帰国後の生活

2017年8月 9日 (水)

続編十八 カオルさん、愛というものを知る

 午前中、十一時半からコヤマ君との合わせ。この日は実家のピアノで練習した。

 前日クラス会で遅かったし、だいたいにおいて夜型だった私は、とても疲れていたのだが、朝型の彼と付き合うようになってから一転せざるを得なくなる。この人はどんなに夜遅くまで遊んでいようとも、次の日の朝はシャキッと起き上がれるから羨ましい。朝の開店前七時半頃からお店で合わせ、なんて日もあったが、私はコヤマ君に待たされたことは一回もなく、今でも夫は待ち合わせ十分前には到着している男である。 私は今じゃあ毎日六時半起き、十時半か十一時には就寝と、規則正しい生活を送っているが、それでも娘の学校が休みとなるとあっけなく崩れてしまう。昔は明け方に寝るのなんてザラだった。若かったんだなあ。と思う。

 実家での合わせは、お昼を挟んだので、彼に素麺と、焼き鳥を出してあげた。コヤマ君は、彼のCDコレクションの中から、すごく素敵なアンコール特集を持って来て、貸してくれた。四時からバイトだったので珈琲屋まで送って行こうとしていたら、ちょっと財布を見たいから、一緒に行こうよと言われ、何だか少し、嬉しかった。デートみたい。

 珈琲屋では、スタッフの人たちとだんだん仲良しになっていた。皆、私が顔を出すと、喜んで迎えてくれた。そして私はこの時、人生で初めて、大切なことに気付いている。

 コヤマ君。彼と一緒にいると、私はすごく優しい気持ちになれる。それはどうしてだろう。

 彼の目がとても純粋だから、惹かれるのかもしれない。

 そして私は、これまでの人生で、誰かと付き合う時、相手から何かを与えてもらうことばかりを期待していたことに気が付いた。

 私は今まで、誰かに与えることをしていただろうか。高校の彼氏とはケンカばかりで、お互いに、自分の期待を相手に求めることばかりを要求していたのだ。私は彼に、何を与えてあげたんだろう。よっちゃんは少し大人で、そんな私を大目に見てくれているからうまくいっていたのかもしれない。少なくとも私は、よっちゃんに甘えていた。そして彼の方は、私の心を自分が心底キャッチできていない不安を覚えていた。

 私はこの時初めてそうした自分に気付き、そして今、目の前にいるコヤマ君に、むしろ与えてもらうよりも与えてあげたいと思っている自分がいることを知った。別にそれは、尽くし子ちゃんになりたい、と思ったわけではない。ごく自然に、自分から、相手に対して自分の出来ることをしてあげたい。と思ったのである。これは、愛情というものであった。そう、自分の子どもに対して、全ての母親が自然と感じる、愛情。それと同じである。何の打算もなく、何の見返りも期待せず、ただひたすら、自然とそれが出来る相手というものは、存在するのだ。私はびっくりしたと共に、今までの自分を深く反省した。私は何と勝手な女だったのか。まあ、今でも勝手きままであることには変わりないんだけど。そしてそんな私を見てもまた、夫も「変われ」とは強要しない。私も彼に対してそう望んだことはない。それが、相手に対する愛情であり、思いやりである。私は本来が自分勝手なので、誰とでもそれを成り立たせることができない。コヤマ君との出会いは衝撃であり、私の中で、何かがガラガラと音を立てて変わって行ったのである。

 私は、自分が壊れてしまいそうだった。コヤマ君と一緒にいて、その目を見ていると、身体が粉々になって張り裂けそうになった。だから、高校の彼に会って欲しかった。そして受け止めて欲しかった。けれど、その願いは叶わなかった。彼に連絡を入れて、会ったのだけれど、もう私の中に彼はいなかった。お互いがすれ違い、限界を感じていた。そして、私たちは話し合い、しばらく離れていようと言うことになった。

 私の心は、激動の中にいた。そんな中でも、ずっと一緒に、それこそ六年間も一緒だったよっちゃんとは、最後まで離れられずにいた。彼と別れる理由なんて、何もなかった。でもそれは、裏を返せば、どうにかしてでも一緒になりたい、という意識もまた、失われていたということなのかもしれない。

 そして運命とは渦巻きのように、グイグイと予測不可能な方向へと進んで行くのである。嗚呼、我が娘なっちんのパワー、恐ろしや。

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ここまで読み進めていただいた皆さま、本当にありがとうございます。

ここから先はけっこう盛り上がって来る予定なのですが、8月10日から22日まで、札幌帰省のためお休みします。

23日からまたアップいたしますので、どうぞよろしくお願いいたしますhappy01

なお、その期間はこちらで札幌での様子を綴ります↓

2017年8月 8日 (火)

続編十七 クラス会開催

 さあ、ここから一気に夫との進展、と行きたいところだけれど、事態はそう簡単には、進まない。それがものごとの実態、と言うもんである。

 私はこの時期、クラス会を開く。発表会直前に、何をやっているんだか、バタバタと忙しかった。

 例のマッカーサーで弾いていた時に、偶然後ろに座っていたクラスメイトのおくべえが、おい、クラス会、やろうぜ。と言ってきて、その後もしつこく言ってきたので、しぶしぶ幹事を引き受けたのである。それは、小学校六年生のクラス会であった。彼の方も一緒にやるよ、と言っていたのだけれど、仕事の忙しさに、結局、私が一人でほとんどやることになってしまった。まあ、学級委員だったし、いいんだけど。とにかく、それが六年生の旧友たちの、初めての集まりとなり、その後、その会は何度も開かれている。相当、インパクトのある仲間たちだったのだと思う。お盆だったのでちょうど帰省がてら、二十人近く集まってくれて、ものすごく盛り上がった。

 三十を目前にして集まった仲間たちは、皆それぞれの今を生きていて、それはそれは面白かった。人は大人になるものだ。会った時には顔も変わっていてびっくりするが、話していて十分も経つと、全員昔の顔に戻って見えて来るから不思議である。先生もいらっしゃって、懐かしい昔話に夢中になった。チョーク入れに死んだネズミを入れたのは誰か?だとか、おくべえをストーブの囲いの中に閉じ込めて、餌をやらないで下さい、と張り紙をした話(彼は当時、モンチッチにそっくりだった)、 もう出てくる話が全て愉快すぎて、皆、食べるのを忘れて話し込んでいた。

 結局、二次会は二時頃まで続き、幹事の私は働きっぱなしで、クタクタになったが楽しかった。チビの頃のメンバーは、何をやっても気取らなくていいもんである。ぶっちゃけ、東大卒のクラスメイトなどに、今の年収も躊躇せずに訊ける仲。そういうのって、なかなかない。昔の、アホな仲間にカンパイである。そして私は帰り道、NHK特派員をやってる男子と東大卒の男子を送ってあげたのだが、幸せな結婚をした二人は私のことを大変心配して、始終、オマエは結婚、大丈夫なのか。早くしろよ、と言われた。余計なお世話である。

 楽しかったが疲れを引きずった次の日、私は追い打ちをかけられたかのように、コヤマ君との合わせがまた入っていた。私たちは発表会のトリに、バーバーの連弾をしようと言うことになっていたのだが、これがまた難しく、なかなか合わなかったのだ。だから私たちは発表会の九月二日がやって来るまで、毎朝お店のピアノで合わせようと言うことになった。これが、私の心の中で、彼を決定的なものにしてしまう。

 音楽とは、魔物である。一緒に奏でる相手と意気投合して恋に落ちることもあれば、その音楽感の違いに決裂してしまうこともある。

 彼はとてもいい匂いがした。女性にとって、本能的に好きか嫌いかと感じるのは嗅覚である。これに逆らって頭で判断してしまうと、絶対にうまくいかない。そして彼は、大きな、ピアニストにとっては最高の手をしていて、私はその手が大好きになった。

 自分たちの結婚に迷ったら、まず、相手の手を見てみるのがいい。本当に惚れている相手ならば、その手を見ただけで運命の人だと確信するはずである。そこそこの相手なら、まずそこまで何とも思わないはずだ。私は、夫の手は私にとって別格過ぎたからハッキリと感じとることができたが、よくわからなければ、手をつないでみるといいと思う。フワーッと熱い何かが込み上げて来て、ああ、この人は優しい人だなとか、安心できる人だなとか、実は冷たい人だとわかってしまったり、何もこれは、音楽家に限ったことじゃあなく、誰でも経験したことがあると思う。一度何かの本でそんなことが書かれているのを読んだことがあったように思うが、私は、夫の手には何かただならぬ魅力を感じる。そして、ピアノに並んで座った時、本能的に、ああ、この人だなあ、と直感した。留学を決めた時もそうだったけれど、何事も直感と本能のみで生きる女である。

 私は、久しぶりに、共に音楽を楽しめる相手と巡り会い、自分の中で何かが壊れるような、幸せと苦しみの叫び声が同時に上がったかのような感覚に陥っていた。ここまで来れば、しめたもの。雲の上の天使、なっちんは、ほくそ笑むように見守っていたであろう。彼女は私たちの間に、この瞬間を逃さず、電光を落としたのだ。間違いない。

2017年8月 4日 (金)

続編十三 二十一世紀の幕開け

 二十一世紀です!二〇〇一年です!おめでとうございます。

 と、十六年後に書いているのは何だか変な気もするけれど、とにかく、輝かしい二十一世紀の幕開けであった。私は、妹のユリコと、恒例の五社神社への初詣に行く。

 ここの神社のおみくじは、恐ろしいくらいに良く当たるのである。だからこの年も、ドキドキしながら本気で引いた。去年は、「恋愛、今の人が最上。迷うな。」であったが、今年はと言うと、「恋愛、うまくいかず。願い事、二つを叶えようとすると悪ろし。」であった。う〜む、恐ろしや、五社神社。果たして私の恋の行方はどうなるのか。

 そして私は、二十九才の誕生日を迎える。三十までのカウントダウンだ。ここだけの話だが、私は三十になる日の三日前、男泣き…いや、女泣きに泣いた。年を取るのが悲しかったのではない。勉強に一心不乱だった二十代の自分に別れを告げ、まだ、仕事も恋愛も未完成なその時、三十の大台に上がってしまうことが、どうにもこうにも不安でたまらなかったのである。

 私はこの冬から、水泳にハマった。自由な時間を利用して、せっせとプールに通う。春からは収入もだいぶ安定してきて、(と言っても、想像を絶する低額だけど。)私は憧れのジムにも通い始めた。

 春がやって来るまでに、いくつかの本番もあった。マツザキさんのプロデュースで、ヴァイオリン、チェロ、ピアノとで組み、茨城と埼玉で、映画音楽のコンサートをやったりした。一緒に組んだ、ヴァイオリニストの男の子がとっても爽やかでカッコ良くて、あ〜こんな人憧れるけど、私みたいなオンナにはとうてい、ムリムリ。なんて、日記には書いてある。彼らとの合わせは楽しかった。雪の日に新宿まで出て行って、リベルタンゴを合わせたり。映画音楽とは言っても、彼らの溢れる音楽性に触れていると、時間があっという間に流れた。茨城にはちょうど友人ののらが越していたので、本番前には一泊世話になった。彼女には可愛い赤ちゃんが生まれており、ああ、私も早くこんな赤ちゃん欲しいな!と思ったのを覚えている。

 仕事の方は、春になって急に軌道に乗り始めた。また地元紙の取材申し込みが入り、大きく記事が載ったので、それを見たレッスン問い合わせの電話が新聞社にたくさん入ったのである。自分で一生懸命に作った生徒募集のチラシなんかよりもよっぽど効果があったので、何だかむなしくもなったが、まあいい。そしてこの時に入った小さな生徒たちは皆、後々までずっと交流が続き、今でも発表会や、合宿などのイベントを手伝ってくれている。そのうちのサヤちゃんは、私たちの結婚式のリングガールをやってくれて、今では立派な幼稚園の先生として働き始めている。時の経つのは、本当に早いもんである。

 この年に、私はショーコちゃんという生徒を初めてコンクールに出した。いきなり、神奈川音楽コンクールなどと、大きいものに出場させてしまったのだけれど、これは生徒共々とてもいい勉強になった。コンクールは、教える側もその特色をよく知っておかないとならないものである。その後、厚木コンクールの存在を知り、地元での挑戦に力を入れるようになっていく。

 かなコン(神奈川音楽コンクール)と言えば、私もその春、シニア部門でチャレンジをしてみている。ちなみにこのコンクールでは、後々親友になるピアニストのマリコが一位をとり、ちょうど私が帰国する直前に、オケと一緒にコンチェルトを弾いているので、私の母は彼女の舞台を聴きに行っている。彼女はその後、ドイツ留学をしているが、当時私は彼女とはまだ友達になっておらず、母親同士がご近所さんということで、仲が良かった。私はブリュッセルで、母から、マリコがベートーヴェンの皇帝を弾いた話を興味深く聞いたのをとてもよく覚えている。

 私がかなコンを受けた時には偶然一緒に、パリに留学していた友人の男の子も受けていたが、私たちは揃って落とされた。五分という短い時間内にいまいち、ピアノの具合がつかめなくて、音を出し切れなかった。これを最後に、私はコンクールに出ることをやめたはずだ。小さい頃も何度か挑戦して、予選を通過程度はしているけれど、結局、私はコンクールという場で成績をおさめられたことはなかった。向いてないな。と、薄々感づいていた頃である。もうやめよう。それよりも聴いている人たちに、喜んでもらえるような舞台を目指そう。そして自分の代わりに生徒たちを育ててあげよう。その後、本当に自分の生徒たちが入賞をするようになった時、私は心の底から嬉しかった。

 妹のユリコと、彼氏のぶんちゃんは、春に一ヶ月の欧州放浪の旅に出た。そして友人のユキからも、コンセルヴァトワールのシステムが変わり、何でも、音楽院から、ユニバーシティになるのだと聞かされる。なんだそれは。多分、外国人排除のために、音楽とは関係のない法学などの一般教養も詰め込まれたらしい。旧システムに在籍していた彼女たちはその後、無事に卒業できたはずだけれど、そうやって欧州のシステムはどんどん変わって行くのであった。もったいない。

 ユキからは同時に、衝撃の報告も受けた。なんとあの恋多き彼女が、結婚することになったと言うのだ。私はびっくりしたと共に、本当か?だとしたら、ずっこけるなよ、ユキ。と願わずにはいられなかった。そして彼女の宣言はその後、真実となる。幸せなことに、いまだに離婚の報告は入っていないので、うまくやっているに違いない。

 そのようにして、状況は着実に進展して行った。私は長らく演奏していたマッカーサーでの演奏を終え、少人数ながら発表会ができるほどにはなった生徒たちのために、秋の開催を思いつき、ピアノ付き珈琲屋で働いているであろう、コヤマ君に一本の電話を入れるのである。

2017年8月 3日 (木)

続編十二 ホームページ開設

 さて、エヴァが帰ってしまった後。 

 帰国半年後の五月にリサイタルを終え、夏休みのエヴァ来日まで駆け抜けた私は、ここで急にぽっかりとヒマになった。

 いや、正確に言うと、時間は前からあった。ヒマと言うよりも、目標を失ったのである。アレ?私は次に、何をすればいいんだ?と言う感じ。これには参った。私は漠然とした不安を抱えるようになった。

 秋になり、すっかり涼しくなる頃まで、私はとりあえず、父が買ってきたパソコンにハマることにした。ブラインドタッチの練習、メールの設定、それから、ホームページの作成。これは、その分野では得意中の得意である、高校の彼氏に教えてもらいながら、頑張って自分で立ち上げた。マニアなフロントページソフトを使って、一から作るので本当に大変だった。十一月二十六日。記念すべき、我がホームページの開設である。その後、少しずつページを増やしながら、リニューアルを繰り返して、現在へと続いている。

 まだブリュッセルに残っていた友人のユキとも、連絡が取りやすくなった。その頃彼女も、現地でネットを始めていたのである。世界が急に近くなり、ネットワークは広がった。そしてそんな中、友人ののらは赤ちゃんを身ごもり、先輩のアキカさんからも、結婚の報告が届く。彼女は日本で出会った彼と結婚したのだけれど、お二人の幸せそうな葉書に、私は嬉しくなった。

 一方私は、お見合いの君とこの頃、別れている。彼とはエヴァが帰った後、メールや電話だけとなっており、二ヶ月ぶりに会ってみたのだけれど、やっぱり私はこの人と結婚することはできないと確信したのだった。なかなか別れられなかったのは、彼がとても気のいい人だったので、いちいちタイミングを逃してしまっていたからである。最後の最後に、彼からは、私の結婚直前の演奏会の時に、大きな花束が届いてびっくりした。万歳、と書いてあった。それっきり、彼がどうしているかは、わからない。どうか幸せに暮らしていて欲しい。と、遊び人の男みたいに勝手なことを思う。

 十月下旬には、夫の師匠の演奏会を、表参道まで聴きに行った。

 そこで私は連れて行ったよっちゃんを、初めて夫に紹介している。

 ああ、早く身を固めたい…と思ったのを覚えているのだが、その帰りに私は高校の彼とも会っていて、罪悪感に襲われる。この頃はまさに、私生活の方でも目標が定まらず、二人の彼の間で揺れ動いている絶頂期であった。仕事も、プライベートも、半端な時期。でも、リサイタルのマネジメントをしてくれたマツザキさんは、新しい演奏の仕事をくれたり、ホルンの先輩からも伴奏の仕事を頼まれたり、また甲府での演奏が入ったりと、音楽活動はぼちぼち進んでいた。

 私の二〇〇〇年の秋は、そのようにして過ぎて行った。そして年末。

 その頃の私には想像もつかなかったのだけれど、新しい世紀と共に、私の生活もガラリと変わろうとしていた。二十一世紀は、まさに古き良き時代から、全く新しい時代への幕開けとなった。

 私の生活は、のらくらと前に進みつつも、確実に今に向かって歩み出すのである。

2017年8月 2日 (水)

続編十一 エヴァ来日

 二〇〇〇年、八月十五日。ベルギーから一人、飛行機に乗って、十才のエヴァがやって来た。彼女は毎夏、スタージュ(合宿のようなもの)に各国へ行っていたから、一人旅には慣れっこである。添乗員さんに付き添われて、長いフライトを存分に楽しんだらしく、元気一杯にゲートから顔を出した。

 私よりも背が高くなったエヴァは、ずいぶんお姉さんになり、いっそう可愛らしくなっていた。が、中身は全く変わっていなかった。図体がデカイし、顔立ちも大人びているので、はたから見ると十五才ほどに見えるが、始終後ろからケリを入れてきたり、よっちゃんに肩車してもらって大はしゃぎしている彼女は、周囲の人々をギョッとさせた。異様な目で見ているおばさま方に向かって、よっちゃんは「いやぁ〜、この子、まだ十才なんですよ〜。」と言ってまわらなければならないほどであった。こんなにおてんばで、やんちゃ盛りのエヴァだったが、彼女が実際十六才頃になって再会した時には、もうすっかり落ち着いてしまっていたので、何だかホッとしたような、寂しいような気持ちになったものである。

 とにかく、彼女に「時差ボケ」などと言う文字はなかった。

 暑い日本にもめげず、夏バテなどにも縁がなく、はしゃぎどおし。見るもの全てが物珍しく、日本の街並みは美しい!と叫んでいた。そうかな?ヨーロッパの方が、景観は素晴らしいのに。そして、コンビニに入っては、Oh〜!エアーコンディショネ!(エアコンのことね)と言って感動し、駅でティッシュ配りの人を見てスルーする私を見ては、「その方がいい。どうせ、お金を取られるからね。」と言って偉そうに頷き、タダだよ?と教えてあげると「何故もらわないんだカオル!」と言って、いっぱい受け取りに行っていた。

 エヴァはほとんど我が家に泊まることになったので、私は彼女が来るまでの間、実家の片付けに必死だった。七月は、たいていが片付けとリフォーム作業に追われた。エヴァの寝る部屋にもベッドを置いて、整えてやらねばならなかった。そんな忙しい私に、高校時代の彼は寂しん坊となり、それからお見合いの君とはこの頃すでに、かなりご無沙汰となっていた。高校の彼には一度、プロポーズしてもらっているのだが、なんやかやと誤魔化してしまった。申し訳ない。彼とはケンカが大変多く、仲良しの時とそうでない時のギャップが激しかった。だからちょっと、躊躇してしまっていたのが本音である。

 カンのいいよっちゃんには、「ちょっとカオルちゃん、ウワキしてる場合じゃないよ!二年後、結婚するからね!」と言われて、超驚いている私。すげー。やっぱりこの人、ただものじゃないな。まあ、私がわかりやすいんだろうけれど。でもとにかくその夏は、エヴァの接待で、よっちゃんとガッツリ、スクラムを組んだ。私の両親とユリコはエヴァを大変可愛がり、ユリコの彼氏であるぶんちゃんと、その妹のトモちゃんとも、エヴァは大の仲良しとなった。トモちゃんとは年も離れているのに、まるで大親友のように、日本語とフランス語とで会話をしていた。

 一度、草津に、みんなで旅行に行ったのだけれど、この時、私の父とよっちゃんの折り合いが悪く、散々な結果になった。どちらが悪いわけでもなかったが、大ゲンカとなってしまったのである。まさに、性格が合わないとは、このことである。でもそんな時も、エヴァとトモコは一向に構わず、二人で辞書を見ながらクスクス笑っていた。

 エヴァは体力が有り余っていたので、毎日いろいろなところに連れて行ってやった。大山でケーブルカーに乗って滝を見たり、水族館に行ったり、隅田川の花火大会に行ったり。浴衣を着せてもらって大喜びし、書道をしたり、百円ショップでたくさんお土産を買い込んだりしていた。彼女はおてんばだったけれど、本当は美味しくない食べ物を「美味しい」と言って気を遣いながら食べたりする、ちょっと大人びたところもあったりした。ヨーロッパの子どもらしい、気配りである。「実はね、カオル…」と言って、後でそっと教えてくれた。でも、我が家で食べる料理はどれもお気に召したようで、特にお米が大好きで、上手にお箸を使いながら、美味しそうによく食べていた。

 よっちゃんと私は、最後に、エヴァがどうしても見たいと言っていた相撲の稽古場に連れて行ってあげたのだけれど、それはそれは大喜びで、前日の夜は興奮のあまりに一時頃まで寝なかった。朝稽古の見学だったのだけれど、その間、彼女の目は輝きっぱなし。いいお土産になって良かった。そこでご馳走になった、ちゃんこ鍋がまた美味しくて、その後、お相撲さんと一緒に写真を撮ったり、サインをもらったりして、彼女は大満足であった。

 最後の夜、彼女は私と、暗い天井を見つめながら、布団の中でこっそりと語り合った。また、エヴァが二十歳になったら日本へおいで。その頃はもっとお姉さんになっているだろうから、京都へも行けるし、きっともっと違った目で楽しめると思うよ。そう言うとエヴァは小さな声で、「Oui(うん)」と言い、日本から帰りたくない、と言った。

 可愛いやんちゃなエヴァは、二週間ほど滞在して、八月三十一日、またあの寒いブリュッセルへと戻って行った。その間、帰りたくないと言い通しであった。

 が、我らは、彼女という台風が去った後、やって来た静寂の幸せを噛みしめながら、よっちゃん共々、ノックアウトした。相当疲れた。彼女がいなくなったのは寂しかったが、それでも自分のペースで動けるのが、こんなに幸せなことだったなんて。と、日記には書いてある。それほど、激動の二週間、やんちゃなエヴァの滞在であった。何年か後になって、我が娘、女王なっちんがこの世にやって来てからは、再度、いかに今までが自由な時間だったのかと、痛感させられることになるのだが。

 エヴァに次に会うことになるのは、夫と一緒に行ったベルギーでとなる。二度、渡欧しているから、彼女が十一才の時と、十六才の時だったと思う。

 今はもう、彼女も二十六、七。ずいぶん会っていないが、美しくなっているに違いない。そして多分、彼女は両親と同じように、医学の道を志しているはずである。たまにメールをするが、カオルはいつ、ヨーロッパに来るんだと言われている。お父さんのオリビエは、その後ベンチュラと離婚し、直後に傷心の旅で来日して、私と夫の新居に泊まりに来ている。ベンチュラといえば、新しい夫と最近、日本へ遊びに来た。

 そのように、実に自由なヨーロピアンスタイルの、エヴァ一家。

 彼女が去ってから、私はホッとして、今度は逆にヒマになり、何だかものすごく悩むことになってしまうのである。

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上、十歳のエヴァと。
下、現在のエヴァとオリビエ。
Eva

2017年7月29日 (土)

続編七 新しい恋と、新しい仕事探し

 この頃私は、とっても楽しいが勘が良く、嫉妬深〜いよっちゃんと、とても優しいけれど決定打に欠けるお見合いの君との間で揺れ動いていた。そして時は本番前の不安定な時期。現実逃避するにはうってつけの条件が揃っていた。そこへポンと飛び込んだ新しい風。私は足元からグラっと持っていかれたわけである。

 あくる日、高校時代の彼とどうしても喋りたくなり電話をかけると、彼はパチンコ屋にいた。

 「お〜、今、オマエの携帯代、稼いでるとこ。」

 と彼は爽やかに言った。ズキュ〜ン。何だか、めちゃめちゃ嬉しかった。そして思わず私は、デートを申し込む。桜木町へ行って、夜の散歩をした。暖かくて、本当に気持ちの良い夜だった。

 日曜日には、一日彼とデートをした。と言っても、携帯を買いにである。私はついに念願の携帯電話を手にする。これは便利な反面、この先、色々なオトコたちから一斉に電話がかかってくるようになり、非常にうっとおしいものにもなってくる。別に、ただの男友達からなのだが、着信が入ると、その時に一緒にいた彼氏たちの機嫌が悪くなるのだ。なんてめんどくさいんだろう。いや、オマエが悪いんだ、と言う声があちこちから聞こえてきそうだが(その通り。)でも、束縛を思いっきり嫌う私としては、面倒臭いこと、この上なかった。

 高校時代の彼とは、一緒に夜の高校に忍び込み、夜桜を見たりして楽しんだ。桜!私はこの時期に帰国をすることはなかったので、実に五年ぶりの桜であった。感動だった。夜桜は闇の中に白く光り、夜風が優しく包み、日本の春は何て素晴らしいんだろうと思った。

 そして私は、リサイタルまでの一ヶ月を、ほぼ毎日のように誰かしらとデートしながら、うまく気分転換をして過ごしていた。日記を読み返すと我ながら浮かれ飛んでいる自分に、もっと練習をしなさい、と言いたくなる。でも多分、それが良かったんだろうとは思う。朝から晩まで部屋にこもって、暗く練習ばかりしていたらきっと私はウツになった。そして多分、楽しい演奏もできなくなった。アンリオ先生の言う通り。音楽には、恋が必要である。私に振り回された、相手の男性方には申し訳なかったけど。

 そんな日々の中でも私は要領よく練習をこなし、そして仕事のことも忘れなかった。

 音楽教室に落ちた私は、生徒を集めるために、リサイタルチラシを同封して、市内の全幼稚園宛てに手紙を書いたりして、降園後のピアノ教室の幼稚園導入の売り込みもした。これは一つも効果がなかったのでガッカリしたけれど、思いついたことは片っ端からチャレンジしていた。

 私のリサイタルのチラシを見て、取材を申し込みに来た地元紙の記者とも仲良くなる。地元紙は常にネタを探しているので、私はあちこちから声がかかった。大学の要項にも留学した卒業生の声として載ったりしたけれど、大学には使われてばかりで、仕事には落とされていたので少々腹も立っていた。

 けれど地元紙の影響力は大きく、大々的に記事が載ったことで、生徒の問い合わせが何件も入ったのには驚きであった。別に、生徒募集で載ったわけではないのに、新聞社に問い合わせがたくさん来たそうである。こういうのって、大きんだなあ。などと感心したりしたものだ。

 時は四月半ば。リサイタル一ヶ月前を切った頃から、さすがの私もマズイと思い始め、ここから本腰を入れて練習を始めている。

 私の、帰国後の勝負は、五月十日のリサイタルにかかっていた。これだけ遊んでいて、演奏の方もサッパリであったらもう、全然説得力なんてない。たくさんチケットを売ってくれたコヤマ君たちの顔に泥を塗らないためにも、いい演奏をしなければ。

 そしてリサイタル当日は、ある意味友人たちや、私の男友達やら恋人やらの集結の場にもなったので、別の意味で、母は一人、ハラハラしっぱなしであった。申し訳ない。

2017年7月26日 (水)

続編四 高校時代の彼、そして夫たちとの飲み会

 私が帰国した一九九九年から二〇〇〇年にかけては、通信網が目覚ましく進歩している時代であった。インターネット、携帯電話。古いポケベルに代わり、メールが世間に普及し始めていた。携帯は、その軽さとコンパクトさを競い、NTTドコモが圧倒的に支配していた。今ではいわゆるガラケーと呼ばれてしまうやつが、一世を風靡していた時代である。

 私は半年間、携帯を持たなかった。でも、友人たちとはマメに連絡を取り合っていたと思う。女友達はじめ、男友達とも例によって、よく飲みに行ったりした。この時私は、よっちゃんとはもちろん、お見合いの君とも、なんとなく続いて付き合っていた。私は結婚のことよりもまだ、仕事と演奏活動に頭が一杯であったのだが、どちらもまた、性格のいい人たちだったので、別れられなかったのである。まわりはこんな私を見て呆れていたが、私にとっては、多くの女友達と付き合うのと同じような感覚であったように思う。言い訳だけど。そんな中、昔から付き合っていた、高校時代の同級生ともたまに、会って話すようになる。

 彼とは高校二年〜三年くらいの時に少し付き合っていて、その時は私の片思いに近かった。しばらくして私には他の彼氏ができたのだけど、その後もずっと、いい友達として残った。ブリュッセルへ行っている間も、たまに連絡を取り合い、一時帰国の時もよく会っていた仲である。いわゆる、つかず、離れずと言った感じの間柄。

 年末はよく、彼と会って話をした。彼はとても頭の切れる男だったので、よっちゃんにも、お見合いの君にも話せないようなことを相談に乗ってもらったりしていた。同級生というものは、ケンカも多いが心の落ち着くものである。混乱させると申し訳ないので説明すると、留学時代に一度、イギリスから遊びに来てくれた彼ではない。その彼とは高一の時に付き合っていたわけなので、この彼とはまた違う人物である。ちなみに、イギリスからチャリでやって来た彼氏は北京の彼(東北の彼)なので、これも違う人物である。もうなんだかサッパリわかんないと思うけど、まあいいとして。

 年末は、リサイタルでお世話になるマツザキさんともよく会い、打ち合わせをしながら、着々と演奏会の準備を進めていた時期でもあった。そして、ピアノ愛好サークルの部長であり、現在の夫である、コヤマ君たちとも飲んだ。学祭の打ち上げに出席できなかったので、今度こそは約束を果たそうと思っていたのである。

 その時はパリから友人のエミコが一時帰国しており、彼女も誘って飲み会に出ている。その時に夫から、「ミヤっさん、彼氏いないんですかぁ」と、鋭い目でズバリ訊かれたのが印象的であった。彼はそうやっていつでもポーカーフェイスで、ここぞと言うタイミングで話の核心に迫る癖があった。夫を知らない人にイメージを与えてあげるならば、彼はちょっと、イチローとiPS細胞の山中教授を足して二で割った感じの風貌である。

 そしてサークルの学生たちの中には、今も仲良しな後輩たちがたくさんいて、おかげさまで私のまわりは年下ばかりだが、その中でも後輩のなみっちは、いっとう泥酔していて、居酒屋の鍋に信じられないくらい色々な調味料をごたまぜにし、帰り道では駅前の広場にて「雅子様、ご懐妊〜!」と吠えていた。ちょうど、皇室の雅子様が身ごもられた時期ですね。懐かしい。

 十二月は、そのようにして過ぎて行った。クリスマスイヴの日、猫のプーすけは、しばらく住み着いていたよっちゃんの家から、我が家に越して来る。私は、各種イベントの時には彼氏とでなく、一人で過ごすことに決めていた。そして大晦日。私は妹のユリコと近くの五社神社へお参りをし、おみくじを引いたその中身には、

「恋愛…今の人が最上。迷うな。」

 と書いてあった。一体今の人が誰なのか、サッパリわからない、その年の私。

 一九九九年も無事に終わり。ノストラダムスの不吉な予言も当たらなかった。そして気分も一新、新しい年が始まろうとしていた。

2017年7月24日 (月)

続編一 まえがき

 ピアニストMama♪ 留学白書 続編 まえがき

 

 これまでず〜っと私のヘタクソな文章にもめげず、留学記を読んでいただいた皆さま、どうもありがとうございました。

 ここからは私の、帰国後の出来事になります。留学して帰って来たら、まさに浦島太郎。自分の国であるのに、何だか新しい場所のような感じで、誰もが戸惑い、困惑しながらのスタートとなります。

 本当は、留学生活四年間のみを書こうと思って始めたことでありますが、そこで終わると何だか尻切れとんぼのような気になってきました。

 だって、留学後の話は、本当に面白い。

 本当に、真っさらな、一からの紙芝居の始まりと言った感じで、その生活が落ち着くまでに、留学生たちは皆、めちゃくちゃ苦労をします。

 まずは、仕事探し。ぶっちゃけ、ヘタにプライドだけは高くなっちゃってるもんだから、なかなかこれが、決まらない。日本ですでに活躍している数々の友人たちが羨ましくて仕方がない。自分はどうして行こうか、悩みもだえる。

 それから、住処探し。

 今までは自由きままな一人暮らしで(まあ、私は後半、二人暮らしだったけど。)自由に音楽をやり、好き放題に生きてきた。それがいきなりまた、親元でのスタートである。これは、誰もがうなずくと思うけれど、双方かなり厳しい現実となります。早く自立したいのに、お金もない。仕事もない。このジレンマ。中にはそのまま、実家に居着いちゃうタイプの人もいるとは思いますが、私は一刻も早く、独り立ちしたかった。きっと母たちも、そう願っていたと思う。

 そんな、決して順調ではない帰国後の生活について、またもや暴露しつつ、夫と付き合い出すまでの激動の二年間を、少しだけ書いてみたいと思っております。

 それでは、軽〜くお楽しみ下さい。続編おまけ、ピアニストMama♪ 帰国その後です。
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