホールのコンサートも、何を観たのかさっぱり覚えていない。終わってから、たぶん一緒に来ていた彼のお母様たちとも会食をして、私はもう、ギブアップ寸前まで来ていた。早く、二人だけになりたかった。

 食事が終わり、私たちは公園を散歩した。秋の夜の散歩は、とても気持ちが良かった。今でも昨日のことのように、この風景を思い浮かべることができる。

 静かな風が吹き、私たちはライトアップされた草花を見て、静かに歩いていた。私は突然、口を開く。
 ごめん。もう、一緒にはいられない。私は泣いた。泣いて泣いて、逆によっちゃんに慰めてもらったくらいだ。

 何を話したかは、覚えていない。コヤマ君のことを喋ったのか。わからない。でも彼は、全てを見通していたと思う。そして、私に一言、笑って肩を叩きながらこう言った。

「そうか、わかったよ!幸せになれ。」

 と。

2017年8月28日 (月)

続編二十八 カウントダウン

 帰って来た私は、時差ボケというよりもドッと疲れが出て、留学と旅行との差を思い知らされた。何というか、疲労の仕方が違う。ギュッと凝縮されたみたいだ。それに加えて今回は、ほぼ私の全身全霊をかけての旅だったので、クタクタになってしまった。とりあえずはこんこんと昼過ぎまで眠って、重い腰を上げてよっちゃんに電話を入れた。彼は、私の旅行中は確か、九州にヴァカンスへ行っていたはずである。

 彼は案の定寂しがっていて、いじけて電話を切った。私は一気に不安が押し寄せる。私のことを大切に思ってくれている、この人と別れて本当に良いのか?自分の気持ちを信じて、本当にいいのか。でもやっぱり、いつ終わるかわからない人生を、自分の気持ちに正直に生きてゆきたい。失敗したって構わない。いや、だいたいにおいて、私は失敗するかもしれないと考えて動いたことはない。まあそれなりに計画はするけど、基本的に、父親譲りの無鉄砲なのだ。

 私は、今やるべきだと思ったことを悔いなくやり、走り続けてきたけれど、迷いぶつかりながらの人生の中で、ずっと私が探してきた人に出会えたような気がした。少女の頃、電車の窓の外を駆け抜ける景色をぼんやりと見つめながら、私の結婚相手は今この世のどこかに生きているのかなあ、どこにいるのだろう。と思っていたけれど。私はずっと、彼を探してきた。この人を大切にしたい。でも、私たちの間にはまだ何も確かなものはなかった。おまけに一緒になったところで、お金もないし、安定もない。周囲にも、両親にも、それはそれは真っ先に反対されるであろう。でもこの時の私には確かに、何か説明のつかない、確信と自信めいたものがあった。それが何だかということは、天で見ているなっちんしか知らない。そして彼女には申し訳ないが、私たちはゆっくりゆっくりと、前へと進んだ。

 帰国して二日後、まずはコヤマ君と私は、念願のお寿司を食べに行った。もうずっと、帰ったら寿司寿司!と二人して騒いでいたのである。そして寿司を食べ終わった彼の口からは、やっぱりミヤっさんとは付き合えない、と言う言葉が出た。何故だかはわからない。でも全然めげない私。そりゃそうだ、私には強力な助っ人、これから生まれて来る運命にある、なっちんがバックについている。

 そしてさらにその二日後、私はよっちゃんに会って、お土産を渡した。二人で横浜へ行き、奈良先生の演奏会へ、大倉山へと向かう。私の気持ちはここでグラついた。よっちゃんは優しい。言い出せなかった。全くもって、タイミングなどなかった。とりあえずこの日は何事もなく帰宅。事はのらりくらりと、進んで行く。

 その頃から私は、どっちみち家を出るためにまず車の購入を検討していたので、仙台の彼(カーキチである)に付き合ってもらって、中古屋巡りをしていた。途中、コヤマ君から、今ヒマ。ご飯食べない?とメールが入って、せっかくのお誘いなのに断るしかなく、ガッカリする。

 そして日々はカウントダウンへと、着実に進んでゆく。幼馴染みの三人で気晴らしをしたり、コヤマ君とデートしたり、仕事あがりに珈琲屋のみんなとおしゃべりをしたり。

 そして次の水曜日になった。その日はいい天気だった。私は午前中に珈琲屋へ行き、十二月に予定している演奏会で組む、ソプラノ歌手のユミちゃんからプロフィール写真を受け取り、カウンターのコヤマ君ともお喋りをしてから、駅へと向かった。

 その日は、よっちゃんとNHKコンサートへ行く日であった。その前によっちゃんは、埠頭にあるマンションを見に行こうと言い出す。

 私はこの日も、何の心構えもせずにいた。まだこの日に彼と別れようなど、思ってもみなかった。でもそれは、何も決心する必要などなかった。自分の心に正直に、そして時の流れに身を任せていれば、自然と決着のつくことだと、その時の自分には知る由もなかったのである。

2017年8月27日 (日)

続編二十七 チューリヒと、リギの山

 友人の待つチューリヒへは、パリからの便だったので、私たちはそこで一泊することにしていた。

 パリはさすがにブリュッセルに比べて物価が高く、ちょっとカフェでお茶しただけでもお金がすぐに飛んでしまう。

 けれど一日、何を買うわけでもなしにブランド巡りをしたり、コヤマ君と歩くパリの街は楽しかった。夜のセーヌ川はとても綺麗で、夜のベトナミアンは美味しかった。

 次の日の朝、私たちは、チューリヒへ向かうために乗るはずだった便をうっかり逃してしまう。ホテルでの朝食が美味しすぎて、のんびりしていたのが原因だった。空港のカウンターで、次の便に乗れないかどうか、意地でかけ合う。結局、七百フラン(一万四千円ほど)くらい払っての変更となってしまった。でもまあ、最初は「ムリ」と言われていたから、乗れただけでも良しとする。チューリヒ到着は午後三時になった。

 チューリヒは相変わらず綺麗な街である。駅では市場も開かれていて、ちょっと見るだけでも楽しい。彼はすっかりこの街が気に入ってしまい、住むならこんなところがいいなあと連呼していた。私の友人もまた、コヤマ君を大変気に入り、弟のように可愛がって、色々なところへ案内してくれた。小さい頃から、リギの山へ登るのが夢だったらしい彼の希望により、翌日はルッツェルンの街から、山頂へと向かう。よく晴れた日で、頂上には雪が積もり、澄んだ空気の中で食べたサンドウィッチは最高に美味しかった。これは彼女の手作りで、スイスのパンに厚切りチーズを挟んだだけのシンプルなものだったのだが、これが美味し過ぎて、格別な忘れられない味となった。

 その日の夜は、お決まりのチーズフォンデュをいただき、次の日はもう日本へと帰らねばならない日であった。

 朝、三人で森を抜けて散歩をする。午後は彼女の通う、チューリヒのコンセルヴァトワールへ。近代的な建物の、小綺麗なところだった。シャガールのステンドグラスのある教会にも入り、その美しさに感動する。本当にこの街は洗練されていて、ブリュッセルがとたんに汚い街に見えてくるほどである。

 私たちは空港で彼女とまた、しばしのお別れをした。彼女とはその後、日本にて共にジョイントリサイタルを開くことになる。

 帰りの飛行機はパリで多少の遅れがあったが、無事にエールフランスは飛び、成田には夜七時頃到着した。夜の到着便はなかなか良い。帰ったらそのまま眠れるからである。

 機内ではコヤマ君が毛布をかけて肩を寄せてくれたり、彼らしいさり気ない粋なはからいに、私はいちいち感動していた。日本に帰ったら一緒に暮らそうかと、私から強気に誘ったのも、パリの空港である。考えとくよ、なんて、かわされたけど。

 だいたいにおいて、思ったことをたいして考えもせずに口に出す癖のある私も、この時ばかりは本気であった。私はこの旅で、自分の気持ちを確信する。私は彼を、愛している。それは紛れもない真実だった。まあ今まで恋多き人生だったし、私がここで、年下の彼のことを本気だと宣言したところで、だあれも信じてくれないだろうと思ったけれど。

 そしてまた、私たちの日本での生活が、始まろうとしていた。彼はまだ幾分、私たちのことを迷っていた。それもそのはず、私はまだ、よっちゃんとのことをはっきりさせていない。彼と私は、イコール留学生活そのものだった。悩む。そしてコヤマ君の方だって、いろいろと考えなければいけないことがあった。人生とは、そんなに簡単で単純なものではないのである。特に、男と女という面倒臭い、恋愛においては。

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リギの山と、チューリヒの森散策。

2017年8月26日 (土)

続編二十六 シメイへ

 その日の朝ごはんはカフェで、私のお気に入りのオムレツシャンピニオンと、カフェ・グラッセを食べてから、バージバン先生の住むシメイの町へと向かった。

 電車の乗り継ぎ本数が少なくて、すごく時間がかかってしまったが、途中下車したシャルロワの駅で町をブラブラした時に、コヤマ君は私の手をさり気なくつないでくれて、それがとっても嬉しかったのを覚えている。なんて純情な私。

 先生のお宅に着いた私たちは、仰天してしまった。とびきり田舎の、牧草地の真ん中にたたずむ、素朴な一軒家。ここからあそこまでが、うちの庭よ。と言って笑う先生だったが、庭と言うよりはここはもう、広々とした草原。牧場ではないか。何という広大な敷地。一番喜んだのは、北海道育ちのコヤマ君である。その時の私には、彼が何故そこまで大はしゃぎするのかわからなかったが、今ならば理解できる。北海道から本州に移って来た人たちは皆、広い土地と澄んだ空気、それから真っ白な雪が、懐かしくて仕方ないらしい。

 そして夕食。先生の手料理は素晴らしく美味しくて、私は時差ボケで夢見心地の中、盛りだくさんの海老やサラダやデセールをいただいた。先生のフランス語は相変わらず聞き取りやすく、初心者のコヤマ君でさえも少しは理解できていたから、彼女の配慮は素晴らしいものである。先生の旦那様は、お喋りな彼女とは正反対でほとんど喋らない、物静かな方だったが、お二人は大変な仲良しで、こちらから見てもそのアツアツぶりが伝わってくるようであった。私はコヤマ君がいない時に、ここぞとばかりに先生から、私たちの仲について色々と質問をされ、好奇心旺盛なキラキラと輝く目で、愛と運命と未来について語っていただいた。いくつになっても、恋を忘れないヨーロピアンなのである。

 次の日はとてもベルギーらしい曇り空で、朝早くから、私たちは二人で森や町を散歩した。牧場にいた遠くの牛たちが、皆一斉にそろってこちらを凝視していたのが可笑しかった。明らかに、私たちが新参者だとわかっているかのようである。コヤマ君は…夫は、今でも旅行地に来ると朝散歩が大好きなのだが、この頃は手なんかつないじゃってラブラブだったけど、今じゃあ一人で勝手にプラっと小一時間ばかり出て行って、私となっちんは旅館でダラダラとしていることが多い。私は、歩くことの多い夫と付き合うようになってから、ヒールの高い靴は一切履けなくなった。

 そしてこの、記念すべき二人の、旅先朝散歩から戻った我々は、バージバン先生の美味しい手料理に、豚のローティとじゃがいも、それにプラムとクレープをいただいて、ルイ十四世時代の古いエトワールの町に連れて行ってもらい、そこで先生たちに別れを告げて、夕方の電車でブリュッセルへと戻った。

 今回の旅の目的の一つは、ヨーロッパのコンセルヴァトワールを巡るということがあったので、私たちはその翌日、ブリュッセルから少し離れた、リエージュの音楽院も探してから、ベルギーを後にしている。

 お次は今回の旅のシメである、チューリヒへ向かう。そこには私の大学時代の友人が待っていてくれた。

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2017年8月25日 (金)

続編二十五 二年ぶりのヨーロッパ

 二〇〇一年、十月二十四日。私は、帰国して二年ぶりに、ヨーロッパへ再訪した。飛行機はエールフランス。テロの後だったので何かと難航したが、とにかく我々は無事、パリに着いた。もちろん、同行者はコヤマ君。シャルルドゴールに着いたとたん、私は嬉しくて、幸せに浸る。ああ、懐かしい匂い。懐かしいフランス語。私は何故、日本に帰って来てしまったんだろう!

 パリからは、ブリュッセルに向かう安いタリスのチケット(新幹線)が取れ、南駅に到着したのは夜の九時。限界の眠気であったが、エヴァのお母さんのベンチュラが迎えに来てくれて、無事、彼らのアパルトマンに着いた。エヴァとの感動の再会。疲れていたが、久々にフランス語で大騒ぎをして、私たちのために用意してくれた一室に案内してもらった。もうあの半地下には、エヴァの姉であるシメヌが住んでいたのだ。

 十一才のエヴァは、私にこっそり耳打ちをして、「一緒に来た彼とは別の部屋にするか。それとも同じ部屋にするか。どっちでも、カオルの好きな方を選んでちょうだい。」と、おませな顔をして言った。私は笑いをこらえきれず、とりあえず礼を言って、同室で構わないよ、と答えた。どうせ一緒の部屋に寝たって、私たちの間にはなんもない。コヤマ君は、私との間に恐ろしいほど一線を置いていた。

 ぐっすり眠った私たちは、次の日からアクティブに行動を始める。まずはグランプラスでワッフルだ。食べきれないほどの大きさのワッフルを見て、コヤマ君は仰天する。それからコンセルヴァトワールと、日本食屋。彼は、日本では見せたことのないほどのはしゃぎぶりで、どこへ行ってもウキウキした様子だった。そんなに喜んでもらえるとは、連れて来た甲斐があると言うもんである。良かった。

 でも、様子が変わったのは彼だけではなかった。私は、夕ご飯に美味しいムール貝屋へ行き、その帰り道を歩きながら、心の中が徐々に満たされてゆくのを感じていた。

 この感覚はなんだろう。私はやっぱり、ヨーロッパでの方が基本的に、性に合っているのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたら、コヤマ君にも「ミヤっさん、日本にいる時よりもこっちの方が、断然ハマってるよ。」と言われて驚いた。

 そうか、やっぱりなァ。この、妙なリラックス感は、一体どこから来るんだろう?と思っていたが、たぶん、日本にいる時、私は無意識に気を遣って、猫をかぶっていたのだ。それに比べて気楽なのだ、ヨーロッパは。そりゃあ確かに、四年も住んだ私には、欧州で暮らす大変さも、日本で暮らす快適さも知っているのだが。でも、久しぶりのヨーロッパは、まさに水を得た魚のようであった。そしてそんな素顔の私を、コヤマ君に見せることができて本当に良かったと思った。

 コルニル先生にはランデブーを取ってあったので、久しぶりに先生のお宅を訪問し、彼と共にレッスンをしていただいた。自分が何を弾いたのかをサッパリ忘れてしまったのだけど、彼がショパンのワルツをみてもらったのは覚えている。先生のレッスンを終えてから、私たちは懐かしい友人たちと会食をした。トッコちゃんとその彼、キボウちゃん、シホちゃんと、ロナルド。ユキはその頃、もう日本に帰国していたから居ない。新しいトッコの部屋は素敵で、料理好きの彼女らしい、充実したキッチンが付いていた。彼女には、その後二度目に訪れた時にも大変世話になっている。

 楽しく、懐かしいブリュッセルでの数日は過ぎ、そしてお次は、私のフランス語の先生、マダム・バージバンの住む、のどかな田舎町へと向かうのである。
 
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十一才のエヴァと、ベンチュラ

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2017年8月24日 (木)

続編二十四 ユリコ、コヤマ君と初対面

 インドから戻って来たユリコと私は、久しぶりに姉妹でショッピングを楽しんだ。一日歩きまわったのでヘトヘトになったが、よっちゃんの誕生日プレゼントに素敵な財布も見つかり、ホッとして、彼女はバイト先へ直行する。

 帰り道に旅行会社から、今度はサベナが欠航になったと連絡が入り、これは困ったぞと、次の案を練る。ちょうどそこへ、珈琲屋の店長から、千円札がなくなっちゃってヘルプの電話を受け、仕方がないので行ってあげることにした。ちょうど、コヤマ君とも旅行の件について相談をしなければならなかったし、私は千円札を何枚か用意して、出向いた。

 珈琲屋の店長はなかなかのハンサムで、マダムたちに超がつくほどの人気を誇る、これまた自他共に認めるプレイボーイだったのだが、私のことも気にいってもらっていたらしい。彼は私の顔を見ると嬉しそうにしてくれたが、私とコヤマ君の間には、先日の一件もあって、何となしに気まずい雰囲気が流れていた。それでもこのお店のメンバーはとても心地よく、私は遅くまで居座ってコーヒーを飲んでいた。

 ちょうどそこへ、バイト帰りのユリコから迎えに来てコールがかかってきたので、駅に近い珈琲屋まで来てもらうことにしたのである。私はいつも実家の年季の入ったボロ車に乗っていたのだが、それはでっかいマツダのバンだったので、マッカーサーの皆にも珈琲屋の皆にも、ミヤチバスと呼ばれていた。Mr.カワソメに至っては、オマエ、塗装屋の娘みたいだな。と言われていた。

 ユリコが店内に入って来たら、不思議なことに、彼女の雰囲気と店の雰囲気とが全く違い、彼女は店内で一人、異色なオーラを放っていた。面白いものである。そして彼女は、コヤマ君と少し喋り、後でこっそり私にこう言った。「お姉ちゃん、あの人カッコイイじゃん。知ってた?ああいうのが、カッコイイ、って言うんだよ?」

 私は笑って、そりゃどうも。私の趣味は今までどうかしてました?と言った。いや、彼らの名誉のために言っておくが、よっちゃんだって、東北の彼だって、なかなかのイイ男たちである。でも妹にとっては、コヤマ君はきっとヒットしたのであろう。そして我が妹の特技は、私の元カレたちと仲良しになってしまうことだった。今でもよっちゃんとユリコはよく会っていると思うし、何故だか彼女の不思議な草食動物的なオーラは、姉とはまた違った雰囲気で、男女共に友人がとても多い。

 それはそうと話は戻って、ヨーロッパ行きの計画は、確実に難航していた。

 私は一人あくせくしていたのだが、始めのうち、私任せにしていたコヤマ君が、そのうちやっと協力態勢に入ってくれた。フランス語を覚えるために、毎日私と仏語メールのやり取りをしたり、旅のルートを練ったり。二人で買い物にも行ったし、ペルティカローリ先生のレッスンにも行った。大学に久しぶりに顔を出した彼は、後輩たちにつかまってモテモテであった。

 レッスンが終わってから、河原で日向ぼっこをしながらフランス語を勉強し、私たちは、本当に仲の良い姉と弟のように見えたかもしれない。私たちの間には、本当に、それ以上のことはほとんど何もなかった。私はコヤマ君と穏やかな関係が続き、そして休みの日にはよっちゃんとも会っていた。

  何もない、平和な日々が続いた。そして、いよいよヨーロッパ出発の日。私は、二年ぶりに訪れるブリュッセルに、心を躍らせていた。

2017年8月23日 (水)

続編二十三 エミコのリサイタル

 友人エミコのリサイタルは、都内で行われるのかと思っていたら、なんと私の地元の会場となった。彼女は迷った挙句、集客しやすい、音大近郊に決めたらしい。彼女の地元は岡山なので、そちらでも多分、事前に開いたはずである。私はその日、午前中に珈琲屋の友達とお茶をして、それからお店で働くコヤマ君に会い、その後によっちゃんと合流をして、会場へと向かった。

 多分、よっちゃんを連れて来るとは思っていなかっただろう、コヤマ君は、ロビーで友人と一緒に私を待っていてくれて、入って来た私たちを見て、全員、固まってしまった。なんちゅうか、緊迫した空気。それに追い打ちをかけるかのように、コヤマ君は開口一番、「結婚、しないんですか?」とよっちゃんに語りかけた。よっちゃんの顔色が変わる。全くもって、しどろもどろな答え。私は、険悪としか言いようがないその場を解散とした。

 エミコの演奏は、素晴らしかった。勉強の成果が見え、フランスもののプログラムにますます磨きがかかった演奏であった。私はとっても嬉しくなり、自分もまた、頑張らなくちゃ。という気持ちになる。友人が頑張っている姿は、本当に嬉しいものだ。とてもいい演奏会であった。集客がいまひとつだったのが惜しい。私は終演後に片付けを手伝い、山のような荷物を持って、彼女をホテルへと送った。

 翌日、彼女の演奏会に刺激を受けた私は、ピアノを元気よくさらい出していた。

 その時だった。よっちゃんから電話が入り、思いがけないことを聞かされたのは。

 そういえば昨日、彼女の演奏会の打ち上げの時に、よっちゃんはファミレスで私とは別の席に座り、私の女友達の話し相手になっていた。その時、まさかの私の悪口を聞かされたのである。私の日頃の男関係の悪さに愛想を尽かした友人が、よっちゃんにその一部始終を話した。そこまでは私が悪いのであって、まあ仕方がないことなのであるが、それを友人のエミコや他の友人の名前を挙げ連ねて、皆が私のことを一線引いている、というようなことを、よっちゃんに洗いざらい喋ったのである。日頃、オトコをはべらかせていると、思わぬ友人の裏切りにあうので要注意。

 彼は気が動転して、私にそのことを伝えてしまった。それを聞いた私は一気にテンションが下がる。彼は、私が何も知らずに、みんなに笑顔で接しているのが悔しかったからだ、と言った。でも一番ガッカリしたのは彼だったろうに、そしてそれを心に押し留めているのが困難だった彼は、私に喋ってしまったのだ。

 私は途方に暮れて、ピアノなどもう弾く気にもなれず、レッスンを終えてから、抜け殻のように珈琲屋に行ってしまった。そこで会ったコヤマ君に、耐えきれずに打ち明ける。それを聞いた彼は、一言だけ、どうして彼はそのことをミヤっさんに伝えてしまうんだ。と言って、何も優しいことを言ってやれずにゴメン。というセリフと共に、自分に腹を立ててその場を立ち去ってしまう。 あんまり書くと夫は怒るけど、そういう、何というか、女に気の利いたセリフが言えない彼を初めて知った私である。

  私は翌日もらったエミコからの電話に、迷った末、その一件を伝えて、私が今までとてつもなく不愉快な思いにさせていたのだとしたら悪かった、と心から謝った。すると彼女は大変ご立腹となり、何を言っているんだ、私はカオルの男関係に呆れてはいるが、嫌ってなどいないぞ。エミコはカオルが大好きだぞ。と、愛の告白をしてもらう。友情に感動である。私は多少、元気を取り戻し、そしてまたピアノへの意欲も戻った。私が自由過ぎる恋愛に終止符を打ち、彼女いわく真人間に戻った時に、一番祝福をしてくれたのは、紛れもないこの友人、エミコである。

 とりあえずは、十月の末に再会するコルニル先生とのレッスンに向けて、新しい曲を頑張って仕上げなければならない。それから、大学で受けるペルティカローリ先生のレッスンも迫っていた。

 しかし、アメリカでの9.11テロ事件の影響で、この時、飛行機は次々とキャンセルになり、おまけに乗るつもりだったスイスエアーはつぶれると聞かされ、フライト計画が難航していた。

 そんな中、無事にインドから、元気そうな妹のユリコが帰ってきた。そして私は彼女を初めて珈琲屋に誘い、コヤマ君を紹介することになるのである。

2017年8月22日 (火)

続編二十二 東北へ

 いい天気だ。急に思いついた旅には、おあつらえ向きの秋晴れ。

 旅っていい。新幹線って素敵だ。新たな気持ちになれるから。

 こうして日記を読み返してみると、東北の彼は、私の人生の所々で現れ、恋人でなくなった時も、良き友人として励ましてくれている。

 この時、彼は中国への転勤が決まり、意気揚々としていた。私は前から、三十を境に彼と会って話がしたいと思っていたので、これは昔から決められたことだったのではないかと思われるくらいだった。こうしたい、と漠然と思っていることって、叶うのかもしれない。でも、コヤマ君とのことは。その時の私には、全くわからなかった。

 東北の彼とは、温泉めぐりや、喜多方ラーメンめぐりなどをして、楽しい時を過ごした。彼は、悩み渦中の私をさりげなくフォローしてくれた。

 彼とは、お互いの人生を心から応援していたが、昔っから相手のことよりもまず自分、というスタンスであった。それが、その時の私にはよくわかった。でも、私が抱く、コヤマ君への感情は違う。全く今までの私にはなかったものだ。それだけに、私は無残に壊してしまいたくなかった。大切なガラス細工を手渡され、どうしてよいものやらわからず、不安でたまらずに、オロオロとしてしまうような気持ち。

 私は東北の温泉に浸かりながら、ぼんやりと、今までのこと、そしてこれから自分はどうしたらいいのかを考えていた。川沿いの静かな温泉は、ある意味現実から逃避できて最高だった。張りつめ、ざわついていた心が、ゆっくりと癒されるようだった。ずうっとこうしていたかったけれど、そうも言ってはいられない。私は彼に別れを告げ、月曜日の午前中の新幹線で、現実へと舞い戻った。

 帰って来た私は、幼馴染みのヨシエとミーちゃんに会う。彼女たちに話を聞いてもらいたかったが、私はうまく喋ることができなかった。私の今の複雑な心境を話したところで、とうていきちんと理解してもらえる気がしなかった。私は諦めて、珈琲屋に顔を出した。急に東北へ行くと言って出て行った私に、コヤマ君は驚いていたが、何も訊かずに迎えてくれた。むやみに詮索をしない。これが夫のステキなところであり、裏を返せば面倒臭がりなところである。

 現実に戻って来た私はもう、自分自身をどうにかしたかった。全くもって、取り扱い不能と化していた。

 そしてその翌々日。パリの友人、エミコの、帰国リサイタルが開かれた。

 私はこの日をとても楽しみにしていて、よっちゃん共々、応援に出かけた。

 そこで私とよっちゃん、コヤマ君の三人で、バッタリと、ロビーでの鉢合わせとなってしまうのである。
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