仕事、演奏

2017年8月 7日 (月)

続編十六 珈琲屋での演奏会

 暑い暑い、梅雨明けの七月。

 私は、実家の庭で、トマトの栽培に追われていた。暑くてピアノをさらう気になれず、伸びるトマトと格闘しながら、プールに行ってリフレッシュしていた。ああ、何て呑気な午後。トマトまではいいけど、平日プールなんか行って泳ぐことなど、今はなかなか出来ない。時間があるって、素晴らしいことである。

 それでも時間はたっぷりある、と思っていたのに、気が付いたらもう、演奏会の時間になってしまった。七時より、珈琲屋へ。その日は後輩のコヤマ君らの演奏会であった。ヴァイオリンに、歌に、ピアノソロ。誰が演奏したのかは忘れたが、はっきり言って、ピアノソロ以外は全然よくなかった。

 コヤマ君はこの時、バッハを弾いたのだけれど、すごく上手くて感心した。私にはなかなかあんな風に、整然としたバッハが弾けない。彼の中には理性的ながらも、内に秘めた芯の強さと、遊び心が音楽の中に流れている。感心したと同時に、私は彼の音楽をすごく大事にしたくなってきて、「良かったよ!」と言って、ポケットに千円札を一枚、押し込んだ。え〜、いいよいいよ。と彼は言ったけれど、結局嬉しそうに受け取ってくれた。確かこのコンサートは、感動した分だけを寄付するような催しで、空き缶が置いてあったような気がするが、私は、気に入らない他の演奏者には渡すもんかと思い、直接彼に受け取って欲しかったために渡したんじゃないかな、と思う。

 その日、確か演奏会が終わってから最後に余興として演奏をしていた、モリ君と言う男の子にも出会った。背の高い、一九〇センチはあるであろう、ハンサムな彼。彼の奏でる音楽もまた、異色で、独特の音色を放っていた。実に繊細な演奏家であり、ユーモア溢れる会話の持ち主である彼とはその後、大変仲良くなり、今でもホームパーティーの時には一家に一台的な存在である。そう考えてみると、本当にこの珈琲屋さんでは、たくさんの貴重な出会いがあったものである。今はもう閉店となり、最近さら地になってしまったのが惜しまれるところだ。

 さて、この日を境に、私の心の中には、音楽を愛するピアニスト、コヤマ君が少しずつ宿るようになった。高校の彼と会っていても、何となく落ち着かない。さすがに、大御所であるよっちゃんといる時はそうでもなかったが、夢の中によくコヤマ君が出てきているから、やっぱりその存在感は日に日に大きくなってきていたのである。彼はよく私にメールをくれて、これから仙台へ一人旅するんだと言っては、楽しそうに報告をしてくれた。

 でもそれはまだ、私にとって彼は、弟のようにフワフワと心地の良い存在で、恋愛対象なのかどうかは全く確信が持てなかった。そして彼の方も後日、「ミヤっさんて、お姉ちゃんみたい。」と言っているから、多分お互いに同じように思っていたのだろう。実際、彼の一番上のお姉ちゃんと私は同じ誕生日であり、初めて彼の家族に紹介してもらったのも、偶然こちらに仕事で来ていたお姉ちゃんにであった。私は彼と結婚することになり、仲良しの四人姉弟と家族になれたことも、とても嬉しかった。

 私が彼のことをはっきりと意識して、惚れていると自覚してしまったのは、それからまもなく、発表会直前の連弾合わせをした時である。それは私にとって、衝撃の一矢であった。私は思わぬ心の展開に動揺する。そして、私のことなど何とも思っていないであろう、年下の彼に、取って食われるような恐怖心を抱かせることになるんだと思う。たぶん。

2017年8月 6日 (日)

続編十五 ラローチャの演奏会

 二〇〇一年、六月十日。私は、アリシア・デ・ラローチャの、時の記念コンサートに出かけた。もう、ウキウキだった。

 彼女の演奏会は、大学一年の、まだ何も音楽についてわかっていなかった頃、友人と一緒に聴きに行った以来である。でもその時は確か、ベートーヴェンプログラムであった。そのため師匠てっちゃんに、「彼女のベートーヴェンねぇ…。やっぱりラローチャは、スペインものじゃないとねぇ。」と言われたのを覚えている。でもその頃の私には、一体どうしてベートーヴェンじゃあダメなのか、演奏を聴いてみてもサッパリわからなかった。それから私はブリュッセルで、スペインもののグラナドスを勉強し、それが十八番であるラローチャの演奏をCDで聴いて、ようやく彼女の素晴らしさがわかり、大ファンになっていたのである。

 彼女の演奏会は、後に夫と一緒に、日本公演さよならコンサートへも行ったが、それが本当にラローチャの最後の演奏となってしまった。最後の舞台は、彼女らしい、温かいものであったけれど、もう八十を越えてずいぶんお婆ちゃんになっていて、ステージで倒れちゃうんじゃないかとハラハラした。でもパワーは失ってはいたものの、半分あの世に足を突っ込んでる境地に達した演奏はまた素晴らしくて、涙が出た。そして二〇〇一年のコンサートでは、まだいくらか彼女は元気で、若々しい演奏だったと思う。

 私はよっちゃんに、九千円の席を譲ってもらい(席が離れていたのだ)、聴く前からワクワクを隠せずにいた。

 彼女が舞台に現れた時、何て小さい人なんだろう!と驚いた。昔聴いた時は、後ろの方の席だったので、わからなかったのである。身長は、一四四センチくらいしかないと言う。手も、オクターブがやっと届くくらいしかない、小さなピアニストだ。それなのに彼女の演奏は、その容姿まで大きく見せるほど偉大であった。

 ダイナミックな演奏ではない。テクニックで圧倒させるわけでもない。ただただ、ひたすら、音楽を愛した、純朴な演奏。温かい音。多彩な音色。余計なものの、何もない、素晴らしい演奏であった。私は聴いていて涙が溢れた。どうしてこんな演奏ができるのだろう。彼女の中に、詩が流れているのだ。私、聴きに来て良かった。よっちゃんありがとう。

 この時のプログラムを今、必死に思い出そうとしているのだが、どうしても思い出せない。でもスペインものを弾いてくれたことは、確かである。やはり、大物の演奏会には、定期的に行かなければダメだ。音楽の真髄に触れて、そこに手を伸ばせば届きそうな気持ち。今、よく夫が「もしも宇宙が滅びても、音楽だけは残って欲しい」と言うけれど、本当にそう思う。私は音楽にたずさわることができて、幸せだった。そして、共に音楽を愛する人と出会えたことも。

 ラローチャの演奏会が過ぎ、七月もまた、音楽会は続く。

 私は珈琲屋で開かれた、コヤマ君たちの演奏会を聴きに行く約束をしていた。

2017年8月 1日 (火)

続編十 マッカーサーでの演奏

 厚木のショットバー。知る人ぞ知る、昔っからある掘っ立て小屋、マッカーサーギャレッジである。

 私は音大生の頃、そこでバイトをしていた。そこにはマッカーサー元帥が乗ったキャデラックや、グランドピアノが置いてあり、たくさんの若者たちが集っていた。昔はもう少し大人っぽい場所だったと思うが、今は本当に、若者たちのたむろう場所と化している。

 そこの社長がなかなかの気まぐれ屋で、普段はジャズバンドが生演奏していたのだが、急に何を思いついたのか、クラシックピアノを演奏してくれ、と言い出した。そこで私のことを思いついた、という訳である。週に二、三回。夜六時か七時から、十一時半くらいまで、何ステージかに分けての演奏だった。ギャラは六千円。安いが、仕事のない私は何でもやる勢いだったので、二つ返事で引き受けた。「今日の演奏」と言って、外には黒板が立てかけられたので、私の名前も書かれた。面白いことに、それをフラッと通りがかったコヤマ君はしっかりと目撃していて、ミヤっさんも食ってくのに大変だなァ。なんて思っていたそうである。

 ここでの演奏は、一年くらい続けた。そのうち気まぐれな社長は、今度はDJバーにするからと言って、クラシックはおしまい。ということになったのである。ここで演奏することについては、よっちゃん始め、高校の彼なども最初は猛烈に反対をしてきた。仕事が来て喜んでいた私としては、びっくりした。なんだそりゃ。夜に、ショットバーでやるって言うのがそんなに嫌なんですかい。私が素直に言うことを聞く訳がないので、そんなことはスルーして仕事に出た。結局、家の遠いよっちゃんは一度も聴きに来られなかったけれど、地元である高校の彼なんかは、友達を引き連れて応援に来てくれたりしている。本当に、たくさんの友人たちが、飲みついでに聴きに来てくれた。偶然、後ろの席に座ったカップルが、小学校時代の同級生だったりもして、それをきっかけに、クラス会をやろうと言うことにもなる。

 演奏中にアンリオ先生の訃報が入った日は、動揺を隠しきれず、それでも演奏しながら、想いを込めて先生に捧げた。

 マッカーサーでの演奏は、楽しいことも多かったが、やっぱり私にとって、夜遅くまで演奏をするというのは体力的にキツかった。一年経って、そろそろ終わりと告げられた時はホッとした。その頃は生徒も増え、他の演奏活動も入っていたりしていたので、ちょうど良かったのだ。

 石の上にも三年、と言うが、日本に帰って三年も経つ頃には、私はモーレツに忙しくなっていた。その前後、本当にいろいろなことがあった。夫と暮らしてどうしても生活のためにお金が必要になり、毎朝配達の仕事をやった時もある。お金には本当に、始終苦労させられたが、こうして今思い返すと良い思い出だ。人生、山あり谷あり。常に修行。金よりも、愛と冒険である。

 そういうわけで、リサイタル後の私はボヤボヤしている暇などなかった。

 そしてその夏には忘れられない出来事、十才のエヴァの来日がやって来る。

2017年7月31日 (月)

続編九 コンクール、コンクール

 さて、無事に帰国リサイタルが終わってからというもの、私はホッとしてなどいられなかった。終わってからの一週間は、本当に早い。ウッカリすると、一日分くらいの勢いで過ぎてしまう。翌日からは、山のような花束の整理、そして片付け、来て下さった皆様へのお礼に、礼状書き。これで三日は過ぎる。終わったその日は興奮して眠れないから、疲れがやっと癒えてくるのは、三、四日を過ぎたあたりからである。

 ピアノをまともに再開することができたのは、十日後だった。私の次の目標は、浜松の国際コンクールである。それから、新しく出来たトッパンホールのこけら落としの演奏家募集にも応募した。これには、三百五十六名の応募者のうち、三十九人の中に残り、テープ審査が通ったのでびっくりした。確かその後更に十二名の中に絞られたように思う。お見合いの君は自分のことのように喜んでくれて、私は感激した。反対に高校時代の彼は、同級生の定めなのか、ライバル意識をむき出しにして、へえ〜、すごいじゃん。くらいにしか言ってこない。彼は、リサイタル終了後、私に対して少し刺々しくなっていたから、ヤキモチを焼いていたのかもしれない。よっちゃんはというと、合格通知を告げると、おぉ〜?それはそれは!と、大笑いをしてひょうきんに喜んでくれた。皆、個性それぞれである。

 リサイタルに来られなかったのは、残業で抜けられなかったお見合いの君と、確か海外にいた東北の彼もそうであったのだけれど、東北の彼は何週間か後にタイから帰って連絡をくれて、久々にデートをしている。彼からは相変わらず、仕事に対する自信に満ち溢れる話を聞かされて、楽しかった。けれどもう、今となっては私たちは、お互いに別々の世界へと歩み出していた。残る気持ちは、お互いを応援する心のみ。こういうのもまた、いいもんである。彼にはその後、よく恋愛相談にも乗ってもらった。結婚した日には連絡を入れ、心からお祝いしてもらったのを覚えている。

 コヤマ君にも誘われて、珈琲屋の演奏会に出たりした。コンクール用の曲を披露してきたのだ。そして彼もピアノを弾いている。彼はとてもいいものを持っているのに、埋もれてしまうのはもったいない、と日記には書かれている。純粋に音楽を愛し、毎日地道に、生きるための努力をしている人。私は結局のところ、そんな夫に惹かれたのだ。やはり、音楽をやっている身としては、同業者であり、音楽を知り、愛している人が一番安らいだ。まあ、後日談なので、それは置いといて。

 私は色々なコンクールを探しながら、少しずつチャレンジをしていた。浜松国際には、よっちゃんにぜひ見せてあげたくて一緒に行ったのだけれど、ヨーロッパのそれとは違い、コンクールの雰囲気は全然面白くなかった。私はモーツァルトのソナタと、ショパンのバラードを弾いたが、体調もイマイチで、パッとしない出来であった。結果は、もちろん不合格。やっぱりな、という感じ。審査員の中村紘子さんに会えただけで想い出に残った。コンクールとは、スポーツだ。しかも、短距離走である。

 トッパンホールのオーディションは、その一週間後。この日はコンディションも良く、順調だったのだが、行き先を間違えてまさかの遅刻。心中慌てているし、たまたま一緒の受験者だった女性はべらべら喋りかけてくるし、集中したいのに、散々だった。でも、本番はなんとか自分らしく弾けて、一箇所ミスって飛んでしまって悔しかったところを除けば、プーランクもバーバーも、リサイタルの時よりも落ち着いた演奏が出来たように思う。

 弾いたあとに質問を受けたのだが、「バーバーと、プーランクの音色は、変えますか?」との問いに、私は面食らってしまった。どう応えたのかは、全然覚えていない。そりゃ、変えたいと努力はします、とでも言ったのだろうか。結果は、残念ながらこれまた不合格であった。しかし私は予想が出来ており、次行ってみよ〜、次!と、前向きである。コンクールなんて、そんな気持ちでなかったら、やっていられない。そして反面、コンクールって結構面白いな、という気持ちも出てきていた。手応えはあったし、他の演奏者を聴いていても、自分も引けを取っていないぞ、と思えたからだ。

 そして、友人ユキから国際電話をもらい、ブリュッセルでも無事に今年の試験が終わり、何でも今年は厳しくて、あんなに上手なキボウちゃんが落第し、ユキたちは満場一致で合格したことを知らされる。

 本当に、音楽の世界とは深く、厳しく、そして面白いものである。

 私はぼちぼち日本での活動が増し、そんな中、私が以前バイトをしていたショットバーからお声がかかり、夜のステージで演奏をしてくれないか、という話をもらうのである。

2017年7月30日 (日)

続編八 帰国リサイタル

 二〇〇〇年、五月十日、水曜日。

 その日は記念すべき、帰国して第一発目の、リサイタルの日であった。さすがの私も、前日までは遊ばなかったらしい。体調は良く、コンディションも万全であった。後輩のコヤマ君からも前夜に連絡が入り、彼が珈琲屋でバイトを始めたことを知る。そこはグランドピアノが置いてあり、音楽仲間たちがしょっちゅう演奏会などを開いている、いわばアーティストたちの集うサロンと言っても過言ではないような、居心地のよい場所であった。昔、白いアップライトピアノが置いてある頃から私は知っていたので、コヤマ君がここで働き始めたと聞いて、なんだか嬉しかった。私も働こうかな〜。なんて、日記には書いてある。

 さて、帰国リサイタル当日。

 私は前夜から不安で眠れず、汗をかいたり、暑くなったり寒くなったりで体調も下降気味であった。うとうと状態で昼前に起き、三時に文化会館へ。家で待機する時間が一番辛かった。それに体力は夜までとっておかねばならないし。

 会場に着くと、スタッフや調律や録音の方たちがもういらっしゃっていて、雑用をやるうちに気も紛れる。調律は素晴らしく良かった。そして、よっちゃんがスーツ姿でお花を持ってやって来る。ハッキリ言って、惚れ直した。開演までずっとそばにいてくれたのは、とても嬉しかった。

 六時になると、母と妹のユリコもやって来る。父は来られなかった。私のお見合いの君に会場で会うのがどうのこうの、と言って、辞退したのである。まわりはそんな父を見て、どうして娘の晴れ舞台に行ってあげないの、としきりに言っていたが、我が家族と私は、音楽に疎い父を知っているせいか、ぜ〜んぜん何とも思わなかった。

 肝心のマネジメントであるマツザキさんはというと、渋滞に巻き込まれて六時半のギリギリセーフであった。ホッとする私。お客さんは開場時間前ですでに二十人近く、そして開場してからは、階段の下まで行列が出来ていたらしい。ものすごいプレッシャー。あっという間に七時である。五分前の、ベルが鳴る。興奮と、恐怖とで卒倒しそうな音だ。

 ああ、今夜は、成功するのも失敗するのも自分次第。自分一人に、かかっているのだ。一人きりなのだ。と感じていた。こうして書いている間にも、めちゃくちゃ緊張して心臓がバクバク鳴っている。本番とは本当にいつだって、舞台裏ではまさに断頭台に上る心地なのである。

 開演、五分押し。ドアが開いて、ステージに出る。客席からの割れんばかりの拍手に包まれた時、私は、何て温かい拍手なんだろう!こんなに温かい雰囲気の会場で弾いたことは一度もない。と思った。そして卒業試験の時も感じたのだけれど、我が亡き師匠、てっちゃんの存在をふと、感じた。先生が聴きに来てくれている。私はリサイタル直前に、先生のお墓まいりに行って、応援して下さいと頼んでおいたのだ。ありがとう先生。先生が来てくれたのはこれが最後で、その後の演奏会には一切感じなかったのが不思議である。そしてみんなの温かい応援の気持ちがひしひしと伝わって来た。私は舞台に出たとたん、涙が出そうになってしまった。ありがとうみんな。私、頑張って舞台をやり遂げるよ。すでに感動で倒れそうになる自分を抑えながら、シンと静まりかえる会場で、意識をピアノ一点に集中していった。

 弾いている間は、二人の自分がいた。

 客観的な自分と、集中している自分である。幽体離脱しているような感覚。

 モーツァルトはとっても怖かったので、一楽章は身体が硬くなってしまったが、二楽章からは徐々にほぐれていった。楽しんで、綺麗な音を響かせるように。天真爛漫なモーツァルトの魅力が、出ますように。

 続くスクリャービン、プーランク。

 この辺りはお得意路線なので、ようやくフォルテも出せて、ピアノも鳴り始める。プーランクのトッカータはもう少し落ち着いて弾けたら良かったが、前半はあっという間に終わってしまった。休憩。初めて一人きりでリサイタルをやってみて、本当に、自分一人で持つステージというのは、体力と集中力の勝負だと知る。幸い、この日は体調が良かったので、最後まで失速せずに乗り切ったが、後ほどの演奏会では、後半に体力が全然残っていなくて辛い思いをしたことも何度かある。

 後半ステージ。いよいよバーバーのソナタだ。

 これが無事に終わってくれれば。私は祈るような気持ちと、闘志に燃えた心持ちで、再度舞台に出た。拍手。重々しく貫禄のある一楽章。コロコロと高音をもて遊ぶかのような、二楽章。そして緩徐楽章である、謎めいた三楽章。ここまで、集中してうまく行った。さあ、問題の、フーガである。ブリュッセルでも散々弾かされた、あの飛び切り恐ろしいフーガ。行くぞ。私はテンションを大幅に上げて、自分の集中力との勝負に挑みにかかった。

 落ち着け。心の中で、必死にテンポキープしながら、鍵盤に指を走らせる。私には会場の奥まで鳴らせるような、フォルテッシモが欠けている。でも、なんとか、綺麗に響く音で、遠くまで音が飛んでくれたら。そう願っていた。必死だった。でも、同時に、自分の演奏と音楽を楽しめるような余裕もあったと思う。だって私はだてに四年間、あの暗い半地下で、下積みの生活をやっていない。ヨーロッパで頑張った、私の四年間の想いを聴いて欲しい。そう願いを込めての演奏であった。

 最後の低音を鳴らしきった時、会場から拍手が沸き起こった。どこからか、「ブラボー!」という低い声が飛んだ。後から知ったのだけれど、それは音楽仲間である、仙台の彼であった。彼は大変感動してくれて、思わず叫んだそうである。嬉しかった。

 アンコールのショパンのノクターン二番は、コヤマ君が大変褒めてくれた。小犬はイマイチだったけど(←正直なヤツ)、あの現代曲バーバーの後に弾くノクターンはすごく良かったよ、と、彼ならではの感想を言ってもらえた。「バーバーのソナタも良かった。ボク、あんまりあの曲知らなかったけど、すげえいいね。」と。

 何だか夫のこの一言は、日記にも書いていないのに、すごく印象に残っている。他の人たちからもらったコメントはそれほど覚えていないのに。やっぱり、一生を共にすることになる人物と言うのは、その時はたいして意識もしていないのに、何かと心に残っているものなのだ。不思議である。それから随分経って、夫と付き合いだしてから、「実はあのリサイタル、聴く前までは正直、プログラム的にも全然興味なくて期待していなかったし、留学したって言ったってと、多少バカにしてたんだけど、でも良かった。弾けるヒトなんだと思ったよ。」と暴露された。う〜ん、面白い。

 終わってから私は、舞台の上から皆さんに挨拶のスピーチをしたのだけれど、これがまた、割れるような拍手をいただいて、感激してしまった。アキカさんは私の演奏会に聴きに来られなかったのだけれど、後日ビデオを渡したら、カオルちゃんのスピーチが素晴らしかった!立派になったねぇ…。と、まるで母親のように言ってもらったのが忘れられない。

 無事に全てが終わって、私は高校の友人たちや、先生方との打ち上げに顔を出した。皆、すごく喜んでくれていて、と言うか、私の気取ったステージでの振る舞いに、皆、大爆笑をしていて、ほんとに昔の仲間っていうのはアホでいいもんだよな〜と、私も一緒に笑った。高校時代の彼ももれなくそこに居て、私の舞台が無事終わったことを喜んでくれていた。

 そしてよっちゃんは、ステージが終わるやいなや、楽屋に飛んで来て、一言「感動した。」と言ってくれた。あの辛口が、そんなことを言ってくれるなんて、私は心の底から嬉しかった。ブリュッセル四年間の成果が出し切れて、本当に良かった。Mr.カワソメからは、「曲の完成度も高かったし、だてに四年も留学してないな、という感じだったよ。」とお褒めの言葉をいただき、感激のあまり卒倒するかと思った。近所のおばちゃんたちは、「現代曲が、あんなに素敵だなんて。」と言ってくれたり、コヤマ君の話では、後輩たちは、「留学しただけであんな風な演奏ができるようになるのかな〜。留学したいな〜。」と言ってくれていた模様である。

 私は終わった安堵感と共に、心の底から感謝をしていた。両親、妹、そして来ていてくれたであろう、亡きおばあちゃんと師匠のてっちゃん。そして全ての、応援してくれた皆様方に。

2017年7月28日 (金)

続編六 リサイタルに向けて

 帰国リサイタル。これは私にとっての、一大プロジェクトであった。

 何が大変だって、演奏だけではない。マツザキさんという、強力な助っ人マネジメントが居てくれたおかげで随分と頼りになったけれど、チケットさばきや宣伝などは、練習に専念したい私にとって、けっこうなストレスだった。まあ、練習に専念って言ったって、毎日かなり遊んでいた私にとっては、はたから見たらマジメにやってたとはとうてい思えないんだけど。

 でも、その不真面目さが功をなし、男女問わず交友関係の広い私は、大勢の客を集めることができた。もう本当に、友情にカンパイってやつである。高校時代の友人らは、物珍しさも手伝って、それはそれは大勢がチケットを買ってくれたし(私は高校時代には美術クラスに居たので、ピアノが弾けることはほとんど知られていなかった)、母の交友関係、近所のおばちゃんたち、それに大学の後輩たちには、夫、コヤマ君が張り切って二十枚近く売ってくれた。ザ、地元パワー。感謝感激である。二月の時点でチケットは百二十枚出ており、結局のところ、招待も入れて、二百三十席ほどが埋まった。ホールは三百席ちょっとくらいだから、パッと見、ほぼ満席に近かったのである。集客についての不安は当時ものすごく抱えていたので、本当に嬉しかった。

 プログラムもなかなか決められなかった。迷いに迷い、マツザキさんや、師匠たちと相談をして、やっとこさ決めた感じ。結局、前半に、モーツァルトのソナタK333、スクリャービンの二つの詩曲、プーランクの三つの小品。後半に、バーバーのソナタ。アンコールに、ショパンのノクターン二番と、小犬のワルツを弾くことに決めた。

 ベルギー大使館の後援もとれた。これは嬉しかった。確かマツザキさんが掛け合ってくれたのであって、大変感謝している。

 奈良先生のレッスンも久々に受けに行った。教える立場から言っても、先生のレッスンはとても参考になった。いい助言をしていただいて帰って来る。人から指摘されることには、深い意味があり、的を得ているのだということを身にしみて感じていた時だったので、先生のレッスンは大切に聞いた。そして先生は、私が貧乏だったのを知っていたので、レッスン代を五千円にして下さったのである。半額。出世払い!ありがとう、先生!

 後輩のコヤマ君からはちょうどその時、彼の師匠が大学を辞めさせられると手紙をもらったりしていた。私は署名運動に協力して、微力ながらも力になれればいいなと思った。彼の方は卒業生代表で、読売新人演奏会に出演が決まったそうで、私もとても嬉しかったのを覚えている。

 でも私はこの時もまだ、彼のことは後輩止まりで何の意識もしていなかった。雲の上のなっちんは、ガッカリしていたに違いない。そんな彼女の想いは通じず、私は新しい恋に出会ってしまうことになる。

 本番二ヶ月前。私は、高校時代の彼と会っていた。携帯電話を買うか買わないかで、相談をしていたのである。その頃はぼちぼち、生徒からの問い合わせが入ったりして、留守中の私は電話を受けられず、これは無理をしてでも携帯を持った方がよいかと悩んでいたからである。貧乏な私が迷っていたら、彼はサラッとこう言った。

 「しょ〜がねえなァ。オレが携帯、買ってやるよ。そのかわり、毎月の支払いは頑張れよ?」

 私は何だかとってもドキドキした。例の、一言惚れってやつである。こんなこと、よっちゃんにも、お見合いの君にも言われない一言であった。アホみたいだけど、彼が言うとすごくカッコよくて、サラッと決まっていたのである。私の心臓には一発の矢が命中した。そして、この日を境に、彼との仲は急進展して行ったのである。

2017年7月27日 (木)

続編五 音楽教室に落ちる

 時は二〇〇〇年。

 新年明けて、妹ユリコは成人式を迎え、私はよっちゃんと甲州七福神めぐりをしたり、ミュージカルライオンキングを観に行ったりと、楽しい時を過ごしていた。この年は、ユリコもようやく薬科大学に合格することになる。ブリュッセルの友人、ミタ氏が一時帰国をして、カワイの表参道店でコンサートをすると言うので、よっちゃんと共に聴きに行ったりもした。日本で会う私たちは、幾分雰囲気も変わったらしく、「二人とも絵になっとるよ」と言われたりして、再会を喜んだ。私は年が明けた頃から、だんだんとリサイタルへのプレッシャーが増してきていたが、相変わらずよく遊びよく学べの毎日であった。

 お見合いの君の、友人ご夫妻にも会った。とても良い人たちだったのだが、私にはこの奥様の方が、全く気が合わなさそうでどうにもならなかった。試しに彼に、彼女はどういう人なのかと訊いてみたら、ええ、いい奥さんって評判ですよ、料理はうまいし、健康だし。と言う返事が返ってきて、唖然とした。何だ、そのこたえ。いい奥さんって、そういうものなのか。だとしたら、私は全くダメじゃあないか。料理も嫌いだし(うまいけど)、虚弱っキーだし。と言ったら笑われたのだが、なんだかサラリーマンの「普通と常識」を垣間見たような気分がして、私にはやっぱりムリだ…と密かに思ったのを覚えている。

 私は毎日本当によく遊んでいたが、ピアノの練習も忘れなかった(つもり)。しかし母は、こんな奔放な私を心配して、大丈夫なの、ピアノはちゃんと、弾けているの。最近あんまりな様子だけど…と、うるさい。誰の監視下にもなく、自由な一人暮らしだったベルギーが懐かしかった。自分には、自分のペースっていうものがあるのだ。でも今日記を読み返しても、おいおいカオルさん、ちったあ、ピアノ弾いとけよ。と思ったりするので、母が正論だったとは、思うけど。

 仕事の方は、まず母校の音大附属の音楽教室を受けることにした。

 説明会に参加し、二月に入って試験を受けた。

 スタジオにて、モーツァルトのソナタを全楽章弾く。選曲に悩んだが、Mr.カワソメいわく、スクリャービンなどは子どもには刺激が強すぎるからやめとけ。だそうである。私は笑い、正統派で勝負することにした。

 当日はよく知っている先生方が審査員として聴いて下さる。後から聞いた話だと、人前でモーツァルトを弾くのは至難の技なのに、あえてそれを持って来たとは、相当自信があるんだな、と楽しみにしてくれていたらしい。アナタが古典を弾くなんて。よく勉強して帰って来たわね。いい点つけたわよ。と褒めていただく。ちょっと嬉しかった。そして三日後の面接。私は、意地悪な、踏ん反り返った教授たちにズラッと囲まれ、ガラにもなく緊張して質問にうまく応えられず、しどろもどろだった。

 結果は、不合格。

 通知が届いた時、思わず「えーっ、そりゃないよ」と叫んだ。

 マジかー。母校の音教で雇ってもらえないとは、この先私はどうすりゃいいんだ。

 その時は、その結果について先生方が、ピアノは他の受験者がもっと大きくて派手な曲を弾いたからどうの、面接でモジモジしてたからどうの、私の点数は四番目で、三人しか採用しなかったからどうの、などと話を伺ったが、今なら私にはわかる。

 良かったのだ。私は、大学で働くのは性に合わない。

 大学に限った話ではない。私のような気質の者には、誰かに雇われて、そのシステムの中でやって行くのはとうていムリである。たぶん、途中でストレス爆発して暴走して、解雇されるのがオチだ。昔、亡くなった恩師てっちゃんに、「アナタのような自由な子が、学校でなんかやっていられるわけがない。」と言われたことを思い出す。

 きっと大学は私のそんな偏った性質を見抜いて、最初から蹴ったのだ。それで良かった。私はもう二度と、どこの音楽教室の採用試験も受けようとはしなかった。私は誰でも、自分の持って生まれた能力や才能を、人々に分け与えるために生まれて来るのだと思っている。どんな小さなことだっていい。その人にしかできない大切なことが、きっとある。私は、今まで経験したことを、こうして自由な自分の教室という環境の中で、生徒たちと一緒に生き生きと楽しみながら分かち合うために存在しているのだ。たぶん。

 その時はわからなかったことが、少し時が経ってみるとわかる。本当に人生とは面白い。

 そしてとりあえず目の前の職を失った私は、五月のリサイタルに向けて専念することに決めるのである。相変わらず、遊んではいたけど。

2017年7月25日 (火)

続編三 仕事探し

 昭和祭も終わり、時はあっという間に十一月。日本の時間の進みは本当に早い。

 私はとにかく、少しでも仕事がないかなぁと思っていた。もちろんリサイタル準備のためにピアノはさらわなくちゃならないけど、稼ぎも欲しい。相棒のよっちゃんの方はと言うと、とりあえず実家のお店を手伝いながらしのいでいた。お店が休みの平日に、私たちは会っていたのだけど、そんなある日、ベーカリーレストランのサンマルクにフラッと入ると、ピアノの生演奏をやっていた。

 よっちゃんと私は沸いた。こりゃあひとつ、自分のプロフィールでも書いて、売り込んでみようか?彼いわく、身ひとつで帰って来た時にゃあ、ミカン箱の上でパフォーマンスをやるくらいの勢いでスタートするがよし!と言うことである。私は笑って、店のアンケート用紙の裏に自分のプロフィールを書いて、店長に売り込んだ。店長さんは良い人で、空きが出たら電話をくれると言う。おおー、何でもやってみるもんだ。友人たちに言ったら、笑うだろうな。これは後日、本当に店長から連絡が入るのだが、その時はすでに私もだいぶ生徒たちが増えていたり、演奏で忙しくなっていたりして、周囲の反対もあり、結局断ってしまった。でも、仕事があれば何だってやる、という気持ちは、当時の私の基本姿勢だったと思う。

 けれども、音楽関係以外のアルバイトはするつもりはなかった。私が欲しかったのはお金でなく、(まあ、欲しかったけど)自分がこれから活動を広げていくための仕事だった。その気持ちは、留学から帰って来たら、ほとんど誰もが同じだと思う。そして、そんな私に一番初めに仕事をくれたのは、先輩のアキカさんであった。彼女は、自分の生徒さんたちを引き受けてくれないか、という話をしてくれた。確か、仕事が一杯一杯で、レッスンしきれないようなことを言っていたと思う。私は飛び上がって喜び、感謝感激で引き受けた。その後、音大を狙っている彼女の生徒さんたちが何人かやって来たり、彼女の留守を預かって、レッスンしに行ったりと、私は金銭面が助かっただけではなく、教える勉強もさせていただいたと思う。

 そんな中、近所の方の紹介で、ピアノを習いたいと言う女の子がやって来た。当時四才の、アヤカちゃんである。彼女はピアノが上手く、大変賢い子であった。これが記念すべき、この教室の生徒、第一号。私はよっちゃんと相談して、教室名を現在の「クラシックピアノクラス」に決め、東急ハンズで黒い看板を五千円で作ってもらい、一人、また一人と生徒が増えていった。この看板は今でも使っているので、もう十七年近くになる。途中、買い換えようかなと思ったのだけれど、なかなか年季が入っていてこれもまあ、カッコイイかなと、そのままにしている。あのハンズのおっちゃん、ずうっと持ちのいいものを作ってあげるよ、と言ってくれたのだが、本当だった。ありがとう、おっちゃん。

 私は、ポツポツと仕事が入りながらも、リサイタルを五月に決め、いよいよ会場を予約する。嬉しさと、緊張とで、翌日に大学へ行き、来賓教授ペルティカローリ先生の公開レッスンに顔を出して来た。その時にこの間の部長君、いわゆる現在の夫である、コヤマ君に会う。彼は公開レッスンのピアニストに選ばれた学生だったのだが、私は彼の出番を聴き逃してしまった。彼には学祭の打ち上げに参加できなかったことを詫び、いいよいいよ、また今度、年末の飲み会にでも顔出して下さいよ〜。と言われて帰って来た。

 私はこの時、夫のことはサッパリ、眼中にはなかった。彼だってもちろんそうだったと思う。その代わり、またもや新しい君が現れたりして、事態はますます混乱状態に陥るのである。

 ここからが私の、夫と付き合い出すまでの、波乱の二年間の幕開けであった。
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